その17 瀕死
ユアはアイデクセの腕の中で目を回していた。二本の足で音もなく馬よりも速く走るアイデクセの首に落とされないようにしがみ付く。アイデクセは闇の中を迷いなく突き進んでいた。
娼館でアイデクセと再会したユアは裸同然で、着ていた服を返してもらうのにも金銭を要求された。当然ユアもアイデクセすら手持ちはなく、快くサヴァドが全てを引き受けてくれた。
今からレイトールの元へ駆けつけるというアイデクセに、サヴァドはユアを預かることを提案したが、牙を剥くアイデクセに即却下され大人しく引き下がっていた。そんなサヴァドに「すまない」とアイデクセは謝罪した。
「ここで離れて再び失うようなことになったらと……そう考えると恐ろしくてならないんだ。ゴーウェンとか言う男がいるような場所にユアを連れて行きたくなどないが、離れるのが怖い。サヴァド殿、世話になったあなたを疑っているわけではないのだ。どうか気を悪くしないでくれ」
「い、いえ。初めて会った男に大切な方を預けるのを躊躇されるのは当然です。蜥……アイデクセ殿、何かあればいつでも。私はいつでも貴方がたの味方です」
「感謝する。あなたの匂いは覚えた。近いうちに必ず礼をしに行く」
それだけ言うとアイデクセはユアを抱えたまま走り出したのだ。音もなく風だけを残して。
娼館を出ると、アイデクセを追ってきた王太子の息がかかった者が出てきて進行を塞ぐ。アイデクセはその男の胸ぐらを掴んでレイトールの行先を確認した。
アイデクセにしては乱暴な行動だ。ユアは安心できる場所にいるのに途端に不安になった。
「アイデクセ、待ってくれ。詳しい場所を!」
「ある程度分かれば匂いを追える。お前たちの足は遅すぎる。来たいなら後からこい!」
王太子の手の者に吐き捨てるように告げて走り出す。その間もユアはアイデクセの腕の中で守られていた。抱き潰したり傷つけてしまわないように細心の注意を払われている。
言われた場所に近くなると「血の臭いがする」とアイデクセが呟いて動きを止める。ユアは「誰の?」と聞いてしまった。
「分からない。くそっ、俺が翼を持つ戦士であったらもっと早くユアを救えただろうし、レイトールのいる場所にもとうに駆けつけていた。ない能力を嘆いても仕方がないが……」
「アイデクセさんは庭師です、戦士である必要はありません。大丈夫、落ち着いて。今この状況でレイトール様を探せるのはアイデクセさんだけなんですよ。きっと大丈夫ですから落ち着いてください」
酷く焦っているアイデクセの様に不安が押し寄せる。こんなアイデクセは初めてだ。
アイデクセは鼻先を四方に向けて、ぐっ……と唸るように音を吐き出し再び走り出した。そして間もなく行き着いた先で急停止すると、その足元は黒い何かで溢れていて、むせ返るような血の臭いが立ち込めていた。
「レイトール様!?」
暗闇の中にいくつもの塊が転がっている。その一つに辿りついたアイデクセから転げ落ちるように降りたユアは息を呑んだ。むっとする濃厚な血の臭いと音のない世界に唖然として、戦慄く体が息をするのを忘れさせた。
「レイトール、目を開けろ!」
倒れているレイトールは、アイデクセの地を這い吠えるような声にも反応がない。腹には剣が突き刺さったまま、ぴくりとも動かなかった。ユアが震える指をその首に添えると脈がある。
「息、してる。そうよ、死ぬわけない!」
気持ちを奮い立たせるようにユアは傍らのアイデクセを仰ぎ見た。
二人の命は繋がっているのだ、もし万一があればアイデクセも無事ではない。今この時、アイデクセはこうして元気に生きているのだ。大丈夫と自分に言い聞かせるユアに、アイデクセは首を横に振って悔しそうに言葉を絞り出した。
「繋がれていない、魔法で繋がりを絶ったんだ」
「え?」
意味が分からず聞き返せば、アイデクセが再びゆっくりと首を振る。
「命を繋がずとも言葉を理解する魔法をロアークが残してくれた。それを使ってレイトールと命を引き離した。俺とレイトールの命は繋がれていない」
それは良いことのはず……いいことなのだろうか。
一瞬何を言われたのか分からなくてユアは言葉を失う。アイデクセとレイトールの繋がりが解けても言葉が理解できるのはとても良いことだ。けれど今のユアにはよく理解できなかった。再びレイトールの意識を確認するが黙って転がったままで腹に剣を刺している。その剣にアイデクセの腕が延びた。
「死なせるものか」
「待って!」
ユアは声を上げ、腹に刺さった剣を引き抜こうとしたアイデクセを咄嗟に止めた。
「抜いては駄目です。でもこのままじゃ死んじゃう。すぐに魔法使い……医者に見せないと。街に戻りましょう!」
魔法使いはウィスタリアにだけ存在するのだ。このアシュケードにはいないし、大量の血が流れているのもあって一刻も早い治療が必要となる。
最悪を恐れて声が震えるが、ユアの言葉にアイデクセは従った。
二本の指で飛び出した剣の部分だけを器用に折ると、傷ついたレイトールを慎重に持ち上げ肩に乗せた。折った剣の刃が鱗に触れても傷はつかず、再び腕にユアを抱き上げ走り始める。
「メリディナさんの所……娼館に行くんですか?」
二人がここで知っているのはメリディナの経営する娼館だけだ。彼女に借りを作るのは怖いが命には変えられない。しかしアイデクセは「ウィスタリアに戻る」と答えた。
「俺は庭師だが走れば直ぐだ」
「待ってアイデクセさん、駄目だわ!」
ぐんと足を速めたアイデクセをユアが止めた。
「揺らしては駄目。レイトール様の出血が酷くなっています!」
「くそっ!」
レイトールの状態では医者ではどうにもならない。魔法使いによる治療が必要だと素人目にも明らかだ。しかし出血が酷すぎて、このまま連れて帰るのは無理だった。
傷口からレイトールの血が漏れ鱗を濡らすのをアイデクセも感じている。あの娼館に行き先を変えたとしても危険かもしれないと思った時、アイデクセの鼻先を記憶のある匂いが掠めた。
「きゃぁっ!?」
突然の方向転換にユアから悲鳴が上がるが、しっかり抱えて取り落としたりしない。
アイデクセは靴を脱ぎ捨てながら突き進み、目前に現れた大きな建物の壁に足と自由になる片手の爪をひっかけると器用に登り始めた。
人間の常識など構っていられない。レイトールの命がかかっているのだと垂直の壁を二人を抱えたまま進んで最上階までたどり着く。最後には尻尾を使って窓を破り中へと飛び込んだ。
灯りのついた部屋の住人は目を丸くして驚いていた。部屋には成人男性が二人いて、一人が脱いだ上着を従者に渡している。
先に反応して腰を抜かし悲鳴にならない悲鳴を上げたのは、上着を受け取ろうとしていた従者の方だ。
「ばっ、ば、ば、ば……ばっ!」
「蜥蜴……」
驚愕に緑の目を見開き呟いたのは先程別れたばかりのサヴァドである。アイデクセは見事サヴァドの匂いを嗅ぎ、彼が宿泊する高級宿の最上階に辿りついたのだ。
「助けて、レイトール様が死んじゃう!」
「それはいけない、こちらへ」
ユアの声にサヴァドは素早く反応した。蜥蜴を恐れるのも忘れ、自分が使っている寝台を提供してくれる。それからユアやアイデクセが物を言う前に、腰を抜かす従者を正気に戻して医者を呼びに行かせた。
「俺はウィスタリアから魔法使いを連れてくる。抱えて行った方が早いがこれでは無理だ」
「アイデクセさんっ!」
不安に揺れるユアをアイデクセは一度だけ引き寄せると、自分の鼻をユアの鼻へと摺り寄せた。
安心させるため、そして自分が安心するために鼻を摺り寄せ、牙の間から深呼吸するように息を吐き出す。
「大丈夫だ、レイトールは死なせない。死ぬ時はお前も連れて行くと約束したのだろう。そうなると俺は一人きりだ。だから絶対に二人とも死なせない」
この世界に来て多くの命を奪ってきたが、それは全て望まぬ行為だった。
アイデクセからすると弱く脆い人間を傷つけるのは弱者を弄ぶ悪魔のように思えたが、唯一この世界で手を差し出してくれたレイトールの為にこなし続けた。
そして今はユアと言う大切な存在も得ている。
レイトールがユアを殺して道連れにしないことは分かっているが、ユアから大切な男を取り上げる訳にはいかない。命を切り離された今とてアイデクセにとってもレイトールはかけがえのない人だ。
二人を守るために何があろうと魔法使いを連れ戻ってくると心に誓い、ユアから離れるとサヴァドの前に仁王立ちになった。驚いたサヴァドは逃げ出すこともできず唖然とアイデクセを見上げる。
「見ての通り状況が変わった。あなたを信じて頼るが、俺はお前を信じてもいいのか?」
アイデクセはサヴァドという人間の本性を知らない。何の思惑もなくユアを助けてくれたとも思っていないのだ。それでもユアを助けてくれたのは事実。今はサヴァドの良心に縋るしかなかった。
「私はアシュケードの人間ですが、欲しいものがはっきりしている。得るためにはレイトール王子の助けが必要です。決して裏切らないと誓えます」
食われそうな立ち位置ながら、サヴァドはしっかりとアイデクセを見上げ誓ってくれた。
面識もない敵国の相手を無条件で信じられるわけがない、特にアイデクセはアシュケードの人間を酷いやり方で殺しているのだから。それでもサヴァドの欲するものを確かめず、信じて頷いた。
レイトールを、そしてユアを助けてくれるのなら、アイデクセはこの見知らぬ男の要求をなんであろうと飲む覚悟を決めた。
「どうか二人を頼む。俺の命よりも大切な二人だ」
「最善を尽くしますが本当に急いでください」
サヴァドにとっても大切な相手だ。ここで死なれては金鉱のある地の領主になる機会を失い、自らの手で掘り当てた財産諸共奪われてしまう危険がある。何が何でもレイトールには生きてもらわなければと必死だが、素人目にも命の灯が今にも消えそうになっているのは明らかだった。
最前は尽くすがもし死んでも悪いのは自分ではないと予防線を張り、レイトールとユアを受け入れてアイデクセを見送る。
尻尾を使って破った窓に足をかけたアイデクセは一度だけ振り返った。不安に押し潰されたユアが死にそうな顔でアイデクセをじっと見ている。
アイデクセは足に力を入れると無言で闇の中に飛び込んだ。
アイデクセを見送ったユアはレイトールに視線を戻し、涙に濡れた顔を掌で滅茶苦茶に拭って気合を入れる。見ているだけでなく、出来る限りのことをしなければと立ち上がった。
「お医者様を――」
「呼びに行かせたが、ウィスタリアに好意的でない可能性もある。王子の素性が分からないようにした方がいいだろう」
医者なら万民に公平であらねばならないが、ウィスタリアに恨みを持っていれば怪我にかこつけ殺されてしまう可能性もある。無言で幾度も強く頷くユアにサヴァドは清潔な布を渡した。
「取りあえずこれで止血を。私は宿の主人に事情を繕ってくるよ」
「ありがとうございます」
サヴァドに抱いていた不信感や何やらすべてを忘れ、ユアは布を受け取り恐る恐る血に濡れた服をめくった。
頼りない明かりの下でも食い込んだ剣と肉の間から血が滲んできているのが分かる。何時からこの状態なのだろう。今にも死んでしまいそうだが、それでも生きているのは確かだ。
大量に出血するのが怖くて埋まった剣を抜くことはできない。ユアが白い布をあてると、布にゆっくりと血が染みてきた。
「レイトール様、頑張って。アイデクセさんが魔法使いを連れてきてくれますから」
魔法使いも万能ではない、このような傷を何処まで治療できるのだろうか。
祖父であるロアークが傷の治療をすると痕も残さず綺麗に治療していたが、そこまでできる魔法使いは数少ないと分かっていた。
それに腹を貫通した剣が内臓に多大な損傷を与えているのも気になる。失う不安に止まっていた涙が溢れ、恐怖でがたがたと震え始めた。
「湯を貰って来た。医者が来るまでに出来るだけのことをしよう」
辺りが暗いお陰でアイデクセが宿屋の窓を壊して侵入した姿を見たのはサヴァドとその従者だけだ。
高級宿だというのもあり顧客の秘密は厳守されるだろうが、取りあえず窓を塞ぎに人が来るという。
対応はサヴァドが請け負い、ユアは案内された寝室で息を殺しつつ、意識のないレイトールの衣服を脱がして体の汚れを丁寧に拭った。
荒くなる呼吸と共に体温が低くなっているのが気になったがどうしようもなかった。
アイデクセの姿に驚いた従者の男もサヴァドの目論見を理解しているのか、レイトールをどうにかしようという気持ちはないらしく、叩き起こされまだ夜も明けていないと渋る若い医者を引きずるように連れてきてくれた。
医者は手荒な扱いに文句を言いながらもレイトールの状態を確認していくうちに目を覚ましたようで、腹に刺さった剣を抜くための処置を始めた。出血に備えペンチで引っ張り抜き取ると素早く止血を施す。
「伝手を頼ってウィスタリアから魔法使いを連れてくるつもりだ。それまで持つだろうか?」
医者だけでなくサヴァドの目から見てもとても危険な状態だった。匙を投げられる前に何とか生かし続けて欲しいと願いを口にするが、医者は処置を続けながらも首を横に振る。
「見ての通り傷は深く出血量も多い。傷を負ってから放置されていた時間がどの程度かにもよるが長すぎたのは確かだ、夜明けまで持つかもわからんぞ。生きていたとしても魔法使いにどこまでの治療が出来る?」
傍らで聞いていたユアはスカートをぎゅっと握りしめた。
魔法使いの技量にもよるのは知っているが、アイデクセが連れてくるのは現在のウィスタリアで一番の魔法使いであるナハトだろう。
彼は治療の術にたけているのだろうか。
祖父が弟子にするだけの力を持っているのだから期待できるが、それでもナハト自身が自分の力不足を痛感している。
アイデクセ召喚の儀式に選ばれなかった程度の技量で、人の手では治療困難で死んでいく人間を生かすことが出来るだろうか。
不安しかないが、信じるしかないと唇を噛み、手当てを終えたレイトールの傍らに陣取った。
「可哀想にな、お嬢さんの男か?」
「夫です」
「それは失礼を。出来るだけのことはした、後はウィスタリアの魔法使いとやらが来てくれるのを祈るだけだな。何かあればまた呼んでくれ」
レイトールが何者かを知らない医者は、自分にできることはないからと帰って行った。何かあれば呼べと声をかけてくれたが、彼にできることは本当にもうないのだろう。
医者の目からみてレイトールが死ぬのは決定らしい。
悔しくて涙を零すユアを慰めるようにサヴァドが声をかける。
「ウィスタリアの魔法使いは陰気で身勝手と認識されている。アシュケードの人間に呼ばれて来てくれるような者はいないと思われているんだ。希望は捨てるな」
どうせ来ないと思われているが、アイデクセなら確実に魔法使いを連れてくる。それが間に合うかどうかに全てはかかっているのだとの言葉に、ユアは涙を拭って何度も頷いた。
「サヴァドさん、わたしはあなたに酷い対応をしたのにこんなにしてくれて、本当にありがとうございます」
「それはまぁ……こちらとしては殿下には生きていてもらいたい事情があるのだから。やはりアシュケードの民としては純粋な好意ではないよ」
素直に頭を下げられ、サヴァドは困ったように頭を掻くと、命を前に純粋な好意でないことに申し訳なさを感じてユアから視線を外す。ユアはそれでも感謝していると頭を下げた。
「レイトール様が死ぬ時は必ずわたしの命も貰っていくと約束してくれました。だから生きてくれると信じます。アイデクセさんも間に合ってくれる、わたしは二人を信じます」
自分に言い聞かせるように声にしたユアは、体温が低くなったレイトールの手を握りしめる。医者がつけた夜明けの刻限はとうに過ぎていた。