その26 三人の結婚
ユアは、正面を向いたまま無言で進むレイトールを見上げた。
横から見ると金色の睫毛の長さがよく分かり、光彩は陽の光に透けていつもよりも薄い碧色を発していた。
幼い少女までもが頬を染めてしまう、綺麗な顔立ちをした王子様。そんな彼が真剣な表情をしていると恐ろしさすら感じるが、無表情ながらも昨夜のように怒っている感じはしない。ユアはほっとして胸をなでおろした。
「すまなかったな」
安堵の息を吐いたのが分かったのだろう。レイトールが謝罪の言葉を口にしてから、ゆっくりと首を動かしユアを見下ろした。
「仕事を続けることを許してくれますか?」
「そうだな。あの娘にも約束したし、反対する理由もなくなった」
「理由?」
家のことや花嫁衣装のこと、そして男二人が仕事をしているのに、普通なら家庭におさまっているべき女が働きに出ることに苛立っていたのではないのか。それらがレイトールの中でどう解決したのか分からず、ユアは首を傾げた。
自立したかったユアは仕事に出ることを望んだが、レイトールの思い描く自立とは異なっていたのだろう。けれど最初に仕事をするべきと提案した時には、望む仕事を紹介させると言っていた。一般家庭での家政婦はレイトールの許容範囲でなかったのかも知れないが、反対する理由がなくなったとはいったいどういう意味なのか。
考え込むユアの前でレイトールは力を抜く様に息を吐き出した。
「妻を亡くして小さな子供もいると聞いたからな。私とそう変わらない年齢の男のもとへ、妻に等しい役目を果たしに行くと思い苛立った。同じ屋根の下でその男にどうにかされる警戒心がまるでないことに腹が立って、奉仕される男を想像して嫉妬したのだ。お前を他の男に取られるのではと考えたら恐ろしかった。なにしろ私は大切な妻の記憶を失くしてしまうような夫であり、酷い言葉を投げかけたのだから。愛想を尽かされても文句が言えない」
驚いたユアは立ち止まって瞳を瞬かせる。
「嫉妬?」
父親との確執はあるが何もかもに恵まれた王子様が、何も持たない小娘に嫉妬など。上手く理解できないユアはレイトールを凝視した。
「そうだ、嫉妬だ。そのせいで正しい判断ができなかった。お前が他人に対して警戒心が強いと知っているのに、他の男に現を抜かしたりしないとも分かっているのにな。いらぬ心配をして苛立って、自分のしたことがあるせいで逃げられるのではないかという恐怖を感じたんだ」
ユアには幼い頃の影響で同年代の友人がいない。攫われて娼館に閉じ込められた際には、襲われて男の恐ろしさも人並み以上に理解しているはずだ。
そんなユアが若い男と二人きりで家の中に籠るようなことは絶対にしないと、少し考えればわかることだったとレイトールは反省を述べる。
確かにレイトールの言う通り、家政婦を受けたのは幼いプリシラの存在もあったし、祖父と孫娘の組み合わせだというのも大きな理由だ。仕事先の家族構成を伝える間もなく反対されて、自分で選んだ仕事を反対されて、何故なのか理解できずに盾突いて、腹を立てて言い返すような事態になってしまったのだ。
「嫌な思いをさせてすまなかった。本当に私は何をやっているのだろうな」
記憶がない時にユアを傷つけた言葉や苛立ちも、結局はレイトール自身のせいなのだ。
出会ったときからアイデクセに心を開き、輝く笑顔を向けていたユアこそが本物なのに、人の後ろに隠れて俯いたのは記憶のないレイトールを前にして、戸惑いと悲しみを抱いていた結果なのである。
苛立ちから決して口にしてはいけない言葉を突きつけたのはレイトールで、その言葉に自覚があったユアは自分を変えようと世界に出ていく決心をした。
知らずにとはいえ背を押したレイトールは、ユアの前向きな思いを応援するどころか、話も聞かずに否定して腹を立て、一人で騒ぎ立てていたのだ。
「私はアイデクセの言うように心が狭いな。行く先に若い男がいるとなれば嫉妬する。だが今回のような状況なら許容範囲だ、己の目で見てようやく心が落ち着いた。こんな男で申し訳ないが、それでもお前を愛しいと想う気持ちはとても強い」
酷い言葉をかけてしまった負い目がレイトール自身に襲い掛かっていたのだ。冷静になれば状況を把握してユアに嫌な思いをさせることもなかった。レイトールは己の不甲斐なさに深く反省し素直に謝罪を口にする。今のレイトールにできるのは謝罪しかないのだから、とにかくユアに嫌われないよう頭を下げた。
「嫉妬ならわたしもします。自分に自信を持ちたくて外に出ようと決心しました。わたしはレイトール様とアイデクセさん、二人の隣に並んでも堂々としていられるようになりたいんです」
だから口答えもしてしまったが、どうしても嫌ならレイトールが許してくれる仕事に変更する意思があると伝えれば、その必要はないとレイトールは返した。
「私は妻であるお前が他の男に奪われる心配をして騒ぐが、アイデクセは静かに見守れる余裕を持っている。だがアイデクセは私以上に激しい想いを抱えているんだ。それは恐らくアイデクセが横恋慕のない種族だからなのだろう。伴侶となった後に失われることがあると学習して知っていてもそれまでだ」
この世界を学習して生涯ただ一人の相手を伴侶とする者たちばかりでないと知っていても、アイデクセがそれを身をもって体験する機会はなかったはずだ。
随分昔に娼館に連れて行ったこともあったが、多くの男たちと性交渉をもつ女たちを目の当たりにしてとても悲しんでいた。アイデクセの世界には体を売る女も女を買う男もいない。生涯ただ一人の人しか愛さない、家族をとても大切にする種族だ。
だからこそ人を傷つけることに心を痛めながらも、命を繋げたレイトールの為に多くの命を狩り続けウィスタリアに味方してくれた。
「アイデクセは大切な物の為なら何でもやる。お前を奪われたら頭と胴を引き千切ると言ったのを覚えているか。あれは事実だ。もしそうなればユア、お前も傷つく。アイデクセに関わることは嫉妬心だけで言っているのではないのだ。どうかお前自身も自覚して気をつけて欲しい」
鱗に覆われた大きな黒い体に凶器にもなる太い尻尾。ナイフよりも硬く鋭い爪に人知を超えた力と俊敏さ。一見して分からないが、頭上にも物を見ることができる目を持っていて、匂いや気配に対する敏感さは野生動物に勝る。
性格は穏やかで弱いものを傷つけることに極端な恐れているが、懐に入れたものに対する情は凄まじいほど深く、守る為なら持てるものをすべて使って敵を薙ぎ払うのだ。
ユアを奪う輩が現れたら問答無用で処分すると、さも当たり前に言ってのけたアイデクセはそのような習性で、彼にとっては当たり前の権利であり常識でもあった。
アイデクセの習性に関しては、レイトールを始め、ユアもしっかりと心に留め置かなければとても悲しい結末を迎えることになりかねない。
この世界でレイトールとユア、家族を害する物はアイデクセにとって抹殺対象と言って過言ではないのだ。
特にユアに対してはレイトールが記憶を失ったことが影響したのか、愛でることに戸惑いを失くして遠慮が無くなっていた。喜ばしいことだが不安に苛まれる。生まれ育った世界の違いから、ユアに降りかかる災難が他人から齎されれば、アイデクセは遠慮なく当然のように凶暴になるであろう。その姿を想像すると心配にもなる。
レイトールの不安にユアも同意した。外の世界に出るということは、閉じこもっていれば回避できる危険に遭遇するということでもある。それが人であった場合、ユアにアイデクセを止めることが出来なければ、アイデクセはこの世界で英雄ではなく殺戮者へと変わってしまうのだ。
「自分を守ることはアイデクセさんを守ることにもなると?」
「俺と違ってアイデクセはお前を閉じ込めたいわけじゃない。自由に、望むままにやらせたいんだ。心の広い男だが、お前が奪われることだけは絶対に許さないぞ。純粋だが、この世界では危険な執着でもある」
殺めることに心を痛める種族が、伴侶を奪われた報復が命を奪うのが当たり前と穏やかに言ってのけたのだ。しかも首と胴を引き千切るという残忍なやり方で。伴侶や家族を奪う行為は決して許されない悪行なのだろう。
もしあの日に召喚されたのがアイデクセではなく、家族や伴侶を持ったものであったとしたならいったいどうなっていたのか。
大切なものから引き裂かれた蜥蜴のような彼らが、この世界の言葉が通じたとしてもまともな話し合いができたのか怪しいところだ。
引き離された怒りから問答無用に力を揮われる。もしそうであったらこの世界は終焉を迎えていたかもしれないと考えると震えが起きる。
ウィスタリアはなんてことをしたのかとレイトールは幾度も心を痛めてきたが、それでもアイデクセのお陰で今があるのも事実なのだ。しかもやらせる原因になったのはレイトール自身。
今後アイデクセがユアの為に人を殺めることになればユアも同じように心を痛めるのだろう。そうならないようにとレイトールは願い、不安に瞳を揺らしていたユアの頬にそっと触れた。
「それほど怖がるな。お前自ら他の男へ鞍替えするようなことにはなるまい。最悪が起きたとしても、私達の妻に手をだすのだからそれだけの覚悟があるはずだ」
これまでは特に公表することなく暮らしていたが、注意喚起の意味も含め意識して知らしめるべきなようだ。蜥蜴と王子、二人を受け入れた特殊な娘として心無い言葉を投げかけられるかもしれない。それから守ってやる必要もあるだろうと考えながら、レイトールは身を屈めるとユアにそっと口づけた。
「逃げるかと思った」
「そんなことっ!」
逃げたりしないと訴えながらユアは白い肌を真っ赤に染め頭を振る。
逃げなかったのは突然すぎて逃げる間もなかったからだが、されると分かっていても逃げなかった筈だ。
けれど人の往来がある公共の場で、ただでさえ人目を惹くレイトールがこんなことをするとは思っておらず驚きが隠せない。
小さく笑ったレイトールは、羞恥と動揺で慌てるユアの腰を抱き寄せて家路を急いだ。家ではアイデクセが二人の帰りを待ちつつ、庭の手入れをしていた。
アイデクセは大切なものを閉じ込めて囲うのではなく、好きなようにさせるのを好むようだ。ユアが何かしていても黙って様子を窺っていることが多く、けして行動に制限をかけるような性格ではない。
「アイデクセさん。わたしは仕事に行かない方がいいでしょうか?」
「異界に渡れとは言わないが、世間を知るのは良いことだと思うぞ。幼い子供に驚かれても俺は平気だから心配するな。それともレイトールがごねているのか? ユアがしたいようにするのが一番だ。俺も応援する」
アイデクセもユアとレイトールの為にこの世界を更に知る努力をすると、咲き始めた薔薇の手入れをしながら尻尾を揺らしていた。自分のせいで仕事がしずらいのかと問われ、ユアはそうでないと首を振って笑顔を作る。
「あの子、プリシラというのですけど。アイデクセさんに言いたいことがあるそうです」
「それは……ユアの様子からして悪いことではなさそうだな」
「悪いことではないと思いますよ。明後日、また送ってください」
「分かった」
悪い話ではないと感じて目を細めたアイデクセだが、再び訪れた先でプリシラに目を見開かれたまま大泣きされてしまう。
それでもプリシラは半日過ごすと何でもないように回復して、次はちゃんと挨拶すると意気込みアイデクセの訪問を約束させるのだ。
三度目でどうにかお礼の言えたプリシラは、度々訪問してくるアイデクセの姿を見つけた近所の子供たちに『友達なの!』と自慢げに公表し、羨ましがられて以来どういうわけかアイデクセを恐れることがなくなり、尻尾に乗せられ乗馬のまねごとで遊ぶようになる。
「取れたら縫ってあげるね!」
乗馬のまねごとのせいで尻尾が取れても大丈夫なよう、プリシラは祖父に頼んで特大の縫い針を手に入れアイデクセに見せびらかしていた。
プリシラに懐かれたアイデクセは幸せそうに見える。
巨大な黒い蜥蜴がプリシラを始めとした小さな子供たちに囲われ、人にはない特徴に歓喜の声を上げられまとわりつかれて幸せそうにしているのだ。彼はきっと素敵な父親になるとユアは思ったが、ユアの瞳は悲しみに満ちていた。
それからしばらくして、花嫁衣装を作り上げたユアはアイデクセと共に神前で結婚式を挙げる。人目を忍ぶように夜更けに貸切られた教会で永遠の愛を誓い神に報告した。
これでレイトールだけではなく、アイデクセとも正式な夫婦として認められる証明を得たのだ。
重婚などウィスタリア中を探してもユアだけが成し得た不道徳だが、アイデクセと王子の命が繋がり、離れられない状況だと思われているだけに責めるような人間はそれ程存在しない。少数派も王子を夫とした庶民の娘に対してのやっかみから来るものだ。
純白の花嫁衣装が闇に浮かび、黒い二つの影に守られ家に戻る。アイデクセはこの日の為に特注された衣装に身を包み、レイトールも揃いの衣装を纏っていた。家に戻ると漆黒のローブに身を包んだ魔法使いが出迎える。小さな灯りだけの室内で三人をゆっくりと見渡したナハトは最後の確認を口にした。
「アイデクセではなく、ユアさんの寿命に合わせるということで良いのですね?」
三人で生きるなら長寿のアイデクセに合わせ、帰還の魔法が完成するのを待つ選択もあるが、三人の誰一人として長い生を望んではない。それにアイデクセに合わせた場合、時間の経過もそれに等しくなり老化現象が極めて遅くなる危険があるのだ。そうなればアイデクセの長寿が世間に知られ悪用される危険がある。
ナハトはこの世界でたった一つの特殊性を捨てることを残念に感じながらも、無理強いはせず三人の意思を尊重し素直に従った。




