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3つのお題シリーズ

幼馴染の女心は数式よりも難解みたいです

作者: 安住 八重

「それでさ、フェルマーの最終定理は1995年に完全に証明されて、証明した数学者アンドリュー・ワイルズの名を取ってワイルズの定理とも呼ばれるようになったんだ。これは歴史的な快挙で……」


 燈哉(とうや)は後輩の西岡深海(みう)と、フェルマーの最終定理についての熱いトークを繰り広げていた。い 否、燈哉が早口でまくし立てるように、一方的に話し続けていた。いわゆるオタクトークというやつである。


 隣を歩く深海は、緩やかに波打つ黒髪を二つに分けて耳の横で結んだ小柄な少女だ。セーラー服のスカーフは学年カラーの赤色をしていて、白地の夏服によく映える。


 雲が黄金の色に染まる夕暮れどき、数学研究同好会に所属する燈哉達二人は帰り道を歩いていた。

 学校から駅に向かう通りは部活帰りの高校生でごった返して、人の波がさざめくようだ。


 深海は家が近くて、小中と同じ学校に通っていた幼馴染である。小さい頃から家族ぐるみで仲が良かった二人は、よく互いの家を行き来していた。


 高校からは別の学校になると思っていたのに、燈哉の翌年に同じ高校を受験した彼女は見事に合格を勝ち取っていた。新しい人間関係を築きたいという理由で遠くの高校を選んだのに、幼馴染が入ってくるなんて想定外だった。


 そしてなんと、深海は燈哉の所存する数学研究同好会に新入部員として入ってきたのだ。中学時代、数学が苦手だという彼女によく解き方を教えていた燈哉は、いつの間にそんなに数学を得意になったのかと大喜びした。


 しかし世間に数学好きは少ない。一学年上の三年生には部員が四人いるものの、燈哉と同じ二年生は彼を含めて二人、そして一年生は深海一人しかいない。


 燈哉は入部早々に時期部長となることが決まってしまった深海に、かの有名なフェルマーの最終定理を教え込んでいたところだった。


 ちなみにもう一人の二年生小原は心の底から数学を愛してやまない、自他ともに認める変人だ。数学以外のこと、例えば人とのコミュニケーションなんかに滅法弱い彼は、今日も円周率をブツブツと不気味に唱えながら、愛用の自転車に乗って帰ってしまった。


「ねね、とーやくん。数学以外の話しようよー」

「何を言ってるんだ、深海は次期部長だろう? あとちゃんと東野先輩って呼べって……」

「あーはいはい、ごめんね東野センパイ」


 深海は何度注意しても、燈哉のことを東野先輩と読んでくれない。幼い頃の呼び名のまま「とーやくん」と呼ぶし、タメ口も直してくれない。自分は先輩として尊敬されていないのではないかと、燈哉は不甲斐なく思っていた。


 深海に数学研究同好会の先輩として尊敬してもらうには、難解な定理を分かりやすく説明して、先輩としての威厳を示さなくてはならない。燈哉の説明に熱が入る。


 そんな燈哉の熱弁を、深海はジットリとした目で面白くなさそうに聞いている。けれどその口元には、どこか誇らしげな色が浮かんでいた。


「東野くん!」


 後ろから話かけられて振り返ると、同じクラスの女子である坂本さんが立っていた。


「坂本さん?」


 坂本さんは綺麗な顔立ちをしていてスタイルも良いので、クラスで人気があるマドンナ的存在だ。見た目だけでなく声や仕草も可愛らしいと、一部の男子からは熱狂的な支持を得ていると聞いている。


 そんな坂本さんが、燈哉に直々に話しかけてきたのだ。身に覚えの無い彼は緊張して、彼女の方に足を向けた。

 

「私の定期、拾ってくれたの東野くんなんだってね! うっちーから聞いちゃった」


 燈哉は「ああ」と、この前廊下に落ちていたパスケースを職員室に届けたことを思い出した。うっちーと言うのは、教務主任の内原先生のことだろう。無事に持ち主の元へ帰ったようで、何よりである。


「チェーンが壊れてたみたいで。戻ってきてほーんと良かったよ。ありがとう、東野くん!」


 坂本さんは両手を組んで、燈哉のことを上目遣いに見上げた。


 今時の高校生の間では、お礼は携帯でメッセージを送るだけというのも珍しくない。そんな中でわざわざお礼を言いにきてくれるなんて、坂本さんは意外と律儀な人のようだ。


「どういたしまして。見つかって良かったね」

「うん! 本当にありがとう」


 そう言って、坂本さんは視線を燈哉の隣へと動かした。笑顔のまま一瞬深海を見て、すぐに燈哉の方へ向き直る。


「お隣の子は? もしかして彼女?」

「いやいや、部活の後輩。今フェルマーの最終定理について、二人で話してたんだ」

「すごーい。そっかあ、後輩なんだ」


 何度か頷いた後、坂本さんはコテリとほんの少しだけ首を傾けた。ほぅっと切なげなため息をついて、燈哉のことをまっすぐに見つめる。


「あのね東野くん。私、定期のことお礼したいなって思って。それでね。今度の土曜日、一緒にお茶とかどうかな? もちろん、私が奢るから」


 坂本さんの色素の薄い瞳が、燈哉の驚いた顔を映していた。パスケースを拾っただけでそんなにお礼を貰っては、返って申し訳ない。


 それに今度の土曜日は、部屋にこもって一日中数学のパズルを解いて過ごすという予定がぎっしり詰まっている。解けていない問題が山ほど残っている燈哉には、悠長にお茶など飲んでいる余裕など無かった。


 しかし、坂本さんの誘いを無碍に断っては角が立ってしまう。彼女はクラスでの影響力がとても大きいから、ひとたび変な噂を流されたり、それが陰湿なイジメに発展したりしては目も当てられない。平穏な数学ライフの障害になってしまったら大変だ。


 燈哉がどうにか穏便に断ろうと迷いながら口を開くより先に、深海が一歩前に進み出た。キッと坂本さんを見上げて、いつもより尖った雰囲気で話し始める。


「すみませんがその日は一日中部活なんです。それに東野先輩は毎日数学に忙しいので、お茶なんか飲んでる暇はないと思います」


 毅然とした態度でそう言い切った深海は、夕日に照らされていつもよりもずっと大きく立派に見えた。まるでスポットライトの中の、主役を演じる舞台女優のようだ。


 自ら泥を被って代わりに断ってくれた深海に、燈哉は深く感動した。そして更に、深海が初めて自分のことを「東野先輩」と呼んでくれたのだ。これはもう記念日にするしかない。


 深海から見たら坂本さんは先輩に当たる。後輩が先輩に物申すことはとても大変なことで、下手すると別の先輩からキツく締められてしまうところだ。そんなリスクを冒してまではっきりと断ってくれた彼女は、今の燈哉にとっては英雄だった。


「あ、そうなんだ。……なら、また今度ね!」


 坂本さんは視線を落として、そして燈哉に笑顔を向けてから二人を抜かして去っていった。サラサラのロングヘアが、セーラー服の襟に当たって揺れていた。


 しばらく後ろ姿を見送ったあと、燈哉は深海の方を見てガシッと肩を掴んだ。面食らった深海が、目をまん丸にして燈哉を見上げる。


「深海、断ってくれて助かった」

「うん。だってとーやくん、流されやすそうなんだもん」


 燈哉はぐっと言葉に詰まって、肩を掴んでいた手を離した。


 角が立たない断り文句を考えているうちに流されてしまい、結局相手の言う通りになってしまうことがよくあるからだ。思い当たるところがありすぎて、全く反論できない。


 東野先輩呼びも、一度きりだった。


 二人は再び歩き始める。大きくて丸い夕日が、空と街を茜色に染めていた。


「どう断れば傷つけないか、迷ってて」

「そんなのズバッと言っちゃえば良いんだよ」


 へらりと笑った燈哉に、深海がはっきりと言い切った。漆黒の瞳で燈哉をじっと見た彼女は、今度は目を伏せて言葉を紡ぐ。その声はいつもより震えていて、弱々しく頼りなさげな気がした。


「だから、そんなにやさしくしなくて良いんだよ」


 優しくしなくて良い? 優しいことは良いことなはずだ。深海は何を言っているのか。


 そこで燈哉は閃いた。やさしいと言う漢字は「優しい」だけでなく「易しい」もある。つまり深海は、今までの燈哉の説明が簡単すぎだと感じ、もっと難しい話をしてほしいと思っていたのだろう。


 知らないうちに数学力を高めていた深海に感心する反面、後輩を侮ってドヤ顔でつまらない話ばかりしていた自分が嫌になる。きっとそんな自分だから、彼女は燈哉を先輩扱いしてくれないのだろう。


 ここは一つ先輩として、非常に美しい定理の説明でもして、深海の実力をより高めていかなくてはならない。


「そうか?ならフェルマーの最終定理で、ちょっと難解なんだけどワイルズの証明を……」

「ああもう! そういうんじゃないの」


 急に機嫌を悪くした深海が、大袈裟に頭を振った。もしかして数多の数学者を三百年以上の間唸らせたこの定理の証明をも、彼女は既に理解しているということだろうか。


 そんな斜め上なことを考えて固まっている燈哉を見て、深海はふふっと楽しげに笑った。


「ま、こんなとーやくんに付き合えるのなんて、私しかいないんだからね!」


 ふいと顔を背けた深海の表情は、燈哉からはよく見えなかった。ほんのり頬が赤い気がしたのは、きっと夕焼けのせいだろう。


 雲一つない美しい夕焼け空は、明日が晴れるに違いないことを意味している。眩しい夕日の光が、大通りの地面に二つの長い影を作っていた。

三つのお題は「難解」「深海」「女心」でした。

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