死の冬1
「いい白矢? ここにいてね、それから絶対にしている間扉を開けないで。もし開けたら私舌を噛んで死ぬから」
共同トイレの木で出来た粗末な扉の前で、細木織恵が何度も念を押す。
「ああ、判ったよ織恵」
皆部白矢はうんざりした顔を隠して頷く。
「それから、臭いも嗅いじゃダメだからね……いい?」
「はい、判りました」
織恵は扉を閉め、白矢はため息を吐いた。
あれから……トイレを探しに出た織恵が襲われかけてから、彼女は変わった。まず「皆部君」だったのが昔の「白矢」に戻った……はどうでもいい。
彼女は一人でトイレに行けなくなっていた。だが部屋のおまるは絶対使用せず、こうしていちいちトイレに白矢を伴うようになった。
まあ、かなり恥ずかしいのだろう顔を真っ赤にしてだが、白矢は困ってた。
どういう顔で待っていいか判らないし、毎回完全武装を要求するので、酷く疲れた。
──仕方ないか。
白矢は頷く。何せあのボガートとか言った大柄の男に襲われたのだ。
間一髪ハーフエルフののソーサラーに助けられたそうだが、もしミュルダールがいなかったら、と考えると汗が噴き出す。
織恵がえらく弱気になったのも、年頃の乙女の心の傷だ。せっかく街にある浴場にも行けないくらい。
で、さらにミュルダールも、悩みの種だった。
「あ! いたー♪」
噂をすれば影、聞き覚えのある声が背後で上がった。
「おーい、ビャクヤー。何してんのー?」
ミュルダールだ。
彼女は嬉しそうに白矢に駆け寄ると、美しい顔を寄せてくる。
「トイレー? ねーねーねー」
何故かあの事件以降、ミュルダールはよくこうして白矢に親しく話しかけてくる。一日に何度もだ。
恐らく探し歩いているのだろうが、何を考えているかさっぱり判らない。
さらに……
「ねえねえー、決闘しよ♪」
とデートしよ、の感じで決闘を要求する。
勇士決闘など全く興味のない白矢だから、
「遠慮します」で逃げるが、するとミュルダールは拗ねる。
「……誰だっけなー? 大事なー恋人をー助けてーあげたのはー」
と当てこする。
白矢は頭が痛い。
「しょうがないんだよー、王様のー命令だからー」
ミュルダールは悪魔のように囁く。
白矢は変わらず茫漠とした表情のミュルダールに、向き直る。
「ミュルダールさん、俺は決闘なんて馬鹿らしいと思っています」
「私もー」
「ならどうして誘うんですか?」
「君とならー楽しそー」
こいつさては言葉が通じないな。白矢が疑いの目を向けると、ミュルダールは脇腹を押さえる。
「い、いたー、ボガートとのー戦いでー受けた傷がー。いたいんだよー……あーあ、誰のーためだっけー?」
──もー。
白矢はわざとらしいミュルダールに苛ついた。
「ねーねー、決闘しよーよぅ、痛くーしないから、先っちょだけー」
「嘘でしょそれ……」と突っ込みながら、こめかみを押さえる。
「……判りました……でも命の遣り取りはなしですよ」
「わーい♪」ミュルダールは子供のように飛び跳ねる。
「じゃー、今日のー夕方町外れねー。後、恋人さんにはーナイショー」
ミュルダールは見とれてしまうようなウインクを残すと、そそくさと歩み去る。
ふー。と白矢は肩を落とす。
──どうしてこんな事になったのやら。
と、共同トイレの扉が開き、織恵が羞恥に頬を赤くして出てきた。
「何もなかった?」
勘のいい彼女が訊ねるが、「別に」と答えるしかない。
「それよりもたくさん出た?」
白矢の顔面に、織恵のグーパンチが炸裂した。
「るんるん♪」
ミュルダールは足取りも軽く、街を歩いていた。何せ楽しい予感に満ちているのだ。
サイレスの街は汚く、正直ミュルダールは歩くのも嫌だったが、今は違う。
「おい、あいつハーフエルフだぞ?」
「薄汚い冒涜の子め!」
「あの格好、異端じゃないのか?」
「異端審問官は何をしてやがるんだ」
ミュルダールが歩くと、こそこそと悪意の花が咲く。だが慣れた物の彼女は、それらを履いているブーツで一蹴すると何事もなく「るんるん♪」と歩を進めた。
人間とエルフ、ドワーフ、ハーフリングはこれでも昔は、仲がよかった。
それこそ、その間の子も珍しくないほどに。
昔と言っても三千年前だが。
そう、三千年前。人間は大きな過ちを起こした。
古代魔法帝国。
この世界の誰もが知っている歴史で、トラウマだ。
かつてアースノアは、人間とエルフにより統一されていた。強大な魔力でだ。
古代魔法帝国の魔道士達は、幾多の今は失われた強力な魔道を操り、世界を手中に入れていた。
神に近い存在であるドラゴンやハイエルフさえ、支配していたほどだ。
だがそう言った文明にありがちだが、巨大な力を持った人々は驕り高ぶり、この世の何でも自分の思うとおりになると、信じ始めた。
神になったつもりだったのだ。
結果、三千年前の大破壊。
これには異説がある。古代魔法帝国の皇帝が本当に神になろうと、高位の魔道士達と儀式を行った結果とか、一人の野心を持った魔道士の暴走とか、とにかく古代魔法帝国の首都があった大陸は、一夜にして海中に没し、神の怒りにより二つあった太陽の一つは消えた。
それにより起こるようになったのが『死の冬』だ。
元々冬は何も出来ない。
鎧が冷たくなるので戦も出来ず、漆喰が乾かないので建物も建てられず、当然農業も休みだ。
だが死の冬はそんな生やさしい物ではない。
凍る。大陸の三分一までが固く凍りつく。それにより毎年凍死者が出て、人間もエルフやドワーフも、何も出来ず家に引きこもる。
アースノアは季節の半分が停止の時期になり、文明は停滞した。
神が世界を見捨てたからだ。