その2 蜥蜴の求婚
薔薇を育てるのが好きなアイデクセが、仕事場の庭園で花の手入れをしている時にそれは起こった。
視界が揺れ強烈な眩暈に襲われたと思ったら、目の前の光景が艶やかな光に包まれた白い空間へと変わりる。アイデクセはあまりの眩さに目を細めた。
光に慣れ周囲を見渡すと、アイデクセを取り囲むようにして黒い布に覆われた八つの動かない何かが転がっていた。
何が起きたのか、理解が追い付く前に首を絞められ手足を拘束された。反撃しようとしたが、白薔薇の花弁のように繊細で柔らかそうな彼らに触れるのには恐れがあった。
自分よりも小柄な生き物たちが大勢で騒ぎ立てていたが、意思疎通を図ろうにも言葉が通じない。初めて見る美しい形をした人という存在に驚いたアイデクセは、されるがまま太い鉄格子の檻に押し込められてしまった。
檻の中でアイデクセは初めて目にする人間という存在に目を、そして心をも奪われていた。
弱い肉体を守るためだろう。布や皮、そして装飾品で体を覆っている。しかし顔や手の先は常に曝され、柔らかそうな肌に血管が浮いているものすらいた。アイデクセは黒光りする鱗に覆われた自分とのあまりの違いに驚き戸惑う。
アイデクセの世界には、これほど眩い姿と知能を持った生き物は存在しない。支配する種族は色や大きさに違いはあれど、誰も彼もが硬い鱗に覆われ、鋭い爪と耳まで避けた口をしているのだ。裂けた口には細かく鋭い牙を持ち、背骨に繋がる太い尾を第三の手のように自在に操る。
アイデクセは彼の世界においても醜い存在だった。
彼の世界では闇に近い色を持つほど醜いとされる。美しいと感じるのは顔の作りや体つきではなく、色が薄く柔らかな鱗を持つものなのだ。
突然変異で真っ白な鱗を持った者や、硬い鱗を持たずに生まれた者は、権力者たちのもとに囲われ大切に扱われる。まかり間違ってもアイデクセのような黒い存在の前にはけして現れることがなく、まして触れるなど夢のまた夢である。
理由が分からなかったが、アイデクセが生まれ育ったのとは異なる世界にやってきたことだけは理解できた。
一月ほど狭い檻に閉じ込められていた後、檻ごと何処かへ移動させられる。檻の外には鱗を持たない白い肌の者たちが群衆となってアイデクセを凝視していた。
美しい人達の集まりに驚いていると、鎧で体を覆い鋭い武器を持った輩が檻の前に立った。
アイデクセは武器で攻撃されたせいで思わず薙ぎ払い、相手の頭を鷲掴んでしまった。すると弱い存在はあっという間に潰れて血飛沫をあげた。アイデクセはこれから自分が殺されるのだと悟り、死の恐怖に怯えた。
アイデクセが震えていると、この世界にきてから唯一、穏やかに話しかけてくれた男が檻の前に立った。
男は自らの手に傷をつけた。しかもその手を檻に突っ込むと、アイデクセの口に押し込んできたのだ。苦しさに思わず噛みついてしまい、危うく腕を落とさせるところだったが、そのお陰で言葉を解せるようになったのだからレイトールには感謝しかない。
その後のアイデクセはレイトールの命を盾に戦うことを強いられた。
弱い存在である美しい人を殺めるのは嫌でたまらなかったが、そうしなければレイトールの命はないというので仕方なく手を貸した。
召喚されて五年後。ようやく戦争が終わって後、レイトールと彼の兄である王太子の口添えでそれ以降の殺生は命令されずほっとしている。
以来アイデクセの仕事は弱く美しい人間を殺すのではなく、人知を超えた力といわれる人にはない怪力を使って人を助けることが主になった。
もともと温厚な性格なのだ。種族が異なるからとはいえ、命を奪うのには抵抗があった。だからもう人を殺さなくていいとなり、ほっと胸をなでおろした。
そうして本来の名ではないアイデクセと呼ばれるのにも、着たこともない服を着せられるのにも慣れた頃、アイデクセは一人の娘を紹介される。
彼女の名はユア。
赤茶色の髪に緑色の瞳を持つ美しい娘だ。
特別美人ではないが、愛嬌があって可愛いとレイトールは言う。
この世界ではごくありふれた容姿であっても、アイデクセの目には肌の色が白く柔らかいというだけで絶世の美女にうつってしまう。
この世界に来てからはそこら中に美男美女が溢れているのでさすがに慣れはしたのだが、その中にあってもユアはアイデクセにとって特別な存在となっていた。
何しろユアはアイデクセを恐れていないのだ。
国を救った英雄と称えられてもアイデクセの姿は恐ろしく映る。感謝の念と共に恐れの色を宿す表情は、無表情が常の種族であるアイデクセにとってはとても分かりやすかった。
そんな中で初めて会ったユアは、アイデクセの存在に驚きはしたものの満面の笑顔と好奇心という感情を隠しもせず、視線をそらさずに眩い輝きを全身から放ちアイデクセの心と体に触れてくる。
硬い鱗に柔らかな、真綿のような感覚が走り、アイデクセは触れられたのは自分だというのに、ユアを壊してしまうのではないかと恐れたのだった。
「お前は俺のことを知らないんだ」
危ないから触るなと後ずされば、ユアは遠慮なく間合いを詰め知っていると答える。
「あなたが殺されそうになって、王子様の手に噛みつくのを見ました。二人とも無事でよかった。お爺さんがあなたの世界が何処なのか調べて帰せるように頑張っているんですよ!」
興奮して思いつく限りを話し出したユアに圧倒された。知らないというのはアイデクセの危険性についてなのに全く通じていない。
しかもアイデクセが召喚された挙句に檻に閉じ込められ、処刑されそうになったあの場所にユアはいたというではないか。
アイデクセが処刑人の頭を一つかみで潰し、好意とは知らずに伸ばされたレイトールの腕を食いちぎる寸前にしたのすら目撃したのだという。
なのに恐れずに、緑の瞳には好奇心の限りを宿してアイデクセを見上げてくるのだ。白くて柔らかな美しい生き物から向けられる純粋無垢な感情に、たった一人の孤独な異形が惹かれないわけがない。
当時は十五歳の少女だったユアも、今では成人して二十歳の大人の女性へと成長した。
アイデクセは人間を顔の造形ではなく匂いやちょっとした仕草に特性、そして全体的な雰囲気や形で見分けている。
会う度に曲線を帯びしなやかになる体つきに、アイデクセの種族では現れない胸の膨らみといった特徴。それらはすべてアイデクセの羨望を刺激し欲望へと変えてしまう。
けれど傷つけるのが怖くて決して自ら触れるようなことはしない。必要に迫られても拳を握り爪を隠してそっと押し当てる程度だ。
手を覆う鱗ですら柔肌を傷つけてしまうと思うと怖くてたまらないのだが、見た目が恐ろしい異形の魔物がそれほど繊細な男だというのはほとんどの人間が知りえない情報である。
そんなアイデクセをユアは好きだと言ってくれる。好きの意味に特別なものはないと分かっていてもとても嬉しかった。
もともと好意的に感じてくれているのは一目で分かるのだが、こうして言葉にされると心が騒ぐ。
けれど決して届かない思いだというのも理解しているのだ。
種族の違いはあまりにも大きき。多くの人間の女が望むのは、アイデクセが肩に担ぐレイトールのような見た目の男というのは側にいるせいでとてもよく知っていることの一つだった。
逃げるようにレイトールを担いでユアと別れてより暫くして、崖崩れで道が塞がれたからと出動要請が入り現場へと向かった。
当然レイトールもついて行くのだが、直接手を出して仕事をするのはアイデクセで、レイトールは現場監督よろしく離れた安全な場所で高みの見物である。
危険な場所への立ち入りをしないのは彼が王子だからではなく、万一のことがあって死に至れば同時にアイデクセも死んでしまうからだ。
言葉を繋げるためにレイトールの血を使ったのだが、そのせいで二人の命までつながってしまったのであるから仕方がない。自分だけの命ではないとなるとアイデクセだけではなく、レイトールも無謀なことはできなかった。
「なぁアイデクセ、少し考えたのだがな」
大岩を安全な場所に転がすアイデクセの後ろにレイトールが立つ。邪魔になる岩は転がした今のが最後で、他に残された岩や残土は普通の人間たちが処理しても特に危険はないだろうと、話しかけられたアイデクセは手を叩いて土埃を払いながらレイトールに体を向けた。
「なんだ」
「私達ふたりでユアを嫁にもらうというのはどうだろう」
一瞬なにを言われたのか分からず、アイデクセは表情の少ない眉間に皺を作る。もしかして魔法による言語理解の力がなくなったのかとすら思ってしまった。
「いや、だから私達二人でユアを―――」
「お前一人でもらえばいいだろう。俺は同居になど拘ってはいないぞ」
「何を言っているんだ。アイデクセ、私はお前を一人にすることはできない。それにお前、ユアのことをかなり気に入っているだろう?」
「……」
表情の薄い異形の者ながら命を繋げているせいだろう、アイデクセとレイトールは言葉を交わさずとも互いの考えや思惑を感じることができるようになっている。
否定しても揶揄われるだけなので無言を貫いたアイデクセだったが、仕事を終え都に戻った後になってから言われたことが気になり無視できなくなってしまった。
心が騒ぎじっとして居られなくなった深夜、アイデクセはついに寝床を抜け出し、大きな巨体ながら闇に染まる色を利用してユアの住まう家に忍び込んだ。
身をかがめ寝室に続く扉をそっと開く。
一人で休むには広すぎる寝台に身を起こし、眼鏡をかけて魔法の光源を頼りに古書へ目を落としている老人の視線が侵入者へと向けられた。
老いても高名な魔法使いであるのに変わりなく、屋敷への侵入があれば誰であるかなどすぐに気付けるようにしている老人は、深夜に忍んできた客人に動じることはない。
「孫娘に夜這いかと案じたが、この老いぼれが目当てとはな。気配まで消してご丁寧に何の用だ?」
年齢を重ね白く濁った眼が巨大な異形を捕らえる。しのぶには無理のある巨体を音もなく寝台に寄せ膝を付いた。
「あなたに礼と謝罪を」
「謝罪はウィスタリアの人間として此方がしてもし足りんほどだ」
「俺とレイトールの繋がれてしまった命を引き離そうと尽力してくれているだけでなく、何処にあるとも知れない世界を見つけ出し、故郷へ帰そうとしてくれている努力に対して礼を。そして努力を無駄にすることへの謝罪を」
どういう意味だと無言で問う視線に、アイデクセは真っ暗闇でも全てを見通せる鋭い目を向ける。
「期待は捨てる。だからあなた達も贖罪の念を捨ててくれ。命も故郷も運命と受け入れる」
たった一人、何の前触れも許可もなく、見も知らぬ異世界へと連れて来られた鱗だらけの異形をロアークはじっと見つめる。暫く無言であったが、やがて開いた古書を閉じると長い息を吐き出した。
「儂はあきらめきれんよ」
「僅かながらもこの世界で友を得た。あなたもその一人だ。これまでレイトールにしか話していなかったが、俺達種族の寿命はあなた達の何倍もある。レイトールと命を繋がれていなければ、俺は大切に思う人たちを見送り孤独に曝され続けるだろう。それなら同じ時を生きて同じように終わりたい」
鱗に覆われた強靭な体は同族でもない限り致命傷を与えるのは困難だ。願えば殺してもらえるだろうが、正常な思考能力のアイデクセに自死の考えはない。自殺を考えるとするなら大切な人たちを失って孤独に苛まれ狂ってしまってからになるだろう。それならこの世界で得た友人たちと同じ時間を生きて去れる機会を失いたくないと願ってしまったのだ。
すでに七十年近くも生きていつお迎えが来てもおかしくない年齢にあるロアークは、アイデクセの言葉を神妙な面持ちで受け止めると、詰めていた息を長く吐き出した。
ロアークは妻も娘も、そして娘婿すら先に失っている。残された孫娘が唯一の生きる気力と言ってもいいだろう。それを失ったとしたら果たして自分はどうなるだろうと老い先短いながらも考えたのだ。
「確かに聞いた記憶がないが、お前はいったい幾つだ」
「あなたの三倍は生きている」
「それは―――この儂がひよっこか」
「寿命が異なるように、刻まれる人生の重みも違う。俺は未熟であなたは立派な先人だ」
人の何倍も時を長く生きるアイデクセの生は、貪欲な権力者なら飛びついて得たくなるような寿命だ。けれど攫われ無理矢理つれて来られた蜥蜴のような身形の男は人と同じ時を生きたいと願っている。
一人になり取り残されるのを恐れているのだ。
今を生きる者たちが死した後も新たな出会いがあるだろう。
けれどこちらの世界に引き込まれて十年、その間にアイデクセに心を開いて受け止められるだけの器量を持った人間は片手の指で足りる程度にしか現れていない。
「それから一つ願いがあるのだが」
「なんだ、儂にできることなら何だってするから遠慮なく言ってみろ」
かつては王に意見する立場にいながらも召喚を止めることができなかった。悔いるロアークは己の気持ちを軽くするためにもアイデクセとレイトールの繋がりを解き、元の世界に帰す努力を惜しみなく続けていたのだが、それがアイデクセの為ではなかったのだと悟り、新たな願いがあるならばと人と異なる異形の瞳をじっと見つめる。
「俺とレイトールにユアをくれないか」
「一昨日出直せ」
間髪入れずに正直な答えが口から零れた。
足掻くことなく分かったと頷いたアイデクセは、音もなく立ち上がると、来た時同様に気配を消して部屋を出ていく。
見送ったロアークは少しきつい言い方をしたかと反省したが、孫娘の将来のことは別問題だと一人で納得し、古書を枕元に置くと掛布を引き寄せた。
同じ屋敷に住まうレイトールはアイデクセが抜け出したのを感じて帰宅を待っていた。
繋がっているというのは何とも便利で始末が悪いが、気落ちした風なアイデクセに何があったのかとレイトールは訊ねる。
特に嫌がるでもなくアイデクセは今夜の出来事を正直に話して聞かせた。
「一昨日出直せとは断るという意味だろう。化け物が相手なのだから当然だな」
気落ちするアイデクセを前に何故か愉快になったレイトールは思わず吹き出してしまった。
「俺のような存在が美しいものを得たいと願うことはそれ程に許されない事柄なのか?」
「違う、そうじゃない。ロアークはああ見えて、娘を嫁にくれと言った男を半殺しにするような気性の親だ。私が行っていたら一昨日出直せなんて優しい言葉はかけてもらえずに魔法で攻撃されていただろう。別にお前がそんな形をしているからじゃない、溺愛する孫娘を簡単に嫁に出せないだけだ」
「そうは思えない」
「なら今度は私がロアークにユアをくれと言って見せてやろう。その代りお前も来てその硬い鱗でロアークの攻撃から守ってくれよ。そうでなければ許しをもらう前に、私はお前を道連れに死ぬ可能性がある」
「そんな馬鹿なことがあるか」
アイデクセの基準だけではなく、現実にこの世界でもレイトールは美しい存在だ。レイトールのような見た目に立場まである男は多くの娘たちに熱い視線を向けられている。
そして二番目とはいえレイトールは一国の王子で、ロアークにとっては敬うべき存在でもあるのだ。
レイトール単独でユアを欲しいと願えば許されるに決まっていると落ち込んだアイデクセであったが、翌日改めて身なりを整え相応しい姿で立ち向かったレイトールを、ロアークは容赦ない攻撃で消し炭にしようとし、焦ったアイデクセは慌てて二人の間に分け入ってロアークの攻撃を硬い鱗で受け止めた。
自分を慰めるための冗談だと思っていたがそうではなかったらしい。
「お爺さん、アイデクセさんに何てことするの。綺麗な鱗に傷をつけるなんて酷いわ!」
そして事情を知らないユアにロアークは叱られ、いい年をして臍を曲げて部屋に閉じ籠った。