その9 王子と蜥蜴の覚悟
春の終わりに北に向かい、季節は夏の盛りに突入していた。
敵とは直接的な交戦とはならなかったが、互いに一歩も引かずの状態で想像した以上に長引いた膠着状態は、アイデクセが敵陣に向かうことで終結をむかえる。
漆黒の鱗に全身を覆われた蜥蜴のような見た目に反し、背筋がまっすぐに伸び二足歩行で大地を音もなく進む。薄い衣の上に鎧をまとったアイデクセの姿は、予備知識しかない北の兵士たちを怯えさせるには十分だった。
戦士が見上げるほどの大きな異形は存在するだけで相手の精神を攻撃する。
耳まで裂けた口に細かな牙が隙間なく並んでいるが、実は食肉を好まず緑の濃い野菜ばかりを食べているというのをどれ程の人間が知っているだろう。
硬い鱗の下で盛り上がる筋肉と強靭な肉体が作り出される根源を理解できるものはいない。アイデクセとて知る由がない。それが彼の世界では普通であったのだから。
寒さには弱いが暑さには強い。普段は靴で隠している鋭い爪を曝したまま地面を抉るように歩いてみせると、北の陣地からどよめきが上がり、将より掛け声が上がる前に兵士たちは後ずさった。
脅しの為に持っているアイデクセの体に合わせ特別に設えた巨大な槍斧を手に堂々と歩けば、それだけでウィスタリアの勝利は確実だった。
しかし現在のウィスタリアは魔法使いが不足している状態であるために、北と戦争を起こすことを良しとしていなかった。国境から退けてしまえば深追いはしない。
それでもアイデクセはレイトールと共に暫く北に足止めされ、ようやくユアの待つ家に戻ることができたのは日差しの強い真夏のことだった。
ウィスタリアを守る英雄だが、人を恐怖に落とす姿をしているため、昼日向でもアイデクセはフードを目深にかぶりローブで体を覆って、人目を忍んで人通りの少ない道を歩く。
そんなアイデクセに滅多に声をかける者などいないが、もうすぐユアの待つ家が見えてくるという頃になって唐突に呼び止められた。
「二人ともようやく戻って来たんですね。いったい何があったんですか?」
近所に住んでいる建具屋の主人だ。北の国境で小競り合いがあるので暫く家を空けると挨拶したのだが忘れてしまったのだろうかと、同じことをレイトールが説明する。
「北で小競り合いがあった。少し時間がかかったが無事に終結したので心配はない」
「そんなことじゃなくて、ユアちゃんのことですよ!」
レイトールの言葉に被せるように声を上げた主人の様子に、異変を悟ったアイデクセが二人を追い越して走り去った。
あっという間に姿を消したアイデクセの後姿を視界に捉えつつ、レイトールは建具屋の主人に一歩近づいた。
「ユアに何か?」
「お役人が集まって騒がしくしてたんで訊ねたら、俺達には知る必要のないことだと一喝されて。俺はレイトール様にユアちゃんのことを頼まれてるって言ったんだけどね、心配ない、こちらで預かる事柄だとか何とか言われてしまって。それからユアちゃんは帰ってこないし、二人が戻るのを待ってたんだ」
「ご主人、それは何時の話だろうか」
「十日程……いや、八日前だな。窓が壊れていたからその修理だけしておくようにお役人に言われてね。ユアちゃんは大丈夫だろうね?」
「心配をかけてすまなかった、ユアのことは此方で請け負うので安心してくれ」
ユアには同じ年頃の友人は一人もいないが、ロアークに可愛がられて育ったお陰か近所の大人たちとは良好な関係を築いていたようだ。心配そうに皺を深くする建具屋の主人に礼を言うと、レイトールもアイデクセの後を追い家へと急いだ。
セリナとの一件があってから、レイトールは仕事で不在にする際に万一を考え、近所に頼むだけではなく護衛として優秀な騎士を張り込みさせている。
気付かれないように離れた場所からだが、何かあれば真っ先に必ず報告するように言っているのに音沙汰なしだ。
報告がないのは何事もないという証だが、報告できない状況であることもあり得ると足を速めた。
久し振りに戻った家は特に変わった様子はない。ただ建具屋が言った通り窓が新しいものへと付け替えられていて、庭を覗くとフードをかぶったままのアイデクセが立ち尽くしていた。
「アイデクセ」
「血の臭いだ」
「何だと?」
「ユアの血ではないが、この場所から血の臭いがする」
レイトールには分からないが、アイデクセの示す地面は新しい砂が入り慣らされた跡があった。
まさかとの考えがレイトールを支配する。
城に寄ったのに誰からも報告は受けていない。
この状況だけでも護衛が傷つけられユアが攫われたのは分かりきったことだ。それなのに役人が片付けて報告もなく放置されている。
恐らく、いや確実に何者かがユアを攫ってアイデクセとレイトールを脅してきているのだろう。そしてそれを知りながら国は二人を守るためにユアを見捨てたに違いないのだ。
「襲われてから八日経っている。私達が目的なら殺されてはいないだろうが……無事でもないだろう」
今からでも取り繕える状況だろうか。敵が気長に待ってくれるならいいが、国がレイトールとアイデクセの名を使い要求を突っぱねていたなら最悪の結末も有り得る。とにかく話を聞きに城に戻る必要があると、唖然と立ち尽くすアイデクセの肩をゆすった。
「無事ではないというのはどういうことだ?」
「アイデクセ……」
「どういうことかと聞いている。俺はこの世界に疎い。あんなか弱い存在に人間は何をすると言うんだ?」
「ユアは若い娘だ。攫った奴らが野蛮人なら、殺す前に体をいいように弄ぶ場合もある」
アイデクセから吠えるような音が上がった。
鱗に覆われた体内から何かが湧くような音と震えが起こり、体がくの字に折れて胃にたまっていた内容物が吐き出された。
「有り得ない。女を大切にしないなどっ、俺の世界では絶対にありえないぞ!」
アイデクセの常識ではあり得なことが人の世では起こり得る。
子を生み育む女は大切に扱われ、男と同じ力を持っていても守るべき存在として接するのが常識なのだ。
特に性的に弄ぶなど、生涯にただ一人の伴侶としか肉体的な繋がりを持たないアイデクセ達からすると、この世界の常識はあまりにも残酷だった。
何も知らないアイデクセにレイトールが人の世界の知識を与えていたが、聞かされるのと大切な女性が関わるのとでは感じるものに雲泥の差がある。怒りよりも人の蛮行に精神が拒絶を示し肉体が反応した。
「ユアがそんな目に合うのは俺のせいなのだろう!?」
「落ち着けアイデクセ、ユアが辱めを受けていると決まったわけじゃない、可能性の問題だ!」
「彼女を傷つける人間が存在しているのは事実だ!」
「だから助けに行く。その前に情報収集だ。ここで叫んで怒りを爆発させてもユアは助けられないぞ」
まずは情報をと、レイトールは護衛を命じておいた人間を捜して彼が所属する近衛部隊を訪ねる。
当然アイデクセも同行し、レイトールを目に止めた別の近衛から、護衛に当たっていた男は重症を負って入院中だと知らされた。その足で医療室へ向うと護衛を頼んだ男が辛そうに身を起こした。
「何があった、報告をしてくれ」
「やはり伝言は届いていないのですね」
意識を失う前に仲間に知らせを頼んだと言うが、北にいたレイトールには届いていない。彼もそれを予想していたのだろう、端的にあったことを伝えてきた。
「襲ってきたのはアシュケードの人間です。相手は一人、黒髪に目は灰色で左の肘から下が欠損していましたが、右腕だけで剣を自在に操ります。正直に申しますと、私の腕では太刀打ちできない実力の差が」
「ユアの状態がわかるか?」
「男が肩に抱えて消えました。報告は王太子殿下の耳にも入っているはずです」
「では王太子を訪ねよう。しっかり養生してくれ」
任務を遂行できずに申し訳ないと頭を下げる男にレイトールは首を振る。ユアにつけたのはレイトールがアイデクセと一緒にいるようになるまで護衛についてくれた近衛だ。実力も十分に理解していた。
そのうえでやられてしまったのなら他の誰をつけていても同じだろう。しかも相手はアシュケードの人間であるという。片腕だけでやれるとはかなりの実力を持っているに違いない。
もとよりアシュケードの軍人は強すぎるのだ。
魔法がなければウィスタリアなどあっという間に制圧されていたし、魔法があっても雲行きは怪しく異世界より太刀打ちできる人知を超えた力を有した戦士を召喚するに至ったのだから。
レイトールとアイデクセはその足で城に向かった。
王太子に目通りを申請する時間も惜しくて執務室に押しかける。二人の姿を認めた王太子が疲れたように息を吐き出した。
「来ると思ったぞ」
「妻が攫われたというのに何故知らせて下さらないのか」
「あくまでも最優先は国だ。知らせを止めたのは謝るが、帰都するなり報告もなく家路を目指したのはお前だぞ。私はここで待っていた」
「隠したのは王太子殿下か。ならば妻が攫われた先が何処か調べはついているのでしょうね」
「そうだな、まずは座れ。アイデクセもだ」
ゆっくり寛ぐつもりはないと拒絶するが、長椅子に腰を下ろした王太子は椅子を勧め二人が腰を下ろすまで口を開く様子がない。
レイトールが苛立たし気に座ると、隣にアイデクセがゆっくりと腰を落とした。
護衛の近衛や執務の手伝いをしていた側近には、王太子自らが部屋を出るように指示し三人だけが残される。
「それで妻は何処なのです」
怒りを抑えてレイトールが詰め寄る。国を最優先にしてユアの行方を放置していたことを責めても時間の無駄だからだ。あえて言葉にしないが、優先順位をつけられたことに苛立ちが増していた。
「アシュケードの四将軍を覚えているか」
「忘れる訳がないでしょう。しかし彼らは先の戦いで全員命を落としている」
年の頃はレイトールよりも少しばかり上であったが、当時のアシュケード王国を守る四本の柱とも呼ばれた将軍たちだ。
しかしアイデクセが参戦してより彼らが従える軍は壊滅され、全員ではないが遺体の回収もされていた。
四人ともが剣だけではなく槍や弓の腕も兼ね備え、大陸全土に名を轟かせていた将軍たちだったが、刃物の類の武器を何一つ持たないアイデクセに屈辱的ともいえる負け方をしたのだ。
アシュケードを守っていた将軍が命を落とし、アシュケードは降伏してウィスタリアの属国となった。
「お前の妻を攫ったのはゴーウェン将軍だ」
「まさかっ……生きていたのですか?」
「女を攫うようになるとはな。偉大な猛将と聞いていたが落ちたものだ」
「本当に彼が?」
「生きていたぞ。お前も覚えているだろう。お前の師であり、彼女の父親である騎士も奴の手にかかり死んだ。そういえば若き頃には彼女の母親である魔法使いも殺したな。戦場であっても女を手にかけたのはそれきりだと聞いていたが、どうやら噂は噂に過ぎなかったらしい」
国を優先しながらも王太子は情報を手に入れていた。剣の師がアシュケードのゴーウェン将軍に敗れたのは記憶に新しい。
死んだとばかり思っていただけに驚きも大きかった。
ゴーウェンが片腕になったのはアイデクセの力によるものだ。当時のアイデクセは武器を使う能力はなく、異形の姿と力で敵をねじ伏せていたのだ。
命を取るのに躊躇し、手足を折っては再起不能としていたが、慣れないうちは力を入れ過ぎ腕や足ごと潰してしまっていた。
当時将軍であったゴーウェンとは早い段階で対峙している。腕を潰されても襲い掛かって来たがアイデクセの力の前には勝つことができず、彼の軍はほぼ全滅状態だった。ゴーウェンの遺体を回収できていなかったが、まさか生きていたとは。
あの時の戦場は体を潰されたアシュケードの兵士たちで溢れかえっていたのを思い出す。ウィスタリア軍も初陣となる異形の力に守られ、恐れをなす敵を簡単に薙ぎ払っていた。
「その男は俺を恨んで……やはり俺のせいじゃないか」
頭を抱えたアイデクセが深く息を吐き出していた。人を手にかけ恐れられようとアイデクセの根本は変わらない。殺した人間たち、殺すのが怖くて身動きできないよう体の一部を動かない状況にし、時に吠え恐れを植え付け挑んでくる人間を一人でも少なくしようと努力した。
アイデクセも弱いものを痛めつけることに心を痛めたが狂うことはなかった。
けれどそれが原因で大切な娘が攫われ危険に曝されているのである。
「あの時アシュケードの全ての軍人を殺してしまっていればこうならなかったのか?」
考えても出ない答えにアイデクセは体を震わせていた。
「王太子殿下、ユアは何処にいるんだ?」
ユアを失う恐怖にアイデクセの声までもが震える。王太子は言いにくそうに、けれどしっかりと隠さず口にした。
「途中で撒かれたので正確な居場所は分からないが、ゴーウェンは西の国境近く、アシュケード側の街でお前たちを待っているようだ。国を取り戻すために反乱を企てていたようだが、そこはレイトール、お前がアシュケードの王女との婚姻を見送ったお陰で回避したようだぞ。だがその分ゴーウェンは怒りのやり場を失ったのだろう。後は言わずと知れよう」
「私とアイデクセをおびき出し、二人まとめて始末しようと。私も見くびられたものですね」
「剣の師を超えられなかったお前が場数を踏んで実力が付いたか。だがしかし、果たしてゴーウェンの上を行くかな」
腕を失ったアシュケードのもと将軍とはいえ、ウィスタリアの王族を守る近衛騎士が足元にも及ばず、証言者としてかろうじて生かされていたのだ。勿論レイトールもまともにやり合って勝てるとは思っていない。相手がアイデクセではなくレイトールを狙ってくるのは確実だ。
「妻が攫われたのです、行かない選択肢はありませんよ」
「止めはせんが、二人とも死なずに戻ってこい。ウィスタリアを失う危険を犯すのだ、それだけは約束しろ。それに生きて戻らねば妻を助けたとしても、陛下の怒りはそのまま彼女に向かうぞ」
「生きて戻る、条件はそれだけですか?」
「ゴーウェンが同じ失敗を繰り返すとは思えない。アイデクセに対する対抗策は娘だけではないだろう。お前が死ねばアイデクセも死ぬのだから決して侮るなよ」
「勿論です。それに私は妻を一人にしないと約束しているので、それだけは何があろうと絶対に守るつもりです」
「お前が女に入れ込むとはな。アイデクセの影響か。必要なら好きなだけ人を使え、遠慮はいらぬ」
支度を整えるため二人は話を終えると早々に城を辞した。
揃えるのは旅支度とゴーウェンを追った人間との接触だが、それよりも先にとアイデクセはレイトールを急かし家路を急いだ。そうして手にして見せたのは魔法による封印が施された掌に乗る大きさの箱だ。アイデクセはそれをレイトールに渡すと決断を口にした。
「俺とお前の命のつながりを解いてくれ」
さすがに驚いたレイトールは瞳を瞬かせた後で眉間に皺を寄せた。
「そんなことをしたらお前はこの世界の言葉を理解できなくなるのだぞ?」
分かっているのかと、その為に繋がっている状況を忘れたらしい男に当たり前のことを諭す。一刻を争うかもしれないのに何を言い出すのか。あまりのショックに混乱しているのだろうと箱をアイデクセに戻そうとしたが、アイデクセはレイトールに押し付けるように拒んだ。
「命を繋がずとも言葉を解する魔法をロアークが作ってくれた。俺は一人残さるのが怖くてお前を犠牲にし続けていたんだ。本当に悪いと思っていたが、一人残されるのは耐えられずに言えなかった。だがユアを攫った相手は将軍の地位にいたほど強い男なのだろう。戦術を知らない力だけの俺で勝てるだろうか。俺が死ぬようなことになればお前を巻き込む。だから今現在の契約を解除し、新たに魔法をかけ直してくれないか」
生きて戻るように王太子は命令したが、アイデクセは軍事大国の将軍としての地位にあった人物と正面から戦い勝つ自信がない。
召喚されて無理矢理に戦わされたときは相手もアイデクセの姿に驚き、対処ができずに崩れてくれたから勝てたようなものなのだ。
アイデクセはただの庭師で戦闘訓練もこの世界にきて受けるようになっただけの、実力を伴わない人知を超えた力があるだけの蜥蜴男に過ぎない。
少し考え込んだレイトールは渡された箱を握りしめると腕を下ろし「分かった」と了承の意を表した。
言葉を解せるなら無理矢理つながっている必要もないのだ、今はアイデクセの言う通りにするべきだろう。
繋がりたくなれば再び同じ魔法をかければいいだけのこと。レイトールとアイデクセが繋がったままだと、一人の命が奪われれば諸共となりユアを守る人間がいなくなってしまう。ユア一人を残さない決断の方が重要だった。
納得して頷いたレイトールにアイデクセが決意を告げる。それは二人の妻となったユアに対する感情が、根本的にどこから来たのかを二人にも理解できていないことに繋がる事案だ。
「繋がりを絶った後、もしもお前からユアへの情が消えていたら……その時は俺は一人で行く。お前を犠牲にはできない」
「馬鹿をいうな、消える訳がないだろう。確かにな、お前の種族のように生涯ただ一人しか愛せない人種じゃないが、自分の心くらい分かっているつもりだぞ」
「しかし――」
「それより私とお前が繋がっているのを知られているとなると、確実に私の方が狙われる確率が高い。私にもしもがあればアイデクセ、何があっても生きて彼女を守って欲しい。私はユアと約束したんだ、一人残して逝く時は必ずユアも連れて行くと。だがお前が生きてくれるなら愛する妻を殺す夫にならずにすむ」
あの約束をした日はアイデクセに条件なしで言葉を与える魔法が完成していたなど知りもしなかった。ロアークはいい仕事をしてくれた偉大な魔法使いだと感謝の意を唱えるレイトールだが、アイデクセは唖然としてゆるく首を振る。
「何故そんな約束を……」
「お前なら理解できるだろう、一人残される恐怖を。ユアもお前と同じなんだ。だから俺は二人から目を離せない」
ユアだけではない、アイデクセのことも大切なのだと鱗に覆われた腕を叩く。ユアを頼むと再び腕を叩くレイトールは覚悟を決めていた。