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事時

作者: 市原春季

 「タイミング」なんて都合の良い言葉、一体誰が考えたのだろう。「タイミング良く難を逃れた」とか「ほんの少しタイミングが悪かっただけで」とか、都合の良いように使える、魔法のような言葉。

 その「タイミング」というのも、来るべき時が来れば来る「運命」のようなものなのかもしれないが、その時に出会うべく努力している人もいるし、なにか行動を起こした結果として自然と出会う人もいる。

「待っているだけじゃ何も変わらない」なんて言葉も聞いたことがあるが、人は皆、「待っているだけ」ということは無い。なにせ皆、「生きる」という活動をしているのだから。


 印刷機器を始め、事務用品などを販売する会社に勤めて早八年。営業で常連さんのところを回ったり、新規の取引先へ足を運んだりと、色々な人との出会いがある。そこから広がる出会いもあれば、一度きりの出会いもある。そして、なんと言っても素敵な女性との出会いが……俺には無い。

 勤務先の営業所では、所長や俺も含めて五人の男と一人の女性、計六人が働いている。その女性も五十歳ぐらいで、俺と近い歳の子どもが二人いるという。その二人の子どもも結婚して、それぞれ別の場所で暮らしているらしい。そりゃあそうだよなぁ。三十路近辺といえば、結婚して、子どもができていてもおかしくない年頃だ。

 もう三十歳になるのかぁ。そう考えると、俺は今まで一体何をしてきたんだろうと考えることもあるが、可もなく不可もなく生活してきたとしか言いようがない。別に、女性に興味が無いわけではない。むしろ求めている。可愛い子、美人さん、面白い子……。女性大歓迎。絶賛募集中である。

 が、しかし。多くの女性は俺のことを「良い人止まり」と言う。恋愛対象として見ることができないらしい。せいぜい、仲の良い友達、もしくは頼れる兄貴分として見ているそうだ。まぁ俺も俺で、その場その時が楽しければ良いと思っているから、さして気にしてもいないんだが。ちょっと損をしている気がしなくもないけれど。

 仕事が休みの日は、独身連中を誘って遊びに出かける。男二人だけで街へ繰り出すときもあれば、十人近く集まってバーベキューなどのイベントを開催することもある。そういった計画を立て、実行する中心人物がこの俺、「黒川(くろかわ)光星(こうせい)」だ。

 さぁ、今度は何を企画しようか。


 今、季節は冬。

 冬といえばゲレンデ。ということで、スノーボードへ行こう。

『ボード(スノーボード)ができる人もできない人も、道具を持っている人も持っていない人も、行きたいという人は黒川光星まで』

 メールを一斉送信。

 最近では結婚していく人が多く、誘える独身勢も減ってきてしまったので、今回に限っては既婚者にもメールを送ってみた。『夫婦で来るも良し、相方に許しを得て来るも良し、黙って出てくるも良し。好きに来てちょーだい! ※責任は負いかねますのでご了承ください』と添えて。

 それでも、ボードが出来る人も少ないし、ここ最近は参加率も低迷中だから最悪一人ででもスキー場に行こう、と思っていた。


 当日になってスキー場に集まったのは、俺も含めて九人。想像以上の出席率だ。

誘ったのは俺の友達。同級生とかそういう集まりでもないから、俺が知っていても他同士が互いに知り合いというわけでもない。知り合っている仲もいるけれど。まぁ、他は各々の対人スキルでなんとか頑張ってくれ。

俺の見た感じ、このメンツならワイワイ楽しく滑れそうだ。

 スノーボード用品を持っていない人のレンタルも完了。準備ができたということで、さぁ行くぞ! と言っても、いろんな奴がいるわけで。一人で勝手にリフトに乗っていった奴。夫婦とその他二人の四人で一グループとなってリフトに乗っていく奴等。そして、すでにカップルになりそうな(というか、もう付き合ってる?)二人。

「なぁ、光星」

「なんだ、良久」

「なんで俺は、お前と二人でリフトに乗っているんだろうか」

「知るか。俺が聞きたい」

「これじゃあ、いつもと変わんねぇじゃねぇか」

「俺だって、たまには可愛い女の子の隣に座りたいさ」

「あいつらを誘ったのは光星だろ? なんなんだよ、このチョイスは。夫婦もいれば、カップルみたいな二人もいるし。俺等の付け入る隙がねぇじゃんかよ」

「夫婦はともかく、あの二人があんなに仲良くなってたなんて知らなかったんだよ。大体なぁ、良久だって嫁を置いてこんなとこに来て、文句が言える立場か?」

「たまには息抜きも必要なんです」

 白池(しらいけ)良久(よしひさ)

 彼は俺の親友だ。一年ほど前に、四歳年下の女の子と結婚したばかり。付き合い始めた頃のことは後々聞かされたけど、なんとなく、彼女でもできたのかなぁなんて思ってはいた。なにせ、俺との付き合いが疎遠になっていた時期があったから。「俺の誘いを断り続けるなんて、彼女ができたに違いない」と、良久を問い詰めたところ、簡単に白状した。「大切にしたい女の子ができました」と。俺も一、二度、会ったことがあるが、本当に可愛らしい、良い感じの子だった。

 そんな風にしてできた大切な嫁をほったらかしにしてボードに来るとは思わなかったが。

「嫁にはボードに行くって伝えてきたのかよ?」

「まさか。怒られるから誤魔化してきた」

「……帰ったらバレて怒られるオチだな」

 良久の嫁は、年下とは言っても気が強いらしく、彼はよく怒られていると聞く。俺に電話をかけてきたときも、後ろからの怒鳴り声が聞こえてきたときもあって、いわゆる「尻に敷かれる」って、こういうことなんだなぁと可哀想な思いでいたが、反面、羨ましくも思う。

「ま、せいぜい上手くやれよ。とりあえず今日は思いっきり滑ろうぜ」

 そう言ってリフトを降り、高いところから辺りを見回す。天気も良く、景色も良く見えて綺麗だ。一面真っ白なコースも、太陽の光が反射して眩しく輝いている。

「こりゃあ、雪焼け必至だな」

 地肌が黒い俺はまだいいが、色白な良久はきっとゴーグルの日焼跡がすぐついてしまうだろう。嫁にバレることは回避不可能ではなかろうか。

 片足がすでにセットされている板に、もう一方の足をセットする。ゴーグルを装着し、勢いよく飛び出した。

「お先っ!」

 まだ良久が準備をしている間に、俺は斜面を滑り降りていった。

 自分で言うのもなんだが、ボードは他の面々よりも上手いと自負している。「誰か俺に見惚れてくれねぇかなぁ」と、奇跡に近いであろうゲレンデマジックに期待を寄せる。が、そんな気持ちも、滑っている間にどこかへ行ってしまった。

 あぁ、気持ちいい。

 清らかで冷たい風。あっという間に過ぎていく景色。板から伝う、雪の感触。

 気がつくと、もうリフト乗り場まで滑り降りてきてしまっていた。

「光星! 俺を置いていくなよ!」

 後から滑り降りてきた良久が大きな声で言った。

「悪い悪い。気持ちよく滑ってたら、お前のことすっかり忘れてたわ」

「ひでぇ奴だなぁ。ま、気持ちはわからなくもないけど」

 良久と話しながら、再びリフトに乗る。

 何本かは、準備運動がてら、スムーズに下まで滑り降りる。そして、それなりにコースを堪能した後、そこからが俺達の本番だ。

 遊び心満載の、上級者向けボード術。

スキルアップのためのアイテムが集められた場所、「パーク」にて。雪が山のようにして作られているキッカーや、箱型のボックス、そしてレールなどのアイテムがあり、それらを駆使して技術を磨く。飛んだり回ったり乗っかったり。バランス感覚も磨かれる。それから、特に何も無い平坦な普通のコースでも、ターンの勢いを使った横回転もこなす。

 こういった俺の行動についてこれるのは、このグループの中では良久ぐらいなものだろう。しばらく、良久とパークで遊んでいたが、周りの様子も気になってきたので、再び通常コースへと戻って見回りを兼ねて滑ることにした。皆も、楽しく滑っているだろうか。一応、主催者としての配慮である。

 一人で滑っている奴は、とことん滑り降りることが好きなようで、技術とかはどうでもいいといった調子だ。上から下へ滑り降りてはまたすぐリフトに乗り、何度も何度も繰り返し滑っている。

 カップルになりそうな(もはや付き合っているようにしか見えない)二人は、男が女の子に手取り足取り教えていた。ちくしょう、リア充め。※リア充……現実リアルが充実している人。

 そして、夫婦と男一人、女一人の四人グループはというと……、なんだ? 雰囲気が怪しい。遠目で見ると、なんだか言い争っているようにも見える。俺はその四人のところまで滑り降りていき、彼らに話しかけた。

「よー。みんな、どうした? 全然滑りに行かねぇでよ」

「光星、誘ってくれたとこ悪いんだけど、俺、こいつと帰るわ」

「は?」

 俺が質問する間も与えず、そう言った彼は嫁を連れて駐車場へと向かっていった。

「おいおい、一体どうしたんだよ?」

 遅れてやってきた良久が、残された二人に話しかける。

「僕だってよくわかんないっすよ。あの人が嫁さんをほったらかしにして、この子に教えてて。それで嫁さんの方がつまらなそうにしてたから、僕が話し相手になってただけなんですけど……。それを見た旦那さんが、〝俺の嫁に手ぇ出してんじゃねぇよ!〟って僕に怒ってきて」

 隣にいた女の子も口を開いた。

「わ、私もいけなかったんです。あの二人が夫婦だったなんて知らなくて、だから私、彼に教えてもらおうと思って声をかけちゃって……」

「それで、話し込んでた僕と嫁さんにキレたあの人が、勝手に帰り支度を始めた、という感じです」

 はぁー、と巻き添えをくらった彼は、深い溜息を吐いた。

「なるほどね……。そこは企画者の俺にも責任はあるな。すまなかった。最初にみんなのことをそれぞれ紹介しておけば……」

「いやいや、光星は悪くないっしょ! まぁ今日はさ、せっかくの良い天気なんだし、残りのみんなで楽しく滑ろうよ! 一人で自由に滑ってる奴だっているわけだし」

 良久はそう言って、俺のフォローをしてくれた。そして後ろの方へと目をやる。すると自由人の彼が、俺達の前で滑りを止めた。

「みんな、どうしたの?」

 平然な顔で聞いてくる彼は、不思議な空気を纏っていた。

「みんなでおしゃべりするなら僕も混ぜてよ」

 皆、ぽかん、とした後にクスクスと笑いを洩らした。

「ん?」

 首を傾げた彼は、なにが面白いの? という感じで皆を見る。ちょっと天然な感じが入っている彼には、夫婦の二人は急用ができて帰ってしまったという風に伝えた。

「そっかぁ。残念だね。今日はこんなに良いコンディションのゲレンデなのに。まぁ、残りのみんなで気持ち良く滑ろうよ」

 彼はそう言って、再びリフトの方へと滑っていった。

「……彼は、あんな感じのキャラだから」

 放っておいていいよ、と言うと一同は笑って納得。

 とりあえず、初心者だという女の子に教えてあげようと、男三人で交替しながら彼女の相手をしていた。

 俺のメンバー選択ミスもあったが、これ以上今日はイザコザが起きることはないだろうと思い、リア充の二人も放置したまま、太陽が沈み始めて時間になるまで皆それぞれが楽しんで滑っていた。


「光星、ありがとなー」

「黒川さん、ありがとうございました」

 解散である。

「時間を忘れる」というのはこういうことを言うんだろうなぁと思った。みんなとお別れの時間。感謝の言葉を受け取りながら、車で帰っていく仲間達を見送る。そして、最後の人の車を見届けた後に、俺と良久も車に乗り込んだ。

「いやぁ、悪いね。一緒に乗せてきてもらっちゃって」

「良久が車を出したら、嫁にバレバレだろうが。そうでなくても、その汗臭さと日焼けででバレると思うけどな」

 俺は笑いながら言ったが、良久は頭を抱え、「あぁ、どうしよう」と考え込んでいた。「そんなに悩むことになるなら来なきゃよかったのに」とも思ったが、彼が来てくれたお蔭で、俺も十分に楽しむことができたのだから、俺でもフォローできることがあるのならしてやりたい。

「いつも通り、良久のボードとウェアは俺の部屋に保管しておくから。他のことは自分でなんとか上手くやってくれ」

「すまねぇなぁ」

「俺とお前の仲だろ。遠慮すんなって」

「やっぱ、持つべきものは親友だな」

 彼はそう言って、俺の肩に頭を凭れ掛けてきた。

「やめろ、気持ち悪い」

「なんだよー。せっかく彼女がいる気分を味あわせてやろうと思ったのに」

 ニヤニヤしながら良久は言った。

「それ、嫌がらせにしか思えないから」

「ははっ! 違いない!」

 彼はそう言ってから、ハッと何かを思い付いたように言う。

「そうだ! 今度は同級会でもやろうぜ!」

「高校の?」

「そうそう。っていうか、俺と光星が同じクラスだったのは高校のときだけじゃん」

「そうだっけ?」

「そうだよ。大体、小学校と中学校は別の学校だったし」

「……あれ?」

 彼とはあまりにも仲良くしているものだから、小さい頃からずっと一緒にいたような気になっていた。記憶の改ざんも甚だしい。どれだけ記憶力が悪いんだ、俺は。

 高校を卒業してから、およそ十年が過ぎた。

 俺の頭の中には、高校時代の思い出さえもあまり頭に残っていない。だが、元クラスメイトと顔を合わせれば、少しは記憶も甦ってくるような気がする。

「同級会か……。ちょっと企画してみるか」

「さすが光星君! みんなのまとめ役だっただけあるねぇ」

 確かに、クラスの代表をやっていたときもあったけれど。何年生のときのことかは忘れた。それに、代表をしていたとは言え、クラス全員の連絡先を知っているわけでもない。地元に残っている人もどれだけいるのか知らないし。でも、集まれる人だけでも集まってくれればいいか、と気軽に考えていた。


 良久を家に送り届けてから、コンビニに寄る。弁当を買って一人暮らしをしている自分のアパートへ帰宅した。

 ボード用品を担いで玄関に入り、下駄箱のあたりに荷物を置いて板を立てかけた。それからウェアを脱ぐ。そして風呂に向かって、湯船にお湯を溜めるため、水道の蛇口を捻っておく。

部屋に入って、コンビニで温めてもらった弁当をテーブルに置き、早速メールを作成する。

『高校二組の同級会をやろうと思ってます。なので、覚えてるクラスメイトにもこの内容を回してあげてください。○月×日(土)の二十時開始。場所は、居酒屋〝語辺(かたりべ)〟にて行います。出席できるという人は、一緒に来る人の名前も連絡ください。その他、質問等についても、聞きたいことがあれば黒川光星までご連絡を』

 と、俺の覚えている(連絡先が残っている)限りの旧クラスメイトにメールを送った。

 居酒屋のほうへはまだ予約の連絡をいれていないが、まぁ大丈夫だろう。空きが無かったら別の店に予約を入れて、訂正の連絡を皆に送るだけだし。

 さーて、何人集まるかなー。

 期待を胸にしつつ、ご飯を口へ放り込む。さすがに、一日中動いていただけあって、かなりお腹が空いていた。一気に弁当を食べ終え、風呂場へと向かう。さっと服を脱ぎ、お湯を溜めておいた湯船に浸かり、本日の疲れを癒す。

 明日からまた仕事頑張るぞー、と今日は早目の就寝。ケータイが光っていて、メールが来ていたように思ったが、疲れと睡魔には勝てなかった。俺もいよいよ三十路だもんなぁ……。


 翌日。

 朝起きると、何件かメールがきていた。名前を見るとどれも同級生からである。また帰ってきてから出席の確認をしようと思い、ケータイはそのままにして朝食の用意をし、食べ、片づけ、仕事場へと向かった。

仕事が終わってメールボックスを確認すると……、すでに十通以上の返信があった。




「いやー。誰かやってくれねぇかなぁって思ってたんだよー」

 集まった面々は口々に言う。嬉しそうな表情で言ってくれると、こちらとしても良い気分になる。

 結局のところ、二十人近くが集まった。格安で、料理にも定評がある店を予約したからだろうか。意外にも出席者は多かった。

俺は、作ってきた出席者名簿を取り出し、来た人から順に参加費の三千円を受け取って名簿にチェックし、用意しておいた不透明の袋の中のクジを引いてもらう。そこに書いてある番号と同じ番号が書かれた紙が置いてある席に座ってくれ、と促した。

 遅れて来る人もいるようだが、大方集まったということで皆に声をかける。

「あー、おほん! 幹事の黒川です。この同級会の立案は良久がしてくれました。みんな来れるかなぁって心配してたけど、これだけの人数で開催することができて安心しています。今日はよくぞ集まってくれました。こんなに集まるなんて思ってなかったんで、正直驚いてます。高校を卒業して十年も経てばいろんな変化もあるでしょうし、聞いたり話したりしたいこと、積もる話もあるかと思います。ので! 本日は存分に語らい、楽しんでいってもらえたら幸いです!」

「ヒューヒュー!」とはやし立てる奴もいれば、「黒ちゃーん!」「こうちゃーん!」などと俺の名を叫ぶ奴等もいた。それはさておいて。

「それでは皆様! グラスをお取りください!」

 皆がグラスを手にしたのを軽く確認。周りを見渡し、一息吸う。さぁ行くぞ。

「今日の再会に……、かんぱーい!」

『かんぱーい!』

 皆での乾杯の挨拶も終わって、早速騒がしくなる。

 周囲の楽しそうな雰囲気を、第三者的に観察することも、俺は好きだ。

 と、観察に徹し、この場の雰囲気に浸っていた俺の隣に歩み寄る人が。

「黒川君」

 声をかけられて横を向くと、そこにはセミロングの髪をなびかせた、薄化粧の女の子が。と言っても、元同級生だから同い年なので彼女も三十歳になるのだけれど、一応気を遣って「女の子」と表現することとする。

「おぉ、水島か。久しぶりだな」

 水島(みずしま)沙世(さよ)。彼女とは一緒にクラス代表を務めていた仲でもある。

「元気してたか?」

「あ、うん。黒川君も元気そうだね」

「俺っちゃあ、元気が取り柄だからな」

 かかっ、と軽快に笑いながらも「ま、悩み事もあるけどさ」なんて言ってみた。

「悩み事?」

「おう! 彼女ができねぇ!」

 その言葉を聞いた水島は笑った。

「そんなに元気よく言われても。でも、黒川君はモテそうなのにね。なにがいけないんだろ?」

「そうなんだよ。なにがいけないんだろうなぁ」

 モテそう、という言葉は否定しない。人気はある。友達として。

「いつも〝良い人止まり〟なんだよ。告白したって、〝悪い人じゃないんだけど……〟とか言われてフラれるしさぁ」

 あははっ、と笑う水島に「笑い事じゃねぇんだって、マジで」と、事の深刻さを伝えてみたかったのだが、真剣に受け取ってもらえなかった。俺の心の内の話題は、上手く伝わることなく終わる。

「そういう水島はどうなんだよ。彼氏とか結婚とかさ」

「それが全然……。まずいよねー、もう三十路なのにさ」

「ま、人それぞれのタイミングってもんもあるしな。焦ったって仕方ねぇさ」

「それ、一生独身の人が言う台詞な気がするよ?」

「はははっ! そうかもな!」

 独身なら独身でいいし、好みの女性を見つけたらアタックする。それがこの俺、黒川光星だ。

「それで、ちょっと……。黒川君に聞きたいことがあるんだけど」

「おう! なんでも聞いてくれ!」

「あの、さ。白池君って、結婚してたり、するのかな?」

「良久か? あいつなら一年くらい前に結婚したぞ? 職場で出会った四つ下の女の子を捕まえたんだってよ。いいよなぁ、そういうところで出会いがあって。俺なんか職場に出会いなんて無いし、取引先にいる女の子に手を出すなんて最終手段だしさ」

「そうなんだ……。白池君、結婚してたんだね」

「水島? 具合でも悪いのか?」

「う、ううん! 大丈夫! ごめんね、変なこと聞いて。私、戻るね」

 そう言って彼女は女子が集まっている場所へと向かっていった。水島、どうしたんだろ? と思いながら皆のいる場所に目をやると、いつの間にか席順ががめちゃくちゃになっていた。最初に決めた席順はどこへやら。まぁ、飲み会なんて大抵そんなもんだろう。

 パンッ!

「いってぇ!」

 突然だった。

 頭部を叩かれ、「なにすんだよ!」と怒りを露にして後ろを振り向くと、そこには仁王立ちの似合うショートヘアの女がいた。

「あんたって、相変わらず空気が読めないわね!」

 ご立腹である。だが、それは俺もだ。

「なにが!? 怒るなら説明してからにしろよ!」

「ホント鈍感。ちょっとこっち来なさい」

 襟元を掴まれて立たされ、そのまま部屋の外へ連れていかれる。周囲の冷たい視線に晒されながら。

「おい、華世! いい加減に放せって!」

 彼女の手を振り払って対峙する。

「俺がなにしたってんだよ」

「あんたね、デリカシー無さすぎ」

 溜息を吐いて言う。

赤地(あかち)華世(かよ)世。彼女は水島沙世の親友である。華世と沙世。名前が似ているということから仲良くなったのがきっかけだという。

「沙世の様子を見てわからなかったの?」

「は?」

「……これだから男って奴は」

「だから、なんなんだよ。はっきり言えっつーの」

「察しなさいよ。あのねぇ、沙世は白池君のことが好きだったの。今もだけど」

「へ?」

 好きだった? ずっと?

「……高校のときから?」

「そうよ」

「今日の今日まで?」

「そうだって言ってるじゃない! 理解が遅いわね! あんた、馬鹿なの?」

 この十年間、ずっと好きでいた……だと? まさか。ありえねぇ。考えられねぇ。

「光星の頭じゃあ想像もつかないかもしれないけど、ずっと片思いだった相手が結婚したなんて簡単に言われて、ぶち壊されて、どんな気持ちだと思う? 相当ショック受けてると思うわ、あの子」

「そんなこと俺に言われたって、どうしようもねぇだろうが。事実なんだから。現実は受け止めていかねぇと駄目だろう?」

「これだから光星は……。もういいわ。あんたに話すだけ無駄だった。これからはもっと女心の理解に努めることね」

「お、おいっ! 華世!」

 俺の呼び止める声に反応もせずに部屋へと戻っていく。

「まったく……、なんだってんだよ」

 華世とは高校の時もよく喧嘩をしていた。俺とは考え方がまったく違うし、なにせ、意外と細かいことを気にする奴だったから。あの怒りっぷりを見ると、その性格も変わっていないようだ。まさか、十年経ってもまた彼女と言い合いをすることになるとは思ってもいなかった。

 しばらく廊下で頭を冷やすことに努めていたが、逆に色々と考え過ぎて頭が沸騰しそうになってしまった。その状態で部屋へ入り、良久の元へと向かう。

「あ、光星がやっと戻ってきたぞー」

 男共がわいわいと俺の周りに群がり、良久が話しかけてきた。

「変な顔してどうした? 赤地さんに告白でもされたか?」

 周りの奴等も調子に乗って冷やかす。……が、俺には冗談で返す気力が残されておらず、真面目な顔で腰を降ろした。そんな俺の様子を見た皆が、今度は心配そうに見つめている。

「お、おい。マジで大丈夫かよ?」

「なぁ、良久」

「ん?」

「女心って、なんだろうな」

 光星が壊れた! こいつの口から「女心」なんて言葉が出るなんて! などと、周りは一時騒然となった。俺の抜けかけた魂を取り戻そうと、周りが必死になる。

 せっかくの同級会で盛り下がる俺。このままではいけない、となんとか頑張りを見せる。頭がグルグルになりながらも頑張った。

 しかし、その頑張りがいけなかった。


 多分、同級会は盛り上がった。そして、無事に終わった。はず。

 目が覚めて日曜の朝を迎えたわけだが。……どうやって帰ったんだ? 帰りの記憶が無い。思い出そうとすると頭が痛い。気持ち悪くてベッドから起き上がれもしない。

 ……っていうか、ここ、俺の部屋か?

「あ、起きた?」

 その声は……。

「もしかして……、華世?」

「あったりー。正気ではあるようね。なによりだわ。それにしてもあんた、昨日はすごい勢いで飲んでたわね」

 正気じゃない状態ってなんなんだよ。と、突っ込む気力も無い。というか俺は、そんなに酒を飲んでいたのか? それすら記憶に無い。それにしても華世は朝から元気はつらつだな。すでにメイクもばっちりだし。

 そんな彼女は、水の入ったコップを手に、俺の方へと近づいてきた。

「……ここ、どこ?」

「私の部屋だけど?」

「なっ! ……うっ」

「ちょ、ちょっと! ここで吐かないでよね!?」

 慌ててコップをテーブルに置き、替わりにビニール袋を手にしている。こういう場をいくつも潜り抜けてきたかのように準備がいい。手慣れているような感じだ。

 吐きそうな様子は見せず、それなりに落ち着いてきた感じの俺を見て、彼女はビニール袋を床に置く。

「俺を、介抱してくれたのか?」

「仕方ないじゃない。一番家が近いの、私のアパートだったし。それに、みんなはみんなで〝赤地が黒川をいじめるからだ〟とか〝お前が責任とって面倒見ろよ〟なんて言って、さっさと二次会に行っちゃうし。それに……」

「それに?」

「私も、ちょっと言い過ぎたかなぁと思って」

 申し訳なさそうに言う。そんな表情を見たのは初めてかもしれない。彼女も社会経験を積んで、少しは丸くなったのだろうか。そんなことを思わせる話し振りだ。

「まぁ、沙世のことは気にしなくていいから。私がなんとかするし。それに、光星が悪いわけじゃないもんね。タイミングが遅かったってだけで」

 水島のことを、まるで自分のことかのように考えて落ち込んでいる彼女を見て、

「お前、意外と優しい奴だったんだな」

 と、口にしていた。

「意外ってなによ。失礼ね。とりあえず、水でも飲みなさい。アルコールを薄めないと」

 そうは言われても、体に力が入らない。

「起きたら……、吐くかも」

「まったく……」

 彼女は溜息を吐いて、ベッドの脇へと腰を下ろし、俺に近づいた。不覚にもちょっとドキッとしてしまった。首の後ろに腕を通して肩を持つ。その二の腕で後頭部を支え、首のすわっていない赤ちゃんを抱くような姿勢になった。その姿勢で、ゆっくりと俺の上体を起こす。華世の胸に当た……りそうで当たらない。残念だ。

「変なこと考えてたら、頭を揺らすわよ」

「考えてません。全然」

 上体が起き上がったところで「ちょっとそのままでいなさい」と言われ、その姿勢を保つ。彼女はテーブルの上のコップを持ってきて俺に手渡した。そのコップの水を少しずつ、口に含む。

「しばらくはまともに動けなさそうね」

「……そうかも」

「私はちょっと出かけてくるから、その間は静かに横になってなさいよ。あと、なにか胃に入れたほうがいいかと思って、卵粥を作っておいたから。食べれそうだったら食べて」

「悪いな」

「とんでもない。ざまあみろって感じで、優越感でいっぱいよ」

 ふふっと笑う彼女は、さながら小悪魔とでも表現すればいいのか。憎たらしくも、可愛らしくもあった。

 反論する体力さえ残されていない俺は、何も言えずにただ彼女を見上げていた。

「じゃあ行ってくるわ。あ、トイレは玄関の左。洗面所は右にあるから。タオルが必要だったら適当にたたんであるのを使ってちょうだい」

 言うだけ言って去っていった。中に人がいるのに、玄関もしっかり鍵を掛けて。本当、しっかりしてんなぁ。俺が大雑把なだけなのかもしれないが。帰ってくる前にチェーンも掛けておいてやろうかとも思ったが、華世に怒られる場面を想像して恐怖し、実行には至らなかった。

 少しは動けるようになったかと思い、ベッドから足を出してみる。頭痛も酷いしクラクラするけど、起き上がれないことはない。立ち上がって、フラフラしながらテーブルの前へ。

 華世が作ったお粥、かぁ……。あまり期待できそうにないよなぁ。あいつ、運動神経とかはいいけど、料理は下手そうだし。

 とりあえず座って、テーブルの上に置いてある器のラップをはがした。

 まぁ、香りは悪くない。

 俺だって一人暮らしでメシを作ってるし、その味もわりと評判が良い。男友達にしか食わせたことがないけれど。料理に関しては自信がある。俺が作った卵粥のほうが美味いに決まっていると、高を括ってスプーンを手にした。

 さて、どんなもんか。と、お粥を口にする。

「……」

 ショックを受けた。

 華世の作ったお粥が、上手い……だと?

 卵粥という簡単な料理ではあるが、水加減や火加減、塩加減を少し変えるだけで味も大分変わる。いや、簡単な料理だからこそ、素材の味を上手く表現できるかどうかが試されるのだ! たかが卵粥、されど卵粥。

 ……なんて、熱く語ってしまったが正直に言おう。美味しい、と。

 くそぅ。美味しいけど悔しい。いつかあいつに「悔しいけど美味しい」と言わせる料理を作って食わせてやりたい。

 よくわからない対抗心を覚えつつも、お粥は見事に完食。ごちそうさまでした。

 一応、食器は台所へ持っていき、水に浸しておいた。洗い方とかも細かそうだからな、あいつ。そこは彼女に任せることにしよう。

 ということで、もう一眠り。

 ベッドに横になると、さっきは意識していなかったが、「そういえばここ、華世の部屋なんだよな」と思って、ふと緊張感が走った。物の数は少ないが、所々に可愛らしい小物が置いてある。それに、俺の部屋みたいに散らかっていない。がさつだけど繊細。それが彼女の性格なんだろうと、俺は分析する。

 そして、いま横になっているベッドも、普段は彼女が使っているものであり、布団から良い香りが漂ってきた。漂うもなにも、意識したからこそ匂いを感じているわけで、今さら発生してきたものではないのだが。

 枕は……、華世の髪の香り、か? ……って、なに考えてんだ俺は! 変態か!

 一旦、冷静になろう。と、まぁ色々な葛藤もあったが、「でも、女の子っていうか、華世だしなぁ……」なんて考えていたら、徐々に意識が遠くなっていった。


 ガチャン!

 眠りについていた俺は、玄関のドアが閉まる音で目が覚めた。もっと静かに閉めろよ。

 廊下を歩く足音。そして部屋のドアが開く。

「おかえり」

「あれ? 起きてたの?」

 意外そうな顔で言うな。っていうか、お前の閉めたドアの音で目が覚めたんだよ。とは言えなかった。

 部屋に置いてある時計に目をやると、もう三時になっていた。寝過ぎた。人の部屋で気を緩ませ過ぎじゃないか。しかも、一応、女性の部屋で。

「起きてたんじゃない。いま起きたんだ。安心しろ。俺は別に、ベッドの下にエロ本が無いかとか探し物をしたり部屋の中を漁ってたりなんかしてないから」

「……女の子の部屋を物色するなんて、最低ね」

「してないって言ってんじゃん!」

「光星の言い方は、イチイチ気持ち悪いのよ! それに私はエロ本なんて持ってないから!」

「ホント、お前には冗談が通じねぇな」

やはり俺達は、口論になる運命らしい。毎度のパターンだが。お決まり、と言ってもいい。

 あれ? そういえば、具合が良くなってる? 体を起こしているのに気持ち悪くない。華世の介抱のお蔭だろうか。

「元気になったんなら、さっさと帰りなさいよ」

「はいはい」

 ベッドから降りて、上着を羽織り、荷物を持つ。

 玄関までは、華世もついてきた。

「悪かったな」

 靴を履きながら、俺は言った。

「なにが?」

「面倒かけて」

「ふふっ。あんなこと、よくあるわよ」

 よくあるのかよ。

「別に気にしなくていいわ」

「そっか。それにしてもお前、昔っから変わらずにショートヘアなんだな」

「ふん。どーせ女っぽくないですよーだ」

「そうじゃなくて……、相変わらず似合ってんなぁと思って」

 俺はそう言って、玄関のドアを開けて華世の顔を見た。じっと見つめる俺に、彼女はたじろぐ。

「華世……、俺」

「なっ、なに?」

 俺はドアを閉め、華世に歩み寄る。静かになって、彼女は息を呑んだ。

 その音は俺にも聞こえた。呼吸の音も。

 ちょっと言い出しづらい、静かな雰囲気だが……。気にしている場合ではない。

やべぇ。

「トイレ行きたい」

「はぁっ!?」

「ちょっと借りるぞ」

 靴を脱いで荷物を置き、急いでトイレへ。

 ふぅ。スッキリした。

 気持ち良く出てきたところ、不機嫌そうに腕を組んで壁に凭れている華世が目に入った。

「あれ? わざわざ待ってたのか?」

「あんたが早く出て行かないことには鍵が掛けられないからよ」

 ご立腹だった。

 今度こそ早く出よう。再び靴を履いて玄関のドアを開ける。

「じゃ、ありがとな」

「お礼、期待してるから」

 腕を組んで不機嫌そうな彼女だが、ちゃっかり言う。

「がめつい奴め」

「せっかく介抱してあげたんだもの。お返しを期待するのは当然でしょう?」

「そんなん知らねぇよ。まぁ……、卵粥は美味かった。じゃあな」

 それだけ言って、俺は彼女のアパートを出た。

 家への帰り途中、昨日のことを思い出す。華世にもそうだが、水島にも悪いことしちまったかなぁ、と。

 今度、華世と打ち合わせて合コンでも開くかな。


 と、その前に。仕事の関係で取引先(お得意様)との、商談(という名の飲み会)があった。うちの営業所の所長とその取引先の会社の社長は付き合いが長いらしく、俺は度々、所長に連れ出され、飲み会に付き合わされる。

 だが、今回は所長の都合が悪いらしく、俺と後輩の二人で行くことになった。

「今の世の中、本当に不景気だよなぁ。どこからも良い話なんて聞けやしねえ」

「そうですよね。うちもギリギリって感じですよ」

 相手のグチを聞くことも仕事のうちだ。別に人の話を聞くことが嫌だというわけではないし、俺が担当してる営業先だから、さほど気を遣うことも無い。俺にとって楽な仕事ではある。毎回同じようなことを聞かされても、黙って聞きに徹する。もちろん、上手く相槌を打つことも忘れない。

「そういえば、黒川君のとこの営業所も人が少ないんだって?」

「そうなんですよ。所長を含めて六人なんですけど、あまり従業員を増やしたくないらしくて。優秀な人材が欲しいって、うちの所長がぼやいてました」

「そんなのはどこだってそうだろうよ。人を増やしたところでそれなりに業績を残せなきゃあねぇ。今年度うちで雇うことになったのだって、あの子一人だけだし」

 その男性の視線の先には、二十歳ぐらいの女の子がいた。若いなぁ。俺も昔は……、なんて回想する。

 むさ苦しい男達の中に、若い女の子が一人。紅一点。さながら、雑草の中に咲く、美しき一輪の花。可憐な花だ。

「おーい、愛菜ちゃ~ん」

 愛菜ちゃん、と呼ばれた女の子はこちらに気づき、立ち上がってゆっくりと向かってきた。小上がりの座敷なので、そのまま男性の隣に座る。

「今年度うちに入社した、愛菜ちゃんだ。事務をやってもらってる」

「林……愛菜です」

 ぺこっとお辞儀をして、俺の顔を覗き込むようにして見つめていた。若い女の子に見つめられることなんて滅多に無いから、ちょっと照れるんだが。

 おとなしくて恥ずかしがり屋のようだ。質素な感じでお洒落っ気は無く、長い髪も後ろで一つに結んでいるだけ。その彼女がビール瓶を手にし、お酌を勧めてきた。

「ありがとう」

 俺はグラスを手にし、傾けて差し出す。

 注ぎ終えると隣の男性にもお酌をし、瓶を置いた。その瓶を、今度は俺が手にする。

「愛菜ちゃんも、どうぞ」

「あ、私は、お酒はちょっと……」

 断りながらも、男性に空いていたグラスを手渡されて困る彼女。その様子を見て、

「じゃあ、お茶ならいいかな?」

 と聞いてみた。すると彼女は、コクンと頷いたので、近くにいた店員さんを呼んでお茶を注文した。

「おっ。黒川君は紳士的だねぇ。そういえば君は、結婚してるんだっけ?」

「まさか。彼女すらいませんよ」

「〝まさか〟って言っても、もう三十路だろう? そろそろ相手ぐらい見つけておいてもいい頃だと思うんだけれど」

 そう言う男性の左手の薬指には、指輪が嵌められていた。余裕のある男の発言だ。

「じゃあ、愛菜ちゃんはどうだい? この子はイイコだよ」

「そんな。お得意様の会社の方になんて、手を出せませんよ」

 笑って受け流したが、当の彼女に目をやると、恥ずかしそうに俯いていた。まぁ、可愛い子なんだけれど、関係者の前じゃあねぇ……。

 タイミング良く、会話を途切れさせるように店員さんが烏龍茶を持ってきてくれたので、それを受け取って彼女に手渡した。

「ありがとうございます」

 彼女はにこりと微笑んで、受け取ったグラスに口をつける。なんだか、久しぶりに色気のある、可愛らしい女性を目にした気がする。華世には世話になったが、あいつは論外だ。

「愛菜ちゃん」

 少し話をしたところで、別のところからも声がかかった。人気者の彼女は引っ張りだこである。大変だなぁと他人事のように見ていたが、大変だったのは俺の後輩だった。愛菜ちゃんを気に入ったのか、調子に乗って、彼女のお酌を次々と飲み干し、ぐでんぐでんになってきている。周りからも二人の関係を冷やかされ、後輩はまんざらでもない様子で賑わっていたが、愛菜ちゃんの困った表情を見て、「これ以上は危険だな」と思った。そろそろ引き上げ時か。

「すいません、俺、ちょっと残ってる仕事があるので、お先に失礼させていただこうと思います」

「こんなときでも仕事とは、真面目だねぇ」

「期日が迫ってきている案件がありまして」

 本当にすみません、と頭を下げ、後輩に声をかけた。

「おい、加藤。行くぞ」

 加藤と呼ばれた俺の後輩の男は、髪をツンツンに逆立てた頭を上げ、こちらに顔を向けて抗議の意を表した。

「えぇー。黒川先輩、もうちょっとー」

「今、ちゃんと立ち上がることができたらもう少しいてやってもいいぞ」

「はいっ!」

 元気よく返事をして立ち上がる加藤だったが、立った瞬間によろける。

「はい、アウトー。皆さん、失礼しました」

 笑いが巻き起こる中、幹事の方にお勘定の話をし、それから愛菜ちゃんに、

「後輩が迷惑をかけたようで、申し訳なかったね」

 と、苦笑いしつつお詫びの言葉をかけた。

「いえ……」

「それじゃあ」

 周囲の方々にも軽く挨拶をし、加藤の肩を担ぎながら店を出た。

 加藤は大卒と聞いていたが、なんて様だ。やたらと声が大きく、人の話をろくすっぽ聞かないで、返事だけはしっかりし、そして酒に弱い。俺の中では、いわゆる「お馬鹿さん」のカテゴリに該当する。

 酔い潰れた後輩を放って帰るわけにもいかず、とりあえずは自分の家に連れて帰ることにした。ちなみに、「残っている仕事がある」というのは口実である。早くこの馬鹿をあの場から連れ出したかったからだ。

 部屋に着いて、加藤をベッドに放り投げる。すると寝ぼけているようで、「愛菜ちゃ~ん」と言いながら俺の枕を抱きしめた。よだれとか垂らしたらぶっ飛ばすからな。

 俺はシャワーを浴びてから着替え、ソファーに腰を降ろした。

 はぁ。華世にはこんな面倒なことをさせちまったんだなぁと、ベッドでいびきをかきながら幸せそうに寝ている後輩を見て、そう思った。

『ただいま猛省中。この間は本当にすまなかった』

 華世にメールを送信。

 すると、すぐに返信がきた。

『どうしたの? なんか嫌なことでもあった?』

 メールを送っておいてなんだが、これ以上面倒ををかけるのも悪いかと思い留まり、別の話に逸らす。

『すまん。やっぱ、なんでもない。ところで、合コンをやりたいんだけど、フリーな女の子を集められないか? 華世と水島を入れて四人ぐらいいればいいんだけど』

 俺の周りは独身の男連中がゴロゴロいるから問題は無いが、女性陣はわりと多くが結婚しているか彼氏がいるので、華世だけに女子集めを頼むのは荷が重いかもしれない。俺も別の女の子に声をかけてみたほうがいいかなぁなんて、頭の中で自分なりの計画を巡らせていたら、彼女からメールが返ってきた。

『わかった。友達に聞いてみるね。またすぐ連絡する』

『頼んだ』

 そこで今日の、華世とのメールのやり取りは一旦終わりを迎えた。

 なにか企画すること、人と話をすること、楽しいこと……。そういうことが好きなんだな、俺は。

 自己分析をしつつ、ベッドに目をやる。加藤に目を覚ます気配は無い。爆睡、という感じだ。「なんでこの部屋の所有者の俺がソファで寝なきゃいけねぇんだ」などと脳内に文句を並べたが、俺も華世に世話になった身であるため、それ以上は考えるのを止めた。それに、「面倒を見ることも、そんなに嫌いじゃないのかもな」なんて思っていた。

 ソファに横になり、

「はぁー、疲れた……」

 と小声で独り言を洩らす。そして、そのまま眠りに落ちた。


「黒川先輩! おはよーございますっ!」

 耳に入ってきた、朝の第一声がこれはキツい。

「……加藤、うるせぇ」

「昨日はありがとうございました! あっ、僕、愛菜ちゃんの連絡先をゲットしたんですよぉ」

 彼は嬉しそうに話す。

 昨日あれだけ飲んでベロンベロンになっておきながら、記憶もあって、二日酔いもなくて……、どれだけ幸せな奴なんだ、こいつは。

「早速メールしよっと。『昨日はありがとう♪ あの後は黒川先輩に……』」

「そういうのは、自分の家に帰ってからやりやがれ」

「えぇー? いいじゃないですかぁ。だって、先輩も今日はヒマなんでしょ?」

「暇だからこそ、一人でゆっくりしたい。別に誰かと一緒にいてもいいが、お前はうるさいから駄目だ」

「先輩、僕に対して冷たくないですか? あっ! もしかして、愛菜ちゃんに連絡先をもらったのが僕だけだったから、妬いてるんですか?」

「はいはい」

 おれはグラスに水を入れて加藤に手渡し、

「それを飲んだらさっさと帰れ」

 と言った。彼はグラスを受け取りながら言う。

「先輩って、冷たいようでいて実は優しいですよねぇ。僕も先輩みたいになりたいなぁ」

「なれるといいな」

 俺は無表情で相手をしたが、加藤は嬉しそうに、勢いよく水を飲んだ。

 ちなみに、彼に対する俺の接し方というのは、冷たさでも優しさでもない。ただ、後々の面倒事を考えた末の対応である。それをこいつが勝手に履き違えているだけの話で。

「ぷはーっ! 生き返るーっ! いやぁ、本当にありがとうございました! じゃあ先輩、また明日!」

 言って彼は、荷物を持って颯爽と姿を消した。せめて、顔を洗ったり身だしなみを整えてから帰れよ、と思ったが、言う間もなく彼は去っていった。明日も仕事であいつと顔を会わせることを考えたら、面倒だなぁと溜息が出る。

 嵐が過ぎて、ひと段落。

 時計を見ると、お昼近くになっていた。

「うどんでも食うか……」

 冷凍庫に入れておいた、冷凍生うどんを一袋取り出し、鍋に水を入れて蓋をし、火にかける。

 と、その時。ケータイの呼び出し音が鳴り響く。

 ケータイを手に取り液晶画面に表示された名前をみると、華世だった。

『あ、もしもしー?』

「華世? どうした?」

『昨日の件なんだけどさぁ、私も入れて五人になっちゃったんだけど、いい?』

「早っ! まぁ、人数に関しては問題無いよ」

 彼女達の連絡網は一体どうなっているのか。メンバーの選別、早過ぎだろ。

『じゃあ、日時と場所が決まったら連絡ちょーだいねー。よろしくっ!』

 プッ。

 言いたいだけ言ってすぐ通話を切る彼女であった。っていうか、ノリノリじゃねぇか。

 本日、午前中にして嵐が二回通過していった。

 せめて午後は静かに過ごしたいものだ。そう思いながら、沸騰している熱湯に、冷凍うどんを放り込んだ。


 翌週の土曜。

 俺も男を四人誘って、男五人と女五人の合コンが執り行われた。流れとしては、飲み屋で飲んでカラオケに行く、という定番コースの予定だが。

 今回の男共のチョイスだが、控えめだけど会話のキャッチボールが上手そうな奴等を適当に選んで誘ってみた。酒癖も悪い奴はいないから、まぁ大丈夫だろう。

 指定した飲み屋に集合。

 進行は俺と華世で担当。まずは自己紹介から。

 一人ずつの自己紹介が終わったところで、質問タイム。女性陣は食い気味で、どんどんと質問を繰り出す。男性陣はタジタジだ。典型的な、肉食系女子と草食系男子の絡み合いという風に見える。ただ、その肉食系女子の中でも水島はおとなしく、乗り遅れているようにも見えた。ある意味、俺の水島に対しての罪滅ぼし的な要素を含んだ合コンだが、彼女の様子を覗うに、あまり上手くいく気がしない……。

 質問も落ち着いてきてフリートークになると、みんなのお酒を飲むペースも一段と上がった。そして、女性陣の勢いに呑まれた男性陣が、見るも無残な姿へと変わっていく。俺は前回の同級会の反省もあって、上手く躱しつつ、みんなを見守る側に徹していた。が、あまりの勢いに見守りきれない。華世も水島のフォローで手一杯のようだ。

 みんな、悪い。なんとか耐えてくれ。可哀想に思って男共を見守りつつも、そんなことも思う。

 女性陣の豪快な飲みっぷりに圧倒され、ついに犠牲者が。

 一人……、そしてまた一人。男二人が脱落。

 それでも女性陣は楽しそうに飲んで、話して、はしゃいでいた。「彼女等が楽しそうにしてるならいいか」と思って、飲み放題の時間が終わるまで騒いでいた。最後の方では水島も楽しそうにしている様子が見れて、そんな彼女の表情が見ることができただけでも、今回の合コンを設定した甲斐はあったという気持ちになった。

 時間になって外に出る。酔い潰れた二人は、俺ともう一人の男で担ぎ出した。すると、その友人が、「俺、こいつら送ってくから」と二人を指差して言う。

 と、そのとき。

「あの……」

 水島が声をかけてきた。

「ん? どうした?」

「私も、送ってくの、手伝っていいかな?」

「いいけど……、水島はいいのか?」

「うん」

「おお! 助かるよ、水島さん」

「いえ……」

 こいつ、いつの間に水島と仲良くなってたんだ? まぁ、それならそれで丁度いいか。二人に任せることにしよう。それにしても、なんだかんだ、水島には迷惑かけっぱなしだなぁ。ちょっと凹む。

 タクシーが来てから、後部座席に酔い潰れた二人を押し込み、そこへ友人も乗り、男三人が狭そうにして座った。水島は助手席へ。それを見送ってから、他の皆のところに戻ろうと思ったのだが……。姿が見当たらない。

 辺りを見回して目に入ったのは、華世ただ一人だった。

「あれ? みんなは?」

「もう先に行っちゃったよ」

 さらりと言う華世。

「男の子、一人残ったでしょ? 他の女子のみんな、その子のことが気に入ったみたいで。取り合いしながらどっか行っちゃった」

「どっか、って?」

「さぁ? 知らない」

「……」

 ま、いっか。犠牲者(男性多数)は出てしまったものの、女性陣に楽しんでいただけたなら、それで良しとしておこう。

「華世。お前は楽しかったか?」

「うん」

「水島は、楽しんでたと思うか?」

「うん」

 本当かよ。と内心疑ってしまったが、彼女が言うのならそれを信じるしかない。それに、こいつは変な嘘を吐くような奴じゃないしな(むしろストレートすぎる)。

「なに? あんた、まだ同級会のこと引き摺ってたの? あれは私の言い過ぎもあったんだし、もう気にしなくても……」

「俺はさ」

 華世の言葉を遮って、俺は口を開いた。

「みんなが楽しそうにしてるところが見たいんだ。悲しいときとか、辛いときもあるかもしれないけど、楽しいときだって絶対にあるはずなんだ。俺は、そういう場を見たいし、出来ることなら作ってやりたい」

「……」

「んっ?」

 驚いているような疑問に思っているような、不思議な表情をしている彼女の視線に気づき、一気に恥ずかしさが込み上げてきた。普段、人前では言わないようなことを話してしまったから。

「なんてな」

 冗談っぽく、ニッと笑って言ってはみたものの、もうすでに修正はできそうにない。せめて打ち消すことはできまいかと、別の話題を振ってみる。

「……みんな行っちまったし、俺ん家で二次会でもするか?」

「そうね。それも悪くないわ」

 近くのコンビニで買い物をし、それから俺が住んでいるアパートへと向かう。雑談をしながら。珍しく口論にはならなかった。と、その時、ふと華世が言った。

「あのね、沙世のことなんだけど」

「え?」

「今回の出会い、あの子にとって良いものになるから。きっと」

「どういうこと?」

「もう光星が沙世の心配をする必要は無いってこと」

「はい?」

「わからなくてもいいわ。そりあえず、安心なさい。あの子の近くには私っていう、強力な友人がいるんだから」

「確かに、強力だよなぁ」

 物理的にも。

「……あんた。今、違う意味で考えたでしょ」

「そんなことはありません」

 俺には、華世が一体どういうことを伝えたかったのかがわからなかった。そして、そうこうしているうちに、アパートに着いてしまった。

「……言っとくけど。部屋、ちゃんと片付けてねぇから汚いぞ」

「別に期待してないからいいわよ」

 まさか、今日に限って人を部屋に連れ込むことになるとはなぁ。今後は日頃から綺麗にしておくよう心がけよう。

 ガチャ。

「お邪魔しまーす!」

 玄関の鍵を開けると、我先にと、華世が飛び込んだ。

「おい! こら!」

 そのまま彼女は部屋に突入。元気が良いのもいいが、歳を考えろよ。三十路だろう? もう少し落ち着いてくれてもいい年頃だと俺は思うのだけれど。おとなしいよりは良いけど、もっと歳相応に……って言っても三十歳って、どんな雰囲気でいたら相応に見られるんだろうか。などと、くだらないことを考えながら、彼女の後に続いて部屋に入った。

「うーん。思いの外、綺麗ね」

「思ってた以上に綺麗で、なにがいけねぇんだよ」

 不満気な表情の彼女に問うと、

「だって、光星の弱味を握れないじゃん」

 という答えが返ってきた。俺の弱味を握って何をする気だ、こいつは。恐ろしい。

 っていうか、俺の部屋に初めて入った感想がそれかよ。

「まぁいいや。とりあえず、そこのソファにでも座ってろ」

「はーい」

 やけに素直だし上機嫌で、逆に気持ちが悪い。

「お前、なにか良いことでもあったのか?」

 手にした缶チューハイを手渡しながら聞いてみる。

「ふふーん。教えなーい」

 上機嫌に答える彼女にイラっとした。なんなんだよ、今日の華世は。

「あ。じゃあ、前のお返しになんかしてくれたら、教えてあげなくもないかなー」

「どっちだよ。しかもお返しって……、前回の介抱のこと、まだ覚えてたのか」

「もちろん。私はねちっこいのよ? だからさぁ、教えてあげるからなんかしてよー」

 酔っているのか? それともシラフか? よくわからないが、なんとかして聞いてみたい。

「わかった。じゃあそこでテレビでも見ながら、ちょっと待ってろ」

「イエッサー!」

 ……酔ってるな。確信した。

 飲み屋では控えていたのか、俺の部屋ではチューハイやカクテル、発泡酒などを次々と飲み干していった。

「ちゃんと水も飲めよ。俺みたいに二日酔いになるぞ」

「はいはい」

 わかっているのかいないのか、テキトーな返事を返された。テレビに見入っていて、俺の話を聞いていない様子である。

 そんな彼女の前のテーブルに、どんっと皿を置いた。

「ん?」

 不思議そうな返事をする彼女の前に箸を置く。

「なにこれ? 美味しそー!」

「そんなに驚くもんでもないだろ。ただの野菜炒めだ」

「へー。光星ってこんなのも作れるんだぁ」

「こんなもん、やろうと思えば誰でも作れる」

 そう言って俺も、自分の箸を持ってきて、テーブルの前に腰を降ろした。発泡酒を手に取り、タブを開け、一口、二口、三口……。「ぷはーっ!」っと息を吐いて、自分の作った野菜炒めに箸を伸ばす。

 うん。取るに足らない、普通の野菜炒めだ。

「すごく美味しいね、これ」

「そうか? 普通だろ」

 酔っていて味覚が働いていないんじゃないかと、嬉しそうに野菜炒めを口にする彼女を、俺は訝し気に眺めていた。まぁ、喜んでくれることは嬉しいのだが、華世がこんなに素直な反応を見せることに違和感を感じる。

 それはそれとして置いておき、彼女と一緒にテレビを見ながら雑談をする。

 しばらくして、俺はまた腰を上げた。

 台所で、あるものをお盆の上に用意し、そのお盆を持ってテーブルに戻る。

「華世」

「ん? なに?」

「お返ししたら、さっきのことを教えてくれるんだな?」

「そうよ」

「じゃあ、これでどうだ!」

 そう言って俺は、蓋のかぶった湯呑みのようなものをテーブルの上に置いた。

「こっ、これって……」

「そうだ!」

 これは湯呑みじゃないぜ!

「こいつは……、茶わん蒸しだ!」

「嘘でしょう!?」

 蓋を取ると、ホクホクと白い湯気が立つ。そして、その湯気の元には、黄色く、艶のある固形物が。

「いっ、いつの間にこんなものを作っていたのよ!?」

「ふん。三十分もあれば、茶わん蒸しなんて作れるんだよ。……と言っても、本格的なもんは作れなかったけどな」

 具材は、鶏肉にかまぼこ、生椎茸、ちくわ、そして三つ葉。

「本当は椎茸も生じゃなくて、干し椎茸を使ってダシを利かせたかったんだけど」

「というか、なんであんたの家の冷蔵庫に椎茸やら三つ葉なんてものがあるのよ……」

「俺、料理は好きだからな」

「意外過ぎるわ……」

 お前の卵粥も美味くて意外だったけどな。

「まぁいいや。冷める前に食えよ」

「う、うん」

 俺も腰を降ろしてスプーンを手に取る。だが、自分が食べる前に、華世の反応が見たい。そう思って、少し待って彼女の様子を覗う。

茶わん蒸しをスプーンですくい取って一口。口の中で味わっている様子の彼女を見て、少し緊張した。

 彼女は眉間にシワを寄せ、「美味しい」などとは言わなさそうな雰囲気を醸し出していたが、諦めたように口を開いた。

「……悔しいけど、美味しいわ」

「うっし!」

 ガッツポーズを決めた俺は、自分の作った茶わん蒸しを食す。まぁ、そこそこイケるな、という感想だ。

「さぁて。これでお返し完了だ。詳しい話を聞かせてもらいましょうか」

「仕方ないわね。こんなに美味しいものをいただいちゃったら、言うしかないじゃない」

 スプーンを持っていた手を止め、彼女は俺の顔を見て話し始めた。

「さっきもちょっと言ったけれど、沙世がね」

「水島になにかあったのか?」

「ちょっと落ち着きなさい」

 身を乗り出し気味になった俺を制し、彼女は茶わん蒸しをもう一口。

「私、さっき、沙世に相談されてたのよね」

「相談? さっき?」

「うん、さっきの合コンで」

「で、なんて?」

「気になる人ができたって」

「マジかよ!?」

 あの中に、水島が好きになそうな奴なんていたか? 自分で集めたメンツだけど、正直そう思ってしまった。

「ほら、あの人よ。最後に酔っ払いを送ってくって言った」

「あぁ、あいつか。だから水島も一緒に行くって言ったのか」

「半分正解ね」

「半分?」

「私が〝行きなさい〟って言ったのよ。ついでに連絡先も教えてもらっちゃえって」

「悪魔の囁きが……」

「なに!?」

「いえ、なんでもありません」

 小さな声でボヤいただけなのに、聞こえていたとは。地獄耳。悪魔、小悪魔を通り越して、地獄に住まう閻魔様のようだ。

「ま、その後は沙世の自主性に賭けたわけだけど、見事に乗ってくれたわ」

「そっか。あいつも悪い気はしてなかったみたいだけど。水島も頑張ってんのな」

「ホント、光星って女心がわからない人よねぇ」

「あぁ、全然わかんねぇ」

「光星?」

 テレビを見ながら考えていた。

 華世はなんで、俺と二人きりで普通にしているんだろう。普通の女の子なら、男の部屋に入る時点で躊躇うはず。となると、華世が普通じゃないのか、俺が男として見られていないのか……。

「ねぇっ!」

「えっ!?」

「なにボーっとしてんのよ。あんたもあいつらみたいに酔わせ潰すわよ?」

 ……って、こんな奴を女として見てる? この俺が? まさかな。

「さっきの合コンで俺を酔わせ潰さなかったのは、遠慮してたからなのか?」

「違うわよ。またあんたの介抱するハメになるなんて御免だったからよ。決まってるでしょ?」

 決まってるのかよ。ま、そりゃそうか。

「それに、あんたって沙世の心配ばっかしてるから、私が心配になるっていうか……」

「お前が? なんの心配を?」

「だから! そんなに沙世の心配をするってことは、光星は沙世のことが好きなのかなって。それで光星がフラれでもしたら、なんか、私が申し訳なく感じるというか」

「俺が? 水島に? はははっ! 無いわー」

 確かに水島は可愛いけど、親友のことを好きだった女の子に手を出すほど飢えちゃいない。それに、俺の好みのタイプとはちょっと違う。

「傷心の女の子を慰めて惚れさせるとか、そんな卑怯な手は使わないし、そこまで野暮じゃねぇよ。そもそも、水島みたいなおとなしめの女の子はあんまり好きにならねーし」

「そうなの?」

「あぁ。っていうかお前、そんな無駄な心配してたのか? 酔って水島に告白してフラれる俺のシチュエーションを想像する時点で馬鹿だなぁと思ったけど、それで俺がフラれることの心配するとか、本当に馬鹿だとしか言いようがないな」

「うるいさいわね! 馬鹿とはなによ!」

 せっかく心配してあげたのに、とぼやきながら野菜炒めを頬張る彼女に対して、俺は静かに笑っていた。それに対して彼女はさらに怒る。純粋と言えばいいのか、単純と言えばいいのか。怒りに任せてスナック菓子の袋を開けるときに、中身をまき散らす破き方をしたときには大笑いもいいところだった。

 酒も進み、華世の怒りも治まり始め、和やかな会話もできるまでに落ち着いていた。こころなしか、彼女の表情もほっとしたような穏やかな表情になっているような気もしたが。

「あー。お腹いっぱい。茶わん蒸しも美味しかったし、しあわせー」

 そう言う彼女の表情は緩み切っていた。今にもよだれが垂れそうである。

「お前、眠いんだろ」

「そんなことないよぉ」

 そうは言っても瞼が落ちそうになっている彼女を見て、俺は言った。

「おい。寝るんだったら俺のベッドで寝ろよ。風邪ひくぞ」

「ふん。私はそんなにヤワじゃなぁ……」

 あ。落ちた。

 言ってるそばから寝るとは、さすが華世。意地だけは強い。いや、力とかも強いけど。

 俺は溜息を吐いて、重たい腰を上げた。そして、ソファに横になってしまった彼女を抱き上げ、ベッドまで連れて行く。いわゆるお姫様抱っこというやつで連れて行ったが、意外に軽いな、と思った。そのままベッドに乗せて、掛布団を掛ける。

 起きてるとうるさいとしか思えなかったけど、こうして静かにしてれば可愛いもんだ。まぁ、どっちも華世だし、どっちでもいいんだけど。

 そして俺は、テレビと電気を消して、華世のいたソファに横になる。そういえば最近、ソファで寝ることが多いなぁ。


 翌朝。

 ルルルルル。

 携帯電話が鳴る。

 誰だよ、こんな朝っぱらから。と、ぼやきながら通話をオンにする。

「もしも……」

『あっ! もしもし!? 先輩、おはよーございます!』

 耳がキーンとなって、瞬時にケータイから耳を離した。

「加藤……、相変わらずうるせぇな」

『先輩、助けてください!』

「ど、どうした!?」

 相当焦っている様子の後輩の話し方に、俺は珍しく動揺した。

『それがですね、今日、愛菜ちゃんとデートする予定だったんですけど……』

 なんだ、そんな話かよ。心配して損した。

「あ? デートまで漕ぎ着けて良かったじゃねぇか。……って、お前。いつの間に手ぇ出してたんだ」

 後輩の行動力に、ある意味すごいと感じ、逆に呆れた。

「うーん……。こーせー?」

 電話の声で華世が目を覚ましたようだ。

「華世、悪い。ちょっと電話中でな」

「あ、そーなの? ちょっとさー、トイレと洗面所貸してー」

『先輩?』

「お前はちょっと黙ってろ」

 どいつもこいつも自由だな、ちくしょう。

 とりあえず、華世にトイレと洗面所の場所を教えて、再び電話に出る。ソファにどかっと腰を降ろして。

「で、俺になんの用だ?」

『あ、もしかして彼女さんとお泊りデート中でしたか? そうだったら、すいません』

「彼女でもねぇし、デートでもねぇ。だからさっさと用件を言いやがれ」

『それがですねぇ。愛菜ちゃんが、黒川先輩と三人でデートしたいって言うんですよー』

「……それは、デートって言うのか?」

『っていうかまぁ、付き合ってはないんで、僕が勝手にデートって思い込んでるだけなんですけど』

 それはそれで、その考え方がすげぇよ。

『とにかく。そうじゃないと行きたくないって言ってるんで、なんとかお願いします! 黒川先輩、僕と付き合ってください!』

「その言い方は改めろ。違う意味に聞こえて嫌だ」

『じゃあ、先輩! デートしてください!』

「同じだろうがっ!」

 後輩への突っ込みも疲れてきたので、そろそろ話を進めたい。

「そもそも、愛菜ちゃんはなんでそんなこと言ってんだ? 別にお前と二人で出かけたっていいだろ?」

『えーと……。彼女、なんだか黒川先輩のことがお気に入りのようでして。僕に対してのメールなんか、半分以上は先輩についての質問ばかりですよ。あ。後で見ますか?』

「見ねぇよ。しかも、そういうのはバラしちゃ駄目なやつだろうが」

 デリカシーにかける男だ。まぁ、俺も人のことは言えんが。

『とにかく! 今日のデートには先輩の力が必要なんです! 先輩がいないと成立しないんです! 先輩。営業のスペシャリストとして、どうか僕を助けてください!』

 スペシャリスト? そう言われると、なんだか燃えるな。

 それにしても……。加藤、必死すぎるだろ。どれだけ愛菜ちゃんのことが好きなんだ。

「俺は、ちょっと顔を出すだけでいいのか?」

『それはわかりません。彼女次第です』

 予定とか未定なのかよ。もう当日の朝だろうが。

「光星―。タオル貸してー」

「あぁ。はいはい」

 なんだこの板挟み。めんどくせぇ。

「まぁいいや。俺は俺の都合で動くから知らねぇぞ。それでもいいなら一応行ってやる」

『本当ですか!? ありがとうございます!』

「それなら、集合時間と場所をメールしてくれ。俺もすぐに出られるわけじゃないからな。愛菜ちゃんにも、俺も都合があるからゆっくりはできないけど、って伝えておいてくれ」

『はいっ!』

 プッ。

 加藤は元気よく通話を切った。慌てていたのか、自分が返事したらすぐ切りやがった。仕事でそれやったら駄目だからな。何秒か待って、相手が切ったのを確認してから切れよ。などと、後輩への忠告の言葉が浮かんできた。彼は営業として大丈夫なのだろうか?

「なに? 光星、用事?」

「あぁ。職場の後輩からのヘルプだ。女関係のな」

「後輩の狙ってる女の子、奪っちゃ駄目よ?」

「誰が奪うか」

 俺は鼻で笑って言った。華世はなんだか苦笑いをしているけれど。

「タオル、ありがと」

「ん」

 彼女はタオルを俺に渡して、帰り支度を始めた。メイクもばっちりの彼女。女性はすごいなぁと思う。化粧術の早業には舌を巻く。

「朝飯作るけど、食ってかないのか?」

「私も予定あるから。それに……」

「それに?」

 華世がテーブルに目を向けながら言った。

「作る前に、まず、片付けじゃない?」

「あ……」

 すっかり忘れていた。

「私も片付け手伝いたいところなんだけど、そろそろ向かわないと時間に間に合わなくて。ごめんね」

「いいさ。前は俺がそうだったし」

 笑って言う俺に対して、真顔な彼女。そんな彼女が口を開く。

「光星」

「ん?」

 真顔に少し緊張しながら返事をした。

「光星はさ、今、好きな人とかいないの?」

「あ? いないけど。それがどうかしたか?」

「ううん。なんでもない。聞いてみたかっただけ」

 変な奴だなぁ、と思って彼女を見ていたが、はっと我に返ったような華世は、荷物を手にして慌てて部屋を出る。

 玄関でさっと靴を履き、

「ありがと。じゃあね」

 とだけ告げて去っていった。

「気をつけて行けよー」

 焦っていた様子の彼女の後ろ姿に向かって声をかけて、玄関のドアを閉めた。

 ホント、変な様子だったなー。一体どうしたんだか。

 と、そのとき。メールの受信音が鳴った。加藤からだ。

『十時に駅前です』

 現在時刻は……、九時十五分。

間に合わねぇよ!


 ちょっとだけ片付けたり、シャワーを浴びて着替えたり。なんだかんだして出てきたら、見事に遅刻した。

「悪い! 遅れて!」

「遅いですよ、先輩!」

 お前の設定時間が早過ぎんだよ! 気合いを入れるのはいいが、俺のことも考えろ。

「あの……」

 愛菜ちゃんが話しかけてきた。

「すいません。黒川さんまで無理に付き合わせてしまって……」

「あぁ、いや。たまには外出も悪くないなって思って来ただけだからさ。気にしないで」

「そうそう。気にしないで」

 加藤、お前は気にしろ。

 それにしても、こんなに早く集合してなにをやろうっていうんだ? 何も計画を立てていなかったら、ぶっ飛ばすところだが。

「さーて、先輩。なにをしましょうかね?」

 ぶっ飛ばし決定。

「加藤。お前なぁ……」

「わーっ! ちょっ、ちょっと待ってください! 暴力反対!」

「別に殴ったりしねぇよ」

 今は、な。

「いや、だから、プランニングのスペシャリストの先輩にアドバイスをいただければなぁなんて思って、助けていただきたく……」

 こいつ。こういう言い回しだけは上手くなりやがって。仕方ない。

「愛菜ちゃんは、どこか寄ってみたいお店とかあるかい?」

「え? いえ、私は特に……」

「じゃあ、朝の散歩がてら、近くのお店を見て回ろうか」

「あ、はい」

「いいっすね!」

 ただ便乗するだけって……。調子良すぎだろ。覚えとけよ、この野郎。


 とりあえず、駅周辺の店を見て回る。

 特に、これといって興味がそそられるものは無いのだが、その辺りに関しては、加藤が賑やかしながら歩いているので妙な空気にはならずに済んでいる。この調子なら、今日一日ぐらいはなんとかなるだろう。

「先輩! クレープ屋さんがあります! 食べていきませんか?」

 そういうときは、まず女性に話を振りなさい。

「愛菜ちゃんは甘い物好き?」

 加藤の代わりに聞いてみた。

「あ、はい。甘いものは好きです」

「じゃあ食べていこうか」

 加藤には、女性に対しての配慮というか、気遣いというものは無いようだ。頑張ろうという気持ちさえも感じられない。彼に女性のエスコートは無理かもしれない。それ以前に、教え込むことに多大なる時間を要しそうだ。

「んー、僕はどうしようかなぁー。イチゴ系とか美味しそうだなー。愛菜ちゃんは何にするの?」

「私はチョコ系にしようかと」

「先輩は?」

実は俺、甘いものがそんなに好きじゃないんだよなぁ。なんて今さら言えない。

「俺はまだだから、先に注文してくれ」

 店員さんが「お決まりですか?」と声をかけてくれ、順に注文していく。

「僕はイチゴカスタードで!」

 お前……、甘党だったのか。

「私はチョコバナナクレープを」

 定番というか、無難なところだな。

「じゃあ俺はツナサラダで」

 そう言った俺に対して、加藤は驚きの視線を向けてきた。

「先輩、渋い! っていうか、オッサンっぽいっす!」

 どうせ三十路だよ。しかも、ツナサラダクレープがオッサンっぽいとか……。意外と美味いんだぞ、これ。ツナサラダが好きな全国の女性と若者に謝れ。

 含み笑いをする後輩の頬をつねって、その後に俺は三人分の会計をまとめて支払った。

「あの、黒川さん。お代……」

「あぁ、要らないよ。君には後輩が迷惑かけてるみたいだし、それでも優しく接してくれてるみたいだからね。このぐらい奢らせてくれ」

「さすが先輩!」

「安心しろ。お前には後でまとめて請求する」

「えぇっ!?」

 そんな俺と後輩のやり取りを見ていた彼女は、口を開いて笑った。やっと、緊張の解けた、自然な笑顔が見れた気がする。この馬鹿は気づいていないようだが。

「お待たせしましたー」

 店員さんの声に振り向き、各々、クレープを受け取る。

 近くにベンチがあったので、そこに腰を降ろしてクレープを食べ始めた。

「美味しいっすねー。僕、久しぶりにクレープ食べましたよ」

「私も、久しぶり、です」

 またもや緊張してしまっている様子の愛菜ちゃんだが、恥ずかしがりながらも頑張って声を振り絞っていた。

「愛菜ちゃんは、あんまり外に出かけないのかい?」

「は、はい。私、外に出るのは得意じゃなくて……。人目が気になるというか、人混みが苦手というか……」

「えぇー! もったいない! 愛菜ちゃん可愛いからもっと人目に晒すべきだよー」

 晒す、という言い方はどうなのか。でも確かに、もっと外に出ればいろんな出会いと巡り会えそうなのに。

 綺麗な長い黒髪をなびかせ、薄化粧をした彼女は、もう少し積極的になれば加藤みたいな奴以外の、若い男の目にも留まるだろうに。今日は休みだから、髪も結んでいないし、ヒラヒラした可愛い服装で、前回飲み会で会ったときとは違って、とても綺麗だなぁなんて思った。

「たまには外に出るのもいいと思うよ? いろんな出会いもあるし、新しい発見もあるだろうしさ。今日だって、こんなに良い天気で、クレープも美味しく食べれて……、なかなか良いものじゃない?」

「そうですね。今日は、黒川さんも来てくれて、楽しいです」

「それはなによりだ」

 俯いて、恥ずかしそうにクレープを口にしている彼女の隣で、加藤が無言のアピールをしていた。「僕は? 僕が一緒っていうのは?」とでも聞きたげに。

 俺と加藤が食べ終えても、彼女はまだクレープを食べていた。彼女が食べ終えるまで雑談をし(と言っても、加藤に対する説教がメインになってしまったが)、その後は三人で、この後はなにをするかを話し合った。

「腹ごなしに動きたいっすねー」

「そうだな。この辺りだと、ダーツバーとかビリヤード場、カラオケ……、ちょっと離れたところならボーリング場とかもあるけど。愛菜ちゃんはやりたいものってあるかい?」

「私、音痴なので、カラオケ以外ならなんでも……。と言っても、運動神経が良いわけでもないので、なにも上手くできないんですけど……」

「心配はいらないよ! 僕が教えてあげるから!」

 お前も言うほど上手くないだろ、と突っ込みそうになったが我慢した。

「体を動かすやつじゃなければどうだい?」

「た、たとえば?」

 俺の質問に警戒しつつ反応する。別に、取って食おうってわけじゃないんだから、そんなに怯えなくても。

「例えば、カジノゲームみたいのとかパチスロ、麻雀……とか?」

「先輩……。考え方がオッサンです」

 後輩に幻滅した顔をされつつ、肩に手を置かれた。……確かに、二十歳の女の子に勧める遊びではなかった、と反省。

 他にも考えを巡らせていたそのとき、彼女が口を開いた。

「あの、私……、麻雀ならできます」

「えっ?」

「うそっ!?」

「お父さんに教えてもらったり、ケータイのアプリで麻雀のゲームをやってたりするので。……それなりには、わかります」

「愛菜ちゃん、すげーな!」

「で、でも、君はいいのかい?」

「はい、構いません」

「あれ? 先輩。でも、三人じゃあ……」

「もう一人は誰か借りることにしよう。とりあえず行ってみるか」

 このメンツで雀荘に行くことになろうとは、予想だにしていなかった。


「こんちわー」

「いらっしゃ……、なんだ、黒ちゃんか」

「なんだ、とはとんだご挨拶ですね。一応、お客さんですよ?」

 マスターに笑って話しかけた。ここは俺がよく訪れる雀荘なので、マスターとは顔馴染みである。

「ははっ! 悪い悪い! おや? 珍しい組み合わせで来たもんだねぇ」

「後輩です。マスター、お客さんもいないようですし、一緒に打ってもらえませんか? 一人足りなくて」

「あぁ、いいよ。一局だけならね」

「一局で十分です」

 後から入ってきた二人は雀荘が初めてなのか、すごく緊張した様子だ。

「おい、加藤。早く席に着けよ」

「は、はい……」

 さっきまでの勢いはどこへやら。彼は、慣れるとナメ切った態度を取るが、初めてのときはカチコチになってしまう性質を持っている。入社当時がこんな感じだったなぁと、思い出し笑いをしてしまった。

「黒ちゃん、どうしたんだい?」

「いえ、なんでもないです」

 笑いを堪えながら、牌をジャラジャラと交ぜて組み立てる。

 さぁ、どんなことになるのかね。


「マジかよ……」

「意外だったな」

 それなりにわかる、というレベルではなかったように思う。まぁ一局だけだったから、運が良かったのか、それとも実力だったのかは判断しかねるが。

 愛菜ちゃんと俺の激戦だった。

 マスターは力を抜いてテキトーにやってくれて、加藤は本気で頭を抱えていて。それなりに面白かった。

「愛菜ちゃん! 今度、僕に教えて!」

「い、いいですけど……」

 相手が驚くから、その勢いで相手に突っかかるのはやめろ、と度々注意したくなる。

「君は、他のテーブルゲームも強いのかい?」

「強いかどうかはわかりませんが……、でも、大体はわかります。オセロとか将棋、囲碁。それにトランプ系で言えば、ソリティアとかフリーセルにクロンダイク……」

「へぇー。すごいね」

「……そこまでは僕にはわからないや」

「基本的に私は一人でプレーするのが好きなので、主にコンピューター相手でやってるんですけど。……あ! すいません」

 なぜか申し訳なさそうに話す彼女に質問をした。

「なんで謝るんだい?」

「あっ、あの。私、しゃべりすぎたかなって……」

「いやいや、しゃべり過ぎなんてことはないよ。むしろ、もっと話してほしいぐらいだし。加藤までとはいかなくとも、もう少しおしゃべりな感じでもいいと思うな」

「僕、そんなにしゃべってます?」

「あぁ。お前はしゃべり過ぎだ」

 加藤がちょっと凹んだ。少し静かになる。このぐらいで丁度いいと思うんだがなぁ。

「黒川さん、ありがとうございます」

 彼女は俺の方を向いて、眩しいぐらいの笑顔でお礼を言う。その可愛らしさにドキッとした。

「別に……、お礼をされるようなことは言ってないよ」

「いえいえ。やっぱり黒川さんは私の……」

『私の?』

 俺と加藤の声が揃った。

「……私の、尊敬する、お兄ちゃんみたい、です」

「あ、ありがとう」


 林愛菜。

 どうもわからない、読めない女の子だ。いや、今まで俺は、女心というものを読めた試しは無いんだけども。まぁ、悪い子ではない。妹のように可愛らしい女の子である。まぁ、実際には俺に妹なんていないんだけどな。

 そんな妹のような女の子から告白されるなんて思ってもいなかった。

「黒川さん。私と付き合ってください」

 駅まで送る途中だった。

 加藤は、別の呼び出しをくらって、残念そうに一足先に去って行った。そして、その後のことである。

 三人で昼食を済ませた後、「これからなにをしようか」などと話し合っていたのだが、彼が抜けることによって雰囲気も微妙になってしまい、「今日のところは解散にしようか」と、俺が切り出したのだ。

 そしてその後。この状況。さて、どうしたものか。

 どうやって断ろう。

 すでに、断ることを前提に頭が働いていた。

「ありがとう。気持ちは嬉しいんだけど、ごめん。君のことは、可愛い子だなぁと思っていたけど、付き合うとか、そういう対象としては見てあげることができない、というか……」

 断るのもひと苦労だ。なかなか上手く言葉が出てこない。

「私が、営業先の人間だから、ですか?」

「いや、そういうわけではないんだけれど。俺、あんまり恋愛に対して考えることとかなくてさ」

「じゃあ、好きな人がいないなら、試しに私と付き合ってみては……?」

「試しだなんて、とんでもない! 君はちゃんと君を好いてくれる人と付き合うべきだ。もっと自分を大切に考えてくれ」

「黒川さんは、女性を大切にしてくれそうですが……」

 意外にしぶとい……、というか積極的な子だということに驚いている。

「友達だろうが恋人だろうが、人を大切にしてあげることは心がけているけど、今の自分としては自分自身の人生を堪能したい年頃というか……」

 束縛されたくないから? まだ遊びたいから? 本当は好きな人がいるから?

 自分で自分の気持ちがわからなくなってきてしまっていた。

「とにかく、本当にごめん。君の気持には応えてあげられそうにないんだ」

「そう……ですか」

「せっかく勇気を振り絞ってくれたのに……、申し訳ない。今後とも普通に接してもらえたら幸い、というか……」

「それは、もちろんです。公私は混同しませんから」

 とは言っているが、目は潤んでいて、今にも泣き出しそうな表情である。それをなんとか堪えつつ、彼女は口を開いた。

「今日は楽しかったです。ありがとうございました。それでは、失礼します」

 愛菜ちゃんは、ぺこっとお辞儀をして、頑張って作ったであろう笑顔を見せて去って行った。早歩きで去って行く彼女を目で追うが、すぐに人混みに紛れて見えなくなった。

 彼女の姿が見えなくなっても、ぼーっと立ち尽くしていた。

 ……が、ハッと我に返り、ケータイを手に取る。

「もしもし?」

『おー、良久。久しぶり』

 俺は自然と良久に電話をかけていた。話しながら、近くのベンチに腰を降ろす。

『どうした? 遊び人のお前が俺に電話かけてくるなんて。なんかあったのか?』

「遊び人って言わないでくれ。今その言い方をされると、非常に傷つく……」

『どっ、どうした!?』

 愛菜ちゃんに告白されたことは告げなかったが、俺は一つ、良久に質問をした。

「あのさ。〝好き〟ってなんだ?」

『なんだよ、その思春期の男子みたいな質問は』

 電話越しでもわかる。彼は苦笑いを浮かべている。

答えにくい質問だったな。質問を変えよう。

「良久は、なんで彼女と結婚しようと思ったんだ?」

『ん? やっぱり、ずっと一緒にいたいって思ったし、一緒にいて落ち着いて自然体でいれるし』

「それだけ?」

『それだけで十分なんだよ、俺にはな。そういえば、光星は今、好きな子とかいねぇのか? 最近そういう話、聞かねぇしよ』

「好きな子、というか……、まず〝好き〟っていう感情がよくわからん」

 昔は女の子を好きになって、告白して、フラれたり、付き合ったり。いろんな経験をしてきたけれど、三十路手前となった今の俺は、仕事のことやみんなと騒ぐことぐらいしか考えていない。だから、誰かと付き合いたいなどと考えることもほとんど無くなっていた。故に、結婚なんて考えなどへは到底及ばない。

『じゃあさ、せめて、最近この子のことを思い浮かべることが多いなぁ、なんて相手はいないのか?』

「強いて言うとするなら……、華世ぐらいなもんかな」

『そしたら……、赤地さんと付き合ってみれば?』

「は? なんでそうなんの?」

『今の光星の場合、男も女も関係無く、みんなを〝友達〟として見てるだろ? だから昔のことは忘れて、もう一度、誰かを恋愛対象として見る訓練をしたほうがいいんじゃないかなって』

「だからって、華世は無いわ。それにしても、みんなして試すとか訓練とか……」

 俺のことをなんだと思ってんだ? というか、そんなに情けない男に思われているということに情けなさを感じて、思わず溜息が出た。

『光星? どうした?』

「あ、いや。なんでもない。悪いな、急に変なこと聞いて」

『お前の変な話は今に始まったことじゃないから気にしてねぇよ。安心しな』

 それは俺のことを馬鹿にしてるだろ。でもまぁ、良久が言うと安心するのも確かだ。

『あっ、そうだ。うちの嫁、三ヵ月後に出産予定なんだよ』

「マジで!?」

『おう。また近況報告するわ』

「あぁ! 連絡まってるから! 今日は急に悪かったな。それじゃ」

『はいよ。じゃ、またな』

 良久との通話を切り、思いに耽る。

 そうか。あいつにもいよいよ第一子が……。

 嬉しいような寂しいような。

 そんな気持ちを抱えて顔を上げると……。そこには華世が突っ立っていた。

「かっ、華世!?」

「光星、朝振りね」

「お前っ! いつからそこに……」

「一旦は通り過ぎたんだけどね。女の子とお取込み中みたいだったから」

「うっ……」

 見られてたのか。

「その後しばらく経ってから気になって電話したんだけど、電話中みたいだったから戻ってきちゃったの。直に確かめた方が早いかなぁと思って」

「そうだったのか。電話、良久とだったんだけどさ」

「白池君?」

「そう。あいつの嫁、三か月後に出産予定なんだってさ」

「えっ!? そうなの!? 良かったね!」

「ホント、順調そうでなによりだよ」

「あっ、順調と言えば!」

 華世がなにかを思い出したようで、大きな声で言った。

「沙世も順調なんだよ!」

「水島が? 順調、とは?」

「それがね、この間の合コンで〝気になる〟って言ってた彼と付き合い始めたらしくて。それがもー、ラブラブなんだってさ。〝黒川君に感謝しなきゃね〟って言ってたよ」

「俺に、感謝ねぇ……」

「どうしたの? 浮かない顔して。もっと喜びなさいよ。心配してた沙世が順調だって言ってるんだからさ」

 俺は、感謝されるような、感謝されていいような人間なのだろうか?

「水島のことは嬉しいさ。みんなが幸せになっていくのを見ると幸せだけど……」

「だけど?」

「……ん、いや。悪い、なんでもない」

「光星らしくないわねぇ。元気が取り柄のあんたはどこへ行ったの?」

「……今日は、ちょっと具合が良くないみたいでな」

「そうなの? ……っていうか、ごめん。あの、さ……。光星と一緒にいた女の子が、泣いて帰ってくとこも目撃しちゃったんだ。なにがあったのか、教えてほしいなぁ、なんて思って」

 彼女は視線を逸らしながらも聞く。

「あぁ。そこまで見てたのか。というか、華世も用事があるんじゃなかったのか?」

「私は用事が終わって帰るところよ。……まぁ、無理に言わなくてもいいんだけれど。もし良ければ、なにがあったのか教えてくれない?」

「なにが、って……。別に、告られただけ」

「こっ……、告白されたの? それで……どうしたの?」

 愛菜ちゃんに告白されて、付き合ってほしいと言われて、それを断った。そして、彼女は泣いて帰った。

 みんなの幸せを願っている俺が、誰かを傷つけた。それが、悲しくて、切なくて、悔しかった。だけどきっと、彼女のほうがもっと悲しかっただろう。

 そんなことを思いながらも、華世には「付き合ってほしいって言われたけど、断った」とだけ告げた。

「あんなに可愛い子を振るなんて、光星の頭って、どうなってんの?」

 真顔で言うなよ。

「俺が聞きたい。だから良久に電話で相談してたんだよ」

「相談?」

「あぁ。〝好き〟ってなんだ? ってな」

 華世の顔が引きつった。

 笑いたいのを我慢しているのか? 笑えばいいじゃねぇか。くそぅ。

「こ、光星……。あんた、ちょっと真面目すぎじゃない?」

「真面目? 俺が?」

 そんなこと、滅多に言われたことは無い。むしろ、「軽い」とか「チャラい」とか言われるぐらいだ。

「白池君と結局どんな話になったのかは知らないけど、光星はもっと馬鹿になってもいいんじゃない? 女の子に対しても、〝コイツは俺のお気に入りなんだ!〟とか〝俺から離れないでくれー〟とか、ワガママになってもいい気がする」

 我儘、ねぇ……。でも、依存し過ぎじゃねぇか?

「それだと相手の負担になるだろ?」

「それ! そういうとこが考え過ぎなのよ! 相手のこと、周りのことより自分のことを考えなきゃ。優しいのはいいけど、あんたの考えはあんたのもので、誰ものでもないんだから。違う?」

「そりゃそうかもしれないけど……、それだと自己中っていうか、空気読めない奴っていうか……」

「ま、別にあんたが必要としてないんなら、無理に彼女とか作る必要は無いと思うけど。世間体の気にし過ぎも体に良くないんじゃない?」

 華世は笑いながら言った。俺を励ますために、わざわざ笑顔を作ってくれたのだろうか。

世間体、かぁ。あんまり考えたことは無かったけど、無意識のうちに周りの目を気にしてたのかもな。

「華世は……」

「なに?」

「お前には、好きな奴とかいないのか?」

「好き、というか、気になる人ならいるわよ」

「いるのかよ。ちなみに、誰?」

「光星」

「ん?」

「あんたよ」


 頭がグルグルしっ放しだ。真っ白どころかぐちゃぐちゃだ。混沌の世界が俺の脳内に広がっていく。

「黒川先輩!」

 加藤の大きな声が俺の意識を現実に引き戻した。

「またお前か。なんだよ?」

「なんで、愛菜ちゃんのこと、振ったんですか?」

 仕事場なので、呼びかけ以外は小さな声で言う加藤だった。

「別に、嫌いじゃないけど、好きでもないからな」

「なんなんですかそれは。でも、僕としてはラッキーです」

「は?」

 自身の拳をお腹の辺りで握りしめた彼は、気づいていないのか、声が徐々に大きくなっていっている。

「まだ僕にも可能性があるからです。彼女のことを思って動く僕! まだまだ僕の必要性が――」

「加藤! うるさいぞ!」

「すっ、すいません!」

 周りの人達はクスクス笑い、所長に怒られた加藤はしょんぼりと自分のデスクへと戻っていった。

 溜息を吐いた所長は、続けて話をする。

「あー。ついでに皆に話がある!」

 加藤のついででいい話なんだ。

「大変言い辛いことなんだが……。この営業所は……、無くなることになった」

 ……え?

 それ、加藤のついでに話しちゃ駄目なやつじゃない?

 周りも騒然とする。それはそうだ。今の今まで、そんな話は一度も耳にしたことは無いんだから。

「詳しいことはまた後日、話をするが……。あと一、二ヵ月後ぐらいには、ここでの仕事は終わりになると思う。その後のことは……、大変申し訳ないのだが、各々に任せたいと思っている。本当にすまない」

 所長は、深々と頭を下げた。

 いやいや。頭を下げられても……。そんなの、ありかよ。

「新たな業種を探すでも、ツテを使うでも、なんとか就業先を見つけてもらえれば、と思っている。また、まとめの作業の方も皆で協力してやっていってもらいたい。わからないことがあったら私の方まで聞きに来てくれ。残りの期間、よろしく頼む。以上だ」

 ……以上だ。じゃねぇよ。

最悪だ。

 せっかく仕事の方も慣れて、楽しくやれるようになってきたというところなのに。仕事も私生活も充実してたのに。

 これでまた振り出しに戻る? ありえない。考えられない。

 この、およそ八年をどうしてくれる? いや、ずっと営業として頑張ってきたんだ。どこか拾ってくれるところはあるはず。

 仕事をしながら就職活動とか。もう、なにがなんだか。


 残念ながら、華世のことについては後回しになってしまいそうだ。だがしかし、「気になる」と言われただけで、はっきりと「好き」だとか「付き合ってほしい」などと言われたわけでもないので、返事のしようも無いのだけれど。仕事が順調にいっていれば、彼女のことを考える時間もできたかもしれないが、今はそんなことは言ってられない。自分の身も守れないまま周囲のことを考えようなんて。これでも俺は、身の程をわきまえているつもりだ。

 とりあえずは、転職先を探さなければ。アパートの家賃なり生活費もかかるのだ。無職というわけにはいかない。そのため、仕事の合間を縫って仕事探しをする。インターネットで検索したり、お店に置いてある求人誌を見てみたり。求人誌の収集家か、と思える勢いで、片っ端らから集めて回った。できれば営業職をやりたいところだけど、四の五の言ってられない。業種、職種を問わず、勤務地がさほど遠くない場所にある会社で、俺でもできそうな仕事を探している。なにせ、これといった資格も持っていないのだ。仕事を選べる立場でもない。

 そう考えて、行動して、やっと決まったのが工場の仕事だった。機器の検査、組み立てという業務内容で、自分にとっては経験したことの無い未知の領域。まぁ、慣れればなんとかなるだろうと思って応募し、転職先はそこに決まった。他にも何件か応募してはいたが、不採用が続く中、一番最初に連絡が来たのがこの会社だったので、「採用したい」と聞いたときには間髪入れずに「こちらこそ、よろしくお願いします!」返事をしていた。他に応募したところだって、採用の連絡がくるのかもわからないのだから。藁にもすがる思いとはまさにこのことか、と痛感した出来事である。まだ連絡が返って来ない応募先の会社へは辞退の連絡を申し入れた。

現在の状況も面接時に伝えた上での採用決定で、勤務(研修)開始の期日も調整してもらい、現在の仕事が終わればすぐに始まることになっている。これで少しはホッとした。あとは現在の仕事を全うするだけである。新たな職場に不安が無いわけではないが、今は目の前のことをしっかりこなすことに集中だ。


 まとめもなんだかんだで終え、所長の宣言通り、二か月後には仕事納めとなった。予定通りではあるけれど、本当に、自分の勤めていた営業所が無くなるというのは、なんとも心虚しいような気持ちである。涙を流したわけではないが、この約八年間を共に過ごした仲間達とは悲しみを分かち合った。最終日の夜には、この営業所の皆での飲み会が執り行われた。苦楽を共にした仲間。所長を始め、先輩に後輩。皆が思いの丈をぶつけ合い、語り合う日は今日で最後なのだ。そう思うと、目が潤んでしまったような気がしなくもなかったが、加藤の涙とお馬鹿な言動に気を取られ、不覚にも笑いをこぼしてしまっていた。

 俺は早速、明日から工場勤務となるのだが、他の皆がどうするかは知らない。互いが気を遣っているのだろう。まだ、この先どうするか決まっていない人もいるかもしれない、などと思って。少なくとも俺はそう思う。だから、自分の今後についても誰にも話していない。あの加藤でさえ気を遣っているのか、今後については語っていない。それを考えると、「あいつも大人になったものだな」などと、さながら子どもを見守る親のような気持ちに浸っていた。

 楽しい時は、あっという間に過ぎる。飲み会もお開きとなり、各自、各々の家路に着く。

 俺は夜道を一人歩く。想いを巡らせながら。

 よくよく考えれば、社会人になってこれまでも、あっという間だったように思う。なんだかんだで、この仕事を楽しんでやっていたんだなぁ。周りに支えられ、関係を築き、当たり前のように過ごしてきた日々。そんな生活を過ごせてこれたのは、もちろん自身の努力もあるだろうが、周囲の方々様々である。

 この感謝の気持ちを忘れずに、次へ進もう。




 新たな道。緊張と不安。

 こんな気持ちは、ここ最近では感じることはなかった気がする。

 だが、そんな緊張感も数日経てば薄れていった。

 工場特有の単調な作業。覚えてしまえばなんてことはない、モノ相手の作業。黙々とこなす。黙々と……。

 しかしながら、管理職ならまだしも、一従業員としての仕事は、独立性のない、個性を出すことのできない、俺にとっては面白味に欠ける仕事だった。他の従業員とも特に話をすること無く(休憩時間には少しぐらい話をするが)、只々、手を動かすだけの、ストレスが溜まる仕事。そんなふうに感じ取ってしまう俺は、人と関わることが好きな、話好きな人間であるということを改めて実感させられた。……と、そんなことを思ったところで、どうしようもないのだけれど。なにせ、生活に必要なお金を稼ぐためだ。仕事をもらえただけでもありがたいと思わないと。

 ……ただ今の俺には、鬱憤を晴らすための犠牲が必要だ。


「もう無理だわ……」

「まぁまぁ」

 その〝犠牲〟に選ばれたのが、良久である。

「だってさぁ、誰とも会話のキャッチボールが楽しめねぇしさぁ」

 ジョッキの取っ手を持ち、ビールを一気に飲み干す。

「店員さーん! ビールおかわりー!」

「光星……。お前、思ってた以上にストレス溜まってたんだな……」

「そりゃそうよ! 話し相手もいないし、仕事っていったって、ずっと同じ作業で飽きてくるし……。俺には合わないと思うんだよなぁ、こういう仕事。ああいう作業を平気で続けられる人を尊敬するね、俺は」

「そりゃまぁ、皆が皆、お前みたいなタイプじゃないからな」

 良久は苦笑いを浮かべていった。

「俺のくだらない愚痴を親身になって聞いてくれるなんて、お前ぐらいだぜ」

 泣きそうになりながら俺は言う。

 たまの息抜きといえば、こうやって誰かと飲みに出掛けることぐらいになっていた。

 以前のように、何かを計画して実行するような気力は、今の俺には残されていない。「皆でなにかを楽しみたい」という気持ちが沸いてこないのだ。それほどまでに、工場での仕事は俺の精神力を擦り減らしているのである。

「なんか楽しいこと無いかなぁ……」

「光星のそんな姿、初めて見た気がする」

「そうかぁ? 俺だって、疲れ果てたときはあったと思うけど?」

「まぁそうなんだけど。でも、それ以上に人生を謳歌してたというか。辛いことがあっても楽しそうに過ごしてたじゃん」

「楽しそうに、ねぇ……」

 店員さんがビールを持ってきて、それを「どうもー」と言って受け取った。

「良久は今、楽しいか?」

「俺はまぁ、これから産まれてくる子どものことを考えたら楽しみ、っていうか……。心配事もあるし、大変になるとは思うけど、今は充実してる感じはあるかな。家族のためって思えば」

「そっか。もう産まれてくるんだもんな。そんな大変なときに悪いな。わざわざ出てきてもらっちゃって」

「いいさ。嫁にも光星の話したら心配してたし。〝親友の一大事なんでしょ? 行ってきなさいよ〟だってさ」

 なんて優しい嫁なんだろう。俺とは一、二回しか会ったことがないはずなのに。多分、良久から嫌というほど俺の話を聞かされていたんだろう。色々と申し訳ない。

 それに比べて、華世なんて、あれっきり連絡してこないし。

「俺にも互いに想い合える人がいれば、お前らにも迷惑かけなくて済んだのかもな」

「あれ? 赤地さんとはどうなったんだよ。なんか、告白っぽいこと言われたんだろ?」

「それが……。あれ以来、連絡取ってなくてな。俺もバタバタしてたし、あっちからも特に連絡は来ないし」

 その話を聞いた良久は、俺に囁いた。

「今、赤地さんにメールしてみろよ」

「いっ、いま!?」

「別にいいだろ? 〝元気してるか?〟ぐらいのこと聞いてみるだけなら」

「うーん……」

 俺は渋々ケータイを取り出して、華世へのメールを作成する。

『最近、良いことあったか?』

 送信。

 すると、すぐにメールが返ってきた。

「おっ。なんだって?」

 良久もケータイを覗き込んできた。一緒に本文を確認すると、そこには残酷な一行が。

『彼氏ができました♪』

「……」

 彼氏ができたのか。あんな奴にも。

 あんな奴、と皮肉っぽく思ってしまったが、要は、あいつは俺のことが今でも好きでいてくれると、心のどこかで思っていたからに他ならない。つまり、俺は華世のことが好きだったのだ。しばらくの間、顔を会わせることも無く、連絡を取ることも無かったが、それでも華世のことを想っていた。

 あぁ。なんだか今になってやっと、水島の気持ちがわかるような気がする。

「……光星、諦めるな。もしかしたら、すぐ別れるかもしれないだろ?」

 彼は俺の肩をポンポンと叩きながら、希望の光となるような言葉をかけてくれたが、俺はその意見には反対した。

「そんな、誰かの幸せが引き裂かれることを願ったりなんてしたくない。華世はきっと幸せになっていってほしい」

 そんな言葉を吐きながら、心中は穏やかでない自分に嫌気が差した。そしてまた、自分を否定する自分に対しても腹が立ち、無意識のうちに心中を吐露していた。

「俺は、なんてタイミングの悪い人間なんだ……。いや、悪いのは俺という人間じゃない。きっと、世の中が間違っているんだ!」

「こっ、光星!? おい、しっかりしろ!」

 良久が俺の肩を掴んで強く揺さぶる。

 はっ! っと正気に戻ったときには、若干、周囲の視線を集めていたことに気がついた。しきりがあるとはいえ、通路向かいの人達や料理を運んでいる店員さんからは丸見えである。恥ずかしさと同時に、良久に対する申し訳なさを胸いっぱいに感じていた。

「すまん……。取り乱した」

「乱しすぎだ」

 情けなくなる俺と、苦笑いを浮かべる良久。

 華世のことは残念だが、それでも俺は幸せだ。こうやって、色々と話を聞いてくれる親友がいるのだから。

平静を装って、まずは華世にメールを返した。『よかったな。お幸せに』と。

 ルルルルル。

 メールを送信した直後に俺のケータイが鳴り、一瞬、華世からの電話かと思って焦った。液晶画面を見て確認すると、電話をかけてきたのは加藤だった。なにかの因果関係があるのか、と勘繰ってしまうが、華世と関わりがある日に限って加藤とも関わることになることが多いように思う。まぁそれはさておき、電話に出てやるか。

「良久、悪いな。ちょっと電話に出るぞ」

「おう」

 通話をオンにして電話に出る。

「もしもし?」

 話しながら、一旦、店の外に出た。店の中では聞き取り辛い。

『あっ! 黒川先輩! お久しぶりです!』

「加藤、悪いけど今、友達といるんでな。用件を簡単に伝えてくれるか?」

『そうでしたか。すいません。なんか、今の僕の勤務先の所長がですね、営業をやってくれる人が欲しいって言ってて、黒川先輩は今どうしてるのかなぁ、なんて思いまして……って、ちょっ!?』

「おい、加藤! どうした!?」

 周囲の話声やら雑音やらが聞こえ、音が少し静かになったと思ったら、

『あー。もしもし?』

 と、加藤の軽い調子の声ではなく、低音で、どすの利いた男性の声が聞こえてきた。加藤のケータイが奪い取られたようだ。

「は、はい?」

『黒川君、と言ったか。大体の話は加藤から聞いている。ちょっと、今から会って話はできないか?』

 営業が欲しい、って言ってたな。俺を雇ってくれるとでも言うのか?

 なんの話をしたいのか興味が湧いた。

「……今、どちらにいらっしゃるんですか?」

『居酒屋〝語辺〟だ』

 なるほど。どおりで騒がしさの中から声が聞こえてくるような感じだったわけだ。会社で飲み会でも催されているのだろう。それにしても〝語辺〟とは。これまた皮肉な話だ。俺と華世が同級会で再会した場所。そしてさっき、その彼女に実質的に振られたわけだが。そんな思い出の場所に呼び出されるとは。

「わかりました。今からそちらへ向かいます」

『よろしく頼む。では後ほど』

 プッ。

 通話が切れ、俺は店の中へ戻って、腰を降ろさずに良久に話しかけた。

「悪い、良久。急用ができた。この続きはまた今度ってことで」

「あぁ。そのときには子どもも産まれてるだろうし、ぜひ顔を見せてやりたいね」

「ぜひ拝みたいね」

 互いに笑い合って、拳を突き合わせた。俺は飲み代を良久に渡し、「本当にすまない」と付け加えて一足先に店を出る。

 これから一体どんな展開が待ち受けているのだろう。不安と、不思議と高揚感に包まれながら、足を踏み出す。

 ここから〝語辺〟へは徒歩で十分程。それほど遠いわけではないが、歩みのペースを上げて向かった。


「あぁー。せんぱーい。遅かったじゃないですかぁ」

「急に呼び出しておいて、その言い方はなんだ」

 少しムッとしたが、その感情はすぐに呆れに変わった。べろんべろんに酔っぱらった加藤を見て、もはやかける言葉は無いだろうと悟る。彼はさておき、他の人に声をかけた。

「すみません。黒川と申しますが、所長はどちらにおられますか?」

「あっ、はい。あのー! しょちょー!」

 彼は座敷の奥の方を向いて、大きな声で呼んだ。

 奥にいた、体格の良い男性がこちらに気づき、

「おぉ! こっちだこっち!」

 と、機嫌良さそうに手招きして俺を呼んだ。あの人が所長か。

「失礼します」

 靴を脱いで、小上がりの座敷へと上がる。

 奥へと向かう途中、加藤が絡んできた。

「あちらにおられます方がぁ~、我らがしょちょー、ハヤシしょちょーでございまぁすぅ」

 絡みつく加藤を引き摺って(そのまま引き摺り落として)、奥の所長の元へと進んだ。

 所長を前にし、俺は膝をついて一礼した。

「改めまして、黒川と申します。加藤がお世話になっております」

「所長の林だ。まぁそんなに固くならずに、くつろいでくれ」

「では、失礼致します」

 言って、俺は足を崩した。

「この度は、大変だったようだねぇ。加藤君から色々聞いたよ」

「えぇ、まぁ……」

 苦笑いを浮かべる俺に、所長はグラスを手渡してきた。

「まぁ、とりあえず一杯」

「あ、はい」

 渡されたグラスを手に取り、傾けて差し出す。

 注ぎ終えたグラスいっぱいのビールを、俺は一気に飲み干した。

「おっ。いい飲みっぷりだねぇ」

「ありがとうございます」

 今度は俺が瓶を手にし、所長がグラスにビールを注いだ。所長は二口ほど口にして、グラスをテーブルの上に置く。

「黒川君、すまないね。急に呼び出してしまって」

「いえ。ところで、その……、お話というのは?」

「加藤君も少し話をしていたみたいだが、うちの営業所に営業として働いてくれる人が欲しくてね。彼にそのことを話していたとき、ちょうど君の話が出たんだよ」

 ……あいつ、変なこと言ってねぇだろうな。

「彼は、君のことを尊敬する営業マンだと言っていたよ。あまりに熱く語るものだから、ぜひとも実際に会って話をしてみたいと思ったんだ」

「はぁ」

 その後も所長が俺のことを話していたが、加藤にだいぶ、良いように盛られている感じはあった。あいつらしい語らいだと呆れたが、まぁそんなに悪い気もしない。ただ、かなりハードルが上がっているようにも思う。高く見積もり過ぎだろう。俺は実際、そんなに出来る男というわけでもない。加藤よりは出来ると自負してはいるが……、そんなことを自負しても仕方ないし。まったく、自慢話を披露するなら自分のことだけにしてほしいものだ。

「彼も悪い奴じゃあないんだが……、先輩としてこいつの面倒を見るのは大変だったんじゃないかい?」

「それはもう」

「ははっ。だろうねぇ。ひと月も経たないうちに加藤という男の性格が掴めたよ。わかりやすいというか、単純というか……。良く言えば可愛らしい」

 二人で苦笑いを浮かべる。

「しかし、こいつも今じゃあ頼りになる所員の一人だ。その所員が言う〝尊敬する先輩〟が君というのは……、期待以上だよ」

 俺は首を傾げた。期待以上? 加藤の話でいう期待値とは、一体どのあたりだったのだろうか。

「黒川君。君……、うちで営業として働かないか?」

 そうはっきりと、急に言われると、ありがたい話ではあるのだが、なんとなく戸惑う。

「えっと、あの……」

「いや、悪かった。事業内容をちゃんと説明していなかったね」

 所長が言うには、機械製品の動作確認や搬入、搬出の立ち会いから、新製品の宣伝、既存の取引先との対応、新規の顧客との関係の確立などなど……、多様に亘る仕事だそうだ。以前勤めていた会社の営業と比べてやることは増えそうだが、似たような感じでもある。営業所の場所も、俺のアパートからわりと近いところにあるため通勤も楽にできそうだ。

 営業がやりたいと思っていた俺には嬉しいお誘いだ。ただ……、手放しでは喜べず、少し不安にもなった。転職先を探すにあたって苦労を重ね、やっとの思いで今の仕事を得たわけだが、本当にやりたいと思っていた職種をこんなにも身近なところで簡単に掴むことができていいものなのか、と。しかし、(一応は)可愛がって信頼関係を築いてきた後輩から出た錆……もとい、話だ。彼を信頼して乗ってみるのも手かもしれない。

「願ってもないお話、ありがとうございます。ただ……」

「ただ?」

「私は今、ある工場に勤務しておりまして、その会社を辞めるにあたっては一ヵ月以上前の申告が必要となります。ですので、仮にこの話を受けたとしても、こちらでの勤務を始めるには一ヵ月以上先となってしまいますが……」

「あぁ。そんなことか」

 所長は鼻で笑って言った。

「そ、そんなこと、ですか?」

「あぁ。黒川君のような人材が来てくれるというのなら、二ヵ月でも三ヵ月でも待とう」

「え、あの……。私はそんなに優秀な人材ではないと思うのですが……。どうして、そこまで?」

「なんとなくだ!」

 はっはっは! と豪快に笑う所長は、とても機嫌が良さそうだ。がっしりとした体を揺らして笑う。それから、にぃ、と笑みを浮かべたのだが、所長が笑顔を作ると、ほどよく焼けた黒い肌から合間見える白い歯とは裏腹に、清い感じからは若干遠ざかるような、なにかを企んでいるかのようなどす黒い笑みに見えなくもなかった。

 乗ってみる(この人の下に就く)のは、有り……か?

「強いて言うなら雰囲気だな。俺は、自分で言うのもなんだが、見る目はある方だと思っている。表情や話し方、動作……。実際に見て、君なら大丈夫だと踏んだ。それだけだ」

 所長の笑みは変わらない。そして、なんというか……。自信に満ち溢れている。こんな人の下で働いてみるのもいいかもしれない、と思って俺は口を開いた。

「それでは、このお誘い、お受けしてもよろしいでしょうか?」

「おぉ! その気になってくれたか!」

 もちろんだ! と言って所長は嬉しそうに笑った。

 俺はまだ、心から喜べないでいる。なにせ、転職先に勤め始めてから二ヵ月も経たないうちに辞めるというのだから。今の勤務先に対しては本当に申し訳なく思うし、自分のことを情けなくも思う。

 だが、これは自分のやりたいことのためだ。そう言い聞かせて、引き摺り落とされそうな気持ちを無理やり前面に押し出した。ここは曲げない! 譲らない! 俺は情けなくなんかない。むしろ勇者だ。と自分に暗示をかけた。

「では、この話は追って連絡しよう。今日は皆と一緒に飲んでいってくれ」

「はい、ありがとうございます」

 姿勢を正し、所長に深々と頭を下げていたそのとき。後ろから誰かが抱きついてきた。……もちろん、加藤だった。

「また黒川先輩と働けるなんてぇ~。僕ぅ、嬉しいですぅ~」

 泣きそうなのか眠そうなのか、よくわからない表情をしている加藤を前に、俺は言った。

「あ。ここに勤めることになるなら、今後は〝加藤先輩〟と呼ばなくちゃいけませんね」

「へっ?」

 間の抜けた顔。気の抜けた声。

 そこへ俺は、はっきりとした口調と共に、優しげな笑顔を向けて言った。

「よろしくお願いしますね。加藤先輩」

「え、えぇ……」

 彼は、緩み切っていた心を絞められたかのような反応を見せた。それを見て面白がっている俺は、相当性格が捻じ曲がってきているようだった。昔はもっと、素直で心根の優しい人間だったと思うんだけれど。人っていうのは変わるものなんだな。

 怯えきっている加藤を、俺はいつまでもニコニコと笑みを浮かべて見つめていた。

「く、黒川先輩……」

「俺はもう先輩じゃないんで、〝黒川〟って呼んでくださいよ」

「ぼっ、僕がですか!?」

「そうですよ加藤先輩。会社っていうのは、年齢じゃなくて経歴でしょう?」

 所長は加藤が追いつめられている様子を助けるふうでもなく、楽しそうに見つめていた。うん、所長はきっと良い人だ。

「くっ、くっ、くろ……」

「くろ?」

「黒、川……君」

「はい、なんでしょう? 加藤先輩」

「な、なんでもないです……」

「加藤先輩、私に敬語なんて使わないでくださいよ」

「えぇっ!? もう勘弁してくださいーっ!」

 困り果てる加藤を見て楽しんでいた、そのとき。

「そのぐらいにしといてやんな、黒川君」

 横から、イマドキ風の若い男が割って入ってきた。所長からすれば、俺もイマドキに属するのかもしれないが。

 その彼は、緩いパーマに茶色に染まった髪をなびかせ、チャラチャラしたネックレスをしていた。よく見るとピアスもしている。肌は浅黒く、ニッと笑って白い歯をむき出しにした。これで営業職をやっているのか? 最近の若者はわからんなぁ。

「俺は林明夫。そうそう。加藤と黒川君には妹がお世話になったらしいね。加藤から色々聞いたぜ」

 妹? 林? ……もしかして。

「林……愛菜ちゃんの?」

「そうだ! 愛菜の兄、林明夫たぁ俺のことだ!」

 親指を自分の胸に当てて自己紹介してきた。

 なんだか、ノリが古いし、加藤とは違った面倒臭さを漂わせている奴だなぁと思った。

「……」

「お前っ! なんか反応しやがれっ!」

 自分でそんな自己紹介しておきながら、恥ずかしいのか? なぜ顔を赤くしながら反応を求めるのだろう……。まぁ仮にも次の職場となる営業所の先輩だ。話ぐらい合わせておこう。

「いやぁ、愛菜ちゃんのお兄さんでしたか。今後ともよろしくお願いします。明夫さん」

「おまっ……、下の名前で呼ぶんじゃねぇよ!」

「だって、林って名字が多いじゃないですか。この辺りじゃあ林っていう名字の人なんてなかなかいないのに。所長だって……、って、あれ? もしかして……」

 俺はハッとして、そろりと隣にいる所長の顔を見た。

「察したか?」

「……はい」

「明夫は俺の息子。愛菜は俺の娘だ」

 ……加藤。お前はなんてとこに俺を引き摺り込みやがったんだ。

 結論。

 世の中っていうのは案外、狭いものだ。




 なんだかんだ言いながらも、工場での仕事を辞めてから、加藤に誘われた営業所に勤め始めて一年以上が経過した。

 やっぱり営業は面白い。この職種は俺に合っているんだろうな。

 新規の会社相手だと断られることも多いし、上手くいかないこともあって大変だけど、なによりも人と話す機会が多いこの仕事が楽しいと感じる。俺は、人とコミュニケーションを取ることが好きなのだと改めて実感した。奇しくもこの会社と出会えたことに感謝しなくては。悔しいが、加藤にも。

 そんなことを考えながら、デパートの出口へ向かう。商談の帰りである。

 出入り口には、自動のドアと手動のドアがあった。俺は位置的に考えて手動のドアのほうへと向かった。すると、子どもを乗せたベビーカーを押して歩いてくる女性が見えた。自動ドアの方は混雑していて、こちらに向かってくる。大変そうだなぁと思って、俺は手動のドアを開けて、その女性に道を譲った。

「ありがとうございます」

 と言って、その女性は俺を見た。俺も見た。目が合う。

「華……世?」

「光星?」

 ……まさか、こんなところで会うなんて。しかも子連れで。

 最後に顔を会わせたのは二年前ぐらいだろうか。なんだか、〝お母さん〟という雰囲気を醸し出していた。いや、実際お母さんなんだろうけども。

「久しぶりね」

「あぁ……」

 突然の再会に、上手く声が出なかった。なにを話せばいいのだろう、と思いながらも、自然と言葉は漏れていた。

「子ども、できたんだな」

「うん、まぁね」

 彼女は照れ臭そうに言った。

「私が母親だなんてね。自分でも考えられないわ。苦しい思いして産んだときは実感に溢れていたんだけど、時間が経つと、本当に産んだんだなぁって不思議な気分」

 ふふっと笑って、彼女は店の中に入った。俺も外には出ず、店の端の方で華世と話した。

「一人で、子どもを連れてきたのか?」

「そうよ」

 複雑な気持ちだ。

 華世には俺の気持ちが伝えられず、そのまま時間だけが経過して。気がついたらこんなことになってたなんて。彼氏ができたということを知ってからは連絡を取らなかったし、妊娠していたことさえ知らなかった。

「大変だなぁ。旦那さんは、仕事?」

「あー……。旦那には逃げられちゃったのよ」

「にっ、逃げ……って!?」

 動揺し過ぎて、上手く発声できなかった。代わりに華世が口を開く。

「私、いわゆる〝シングルマザー〟ってやつなのよ。普段は保育所に預けて仕事して。あとは実家に預けたりとかもするけど。でも、こんなところで光星に会うとは思わなかったなぁ」

「それは俺もだよ」

 しかも、母親となった華世と。

「光星は仕事でここに?」

「あぁ、そうだよ。華世は、仕事は……?」

「前と変わらず美容師よ。さすがに産むときは休みをもらったけど。産んでまた復帰。でも、美容師やってると手荒れが酷くて、この子の柔らかい肌を触りたくても気が引けちゃうのよね。もっと、遠慮なくいっぱい触れてあげられる人が近くにいてくれればよかったんだけど。この子には可哀想な思いをさせちゃうんじゃないかなぁって、実はちょっと不安なんだ」

 寂しげな表情をする彼女を見て、俺は悔しい気持ちで苦しくなった。

 くそっ。俺が前の彼氏より先に告白して付き合っていれば、そんな悲しい思いなんてさせなかったのに。シングルマザーになんてさせなかったのに。あの仕事のドタバタさえなければ。……そんなことを思っても、もう遅い。

「……光星?」

「あっ? あぁ、悪い仕事疲れかな。ボーっとしちゃって」

 へへっと笑いながら、考えは止まらなかった。そんな俺の脳内状況を知ってか知らずか、彼女は話しかけてきた。

「そういえば、沙世もね、子どもが産まれるんだってさ」

「そうなのか! そりゃあめでたい。良久の方も、二人目ができたんだってさ」

「へぇ。白池君も大変になるわねー。父親として頑張らないと。……って、そういう光星はどうなのよ?」

「俺は仕事で手一杯です」

「ふーん。あんたなりに大変なのね。あっ! また落ち着いたら同級会とか催しを開いてよ! 久しぶりにみんなに会いたいし!」

 ……華世はなんでそんなに明るくしていられるのだろうか。旦那に逃げられて、一人で子どもを育てて大変だろうに。

「私もそうだけど、わりと三十路近くになると結婚する人も多いから集まりは悪いかもしれないけど。まぁ最悪、四人ででも集まろうよ」

「四人?」

「そう。あんたと私、それに白池君と沙世の四人」

「どんな組み合わせだよ」

 ははは、と笑った。

「だって、あの二組はラブラブそうだし? 外出でも相方が許してくれそうじゃない?」

「確かにな。でも、お前はどうなんだ?」

「ん? 私はこの子とラブラブよ?」

「そうじゃなくて。外に出るときの話だよ」

「そのときは実家で面倒見てもらっておくわ」

「それでいいんだ」

 苦笑を洩らす俺に向かって彼女ははっきりと言う。

「いいの! 頼れるとこがあれば頼る! それが人間ってもんでしょう?」

 強いなぁ……。以前に増して強くなったように見える。

 頼れるところに頼るというのなら、俺を頼っても……。と、言おうと思ったが止めた。強く、たくましくなった彼女にとって、男という存在は邪魔になるだけだと思ったから。ふと頭をよぎった、「俺が新しい父親になってやる」という言葉は胸の内にしまった。大した強さも持ち合わせていないくせにそんなことを思った自分が恥ずかしくて、思い返すことも憚られた。俺なんかより、彼女のほうが、すごく、すごく強いのだから。

「あっ! いけない! そろそろ行かなきゃ! 仕事中に長話してごめんね!」

「いいさ。気をつけてけよ」

「うん! 光星、またね!」

 元気よく、早歩きで去っていく彼女の後姿を見つめる。タイミングさえ違っていたならな、などという想いに耽りながら。


「黒川先輩、お帰りー」

「だから、〝先輩〟って呼ぶの、やめてくれませんか? 加藤先輩」

「うっ……」

「おう、黒川。遅かったじゃねーか」

「あぁ。明夫、お疲れ」

「なんで俺にはタメ口なんだよ!」

「だって、俺より年下だし」

「それでも先に入社してる先輩だっ!」

「しょうがない人ですねぇ、明夫さんは」

「くっそ……。まぁいい。こんな奴に妹が渡らなかっただけでも良しとしといてやる」

 シスコン(シスターコンプレックス)か。それにしても、愛菜ちゃんが言っていた「尊敬するお兄ちゃんみたいです」という俺に対する言葉は、告白前の苦し紛れに出た言葉だったのか、それとも事実だったのか……。事実だったとしたら嫌だなぁ。俺、こんな奴に似てねぇよ。

「知ってるか、黒川。愛菜は今、加藤と付き合ってんだよ」

「あっ、明夫さん!」

「へー。そうなんすかー」

 仕事中に一人でなに暴露大会開いてんだ、この人は。

「お前が愛菜を振ってくれたお蔭で、あいつには加藤っていう彼氏ができたんだ。ざまぁみろ」

 いや、別に俺は愛菜ちゃんのこと好きとかじゃなかったし。だから振ったわけで。うーん……、俺の周りには、頭の弱い人達が集まるのか? というか、加藤。頑張ったんだな。粘り勝ちか。まぁ、これからの方が大変そうな気がするけど。加藤は女の尻に敷かれるタイプだから。

「仕事以外でもお役に立てて光栄です」

「黒川。お前、余裕ぶっこいてるけどな、営業としてお前には負けねぇ」

「へぇ、奇遇ですね。俺も明夫さんには負ける気はないんですよ」

「ちょ、ちょっと! お二人とも! 仕事に勝ち負けなんて無いでしょう!?」

『あるっ!』

 くそ、こいつと声がかぶるとは。気分が悪い。

「ちっ。黒川と声がかぶるなんて、俺としたことが」

 考えることまで一緒かよ。

「……林所長。あの二人、なんとかなりませんかね?」

「これは、あれだ。喧嘩するほど仲が良いってやつだ」

『仲良くない!』

 またかぶった……。

「まぁ、彼らのことは放っておくんだな」

「はぁ……」


 今後のこの営業所では、加藤が板挟みとなって大変な目に合うことは明白だった。仕事においても恋愛においても。仕事では俺と明夫の。恋愛では愛菜ちゃんと明夫の。どちらにせよ明夫が一枚噛んでいる。まぁ、林一家に関わった時点で面倒事に巻き込まれるということは、よくわかった。もはや後の祭りだが。これからは、加藤の奮闘ぶり、成長ぶりを見守ることとしよう。

 また、林明夫といういかにも単細胞な男が俺のライバルとして周囲に認識されていることは気に入らないが、それも所内が活気づくことに役立っていると思えば許せなくはない。あいつに負けないように業績を上げてやろうという、着火剤になれば幸いだ。それに、きっと彼は、負けず嫌いで、年上が苦手で、実力のある奴が妬ましいのだろう。と、勝手に想像することによって、彼に対する苛立ちの感情は愛情に変換される。幼い子を見つめるような眼差しで、温かく見守ることができる。まぁ、血気盛んなお年頃なのだろう、ということで片は付く。俺の中でだけだが。

 所内も悪い雰囲気ではないし、所長も怖い顔のわりには優しい人だし、仕事は上手くやっていけそうだ。出会いの方は……、まぁいいや。という感じだ。相変わらず、結婚願望も湧いてこない俺は、周りの幸せを願うに尽きる。良久や、華世や、水島や……。あとは、俺自身が楽しい生活ができればいい。それだけだ。彼女とか結婚とかは二の次である。

 そろそろ新しい職場での仕事にも慣れて、余裕ができ始めてきた頃。企画屋、黒川光星の活動再開といこうか。まだまだ独身勢もいることだしな。俺以外にも。


 様々なタイミングのずれによって生じた出来事が、良いことか悪いことなのかは俺にはわからない。だが、辛いことや腹立たしいこともあれば、嬉しいことや楽しいことがあって、その結果、今に至るというわけで。それがまた、未来へと繋がっていくのだろうが、とりあえずは今を充実させていきたい次第だ。


 立案、計画は黒川光星にお任せを。

さてさて、お次はどんな出来事を起こそうか。そして、いつ、どんなことが起きるだろうか。

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