明日を生きる為の手枷になれば良い
ターンッ、と高い音を立てて机に叩き付けられた小さな箱が一つ。
その箱を持つ手から腕へ肩へと視線を上げていくと、見慣れた顔の人が一人。
「文ちゃん」
端正な顔立ちの幼馴染みが一人。
黒縁眼鏡の薄硝子の奥で、長い睫毛が揺れて瞬きを一回、二回。
形の良い眉が前髪の奥で歪む。
若干、と言うかかなり普通に怒って見える。
僅かに細められた黒目の奥では、紫色の光が鋭く光り、何か言いたげに歪められた口元からは舌打ちも聞こえてきそう。
剣呑な目でボクを暫く見た後は、歪んだ口元を緩め、そこから深い息を吐き出す。
重い溜息の後には舌打ちと共に「次やったら殺す」と低い声が続く。
それはあまり脅しになってないが、それを口にすれば胸倉を掴まれて上下左右に揺らされることを知っているので、唇を真一文字に結ぶ。
こくん、と一つ頷けば、スタスタと自分の席に戻ってしまい、ボクは机の上の小さな箱を手に取った。
仮にも学校の教室なのだが、周りの視線は一瞬集まっただけで、またいつものことか、と言いたげに逸らされていく。
「……作ちゃん」
「んー?」
「中身なぁに?」
箱を手に取ったボクに対して、前の席に座っていたMIOちゃんが、体を前のめりにして問う。
ボクは、もう一度間延びした返事を返しながら、その箱を上下に開く。
箱を持った時に感じた重みにあった中身だ。
目の前で「時計?」と首を捻るMIOちゃん。
何となく予想をしていたが、箱の中身は黒を基調とした時計だった。
シルバー混じりで、シックにまとまっているそれは、見覚えのあるもので、瞬きをするMIOちゃんに、嗚呼、と頷く。
「潜水用防水時計だね」
箱の中から取り出し、自分の手首に合わせてみる。
ベルトを調整しながら「潜水用?防水?」と更に首を捻るMIOちゃんに「この前水没しちゃったからかな」と答えた。
先日まで付けていた腕時計は川に飛び込んだ際に、少々早めの寿命を迎えたのだ。
ボクは生きてるのにね、時計は軟弱だね、と笑えば、表情筋の柔らかなMIOちゃんは珍しく頬を引き攣らせた。
確かにこの前の時計は防水ではなかったので、当然の結果といえば当然の結果だが、潜水用防水時計ともなれば、個々の差はあれど、普通の時計よりは丈夫だ。
きゅっ、とベルトを締めてから腕を軽く振る。
時計が動かないことを確認して、それはそれとして、と言葉を吐けば、MIOちゃんは素直にボクの顔を見た。
「贈り物にも意味があって、ハンカチなんかは良く手切れとされるけれど、時計もあるんだよ」
「……なぁに?」
こてん、と可愛らしく首を傾けるMIOちゃんは、鮮やかな赤い髪を動きに合わせて流す。
落ちていく髪はサラサラとしていて、癖毛なボクとしては非常に羨ましい。
その姿を見ながら、なぁに、に答える。
「時間を管理する面から、独占欲や束縛を意味するケースがあるんだよ」
盤面を手の甲側か手の平側か、と変えてみながらの言葉だったが、MIOちゃんがピクリと反応を示した。
離れていても同じ時を刻みたい、なんかが丁度良い言葉に思う。
だからと言って、恋人に潜水用防水時計を渡す人は、多分、そこそこ珍しいだろう。
――まあ、ボク達は幼馴染みだが。
やはり機能が機能なだけに、大振りな時計で、兎にも角にもこれで入水が出来るとボクは一人で数回頷いた。
川に飛び込んだのは、所謂入水で、もっと言葉を足すのならば、入水自殺の為だ。
自殺癖のあるボクは、自殺未遂を繰り返しながらも、割と健康的に生きている。
時計の盤面を、指先で撫でながら考えた。
もしも入水自殺が成功して、ボクの体がぼろぼろになり、浮かぶこともなく誰にも見付からなかったとしても、この時計は動き続けるのだろうか。
チクタク、秒針が確かな時を刻む。
先日川に飛び込んだ時に聞いた、ゴポゴポという水泡が浮かんでいく音を、耳の奥底で思い返した。
鮮明に思い出せるそれに、耳朶を引っ掻く。
耳の中に水が入るのは不快だが、水音だけは割と好きだった。
耳朶に爪跡を残しながら、こちらに背中を向けた文ちゃんを見る。
癖のある髪が背中の方に流れており、相変わらず、ピンとした背筋でハードカバーの本を開いていた。
ボクが死んでも、文ちゃんの中で、ボクはずっと――。
目を閉じた瞬間に、バンッという破裂音に似たそれで目を見開く。
机の上には程良く焼けた手の甲が二つ。
顔を上げた先には眉を寄せ、真面目な顔をしたMIOちゃんがおり、瞬きを一度二度と繰り返してしまう。
「私も時計あげる」
「いや、二つも三つも要らないよ」
表情筋が発達して硬いはずの頬が、柔らかそうに膨らまされた。
眉間に皺が刻まれ出す。
「MIOちゃんには、向いてないよ」
物音でこちらを振り向いた文ちゃんに軽く手を振る。
腕時計が揺らされるのを見て、眼鏡の奥で目を細めた文ちゃんにボクは笑う。
不可解そうな、納得がいかず不満そうなMIOちゃんの顔を見ても、笑ってしまった。