亀裂
皆部白矢は女の柔らかな体と、酸味のある味と香りを知った。
欲望に簡単に負けた自身を恥じつつ宿を出ると、朝日が妙にギラついていた。
背後のミュルダールは、当然のように彼に寄りかかる。
「うふふー、けっこーがんばったねー♪」
白矢は赤面するしかない。
だがここで彼は衝撃を受けた。
朝の人通りの中に一人の少女を見つけた。
細木織恵だった。
彼女は問うような視線で、二人を見つめている。
「あらー、オリエちゃんーおはよー」ミュルダールは明るく挨拶する。
「昨日のビャクヤはよかったよー……やっぱりー若いっていいよねー。いろいろ教えたげたー」
ミュルダールは余計な一言をつけ加えて、白矢は冷や汗をかく。
織恵は俯き、目元が陰に隠れる。
「……心配したのに」ぽつりと呟く。
「夜になっても帰ってこないから、怖いのを我慢して探してたのに」
織恵の声は南極の風のようだ。
「うふふー」万事無責任なミュルダールは気配を察した。
「じゃねー、ビャクヤー。また機会がーあったら」
ミュルダールはローブを翻して、朝の喧噪の中に消える。
「………………」
そうなると表情が見えない織恵と、対面したままだ。
「……来て」
織恵が口を開くが、よく聞こえなかった。
「な、何? 織恵」
「来なさいっ! 皆部君!」
絶叫だ。しかもまた「皆部君」に戻っている。
踵を返して歩き出す織恵を、とにかく白矢は追った。
「あのー、織恵、さん」
彼女は答えない、振り向きもしない。
「これは仕方なかったんだよ……そのー、決闘で負けちゃって……」
反応無し。
白矢は肩を落とす。彼女は酷く怒っているようだ。どうしてかは判らない。
周りを確認すると、どうやら二人が泊まる宿に向かっているようだ。
──説教でもされるのかな。
だが織恵は宿には入らなかった。その背後を流れる川まで、彼を誘導する。
「ええと」白矢は緩い川の流れを見つつ、困惑する。
「入って」織恵は感情のない声で命じる。
「ええ」と白矢が怯むのも無理はない。
この川は街の人々が汚物を投げ込む場所であり、実際かなり汚れている。糞尿や食べ残し、時には死体も流れている。水に入るなら浴場が、この街にはある。
「でも……」白矢が躊躇すると、織恵はようやく顔を上げた。
太陽のような熾烈に光る目だった。それでいて霜が降りたように、冷えている。
「入りなさいっ!」
「は、はい」白矢は服を脱ぐと、麻製の男性用下着姿になり、いやいや川に入る。
「う」吐き気がこみ上げる。
川は臭かった。アンモニア臭や糞の臭いに怖気が走る。
「体を洗いなさい。皆部君」
織恵は高飛車に命令する。
「だって」洗うのは無理だ。川が汚すぎる。白矢は流れる猫の死骸を見ながら、抗弁しようとする。
「洗いなさいっ! あの女の臭いを消しなさい!」
「は、はい」織恵に怒鳴られ、しばらく白矢は川で体を洗う。
「もっとちゃんと!」檄が飛ぶ。白矢は首を竦めた。
「綺麗になるまで上がらせないからね!」
織恵は厳しく命令する。
「判ったよ」と白矢がげっそりすると、何か声が聞こえた。
「え?」振り向くと、織恵が泣いている。
「うう、酷いよ、ううう」
顔を歪ませ、涙でぼろぼろだ。
「織恵! どうした?」
慌てて白矢が近づくと、彼女は一歩下がる。
「近寄らないで! 汚い!」
肩を抱こうとした白矢の動きが、止まる。
「あんな女の臭いや汗で汚れた白矢は汚い! 汚いのっ!」
織恵はその場にしゃがみ込んで、号泣した。