日本海と出雲
最近ちらほらシニガイ文化と弥生時代の共通点を述べる人が出てきている。実際は古い。息の根を止めないって感じでしつこく嫌韓から朝鮮から人はやってこなかったが言いたいからだ。本当にうんざりする。後は、長江からの直接ルートを否定するためになる。もっと言うと弥生人は稲作民じゃなかったと教弁するためなんだ。
お前も似たような事言ってなかったか?まあ言ってた。私もシニガイ弥生人に乗ってた過去がある。だがきっぱり決別して最新の研究をベースにした説に変えた。考えていたより弥生人は少なかったのは確か。日本で稲作で増えた面が大きい。それでも当時の縄文人の人工からすれば多大な数やってきてる。
正直原始的な狩猟採取生活からまだ始めたばかりの雑穀民が大量にかなり距離のある日本海を抜けてやってくるのは創造できない。しかもだ彼らの欠点である稲作は半島から技術だけパクッたと無理矢理な理屈を…。いやそれでも良い。そういう伝播は多い。だが列島と半島を移動してってなると違和感がたっぷりに成る。そのまま半島から技術を持った集団が来たではあかんの?となる。
ただ本格的な稲作時代到来の前に雑穀民の時代があったと言うのはなんとなく私も感じている。研究者によるとほぼ同時代なので弥生人=すべての雑穀を持ってきたとなった。だが、私は陸稲を含めて雑穀畑作は先行していただろうと考えている。ほぼ動機なので考えても無駄だと言うのは分かる。
何故なら年代測定に200~300年程度の正確さを絶対的に求めるのは苦しいからだ。実はこれ適当。シニガイ文化だけなら100年程度になる。多分他にも雑穀文化の流れが見えるからだ。元々シニガイ文化の源流になったのは、中原からの雑穀民の東北への移住があったからだ。
ここでやっとDNAの話になる。アムール原住民のいくつかにO1B2とO2の高い民族がいる。紀元前2000年程度にアムールあたりにいきつくわけだが。この流れその前に稲作民の移動と絡んでいる。稲作民の北上の流れと密接に関係してるのじゃないか?と言うのは、O2が高いのは当たり前だが、O1B2もかなり高い割合で発見されるからになる。
じゃ何故稲作じゃないの?これは私もシニガイ文化に傾いたのは、漁労文化と絡んだ雑穀文化が黄河文明の中でやや異質な山東省の文化としてあったからだ。昔は単純に陸稲だと見てたけど、どうも小さな水田を別に用意して、場所的に畑作より水田が良いならと切り替えてやっていた部分があり、基本は水稲といえども雑穀のひとつでしか無いって点。
これが一変するのが弥生水田文化になる。漁労すら低い比重になって水田ばかり創る専門的集団が発生する。日本の弥生文化は確実にこの流れを受け継いでいて、これをわざわざ列島から人だけが模倣して戻っていったって苦しい理屈は成り立たないと思う。
私の最新の説も実は苦しい。先行して半島南部に居た山東省南部の別集団がこれらが伝播して日本に玉突き式に伝わったというのが私の説になる。ただ同じ半島内ならこれは世界的に良くある事なんだ。逆にコレを民族移動で単純に考えてはならないってのはビーカー文化の例がある。
東からやってきたR1Bがビーカー文化を拡散させるのだが、実際遺跡のDNAを調査すると半分ぐらいは地元のI2とHGの先住民の集団だったと言うのがある。しかも海を渡ることに長けた集団じゃないと成り立たない。そうなると海と深く関係していた半島南部集団の方が玉突き式に人口増加で押されてやってきたの方が説得力がある。
しかも彼らは縄文集団と混血していた可能性がかなり高い。海に長けた民族が日本の海に詳しい民族と結合したとなるが、この点日本の海に詳しかったのか?は不明。文化的に半島南部集団と九州北部集団は同じ文化圏とは言えないからになる。ただ海の向こうに土地があると言うのは知っていた可能性がある。
他にも遼河文明は地域によって黄河文明に近いほど農業をする割合が高い遺跡からの報告がある。それらの雑穀民がBC5000年ぐらい前から半島にぽつりぽつりやってきてる。そもそも最初に南部の縄文人だろう集団とぶつかったのはこの集団だというのは土器から分かっている。日本の曽畑式土器にその影響が見られるからになる。
そして日本には徳島に粟からとった阿波という地域があり、そこからかなり古いNOが見つかっている。最近この数値が高すぎると改められたらしいが、0になったわけじゃない。おそらくN1Bか、N1A2じゃないか?と見ている。当時N1A1はとても有名だったので、こっちじゃないから分類に困って押し込められたと見ている。
どっちにしてもかなり古い系統になる。日本のN1A1は新しいものばかりで歴史時代ぐらいの分岐年代になる。日本は中国にある古いN1Bや、早くにN1A1と分かれたN1A2が圧倒的に分岐年代が古く頻度も高い。これは、縄文時代の高度な狩猟採集か?または弥生ちょっと前の雑穀民が来た可能性が高い。
ちょっと難しいのは土器ぐらいの時代だと寒冷適応してないと思う。だが縄文時代はもう寒冷適応している。そうなると縄文時代の人骨にも変化が出るはずなのだがそこは難しい。多分混血してしまってるが、顔の顕著な特徴はないが、体がかなり大きい人骨と小さな人骨が混ざって出る場所がちらほらある。例えば富山の遺跡がそれにあたる。
しかもmtDNAだが、明らかに大陸の北方ハプロが縄文ハプロとしっかりと混ざっている。日本人全体の形質を変えるほどじゃないが、縄文時代から寒冷適応した北方人が入ってきてるのは間違いない。しかも弥生の近くで出てきても多分弥生人としてまとめられてしまうだろうと予想できる。
さてシニガイ文化の問題だが、多くの場合Nなのだが、もっと古いとC2になる。これもおそらく北方のC2Aだと思われる。縄文時代に北方のmtハプロGとD4H1と言うのが出ている。同じD4だが弥生時代と下位系統が全く違う。これを調べると今でもアムール川、沿海州あたりのウリチから出る。
ウリチはC2Aのそれなりに高い集団で当時まだNも来てないので、細石刃を伝えた集団はこの集団じゃないか?と見ている。詳細な情報が全く分からないのが難点だが、日本に古いC2A2と言う独立したハプロがある。寒冷適応してない縄文C2なのか?不明だが私の突っ込みきれない上方からするとこれが候補になる。
縄文時代に入ると現在Nが青森あたりに高く出るが、移住してきた可能性はあるが、寒冷適応していたはずだが人骨はあるが見つかってない。弥生時代人から分かりにくいが、縄文比率が高いと混血していても形質に全くでない。ベストなタイミングで移住後の骨が見つからないとまず分からない。
ウリチは核DNAのチェックで縄文人と近いDNAが出る。古い集団のものだと言えなくもないが、この辺りからヒエやソバを持ってきてるので、どちらかが移動してるのは間違いない。ただ東北の漁労は淡水漁労で海水漁労と全く違う。海と船って点で全く違う。その為縄文人が向こうに行ってた可能性が高い。こっちから行かないと今暮らしてるウリチに縄文人に近いDNAが出る理屈が合わない。
シニガイ文化とこれらが決定的に違うのは、O1B2の存在になる。そもそもシニガイ文化が注目されたのは、BC2000年付近の東北雑穀民の移住がある。C2でもNでもなく、O1B2の時代になる。日本のO1B2がこれじゃないのか?と言う話になる。過去にはこれにぶれてしまったが、最近の稲作の考古学的発見から多分ちがうと見ている。
ある程度高い割合になるような集団じゃないと形質の変化は起こらない。これは見てもらえただろう。弥生時代でも西九州は縄文人だと見られていた人骨が実は混血だったとDNAから出てきた。骨からはよほど綺麗に半々ぐらい混じらないと分からない。私はシニガイ文化と弥生人は関係ないとは思ってない。
だが弥生人の主流の集団だとは全く思ってない。私の考えで言うと出雲がそれに当たるのじゃないか?と見ている。シニガイ文化に近い土器が出雲から見つかっていて、出雲は九州とは違う独自の文化圏を持っていた。出雲はその後の流入も違っていたと見ている。古墳時代になって出雲はかなり変な古墳を作っている。
前方後円墳は、方が大きくなっただけで、元は円だったらしい。出雲は真四角の古墳が見つかっていて全く系統が違う。これと似たものが半島の北方で見つかっている。新羅と高句麗の境界線あたりは北方の扶余わいはくの系統が多く居たらしいし、実際新羅も国の多くがその系統の人が担ってる感じがある。あまり確度の高い調査ではないが、新羅の王様は3代別の系統なのだが、最後の傾倒はC1B1で百済と同じ扶余の系統になる。
ちなみに高句麗の王の子孫が日本に居るが、全く系統が違う。入れ替わってしまったのか?と言うと日本ではあまり多い系統じゃないので、それも考えにくい、調べてみると高句麗は後の鮮卑族に近い場所にあり。あのあたりに多い系統になる。高句麗の伝承で扶余王とは血が繋がってないとの話があり、その話しが信憑性があると言うのがある。安部一族と同じで、父が違うが母が連れ後を連れて再婚したという話だったと思う。
韓国の調査だが、扶余に多いC2B系が出雲に出る地域があって、そこからの移住者が居るという長野にも出るという調査があった。これは神話ではタケミカズチが子孫として残ったとあるが、事実は違う、実際は出雲の豪族だった金属加工の得意な多氏と言う一族が長野に移り住んだとの記述が残っている。彼らの子孫の代表がタケミカズチ神社の神主になったとの話になっている。
古墳時代と弥生時代の前じゃ何の関係もないが、古墳時代に出雲が花開くきっかけとしてシニガイ文化の先行性があったのじゃないか?と見てるんだ。
後言語の問題で、東北地方のツングースはウラルのベースがあったのじゃないか?と見ている。実際言語が難しいのは、極東言語圏とも言うべきアイヌを含めた東北とは違う海岸部だけの特殊性があったと言う説もある。それでも、ただ東北と出雲に共通するずーずー弁というのがウラル語の音と似ていると言う人がちらほらいるのがある。
後アムール川北部と東北全てをツングースの一言で片付けるのがきついと思う部分があるからだ。Nが初期に居た場所はその影響が残って乗るのじゃないか?と見てしまうから。そこで問題になるのが北陸だが、富山はややずーずー弁に近いらしい。石川もさらにやや。そして福井が、関西圏との混合言語文化だと聞いている。
実際アニメちはやふるの新の台詞を聞くと、福井弁は関西弁と全く違う。どこに関西の影響があるんだとなるが、言語が関西で音がってのがある可能性はある。音もイントネーションは関西の影響があるようないような。まあ篭るような音の使い方はずーずー弁に近いのだが。細田さんは広島の人だと聞くが、地元の女の子役の安住さんは福井出身だそうだネイティブにかなり近いと思う。
後から来た若狭が半島の南部系の移住者が支配した地域だったと思う。新羅なのだが新羅ってのはやっかいで、ルーツ的には南部だが、国としては北部の高句麗の影響がかなり強い。出雲と関係していた日本海側の新羅の地域だと扶余わいはくの流れが強くなる。若狭は新羅初代の弁韓に近い辰韓の流れだと思われる。
他にも遺伝的な共通性と言うのもがある。出雲の遺伝的な縄文比率高くは他の関西圏や中国地方のものと違って東北と近いそうだ。
出雲とシニガイの関係性はこれぐらいで良いかと。問題は何故シニガイが弥生の中心だとおかしいか?と言うと、あのあたりの少数民族のO1B2の系統が韓国に多い系統だからになる。そこから来て中心になったのに何故日本独自の系統が多くなったのか?となると、まだ日本独自の系統が共通してそれなりにある韓国南部の方がふさわしい。
もちろん日本からの移住者だろう?となると思う。それが縄文人の弥生前の移住者の問題をややこしくするのだけど。それでもこの問題をスルーするほどじゃない。そもそも大胆で強引な論なのに、かなり否定的なものが含まれるというのが問題。弥生人には先行して主流じゃないが別の系統があったと言う説ならかなり面白いと思う。




