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その19 忘却



 背筋が凍る思いをしたのはユアだけではない。耳を疑ったアイデクセが名を呼べば、レイトールは目元をゆるめて黒い友人へと視線を動かした。


「危うくお前を道連れにしてしまう所だった。アイデクセ、体に変化はないか?」

「レイトール?」


 噛み合わない問いかけにアイデクセは眉間の鱗を寄せた。

 命の繋がりはナハトによって解かれているのだ。それなのにレイトールは、自分の怪我の状態が死ぬところだったと理解しているのに、アイデクセとの命の繋がりが解かれている事実を忘れてしまったようなことを口するではないか。

 もしかして、こちらの人間は長く眠りすぎると寝惚けが蓄積されて記憶障害を起こす体質なのだろうか。


「レイトール、忘れてしまったのか?」


 何処まで覚えているかと問えば、レイトールは唖然と立ち尽くすユアを一瞥してからアイデクセに視線を戻した。冷たい一瞥はユアを更に凍り付かせ、アイデクセは励ますように腰を抱いてやる。


「忘れた……と言うより、私はいったい何をしていたのだったか」


 レイトールは警戒を孕んだ視線を当たりに向けた。


「ここは何処だ、私は何故このような状態にあるのだろう。確かアシュケードのゴーウェン将軍と剣を交えていたはずだ。将軍は先陣を切ってウィスタリアに進攻してきたが……いや、違うな。あの戦いはとうに終わっている。私は確か――」


 そこでレイトールの碧眼がアイデクセの腕に抱かれたユアへと向いた。

 いつもの優しい瞳ではないが、冷たい拒絶を孕んだ瞳でもない。それでも注意深く距離を取っていると分かる眼差しに、衝撃を受けるユアの唇は震えていた。


「そう、だった。あの戦いで私は怪我などしていなかった。確かこの娘が……ロアークの娘が攫われたのだ。そう、お前だ。思い出したぞ。彼女はアイデクセにとって大切な存在だ。だから私がゴーウェンと対峙し、危うく命を失いかけた。しかし私は何故、自ら将軍と対峙したのだろう。アイデクセに行かせれば確実であったというのに。お陰で死にかけ、アイデクセまで危険に曝しているのは何故だったか――」


 どういうことかと自問自答して前髪をかき上げるレイトールにアイデクセは身を寄せ詰め寄った。

 記憶が混乱してしまっている。

 怪我の後遺症なのか、それとも他に原因があるのか。

 わざとこの様な態度を取っているようには見えず、ましてユアを傷つけるような行為をレイトールがするはずがないと分かっているだけに、アイデクセは現状に不安と焦りを覚えた。


「彼女は、ユアは俺だけじゃない。お前にとっても大切な存在だっただろう。忘れてしまったとは言わさないぞ」

「私の……まぁ、たしかに。アイデクセにとって大切な娘だ、守るべきというのは分かっている」


 この世界に無理矢理引き込んで人殺しをさせウィスタリアに尽くさせた。命を繋いで人生を共にする相手にレイトールは敬意と情だけではない、とても強い繋がりを持ってしまっている。必要なら己の命をかけてもアイデクセの為にやってしまうだろう。そんなアイデクセが大切にする娘であることを、ゆっくりと記憶の中から呼び出したレイトールは、横たわったまま納得するように幾度か頷いた。


「そうではなく、お前が彼女を愛していただろう」

「私が彼女を?」


 思わぬ言葉を受けた時と同様にレイトールの瞳が見開かれる。記憶の欠片にもないのか、青い瞳が丸くなりアイデクセとユアを幾度も往復して有り得ないと首を振れば、アイデクセも同様に首を振った。


「妻にした」

「王子である私が。冗談だろう?」

「レイトールっ!」


 馬鹿げたことをいうなとばかりにレイトールは失笑した。アイデクセは苦しくなって思わず声を荒げてしまう。それが頭に響いたのか、レイトールは顔を顰め煩いと掌を振った。


「確かに私が妻に望む絶対条件はアイデクセを受け入れる存在であることだ。だが私はウィスタリアの王子でもある。得にもならない身分違いの婚姻など認められるわけがないだろう。しかも私にはアシュケードの王女との結婚話が持ち上がっているんだ。アシュケードの民の反感を買わないためにも愛人として囲うのすら憚られる」

 

 記憶が混乱しているのは明らかだ。焦るアイデクセは何もかもを訂正してしまいたい気持ちになるが、恐る恐る声を上げたサヴァドに止められ口を噤んだ。


「お声掛けをする無礼をお許し下さい。レイトール殿下、私はアシュケードの民でサヴァドと申します。今回の件で縁があり、殿下をお助けした者に御座います。殿下は死の淵を彷徨う怪我を負われ混乱しているようです。今しばらくゆっくりとお過ごしになり、記憶の整理をしてはいかがでしょうか」

「成程、ここはまだアシュケードなのだな。確かに混乱しているようだ。多くの血を失ったせいか目が回っている。暫く休ませてもらおう」


 目を閉じたレイトールを置いて三人は寝室を出た。

 歩く気力すらなくなってしまったユアをアイデクセが抱えて膝に乗せると床に座り込んだ。ユアもだがアイデクセもかなり気持ちが落ち込んでいた。


「忘れてしまったんだわ、わたしのことをレイトール様は忘れてしまった……」


 ユアが唖然としたに呟き、アイデクセは首を横に振った。


「一時的なものだ、ちゃんと思い出す」

「違います。レイトール様は気持ちを無くしたの。やっぱりあれはアイデクセさんと繋がっていたからの想いだったんです」

「そうじゃない、ユア。そうじゃない。レイトールは間違いなくお前を愛している。繋がりが解けてもゴーウェンの元へ一人で向かったのは、気持ちがなかったのではなく、レイトール自身がお前を傷つけた奴を許せなかったからだ。決して俺の為じゃない、お前のために向かったんだ」


 慰めるアイデクセの胸でユアは涙を零した。

 記憶が混乱しているのだとしても自分に自信のないユアにとって、優しかったレイトールの拒絶は強烈な痛みを伴わせた。

 そうして新たに気付かされる。疑いの心や不安を持っていたが、ユア自身がどれ程レイトールを想っていたのかを。

 アイデクセと命が繋がっているせいで心が引っ張られているのではないかと疑いながら、それが現実でないことを願い続けていたことをユアはひしひしと感じていていた。

 そして結果はこれだ。

 記憶の混乱はあるものの、確かに告げられている現実がある。それはレイトールがユアへの気持ちがまるでないということだ。

 向けられた突き刺す視線は、決して踏み込んではならない距離にまでユアが近づいてしまったことに対する警告だった。これ以上側に寄るなと、つけ入るなとあざとい女を拒絶する態度に心が竦んだ。


「魔法なのか怪我のせい故の混乱なのか、どちらの後遺症なのか判断がつきかねます。生活が普通に戻れば思い出すかもしれませんが……魔法の後遺症ということになれば、アイデクセと殿下の命を引き離した時のように解除して戻すというわけにはいきません。魔法を解けば殿下の傷は再び開きます。内臓の損傷を繰り返すのは肉体的に良くないのです」


 魔力を使い果たした状態のナハトでは、今現在のレイトールの状況を予想することしかできない。

 アイデクセを召喚した当初、言葉を理解させるためにレイトールの血を使い、そのせいで命が繋がったのはナハトの魔法が未熟だったからだ。けれど二人の命が繋がっても結果的に困った問題は起きていなかったが今回は違う。もし魔法によってレイトールの記憶が混乱しているのなら、その混乱を元に戻すためには魔法を解かねばならなくなるのだ。

 解けば魔法で癒した傷は再び開くし、それを後遺症なく治癒するだけの正確な魔法を行使できたとしても、肉体に死に至る損傷をあたえるのは大きな負担になる。無事に傷を癒したとしても度重なる負担は寿命にも関係してくるだろう。


 レイトールの記憶と命を天秤にかければ現状維持をナハトは選んだ。レイトール自身が強く願うなら止められないが、今のレイトールにその意思があるようには見えない。

 そしてユアも自分を思い出させるために負担を強いる選択は出来なかった。

 ユアにとって自分の存在が忘れられるようなものだったという現実は大きな衝撃だが、アイデクセと繋がっているせいで気持ちを貰っていたという事実がやはりそうだったのだと納得させてしまうのだ。アイデクセはそうではないと首を振るが、現状がユアの考えを肯定していた。


 レイトールはというと、自分の記憶が混乱している状況を冷静に受け止めていた。

 これしきのことで慌てるような人間ではないし、手掛かりを与えられると記憶の整理をつけることができた。

 自分は女一人に執着するような人間でなかったとも理解しているし、平民の娘を一人くらい忘れても問題はない。

 それでもある程度傷が癒えてウィスタリアに戻り、三人で住んで生活し、眠っていたという巨大な寝台を目にした時は流石に衝撃を受けた。


「まさか事実であったとはな」


 アイデクセが嘘をつくはずがないと分かっていても信じられなかった。命の繋がりもあるためにアイデクセとはもともと衣食住を共にしていたが、そこに第三者が、しかもロアークの孫娘が入り込んでいようとは俄かに信じられないこだった。

 何よりも王子という責務を伴う身で、ロアークの孫娘とはいえ、簡単に懐に入れてしまっていた現実に再び衝撃を受ける。


「私はここでお前を抱いていたのか?」


 唖然と呟いたレイトールの声に反応して、必要以上に離れた場所に佇んでいたユアが視線を泳がせ俯くのを視界に捉えた。まさかという思いでユアの腹部に視線が行ってしまう。アイデクセを交え三人とはいえ、男女が共寝をしているというのはそういうことだ。


「私の子を宿している可能性があるのか」

「いえ、それはありません」

「妻なのに抱かれていないのか?」


 妻というのは嘘なのかと意味を込めて詰問すると、ユアは身を竦めた。委縮したユアの体に鋭い爪をもつ腕が迷いなく延びる。


「アシュケードの王女や王族としての責務よりユアを選んだのはお前自身だ」

 

 思い出して欲しいと、アイデクセは詰め寄るように声を上げた。

 

「きっかけがあればと希望を持っていたが、お前から出てくる言葉はユアを責めるものばかりだ。忘れたのだとしても、ユアはお前自身が選んだ女性だ。お前たち人間が俺と異なるのは分かっているが、ユアはお前にとっても唯一ではなかったのか?」


 アイデクセの種族はたった一人の伴侶を愛しぬく。人間のように失敗したら次の相手へと渡り歩いたりしない。アイデクセは忘れたとしても本能で分かるだろうと言いたいのだろうが、残念なことにレイトールにはユアを唯一の女性と愛した記憶がないのだから覚えているとは言えなかった。


「ユアを置いて逝かないと命の約束をしたのも忘れたのか?」

「いいんです、アイデクセさん。これ以上はもういいの」


 ユアがアイデクセの服を掴んで、隠れるように顔を寄せた。その様にレイトールは眉間に皺を寄せる。

 アイデクセと命が繋がり感情に引き寄せられたのだとしても、誰かの陰に隠れるだけの娘に興味をもっていたとはとても信じられないのだ。

 自分の意思もない、ただ守られるだけの娘に惹かれる要素があるだろうか。

 弱く白いものを崇める世界に生まれたアイデクセはともかく、力を持った者の背に隠れるだけの娘にレイトールは魅力を感じない。


「命の約束か。ウィスタリアの人間として魔法というものの効力を改めて偉大に感じるよ」


 ユアを助けるためにアイデクセと命の繋がりを解除したことは聞いていた。ロアークが残してくれた魔法でアイデクセが言葉を理解できるようになったことも。

 今現在ユアを前にしてみると、何も感じないどころか、隠れてばかりで怯えている姿に苛立ちすら覚える。

 それはすなわち、レイトールがユアに好意を抱いたらしい記憶にない過去は、魔法のせいであったという証明なのだろう。


「もともと三人で婚姻関係を持つというのが異常なのだ。アイデクセ、お前も彼女を一人だけの物に出来て良かったじゃないか」


 今の状態が普通なのだとレイトールは寝室を出た。

 もとより女を共有する趣味はない。


 それにしても不思議なものだとレイトールは感じる。肉体の傷を癒すための後遺症だったのかもしれないが、ロアークの娘のことだけをこうもすっかり忘れてしまうというのはどういうことなのだろうかと。


 記憶の混乱はあったが教えられればそうだったと思い出すし、ウィスタリアに戻って生活を再開してからは記憶の整理は瞬く間に進んでいた。

 けれどどういう訳かユアに関することは曖昧で、共に生活していた感覚すらもやっとした霧に包まれているようで思い出せないのだ。

 ただ何かしら彼女に言いたかったことがあるように思えるが、やはりどうしても思い出せない。

 現状から怯えてばかりのユアを叱咤したかったのかも知れないと予想はするが、それが確実であるようにも感じなかった。


 アイデクセの背に隠れ、怯えて視線を揺らす姿に苛立ちを覚える。

 自分に自信のない様が明らかで、極力レイトールを避けているが、それでも家事をこなしてレイトールとアイデクセの世話を焼いていた。

 そもそもこの娘自身が、レイトールに好意を向けていなかったのではなかろうかとすら思える。媚も売らず愛嬌もない。どちらかと言うと避けている。

 レイトールはユアの態度に反応に苛立ち、思い出せない自分だけが悪いのではないと開き直ろうとしたが、何故だかユアが気になって仕方がない。

 いっそのこと城か自分の屋敷に戻るかとも考えたが、アイデクセがここを出ることを了承しないので、レイトールは常に居心地の悪さを感じていた。


「君が私の妻というのが事実なら覚えておいて欲しいのだが、私は人前で酒を嗜まない」


 毎夜振る舞われる食前酒に手を付けたことはない。

 自分で署名した婚姻証明書まで確認したのでレイトールとユアが結婚していたのは間違いないのだが、全ては便宜上だろう。何しろ夫婦生活もないのだから、ただの同居人であったようだ。

 そもそも記憶を失う前に同居していた期間に世話を焼いていたのなら、レイトールが人前で酒に口を付けないことくらい知っているだろうにと冷たく言い放つ。


 王子として生まれ贅沢することを知ってはいるが、口を付けずに捨てられる酒を勿体無いと感じる程度には庶民的なのだ。

 暫く無視して残していたのだが、思い出せない自分にも腹が立っていたのだろう。八つ当たり気味に冷たく言い放てば、ユアは緑の目を見開いて幾度か瞬きをした後に再び俯き、「ごめんなさい」と謝罪を口にすると、コップに手を伸ばして自ら一気に酒を呷った。

 量は少ないが反抗的な態度に意外性を感じてユアの行動をじっと見つめる。はっと息を吐き出したユアからは強い酒の匂いが漂っていた。


「そうですね。レイトール様はとってもお酒に弱くて、飲まれると世間に知られたくないことばかり口にされますものね。恋愛結婚に憧れているからと、子供のように足をばたつかせて駄々をこねているなんて吹聴されたら困りますものね。なにせみんなが憧れる素敵な王子様ですからっ!」

「いつ誰がそんなことをっ!」

「レイトール様ですよっ!」


 ユアは空になったグラスを手に踵を返して調理場に戻った。

 忘れられたのは悲しいし、冷たくされるのは辛かった。

 けれどそれが長く続くと全て自分のせいなのかと落ち込むだけでなく、忘れられたことに苛立ちを感じるようになったのだ。

 洗い場にグラスを戻しながら「嘘つき」と吐き出した。

 死ぬ時は一人にしない、ユアも殺して一緒に逝ってくれると約束たのに、その大切な約束すら忘れられたことが悲しくて、お前の前で酒など飲めるかと拒絶されてつい感情的になってしまった。


「アイデクセさん、入ってこないで下さい!」


 調理場の入り口で狼狽えるアイデクセに背を向けたまま声を上げると、目にいっぱい溜まっていた涙が零れ落ちた。


 入るなと釘を刺されたアイデクセは仕方なくレイトールの隣に腰を下ろし、ユアを泣かせた元凶を横目で観察する。

 色々と言いたいことはあったが、飲酒についてだけではなく秘密にしていたはずの結婚観を指摘され、驚き唖然としているレイトールの様に口を噤んだのだ。


 レイトールはと言えば、ユアの前で酒まで嗜んでいた事実に驚きを隠せない。それはレイトールがユアに心を許していた証拠だ。


「私は何を忘れているんだ……」


 ようやく事の重大さを察した。己の感情が何処から来たのかはともかく、ユアと自分がどのような関係であったのかを知らねばならないと、顔を青くしながら頭を抱えて大きな溜息を吐き出した。

 





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