その22 愛してる
ユアがアイデクセに抱えられて家に戻ると、目の下を黒くして疲れ果てたナハトが二階から降りてくるところだった。
記憶を取り戻すために無理して魔法を解いたのかと不安で息苦しさを感じる。二人を目に止めたナハトはふらつきながら階段を下り、ユアがナハトに事情を訊ねる前にアイデクセがユアを抱えたまま階段を駆け上がった。
向かったのは三人の寝室だ。レイトールに拒絶されてから、アイデクセと二人でしか使わなくなってしまった部屋の寝台。そこにレイトールは横たわっていた。
ようやくアイデクセの拘束が解けて床に下ろされると、ユアは大きな寝台のせいで狭くなった部屋を数歩で駆け寄る。寝台に飛びついて恐る恐る名前を呼んだ。
「レイトール様?」
怖くてとても小さな声になってしまった。レイトールはその小さな声を拾って、金色の睫毛に縁取られた瞼を持ち上げる。輝くように美しく澄んだ青い瞳がユアに向けられた。
その瞳はとても優しくて、何処となく憂いを帯びていた。
「レイトール様……」
「すまない」
ユアが大丈夫かと言葉を発するより早く、腹の傷が開いた割にはしっかりとした声がレイトールから洩こえてほっとした。
「謝って済む問題じゃない、自分自身を殺してやりたいくらいだ。だがお前と一緒にいたいから、情けなくても許しを貰えるまで私は謝罪を続ける」
こういう言い方がいかに狡猾なのかレイトールなら十分に理解しでいるはずだ。ユアだけじゃない、彼が頭を下げたら、よほどでない限り誰もが彼を許してしまう。
レイトールは自分が人に好かれているのを本当によく分かっているのだ。
それでも彼に狡賢いという言葉は当てはまらない。レイトールは一度でも言葉にしたことは謝っても取り返しがつかないと分かっているし、それだけの言葉をユアに突きつけたと知ってる。
実際にユアはとても辛くて心を痛めた。アイデクセが迎えに来てくれなかったら、自分の家なのに戻ってこれなかったかも知れない。
ただレイトールは、心から反省できる人だ。自分に非があると認める正直な人で、身分云々で差別もしない。卑しい子供の頭を笑顔でなでてくれる、そんな男性だった。
「確かに私はお前のことを忘れてしまっていた。だが私はお前に何かを言いたくてたまらなかった。その言いたいことが何なのか分からず苛ついて、その苛立ちをお前がアイデクセの後ろに隠れるせいだと決めつけようとした。しかしそうじゃない。やっと思い出したよ」
レイトールは横になったままユアを見つめていた。その瞳は薄く濡れ、男性なのにあまりにも妖艶で、切なく愁いを帯び、そして否応なしにユアを惹きつける。
身じろぎしたレイトールが苦痛に眉を寄せ腹部に手を持って行かなければ、瞬く間に魅了されただろう視線だ。
ユアはこんな時に跳ねてしまった鼓動を誤魔化すように手を伸ばす。するとその手をレイトールが掴んで自分の胸元へと導いた。
払い除けるようにされたあの日以来、伸ばせなかった手を、レイトールはしっかりと握りしめてくれた。
「私に触れられるのは嫌か?」
自虐的な笑みを浮かべたレイトールだが、胸に寄せたユアの手を放すようなことはしない。切な気に息を吐くと、何かを決意するように今度は芯の強さを示すような強い眼差しをユアへと向けた。
「私を嫌ってもいい、嫌われるだけのことをした実感はある。だが私はもう一度、必ずお前を振り向かせるよ」
思わぬ告白にユアの胸が強く打ち始めた。
握られている手からそれが伝わって、心を見透かされそうでユアはぎゅっと目を瞑り、レイトールに引き込まれそうになる自分を誤魔化したくて言葉を探る。
「レイトール様がわたしに言いたかったことって何ですか?」
ユアを忘れていても、何かを言いたいことだけは分かっていたという。それはいったい何なのか。聞くのが怖かったが、思い出したらしいレイトールは先を続けない。ユアにとっては嬉しくない言葉なのか。急なことに混乱もしていたユアは、恐れながらもレイトールがユアに言いたかった言葉を引き出す。
「教えてください。それはきっとレイトール様の本心でしょうから」
何もかもが間違いだった。離婚したい。そう言われても泣かないよう、傷付かないようにユアは腹の底に力を入れた。
「お前を愛している」
なのにレイトールが紡いだ言葉はとても甘くて。
思わぬ言葉に驚いたユアは息が止まってしまった。
「アイデクセに感情を引きずられて好きになったんじゃない。私自身がユア、お前を愛していると伝えたかった」
「……あ、い、してる?」
驚き過ぎて表情が抜け落ち、茫然としたままレイトールの告げた言葉を辿る。するとレイトールは「そうだ、愛している」と頷き、とても真剣な顔つきでユアを正面から見つめた。
「あんな酷い言葉を吐いておいて今更何だと思うだろうが、私はずっとお前に愛していると言いたかったんだ。伝えずに死ぬのかと思うと後悔しかなかった。そして生き残り、再び思い出したら更に欲が増した。私はユアやアイデクセと離れたくないんだ。それには再びお前の心を手に入れる必要がある。私は自分で思うよりお前に執着しているようだ。再び受け入れてもらえる日まで何があっても引かない」
レイトールが絶対にあきらめないと宣言すると、アイデクセがユアの真横に来てぴったりと身を寄せた。傷つけるのが怖くて恐る恐るだったアイデクセが、今では迷わずに触れてくれるようになった。それもこれもレイトールからユアの記憶が失われたことによる結果だ。
アイデクセの雰囲気はとても穏やかで優しさに満ちていた。見上げると微笑んでいるように思える。
「レイトール、それは謝罪しているのか?」
大切な女性を忘れてしまったと謝罪しながらも、あまりにも堂々とした態度のレイトールに、アイデクセが楽しそうに聞いた。
「しているぞ。だからってあきらめるつもりはないと宣言しているんだ」
「それは謝罪なのか?」
「受け入れてくれるまで許しを乞う。仕方ないだろう、引けない程に気持ちが持って行かれているのだから」
「愛しているし好きだ、それについて何か文句でもあるのかと言っているように聞こえるが?」
「まぁ……そうかもな。だがユアを傷つけた事実は消えない。だから次に拒絶され心を痛めるのは私の番だ。当然の報いなのだからどれほど拒絶されても文句はないぞ」
「ユア、やはり罵るなりひっぱたくなりしておいた方がいいんじゃないか?」
好きなだけ傷つけろと促すアイデクセの隣で、ユアはレイトールに片腕を握られたまま寝台に顔を突っ伏し肩を震わせる。
罵るのではないけれど言いたいことはあった。けれど言葉を出そうにも他のものが込み上げて声を出すことができないのだ。
「ユア……」
慰めるようにアイデクセはユアの頭に鼻を寄せた。ユアから込み上げるのは嗚咽で、目を閉じてもとめどなく零れる涙がシーツに吸い込まれて行く。
忘れられて悲しかったし、向けられる視線や態度、そして言葉はとても辛かった。けれどそんなものが吹き飛ぶほどの言葉を貰ってしまっては、責めるよりも嬉しいという感情ばかりが込み上げてしまう。
これほど簡単に許しては操りやすい女と思われてしまうかもしれないが、結局はレイトールを好きだという気持ちを止めることができない自分のせいだとユアは思う。
初恋だったし、叶うなんて思わなかった。いつの間にか夜にアイデクセを連れて訪問してくるだけの存在になり、王子という垣根がとても低く感じられる人になった。
それから思いもよらない告白を受け、祖父を亡くしてからはわざとらしい唆しで一緒に住もうと誘惑してくれたのだ。
何時から再び異性として好きになったのか分からない。ただ向けられる好意が偽物だったと告げられるのが怖くて壁を作り、失って、そこで後悔しても遅いのだと知った。
レイトールはユアの手を握り、アイデクセは腰に腕を回して鼻をユアの髪に埋めている。そのまま二人は何時までも黙ってユアの感情が落ち着くのを待っていた。
かなりの時間が過ぎて嗚咽は治まるが、顔を埋めたシーツが涙でぐっしょりと濡れているのが気になり始める。ユアは自分の心が落ち着いてきたことを知るが、どうしようもなく恥ずかしくてレイトールに答えることも顔を上げることもできないでいた。すると髪の中に埋められたアイデクセの鼻が鳴る音が耳に届く。
「アイデクセさん、さすがに恥ずかしいので匂いを嗅ぐのはやめて下さい」
ちゃんと洗っているので臭いとかではないだろうが、嗅覚の優れたアイデクセに鼻を鳴らされると気になってしまうのが若い娘というものだろう。するとそれに答えたのはアイデクセではなくレイトールの声だった。
「ユア、それはアイデクセの世界での愛情表現だ。私達の世界でいう所の接吻に該当する行為だな」
親切なレイトールの言葉に驚いたユアは思いっきり勢いをつけ顔を上げた。人の動きを遅いと感じるアイデクセは鼻を打つ前に顔を上げる。打っても鼻は痛まないがユアの頭が痛むだろうからの行動だが、驚くユアは泣いたせいで腫れてしまった目を思い切り見開いてアイデクセを凝視した。
「ア……アイデクセさん?」
鼻を寄せられたのは初めてではないし嫌でもない。辛い時に慰めるようにされていた行為を受け入れていた。けれどその意味を知らされたユアは、見る見るうちに顔を真っ赤に染めていく。
「もしかして嫌だったか?」
僅かな変化だが、とても悲しそうにアイデクセの表情が歪められる。鱗が締まって尻尾が縮む音までが耳に届いた。
世界が変われば愛情表現に違いが出てもおかしくないが、魔法のお陰とはいえ人の言葉を理解して、どこの誰よりも紳士的で心優しいアイデクセが、人の世界での接吻にあたる行為をおおっぴろげにやっていたことにユアは驚きしかない。
意味を知って特に何も思わずに受け入れていた自分自身に驚き、恥ずかしさに首や耳まで真っ赤にして。けれどゆるく左右に首を振る。
「嫌ではないんですけど、でも……えっ?」
「唇を重ねるより壁が低いだろう?」
アイデクセは蜥蜴と呼ばれるだけに人と外見が異なり、見方によっては爬虫類に懐かれているような感じになるのではないだろうか。人に鼻を寄せられるよりも壁は低いだろうとレイトールがにっと笑い、ユアは腫れた瞼を瞬かせた。
「私とてユアを抱きしめて口付けたいのだがな。まともに起き上がることもできない我が身が呪わしい限りだ」
レイトールの場合は鼻を寄せるのではなく口づけを望んでいる。驚き過ぎたユアは緑の瞳をぐるりと回すと、取りあえず考えるのをやめて立ち上がった。
「あの、わたし……目を冷やしてきます」
男二人の腕が示し合わせたようにユアを解放する。するとユアは両目を隠すように掌で覆って寝室を出た。残ったアイデクセはユアを追いかけようとして、けれど傷を負って動けないレイトールを一人にするのが怖くて立ち止まる。
「追ってくれ」
「だがお前の状態も心配だ。それにユアは泣いて腫れた顔を見られたくないようだぞ」
家を出なければ安全だ。ユアが安全な場所にいるなら余計なことをして嫌われたくないアイデクセだったが、離れては匂いや気配を感じることができない常人であるレイトールは様々な理由でユアが心配でならなかった。
「彼女を一人にしたくないんだ。今の私は追える状態ではないし、追えたとしても側に寄られたくないとユアが思っているかもしれない。私は大丈夫だからアイデクセ、何よりも彼女を優先して欲しい」
ユアの心にある隙を利用して狡猾に元の関係に戻ろうとしたが、レイトールは自分が口にしてしまった言葉の意味を誰よりも理解している。
能力でしか人の価値を見出さない、無事に生まれた事実を二の次にした心のない権力者特有の言葉だ。
上に立つ者がこうなのだから、ユアを傷つけた学友たちはもっと酷かっただろう。どんなに謝罪して心を込めて尽くしても傷ついたユアの心は簡単に癒えはしない。
レイトールはユアが幼少期より抱えた傷を再び抉ったのだ。記憶がなかったなど言い訳にしていい言葉ではないと十分に理解して反省していた。




