その23 みつぎもの
逃げるように階段を下りると、疲れ果てたナハトが台に突っ伏し眠っていた。魔力を使い果たしたせいだ。泣いて腫れた顔を見られなくて済むと安堵しながら外に出ると、井戸の水を汲みあげ手にすくって腫れを冷やす。
「気持ちいい……」
はぁと息を吐き出し、干しかけの洗濯物に目を向ける。今は何かしていないとレイトールの言葉に乱され冷静でいられないのだ。
放置していたシーツを洗濯ロープにかけていると音もなくアイデクセがやって来た。
アイデクセの世界では鼻を押し付ける行為が愛情表現らしい。気恥ずかしいのと、接吻と同じ行為であると知らされたせいでどう反応していいのかわからず混乱してしまう。
確かにアイデクセには人と同じように唇があるわけではないし、彼の口は耳まで避けて綺麗な尖った牙が無数に並んでいるのだ。そんなアイデクセと人が同じ行動をすると思い込んでいる方がおかしいのだろう。その先はどうなのかと考えて、考えを払いのけるように首を振った。
「レイトール様の側にいて下さい」
「お前の側にいろと頼まれた」
「もう勝手に飛び出したりしません。それにレイトール様は怪我をしているんです。落ち着いたらわたしも看病します。でも今は……まともに顔が見れません」
考えたくなくても結局はレイトールのことを考えてしまう自分自身にため息が漏れた。
自分に自信があったら、洗濯物を放置して飛び出す前に発せられたレイトールの言葉に言い返すこともできただろう。けれどユアにはそれが出来るだけのものが何一つないのだ。
死の際に愛の言葉を告げられなかったと後悔するほど、レイトールがユアへの想いを強く持っていてくれていたのは真実なのだろう。彼の言葉を疑うのはもうやめたい。
けれどそれを受け入れるだけの自信がユアにはなかった。
確かにユアもレイトールに心が捕らわれてしまっているが、沢山の魅力を持ったレイトールに愛されるだけの自信は変わらずないままなのだ。
「このままじゃ、いずれまた同じことになるのかな……」
レイトールの気持ちが彼自身のものであっても、いつも誰かの後ろで守られて、卑屈で自信のない惨めな娘は存在を続ける。
対してレイトールは誰もが憧れる姿形だけでなく、人としても素晴らしいのだ。
アイデクセとて姿は異質だが、彼の本質を知れば誰もが魅力に気付いて好意を向けるに決まっている。このままでは二人を失う不安は生涯消えることなく付きまとうだろう。
ならばどうするのか。勇気を持つべきと分かっている。レイトールとアイデクセ、二人の隣に立っても堂々としていたいと唇を噛みしめていると影が指し、ふと見上げればアイデクセの鼻がユアの鼻に寄せられ思わず顎を引いた。
「ユア……」
「違うのっ、ごめんなさい!」
一瞬でアイデクセの表情が悲壮感漂わせたものへと変わる。ユアは咄嗟に腕を伸ばしてアイデクセの顔を引き寄せた。大切な彼を傷つけたくないと、柔らかな唇をアイデクセの裂けた硬く薄い口に寄せる。
ほんの一瞬だけ、触れてすぐに離れた唇。思わず取ってしまった行動にユア自身が驚き、弾けるように距離を取ろうとしたが、アイデクセの腕が背中に回っていて息が触れる距離から離れることができない。
アイデクセも驚いたようにユアを見つめていたが、瞬く間に表情を柔らかくして嬉しそうに目を細めた。
「想いを行動で表されるというのは、とても嬉しいものだな」
「あのっ……ごめんなさい。わたし、ちゃんと好きです。本当にアイデクセさんのことも、レイトール様のことも、異性として本当に大好きです」
これまでちゃんと言葉にして伝えただろうか。伝わっていただろうか。不安に感じているのは自分だけではなのだと察したユアは、必死になって好きだと訴える。
「大丈夫だ、ちゃんと知っている。俺もお前とレイトールが大事で、何よりも愛しい。お前が望むなら、お前に酷いことをしたアシュケードを消滅させるのもやってのけてみせる」
ただの庭師で軍人ではないが、この世界ではアイデクセの力は何を前にしても劣るものではない。召喚された後にはレイトールの為に多くの血を流した。だから同じようにユアの為にも多くの血を流してやれると、それだけのことをやってのけると物騒な例えを愛の証明としてアイデクセは語る。
「そんなことアイデクセさんに望んだりしません。それにアシュケードには助けてくれた人もいます。誰かが死ぬのは嫌ですし、アイデクセさんも人を手にかけるのは嫌でしょう? レイトール様だって、アイデクセさんに人殺しをさせて心を痛めているに決まっています。嫌だと思うことはやらなくていいんですよ」
心を許した相手には己に反しても尽くし通す。不本意ながらもアイデクセはレイトールの為に戦場に立ったのだ。そんなことをアイデクセにやらせたいわけじゃないとユアは念を押した。するとアイデクセはまるで甘えるように鼻をすり寄せた。
「でもこれは、人前ではしないで欲しいです」
「どうしてだ?」
「ちょっと、恥ずかしいので」
「人は匂いに疎いだろう。こうしていれば誰も懸想しない」
アイデクセの世界では一生にただ一人だ。大切な人がいるかいないかは匂いで分かるが、この世界ではそうではない。他人の伴侶を奪うという常識のない世界に生まれたアイデクセだが、この世界では時に起こり得るというのも理解していると口にした。
「ユアが他の男に奪われたり、まして目を向ける隙がないように。俺の愛しい人だとひと目で分かれば、俺を恐れて誰も手出ししない。恥ずかしいと頬を染める理由がちょっと程度ならいいだろう?」
と、アイデクセはいつになく執拗に鼻を押し付ける。
そんなアイデクセを引き離すのに苦労したユアだが、その後は洗濯物を片付け、湯を沸かして埃だらけのアイデクセの体を拭ってやると、疲れて眠っているナハトの分も食事の用意をして振る舞った。
最後にレイトールの元へ足を運ぶと、彼は瞼をしっかりと閉じて眠っており、側に寄っても起きる気配がない。
椅子を寄せ腰を落ち着けたユアは、眠るレイトールの耳元でそっと囁いた。
「わたしを愛してくれてありがとうございます。わたしも、レイトール様の前で堂々としていられるように、誰かの背に守ってもらってばかりじゃなく、一人になってもちゃんと立てるように。レイトール様に見合った妻になれるように努力しますね」
一つの決意を言葉にしたユアはそのままレイトールの側で、椅子に座ったまま眠ってしまった。
アイデクセは疲れたナハトを肩にかついで送り届けた後に寝室の扉を開く。
音もなく足を踏み入れ、直接床に腰を落としたのはユアがいつ傾いてもいいように見守るつもりだからだ。柔らかな布団やクッションではなく、アイデクセ自身が硬くても我が身で受け止めたかった。
頭部をレイトールが眠る三人用の寝台に乗せて、意識を保ったまま瞼だけを落とす。
今のアイデクセは誰とも命を繋げていない。
二人に何かあったら正気を保てないと、ナハトの魔力が戻って再びレイトールと命を繋げてもらうまでは、何があっても二人を守らなければとの恐れが復活してきていた。けれどそれは自分の為だけではない。
身体能力だけで判断するならアイデクセはこの世界で最強で、寝込みを襲われようと瞬時に首を落とされるような事態にならなければ命を落としはしないだろう。
それでもいつ何が起きるか分からないのが未来だ。
庭仕事だけが人生の楽しみだったアイデクセが異なる世界に召喚され、その先で大切な存在を二人も手にする幸運に出会えた。
その二人も同様にアイデクセを想ってくれているだけに、万一にも自分に何かがあれば二人を悲しませてしまうのだ。
レイトールはあらゆる事態に対応できる権力や人脈、そして実行力がある。きっと一人になったとしてもなんとか乗り越えてくれるだろう。
だがユアはか弱い、本当に一ひねりで何もかもが粉々に粉砕してしまうような、守ってやらなければならない存在だった。それは肉体的な意味だけではなく精神的にもだ。
一時的な期間であったが、レイトールを失って感じた悲しみは計り知れない。大切な人に忘れられるという出来事は心に闇を齎し肉体を蝕む。
解決したとはいえ辛い経験をしてしまったユアが心配でならなかった。
彼女の笑顔の為なら何でもできると、アイデクセは掌に爪を握り込み眠るユアの柔らかな頬にそっと触れる。
「ユア、俺も死の瞬間、その時をお前と共に迎えたいと望んでいる。絶対に一人にしないから、俺のことも一人にしないでくれ」
一人残されるなら殺して連れて逝って欲しいと願う気持ちはよく分かる。その約束がレイトールとユアだけに限定されている訳でもないことも。
レイトールはユアを一人にしない、死ぬ時は共に逝くと約束したが、それはアイデクセと命を繋げている時の約束だ。繋がりを解いた後は、ユアを守る存在があるなら残して逝く覚悟を持っていた。
けれどアイデクセは違う。
一人残されるのは嫌で、三人で一緒に逝きたいと願う気持ちが強かった。
ユアとレイトール、どちらか一人を残して逝きたくないし、残されたくもない。けれど殺せと懇願されても出来るかどうかは分からなかった。
時を経てレイトールの傷は塞がったが、元通りに動くにはあと少しという時期にアシュケードから贈り物が届いた。
差出人はサヴァドで『奥方へ』とカードが添えられた品は、ほんのりと赤く色づいた甘さの強い女性好みの酒だ。
ユアが娼館でサヴァドに買われていた時に飲ませてもらったもので、この味をユアも気に入っていた。
何処から情報を仕入れたのか、レイトールの記憶が戻ったのを知り付け届けの意味も含めて貢物をしてきたらしいが、色々あってサヴァドのことを忘れていたユアは好みの酒が届いても浮かない顔でカードをじっと見つめる。
「あの、レイトール様。実は……」
娼館に売られても体を売らずに済んだのはサヴァドのお陰で、不公平だからとファミにけしかけられた男に襲われた時にもサヴァドに助けられた。そして重傷を負ったレイトールを匿ってくれたのも彼だ。
善意ではなく目的あっての行動だったとしても助けられた事実は消えない。
色々あってこれまでサヴァドのことを考える暇がなかったが、見返りを要求されていることを思い出したユアは、申し訳なさでいっぱいになる。
サヴァドとの関係を口にすればレイトールは迷わずサヴァドの言葉に従って要求を呑むに違いないのだ。これが申し訳なくならないわけがない。
顔色を悪くしたユアに「どうした?」と、酒瓶を手にしてラベルを見ていたレイトールが視線を向けた。
「申し訳なくて」
「礼だろう、遠慮なく受け取れ」
「え……礼って?」
礼をしなければならないのはユアの方だ。訳が分からず首を傾げたユアにレイトールは何でもないように瓶を見分しながら答える。
「何処の誰とも分からない男の要求を問答無用で呑んだりしない。調べて問題ない男だったからな、奴の望むまま領主の地位を与えるよう手配した」
いったいいつの間にと驚くユアに、察したレイトールは心外だと言わんばかりに溜息を落とすと瓶を木箱に戻した。
「サヴァドを領主にしたのは記憶を思い出す前だ。こういういい方は悪いが、私とアイデクセでお前を買い戻させてもらった。領主の件は私をかくまい助けた礼とした」
「買い戻した?」
「お前はサヴァドに身請けされた状態だったのを忘れていたのか?」
その通り、色々なことがありすぎてすっかり忘れていた。
「記憶になくても、自分の妻が他の男に買われた状態であるのは不快極まりなかった。お前にかかった費用はいらないと断られたが冗談じゃない。どれ程高額であっても買い戻すのに不満はなかった。むしろ買い戻さなければ気になって眠ることすらできなかった。たとえお前を忘れて妻と認めていなくても、私の心の奥にはお前が住み続けていたということだろうな」
さらっと無意識の意識を披露して失態を繕っているが、ユアは自分が忘れている間に何もかもが終わっていたことに衝撃を受けて気付かない。
「問題ないって……本当に領主にして大丈夫な人だったんですか?」
「貧しい労働階級から一代であれほどの事業を展開させた男だ。汚いこともしていると思って調べたが、まぁ許容範囲だった。周囲からの評判も良く、事業主としての能力も高い。悪徳な領主よりもよほど民衆の理解が得られる。アシュケードの民の心を溶かす意味でもサヴァドを領主に据えて問題ないと判断した」
もとはウィスタリアに進攻してきた国の人間でもあり、弱みを握られたままでは王子として拙かったというのもある。それでも領主の件は別で、恩があるからとの理由だけで権力を与えては後々何が起きるかわからないので慎重にしっかりと調べたが問題はなく、更に土地にとっても有益になると判断した結果だ。
その判断を下した時はユアへの想いも思い出してはいなかったし、サヴァドの所有する鉱山からは良質な鉄が採取され、他にも彼が起こした事業は先のあるものばかりだ。そういう相手を手の内に取り込んでおくのはレイトールにとっても有益になる。
そう説明したレイトールをユアは不安そうに見上げていた。
「本当に?」
「庭で倒れてからは仕事をしていないのを知っているだろう、本当だよ。この酒もその礼というより、ユアを喜ばせて私との繋がりを強くしておきたい思惑だろう。記憶がない時にはお前のことには露程も触れなかったのに、何処から聞きつけたのか。まぁ今のところは害にならない男だ、この程度の貢物なら遠慮なく受け取って構わない」
高額なものになると問題だが、サヴァドなら煌びやかな宝石類などユアが好まないことを承知しているだろう。底辺から始めた男なだけに高級品だけに頼る馬鹿な考えがないのは有り難いが、過剰な貢物は受け取らないに越したことはない。
この件はユアを基準にして動いていないと諭されるが、サヴァドがレイトールとつながりを持つようになったのは自分のせいだ。
それが両国にとって良い方向に動いているとしても、手を煩わせている事実がなくなるわけではなくて。
暗い考えに心を落としそうになるユアの脳裏に『根暗』という声が蘇って思わず「ひっ」と声を上げると、「どうした、虫でもいたか?」とレイトールが木箱の中を覗き込んだ。




