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その7 定まらない身勝手な気持ち




 ユアとレイトールが家に戻ると、建具屋の主人がアイデクセと一緒に硝子を窓枠に合わせている所だった。

 大きな硝子をアイデクセが窓枠に当てると、建具屋の主人が枠に合わせて手際よく線を引く。その線に沿ってアイデクセの爪が硝子に傷をつけ器用に割った。

 硝子用の刃物を忘れたらしい主人にアイデクセが爪でできると申し出たらしいが、目の当たりにした主人は大変驚くと同時にアイデクセの器用さに感心していた。


「お帰り」


 アイデクセは逃げるように家を空けたユアに何も聞かず、建具屋の主人が帰ってからようやく声をかけてくれた。

「ただいま」と答えたユアは窓の補修をしてくれた礼を言うと、これまでの出来事をレイトールを交え、再びきちんと聞かせるためにお茶を入れてテーブルに着いた。

 朝食もまだだったので簡単に作った軽食も並べたが、昼になろうというのに誰も手を付けようとしない。

 深く息を吐いたユアは、先ほどレイトールに伝えたのと同じ内容をアイデクセにも話して聞かせた。


「確かに子供時代は辛くて学校に行かなくなったけど、暴力は振るわれていないんです。男の子よりも女の子の方が辛辣な物言いをして、さすがにそれはという感じで眉を寄せる子もいました。でも助けて欲しいと誰かに訴えたり、気を遣って声をかけてくれた子にまで壁を作って、歩み寄ることをしなかったのはわたしです」


 魔法使いの家系で魔力なしで生まれることは犯罪に等しかった訳でもない。ユアの態度が周囲の子供たちを増長させ、程度を超えさせたというのも今ならわかるのだ。

 けれど当時は幼かったせいで経験が少なく、子供社会で生きていくために勇気を持てなかった。それでも離脱したのは悪いことではないと、追及せず迎え入れてくれていた父や祖父には感謝しかない。


「だけどわたしは逃げ出した過去を後悔していません。多分、きっと、そのお陰でわたしは二人と出会えて妻に選んでもらえたと思うから。有り得ませんけど、子供の頃にこうなるって分かっていたらきっと楽だったでしょうね」

「ユア……」


 鎮痛な表情のままユアの名を呼んだのはレイトールだ。ユアは大丈夫だと伝えたくてあえて元気な声を出した。



「レイトール様、いつまでも暗い空気を背負うのはやめて下さい。いっそもう昼間っから飲んで騒いじゃいますか?」


 立ち上がると、アイデクセが声を上げてユアを引き止めた。


「待てっ!」


 温厚なアイデクセにしては大きな声だった。その瞬間、三人の視線が一点に注がれる。

 アイデクセの手がユアの手首を掴んで引き止めていたのだ。

 人に、特にユアに触れることを恐れているアイデクセがユアの手首を掴んでいた。

 爪は肌を傷つけてなどいない。ただ単に鋭い爪を持つ鱗だらけの手が白い柔肌の手首を掴んでいるだけだ。


「あ、その……すまない」

「どうぞ、いくらでもどうぞ!」


 それだけなのに大きな壁を乗り越えたような気がした。

 張りつめていたのもあるだろう。

 すぐに外されたアイデクセの手を追うようにユアが腕を伸ばして目の前に曝す。

 どうしてか分からないが、ユアの瞳からは涙が零れ落ちた。アイデクセは狼狽えたが、決して悲しい涙ではない。



 この日を堺に、三人がそれぞれ微妙な変化を感じることなった。


 レイトールとユアが籍を入れて夫婦になり、残すはアイデクセとユアが神前で誓いを交わすだけとなる。

 共寝をする三人だったが肉体的な繋がりはない。

 そのことにユアは少しの不安を抱えていたが、いずれは抱くというレイトールの言葉もあって、経験不足も手伝い急ぐ必要もないかと悠長に構えていた。


 けれどふと異種族であるアイデクセとはどのようにするのだろうかと不安になる。

 見た目は違うが形は人なので、普通の男女がするのと変わらないのだろうか。神前で誓う前に予備知識として学んでおくべきかもしれないが、アイデクセに直接問うのも憚られた。

 こんなことを気にしてはしたない女と思われたらどうしようかと悩み、夕暮れ迫る二階の窓から何気なしに下を覗くと、レイトールとアイデクセが屋内から外に出てきた。


 レイトールに背を押されたアイデクセだけが塀を潜ると、身を隠すように頭部をショールで覆ってマントを身に着けた女性が歩み寄る。そして何かしらをアイデクセに告げると、手にした包みを押し付けるように渡して踵を返し駆け足で去って行った。全てを見届けたユアの全身からすっと血の気が引く。


「え、なに? もしかして告白?」


 意を決した女性が好いた男性に告白して、逃げるように去って行く物語のような光景だった。

 橙色に染まる夕日の下で二人だけの美しい世界が広がっている。アイデクセは押し付けられた荷物を開いてそっと覗いてた。その背に手を当て荷物の中身を覗き込んでいるのはレイトールだ。


「なにを貰ったの?」


 寒がりだから首巻だろうか、それとも手袋か。春になって渡されたのだとしたら彼女は冬の間中ずっと悩んでいたに違いない。ようやく渡す勇気が持てたのは花開く春の今日。唖然としたままじっと見下ろしていると、視線に気付いたアイデクセがこちらを見上げた。

 慌てたユアは窓のカーテンを引いて眼下の光景を遮断する。心臓が物凄い勢いで鼓動していた。


「親しい女性がいたの……いてもおかしくないわよね」


 見た目のせいで嫌厭されがちだが、ユアは少しも怖くなくて憧れ大好きだったのだ。同じように感じる女性や子供だっているのだから、そのうちの誰かがアイデクセに恋心を抱いて告白してきたって何もおかしなことではない。

 けれど今の今までアイデクセはユアの側にずっといてくれるのもだと勝手に思い込んでいたのだ。

 もしそれが違うのだとしたらどうなるのだろう。アイデクセが浮気性だとか、恋多き人だとは思えないが、一つの季節ごとに相手を変えるような人種であったとしたら?

 世界が違うのだから常識が違っても変ではないと気付き、ユアは息苦しさを感じてその場に蹲った。すると階下からアイデクセのユアを呼ぶ声が聞こえてくる。


「どうしよう、普通にしなきゃ」


 湧き起った嫉妬と強烈な不安。

 ずっと一緒にいると思っていたのに、きっとそうなのにもしも違ったらどうしたらいいのか。

 怖くて体が強張るが悟られるのも嫌で、息を整えるとゆっくり立ち上がった。同時に扉が開いて紙袋を抱えたアイデクセが姿を見せる。


「どうした、酷く体温が下がっている」

 

 そんなことまで分かるのか。無理に笑って何でもないと首を振った。


「何でもない訳があるか。どうしたんだ?」

「ちょっと……お爺さんのことを思い出していて。そう、会いたくなったの。今から行ってもいいですよね?」

「それなら俺もついて行く」

「一人で行きたいの、お爺さんにだけ話したいこともあるので。アイデクセさんが一緒だと全部聞かれてしまうから恥ずかしいわ」

「ならレイトールと一緒に行け。すぐに日が暮れる、一人で行かせたら間違いなく後を追ってしまう」


 アイデクセがふらつきそうになる背にほんの少しだけ触れてくれた。気遣いは嬉しいが、近付いたせいでアイデクセの片腕にある袋がユアの目の前に飛び込んだ。

 開いた口から覗いたのはパンで、どうやら手作りの品を贈られたようだ。

 アイデクセはパンより緑の濃い野菜が好きだ。わたしはそれを知っているとの醜い考えが脳裏を過った。けれどすぐに意地悪で浅ましい考えだと気づく。


「ユア、待ってくれ。俺が何かしたのだろう?」


 目も合わせず飛び出そうとしたユアにアイデクセが声をかける。感情の機微に鋭いアイデクセに隠し事をするのはとても難しかった。

 ユアは胸に手を当てると呼吸を整えゆっくりと振り返る。


「違いますよ、お爺さんと話せば落ち着きます。あの、そのパン。きっと美味しいですよ」

「ああ、これか。今―――」

「行ってきます」

「ユア!」


 最後まで聞きたくなくて踵を返し階段を下りると、階下にいたレイトールが驚いたように目を丸くした。


「どうした、アイデクセに何か言われたのか?」

「いいえ何も。ちょっとお爺さんの所へ出かけてきます」

「今から?」

「夜ご飯が少し遅くなるかもしれません。ごめんなさい、行ってきますね」


 醜い姿をさらしたくなくて家を飛び出すと、ユアはロアークが埋葬されている墓地を目指した。


 夕暮れが進んで東の空が闇に溶け込み始めている。

 アイデクセが心配するのも分かるが、それほど治安が悪いわけでもないので速足に墓地を目指した。とにかく今は心を落ち着けたい。

 速足で進んだので墓地につく頃には息が上がり、額に滲む汗を拭って墓標を目指す。すると暗くなり始めた視界の先、ロアークの墓標の前に佇む人影をみつけた。瞼を落とし語り掛けている様だ。


 魔法使いであることを示す漆黒のローブを纏っている横顔に記憶はない。じっと見ていると祈りを終えたのか、俯いていた顔を上げてユアを視界に捉えたその人は、はっとしたように瞳を瞬かせると腰を折って深くお辞儀をする。ユアも同様にお辞儀をしてゆっくりと近寄った。


「お爺さんの知り合いの方ですか?」

「ナハトと申します。ロアーク様にとっては最後の弟子にあたります」

「お弟子さんの……」


 頭にかぶったフードをずらして再び頭を下げたナハトをユアはじっと見つめる。灰色の髪に同色の瞳、年の頃は三十を過ぎているだろうか。最後ということだし、彼の年齢からしてロアークの教えを受けた期間はそれほど長くはないだろう。


 ロアークの葬儀に魔法使いは誰一人として出席していなかった。王に盾突いたロアークと親しくするのは出世に響くだろうから納得している。それでもこうして時を置いてからでも訪問してくれるのは嬉しい。礼を述べるとナハトはゆるく首を横に振った。


「私は優れた魔法使いではありませんでしたので、召喚の八人には加われなかったのですよ。お陰で今があります」


 優れた弟子でなかったというが、当時はロアークの下に付くだけで実力を証明されたようなものだった。けれど弟子になれば周囲にいるのは誰もが出来る存在で、召喚の八人に加われなかったというのは彼なりに劣等感を抱く事柄なのかもしれない。ユアは力がないということの惨めさを知っている分、目の前の人物が何処となく自分に近いように感じた。


「祖父はお弟子さんたちの命が奪われたのをとても悲しんでいました。ナハトさんが生きていてくれただけでも救いだったと思います。こうして会にも来てくださってありがとうございました」

「葬儀にも顔を出さなかった非礼をお許しください。師と約束したのです。何があろうとしがみつき、蜥蜴アイデクセを帰還させる研究をやめないことを」

「帰還?」

「立場を失えば研究の場も奪われます。私ではロアーク様だけではなく、兄弟子たちにすら力が及ばないのは承知しているのです。けれど師と約束しました。兄弟子たちの命まで取った魔法をそのまま放置し続けるのは再び使用される危険を伴います。それならば無理矢理に召喚した蜥蜴アイデクセの為にもこれに関わる研究は続けるべきだと」


 表向きは召喚の研究として伝えてあるが、実際には人の命を使うことなくアイデクセを元の世界に戻すのが目的の研究だ。勿論ナハトの代で完成するような術ではないが、今後の為にも研究は必要だとナハトはロアークに諭され、大人しく魔法使いとしての役目を果たしながら陰ではアイデクセを故郷に戻す研究を続けているのである。


「アイデクセさんを帰す?」

「ロアーク様は殿下と繋がる命の分離を、私は帰還方法を。けれど間に合うとは思えないので、アイデクセもあきらめているでしょう」


 生涯をかけて研究を続けてもどうにもならないだろうと、それだけ困難なのだとナハトは肩を落として落胆したが、間に合わないという言葉にユアは心の奥でほっとしてしまう。

 他の女性の所へ行ってしまうかもしれないと悩んでいたのに、この世界から消えていなくなられるよりもいいと、あさましい考えが湧き起ってしまった。


「アイデクセさんを帰すのはウィスタリアにとって不利になります。だからお爺さんだけが研究しているのだとばかり思っていました。それはレイトール様も知っているのですか?」

「国王陛下には内密にされていますが殿下もご存知です。けれど師が旅立たれ先が見えなくなっています。術に不手際があり、殿下と蜥蜴アイデクセの命を繋げてしまったのも私なのです。本当に不詳な弟子で情けない」


 ユアは八年前の出来事を思い出した。異世界から召喚した魔物を公開処刑にする場に躍り出た王子と魔法使いの姿を。王子はレイトール、そしてあの時魔法を使ってアイデクセに言葉を与えたのは今目の前にいるナハトだったのだ。


「あの時の魔法使いがあなただったなんて……あなたがアイデクセさんの命を救ったんですね。祖父も喜んでいたのに今まで知りませんでした」


 言葉を得られなければ意思の疎通が叶わず、アイデクセの力に慄いた国は処刑を決行しただろう。言語を繋ぐ魔法はアイデクセを生かすために急がれ、残された魔法使いであるナハトはやり遂げたのだ。


「救ったなんてとんでもない。私には殿下の命を犠牲にして言葉を繋げるのがやっとでした。私は召喚の八人にも選ばれないような腕前なのです。けれどあの召喚で力のある魔法使いはいなくなったしまった。私はロアーク様と決別した風を装い、レイトール殿下とも交流を絶って研究を続けています。ですが行き詰まり、こうしてロアーク様に教えを乞いたくてやってきてしまいました」


 顔を上げたナハトの視線がユアの背後に動き、はっと見開かれた後でゆっくりと頭が下がる。

 振り返ると薄暗くなった視界に背の高い青年がこちらへ歩おてきていた。相手がレイトールと分かってナハトへと視線を戻すと、「失礼します」と囁くように言葉を落として踵を返し、逃げるようにいなくなってしまった。


 ロアークと弟子のナハトとの間には恐らく大きな力の差があるのだろう。それならどうして困難と思われる帰還の魔法を、力が劣るナハトが請け負ったのだろうと疑問に感じた。

 開発した魔法に犠牲が伴う時点で大きな問題だが、言葉を繋げる魔法を作り出した。彼はアイデクセが知的であることを知らしめ、命を救った術者なのだ。

 十分に立派だが、ロアークと比べるなら困難を極める帰還の魔法をロアークが請け負った方が自然に感じてしまう。勿論そのどちらも簡単な物でないのだろうが、ナハトがあまりにも自分の力を卑下するので不思議に感じた。


「ロアークと話は済んだのか?」


 心配してついて来てくれたのだろう、ナハトに気付いているはずなのに触れようとしないレイトールに倣ってユアも「はい」とだけ返事をして頷いた。


「そうか。なら帰るか。お前も見ていただろうが、先ほどあのセリナという娘が謝罪に来て大量のパンを置いて行った」


 どうやらパン屋に勤めているらしいとのレイトールの言葉にユアは瞳を瞬かせる。 


「セリナ……セリナだったんですか?」

「そうだが、見なかったのか?」

「上からだったので顔までは確認できていませんでした」

「ユアに直接謝罪しろとアイデクセが言ったんだが、硝子代と袋を押し付けて逃げていったよ。彼女はよほどお前に対して劣等感を持っているらしい」

「劣等感なんてどうして彼女が?」


 冗談だろうと口にしながら、どうやらアイデクセに告白しに来た若い娘でなかったと分かりほっとして息を吐き出す。

 完全なユアの勘違いだったのだ。

 そうすると嫌な態度をとってしまったと途端にアイデクセのことが心配になってしまった。優しい彼のことだから自分が何かしたのだと不安になっているだろう。嫌な態度をとったと反省する。


「今後のこともあるし彼女について調べたよ。特に問題はないが、彼女の両親は酒に暴力とろくでもない親だったらしいな。恐らくだがそれを隠したくてお前のことを執拗に揶揄ったのではないだろうか」


 ユアに害をなす存在をレイトールが放置しなかった。即刻調べれば、セリナの背景は容易く露見したと教えられる。

 父親は酒に溺れ女遊びが激しく、母親は娘に手を上げることがあったという。セリナは既に家を出て一人で生活しているが、子供の頃は周囲に悟られないよう彼女なりの努力をしていたようだ。

 その過程で世間がよく知るユアの背景を責め、矛先が自分に向かないよう執拗にユアを貶め続けたのだろう。自分が攻撃されない為に周囲の子供たちも巻き込んで犠牲にし続けることで自分を守っていたのだ。

 当時のセリナは家庭に問題があり、子供の身では解決策はなかったかもしれない。けれどそれを理由に他人を貶め犠牲にしていい訳ではない。


「親や祖父に大切に守られているお前が羨ましかったに違いないと私は思う。だから執拗にお前を妬み続けることで、自尊心を保っていたのではないだろうか。人を貶めることでというのは哀れだな」


 哀れだと、溜息を落とすように吐かれた言葉はセリナだけに向けた言葉ではないのだろう。眉を寄せたレイトールの瞳が、陽が沈んでほとんど色を黒に染めた西の空を眺めていた。

 

 同時にユアも胸に引っ掛かりを覚える。

 セリナの背景を知ってもユアが受けた傷に変わりはない。けれど彼女が自分を隠すためにユアにした行為と、ユアがアイデクセやレイトールに向ける感情はどの程度の違いがあるのだろうかと。


 無理矢理つれて来られた上に殺されそうになって可哀想だと感じ、交流を持つようになってからはアイデクセが故郷に帰れるならよいのにと思っていた。

 けれど接するうちに気持ちは変わってくる。

 帰還の魔法も完成の見通しがたたず、帰れないという認識がユアの中にあった。妻に望まれよく分からなくて、けれどロアークを失ってからは二人の感情を利用して縋りついたのはユア自身だ。自分のことばかりを考えているのはセリナと同じだ。


「アイデクセが待っている、帰ろうか」


 促されて足を動かすが心が晴れない。

 行き詰っているというがアイデクセをもとの世界に戻す魔法はナハトによって続けられているのだ。いつかアイデクセが自分の世界に帰ることになったら、命が繋がっているレイトールはどうするのだろう。

 一緒に行ってしまうのか、その時はユアも異世界についてきたいと願うのか。一人になりたくないから彼らと共に死にたいと願っても、想像できない世界に踏み入れる勇気はまだない。


 晴れない心のまま家路を進み、あと少しで到着するというときに呼び止められた。

 アイデクセに力仕事を手伝ってもらったという近所に住んでいる初老の主人は、アイデクセにと紙袋に入った白い蒸かした饅頭を渡してきた。

 家を訪ねるところだったが丁度良かったと渡され、礼を言って受け取る。

 ウィスタリアを救った英雄ながら、恐れられる姿をしているせいで人目を忍んでいたアイデクセも、いつの間にか馴染んで礼にと食べ物を頂戴するまでになっていた。

 彼にとって離れがたい場所になっているだろうかとの想いが浮かんで頭を振り考えを追い出す。

 帰宅すると不安そうにしていたアイデクセに饅頭を渡した。


「アイデクセさんにって頂きました。まだ温かいです、夕食の前に食べてしまいましょうか」

 

 紙袋には真っ白な饅頭が四つ入っていたので、アイデクセには二つ皿に乗せお茶の用意をする。セリナに貰ったというパンは袋に入ったまま台所に置かれていた。


 饅頭が乗った皿をアイデクセの前に置くと、徐に手を伸ばして両手に饅頭を掴んだアイデクセだが、力の加減を間違えたらしく二つとも手の中で潰してしまい唖然としていた。そして視線がまっすぐにユアへと向かう。


「こっちを食べますか。味は同じなのでわたしは潰れた饅頭でも平気ですから」


 皿を前に出すとレイトールがぷっと吹き出したあとで、やはり堪えきれなくなったのだろう。声を上げて笑い出し、何とも言えない表情でレイトールを見たアイデクセは、ユアから差し出された皿を断ると、潰れた饅頭を一気に口へと押し込んだ。

 よく意味が分からないユアだけが、首を傾げてアイデクセと笑い続けるレイトールとを交互に見比べていた。






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