前奏曲五
冒険者の現実だ。
一攫千金など夢でしかない。何せこの粗末な家でもまだいい方だ。先程でもあったがマドッグはレイチェルと共にギルドのトップランカー、つまり最も依頼をこなしている冒険者だった。
そう、彼は必死に働いた。必死に戦った。狂犬、とまであだ名されるほど。
生活を少しでも好くするために。何よりも……。
マドッグは扉の前で無理に笑みを作ると、ノックをして入った。
「帰ったぜ、ソフィー」
「おかえり、マドッグ」
ソフィーは青白い顔に光のような笑みを湛えて彼を迎えてくれた。鋭い彼女のことだ、マドッグの機嫌のよさが演技であると見抜いただろうが、おくびにも出さない。
ソフィーは相変わらず美しかった。
茶色の髪にはっとするようなエメラルドの瞳。鼻は高く細く、唇はやや厚い。
マドッグは愛する妻を抱き寄せると、その顔をしげしげと見つめた。
柔らかな表情の彼女は、この一年で痩せた。
少し前まで、ソフィーは頬がふっくらとした少女だった。
一年前に結婚した時、マドッグは二七歳、ソフィーは一九歳で、少女のあどけなさをまだどこかに残す彼女を妻として娶っていい物か、マドッグは密かに悩んだ。
だがどうしても彼女を手に入れたかった。
ソフィーは街で評判の美人だったために競争率が高かったことも、彼を焦らせ急がせた。
ふとマドッグはソフィーの髪に髪飾りに見つけた。
「ソフィー、また店に出ていたのか? 大事な体だぞ」
「あっ」と彼女は慌てて髪飾りに手をやる。
「ごめんなさい、テルセスさんに頼まれて」
嘘だ。マドッグには判る。ソフィーは確かに街一番の酒場『忠実な従者』停の看板娘で、店主テルセスのお気に入りだった。
だが今この時期に彼がソフィーに仕事を頼むとは考えられない。だとしたら彼女は自分で働きに出たのだろう。家計を思いやって。
マドッグの手がそっとソフィーの腹部を触る。
大分大きくなった二人の子が眠る場所だ。
「マドッグ」ソフィーの頬が染まる。
「大事な子供がいるんだ、お前は休んでいろ、それでなくとも……」
……病気なんだから。
とは続けられなかった。
ソフィーは妊娠して少し立ってから体調を崩している。最初は妊娠期特有の物と思っていたが、彼女の指先や足先が黒ずみだし違うと確信した。
だからマドッグは必死に働いた。冒険者ギルドのトップランカーになったのはソフィーの薬代を稼ぐためで、レイチェルはその相棒だっただけし、あまり褒めていないあだ名で呼ばれる事となった……マッド・ドッグ、マドッグだ。
「ごめんなさい、マドッグ」
ソフィーは長い睫を伏せる。
マドッグはその姿に忸怩たる思いに苛まれた。
ソフィーの病気は何だか判らないが、彼の稼ぎがよければすぐに治せる物なのかも知れない。
彼女はマドッグが送った小さな真珠の髪飾りを大事にしているが、その時この看板娘は十倍の贈り物を用意できる男に言い寄られていた。
勿論、そいつは冒険者なんて胡乱な職業ではなく、何人もの職人を雇っている大きな織物屋だった。
なのにソフィーはマドッグを選んでくれた。
冒険者とは結局何もない者達だ。敵から装備や持ち物を奪い取る追い剥ぎと変わらない。
──もしソフィーがあの時アイツを選んでいれば……あるいは冒険者なんて辞めるか……潮時なのか、俺も?
マドッグは彼女が病気だと知った瞬間からずっと悩み続けている。
──だが冒険者だった俺に何が出来る? 字も書けねえ……鳥刺しか? あるいは汚れ仕事だが死刑執行人……だめだ! それじゃあ俺だけじゃなくソフィーや産まれてくる子供まで賎民扱いだ……
「タフティー」
ソフィーは彼の苦悩を呼んだのか、優しくその名を呼んだ。
「やめてくれよ、その名前は」
「あら、照れているの?」
くすくすとソフィーは優しく笑う。
「何か考えているようだけど、私はマドッグの奥さんになれたことを後悔していないわ。一緒にいられるだけで十分よ」
やはり彼女は偉大だ。
マドッグはもう一度やや強めにソフィーの体を抱き寄せると、唇を求めた。
しかしソフィーはふっと俯く。
「どうした? ソフィー」
ソフィーの表情は暗かった。
「嫌な噂を聞いたの……あなたが何かに選ばれた、て」
「ああ決闘か? あんなのは俺には関係ないことさ。身内に剣は向けないよ」
ぱっとソフィーの顔が輝く。
「そう、そうだと思ったわ」
「気にするなソフィー。それより明日は豚肉でも買ってこようぜ。店の端の虫が食っている奴じゃない新鮮な奴を……お前を必ず元気にしてやるさ」
「マドッグ……」
二人の唇は今度こそ重なった。