その15 遅れた蜥蜴
伸し掛かった男がユアに猿轡を噛ませ両腕をまとめて縛る。女とはいえ暴れる相手に対しての手早さに驚く間もなく自由を奪われた。
叫んでも声が出ない。扉の前で倒れている護衛はぴくりとも動かず背を向けたままだ。薬を飲まされ眠らされているのだと気付く間もなく、ユアは伸し掛かった男に衣服を剥かれた。
「本当にいいのかよ?」
「いいよ、見つかる前に逃がしてあげるから心配するなって言ったでしょ。やるなら早くやって」
「嫌っ、なんでっ!?」
暴れていると猿轡が外れたが、自由になったのは口だけだ。慌てた男が掌で鼻ごと口を覆ったので息が出来なくなった。窒息しそうになった所で気付いたファミが男の腕を外してくれたが、代わりに彼女がユアの口を塞ぐ。
「なんかさ、不公平でしょ。だから同じになろうよ」
必死に抵抗するユアの額に、まるで労うようにファミが口付け赤い紅が移った。
瞬く間に衣を剥かれてしまい半裸にされる。膝を開かれ、恐怖に慄き声にならない悲鳴を上げたがどうにもできなかった。
敵国の女、まして異形の蜥蜴の女というだけで憎しみを向けられる。けれど男だけではなく、同じように攫われ売られてきたファミまでがどうしてなのか。
驚き混乱する中、不意に伸し掛かる男が引き剥がされた。
「うちの商品に何してんだこの糞野郎!」
普段見せるのとは違う腹の奥から出された罵声はメリディナのものだ。傍らには今夜はいないはずのサヴァドが立っていた。
どうやらユアに伸し掛かる男を引き剥がしたのは彼のようで、更にメリディナが声を上げると数人の護衛が集まって来る。
「ファミ、お前が手引きしたのね。恨みがあったとしてもやっちゃいけないことよ。そしてあんたっ、うちの商品に何してくれんだい。高額商品にただ乗りしようとはとんでもない不届き者だね。絞めるだけじゃすまさないよ、花街の決まりをきっちり教えてやるから覚悟おし!」
メリディナは腕を組み仁王立ちだ。鬼の形相で護衛達に引き渡した男に凄んでいる。呆然とするユアの拘束をサヴァドが解き、裸を隠すために掛布で包まれた。
ファミは抵抗せず護衛に従い部屋を出るが、その際に震えるユアに視線を送る。いつもは無表情なのにうっとりと微笑んでいて、その視線にユアは恐怖を感じて身を震わせた。
この後ファミは折檻を受け、同じことを繰り返さないよう教育されるのだ。ユアを襲った男も同様に痛めつけられた後に、娼館の娼婦に金を払わず手出しした罪で裁かれることになる。
娼婦はあくまでも商品で館の主の持ち物なのだ。
最後に鼻から息を吐き出したメリディナは罵声を上げていたのが嘘のように、優しい雰囲気を纏って震えるユアをそっと抱き寄せた。
「痣になってるわ、可哀想に……あなたの書いた手紙をわざわざ旦那が取りに来てくれなければ今頃ただ乗りされていたわよ。サヴァドさんに感謝しなきゃね」
よしよしと、まるで幼子をあやす様に頭を撫でられる。抱き寄せられメリディナの肩越しにサヴァドを見上げると、痛ましそうに眉を寄せてユアを見下ろしていた。
この人が酒を贈ってくれなければ、今夜も会いに来てくれなければ今頃は見知らぬ客の男に体を弄ばれていたのだ。
覚悟したはずなのに恐ろしさで体の震えが止まらない。何事もなく助かったのに怖くて歯がかみ合わず声が出なかった。
震えが止まらず布がずれて華奢な肩がむき出しになり、緑の瞳からはぼろぼろと大粒の涙が零れる。
震えて声なく涙を流すユアからサヴァドは視線を外して部屋を出て行こうとした。お礼を言わないとと思うが声が出ない。
そんなサヴァドを引き止めたのは、遠くから聞こえてきた男女の声が入り混じった悲鳴だった。
「あら、何だか騒がしいわね。まさかファミとあの男が逃げたのではないでしょうね」
複数の屈強な護衛に引きずられて行ったのだ、簡単に逃げられるとは思わないが万一もある。メリディナは震えて涙を零すユアを安心させるようにあやすと、上客であるサヴァドを部屋の奥へと促して外の様子を窺った。
娼館の女将というものは金を生む娼婦と金を落とす客にはひたすら甘くなるのだ。扉から首を出したメリディナだったが「ぎゃっ」と悲鳴を上げ尻もちをつく。
「なっ、ばけっ……ばけっ、化け物っ!」
尻もちをついたまま物凄い勢いで後ずさったメリディナは震えて泣くユアに縋り、この世の終わりかのごとく顔色を悪くしてユアの小さな背に隠れた。何事かと外に視線を向けていたサヴァドの瞳が驚愕に見開かれると同時に、ユアは彼らの驚きの原因を知って耐えていた感情が爆発した。
「ユアっ!」
「あっ、あああっ、アイデクセさんっ!」
叫ぶように声を上げたユアは、震える体で両腕を伸ばす。が、足がついてこず寝台から落下した。けれどユアが床に落ちるのを俊敏な動きで救ったのは、全身が硬い鱗で覆われた化け物だ。
ユアに縋っていたメリディナが恐怖のせいで掛布を握りしめたままひっくり返ってしまったので、ユアの白い肌が曝される。アイデクセは拳を握ると爪を隠してユアを抱き留めた。
「お前がっ……」
アイデクセの喉から威嚇の声が漏れ、黄緑に縁取られた瞳孔が唖然と側に立つサヴァドを捕らえる。射殺す視線と容赦ない敵意を向けられたサヴァドがはっとして後ずさるが、逃がさないと漆黒の鱗に覆われた長い腕が伸ばされた。
「アイデクセさん、アイデクセさんっ!」
肌に直接触れる鱗を通してアイデクセの怒りが伝わり、ユアは必死になって首を振る。しかし名前以外の言葉が出て来ない。ユアに変わってサヴァドが自らの命を守るために凍りついた喉から声を上げた。
「違う、私は彼女に指一本触れていない!」
「お前がユアをっ!」
しかし怒りに震えるアイデクセにサヴァドの言葉は届かなかった。
アイデクセから吠えるような音が轟く。初めて目の当たりにするアイデクセの激昂。それが反って泣くばかりだったユアに冷静さを取り戻させた。
これ以上はいけない、事実を知ったらアイデクセが後悔する。ユアは必死になってアイデクセの首に腕を回して目を合わせる。
「あの人が助けてくれた、本当に助けてくれた。駄目よ怒らないで。彼はわたしの恩人なのっ!」
お願い聞いてと叫んでアイデクセの顔を鷲掴む。鱗を剥ぎ取る勢いで力を入れ、顔を寄せ視線を合わせた。
するとようやく視線が合い、息の荒いアイデクセの鼻がユアに摺り寄せられて匂いを嗅がれる。アイデクセはそのまま再び視線をサヴァドに固定させると鋭い殺意を放ち続けていたのだが、ユアがアイデクセを抱きしめたまま必死に何度も訴えるとやがて息の荒さが治まった。
ほっとしたユアはアイデクセの顔を掴んだまま、体の力を抜いてアイデクセに身を寄せる。
「男の臭いがついている。俺やレイトール、そいつじゃない臭いだ。すまないユア、俺のせいでこんなことに……」
サヴァドに何もされていないことは分かってくれたようだが、同時にアイデクセの感情が怒りから悲しみに変化するのを肌を通して感じた。
衣を剥がれて伸し掛かられただけでも、アイデクセの鼻は男女の見分けがついてしまうようだ。場所が場所なだけにユアに何が起きたのかを想像して涙を流さずに泣いている。
違うと否定したかったが声にならず、大きく硬い胸に抱き込まれて安心したユアは、首を振りながら息を吐き出しアイデクセに腕を回して再び抱き付いた。
アイデクセが短絡的思考の持ち主か、あるいは彼らの種族でも力を持った戦士であったなら、ユアが止める間もなく一瞬で目の前の男を握りつぶしていただろう。
けれどアイデクセはいかに力があり俊敏で頑丈だろうと心の優しい庭師だった。こちらの世界に存在する蜥蜴に顔が似ていても、心を持った優しい人。悲しみ、憂い、涙を零さずに泣くただの男なのだとユアは身を持って思い知る。
一方アイデクセは心から悲しんでいた。
何もできなかった、自分のせいで大切な存在が傷つけられたと自分自身に怒り、また弱く儚い存在を守れなかったと己の存在を後悔する。
レイトールと別れた後、必死になってユアを捜したのだ。
昨日の時点で攫われ八日もの時が過ぎていた。
レイトールはユアが無事でない可能性を告げた。アイデクセに覚悟を持たせるためだ。
アイデクセはこちらの世界に来てから常に共に行動したレイトールと別れて救出に向かったが、花街という特殊な場所なだけに、様々な臭いが充満して愛しい娘の香りが判別できない始末。
吐息でも拾ってみせると耳を澄ませば喧騒に交じり、艶めかしい女たちの声や欲望に満ちた男の声が届くばかりで、娘たちの置かれた状況が否が応でも察せられ胸を痛めてしまう。
そしてユアもそのような場所で苦しみに曝されていると想像し、この世界で生きている自分に心底絶望して、それでも耳と鼻を頼りに這いずり回ってユアを捜索し続けた。分かっていたがその結果がこれなのだ。
真っ白な柔肌が曝されていた。必死に手を伸ばしてアイデクセを呼ぶ声。悲痛に歪んだ顔。落ち込み、怒りに心が潰された。
約束よりもかなりの時間が過ぎてしまっていた。半時以内にゴーウェンの指定する場所に行かなければユアが殺されるとあったが、レイトールは間に合ってくれたのだろうか。
ただの脅しかも知れなかったが、楽観的に考えることなど到底できなかった。もしかしたら既に命がないと考え身の凍る思いをした。こうして手の内に捉えたが安堵はない。
生きて見つけることができたがユアは裸で、見知らぬ男の匂いを染みつかせているのだ。
苦しくて悲しいのはユアの方だと分かっていても、アイデクセは己の苦痛を隠すことができない。化物の側にいなければこんなことに巻き込まれる立場ではなかったのに。いったいどう償えばいいのか分からなかった。
落ち込むアイデクセの顔を弱い指先で懸命にひっかくユアの姿に悲しみが増した。あまりにも弱々しい力に細すぎる指だ。自らを守る鋭い爪も硬い鱗も持っていない。この世界では誰もがそうだが、分かっていてもよくこんな姿で生きてくれていたと胸が震える。
「アイデクセさん、違うんですよ。聞いていますか、本当に大丈夫。あの人が助けてくれたんですよ、本当に大丈夫なんです。だから悲しまないで下さい。自分のせいだとか思わないで、お願いだから落ち込まないで」
変わらない顔色に恐ろしい姿のせいでそうとは分からないが、一緒にいる時間が長いユアにはアイデクセの落ち込みようが一目で分かった。
そのお陰で体の震えも止まり、アイデクセの憂いを解くのに必死になって、絶対に伝手になどならないと決めていたのに、サヴァドを恩人と紹介する羽目になる。アイデクセが考えるようなことにはなっていないと納得してもらう為に、サヴァドの言葉が必要になってしまったのだ。
アイデクセの鋭い目は怒りよりも悲しみに支配されていた。真実を知って安心して欲しい。そのためにはサヴァドの協力が必要だ。
ユアは振り返って視線で訴えたが、サヴァドはユアが向ける視線の意味を理解しつつも首を横に振った。目の当たりにした巨大な化け物に恐怖し、こんな相手に頼ろうとした己の浅はかさに後悔しているのだ。ユアにはその様が手に取るように分かった。
どんな猛者も命の危険を犯す勇気が持てなくなるほど、アイデクセの放つ気は恐ろしい。けれどそれは初対面がこれだからだ。初めからアイデクセを知っていれば違うと分かるのに。ユアはアイデクセを恐れるサヴァドに苛立たしさを覚えた。
汗水たらして大きくした事業や鉱山を、新たにやってきた権力者に根こそぎ奪われてもいいのか。こんな見た目と雰囲気だがアイデクセは怖くない。怖く見えるのは心で泣いているからだと怒鳴りたかった。しかしそれより早くアイデクセがユアを連れ去るために立ち上がり踵を返してしまう。
その背に向かって果敢にも声を上げたのはユアでもサヴァドでもなく、寝台の上で布を抱き締め震えていたメリディナだった。
「幾らかかってると思ってるのっ、連れて行きたいなら身請けして!」
買取の金額もだが、衣装代やらなにやらで相当の金額が必要だったのだ。サヴァドに買われて元は取れていたが、今後の予約を反故にするとなると円満に解決するためには違約金も生じる。厄介な客もいるのでこのままでは赤字と訴えるメリディナだったが、アイデクセが視線を向けただけで「ひっ!」と悲鳴を上げて飛び上がり壁に縋りついた。
「女を攫っておいて金で解決しろだと?」
「攫ったのはわたしじゃない、ゴーウェンの旦那よ。こっちは料金を支払って正規に受け入れたのだから、そこはきっちりしてもらわなきゃ。それが花街の掟ってものなのよ!」
自分の訴えは正当な物なのだと訴えるメリディナはこの場にいる誰よりも勇敢だった。ただひたすら損をしないために声を上げている。一方アイデクセの方は攫われ娼館に売られた事実を突きつけられ、不甲斐なさから思わず腕に力を込めてしまった。
「うっ、アイデクセさん、苦し……」
「すまないっ!」
慌てて腕を離したアイデクセの動きが止まる。きちんと周囲が見えていなかったが、ここでようやく半裸のユアを抱きしめている現実を理解して目が釘付けになったのだ。
破れた衣がかろうじて腰に巻きついているだけで、白く柔らかな膨らみが曝されている。視線に気付いたユアが両手で隠して背を丸めた。
「ユア――」
「もうやだ。せっかく会えたのに」
「蜥蜴だろうが何だろうが無料で持って行かせないからねっ!」
唖然と呟きを漏らしたアイデクセに、思考が戻り恥ずかしさに俯くユア。そして金を払えと果敢に離れた場所から吠えるメリディナの様子に、ようやくサヴァドも凍り付いた体を動かし上着を脱ぎかけて、止める。代わりにメリディナが握りしめる布を取って恐る恐る近づいてさっと素早くユアの背にかけてやると直ぐ様逃げるように距離を取った。
「蜥蜴よ、私は彼女に指一本触れていない。彼女を守るために金で買ったのは事実だが、傷一つつけずにあなたに返す算段を立て尽力していたのだ」
サヴァドも自分の命を守るのを優先すると同時に、さりげなく恩を売るため事実を告げると、かすかな望みにアイデクセの思考が寄った。
「俺に返す?」
「彼女の客はずっと私だった。私は本当に彼女に触れていない、それをあなたは分かるのだろう?」
匂いがどうのと言っていたのを覚えていたサヴァドは説得を試みる。
「こんな場所だ、不届き者に襲われそうになったがそれも助けた。彼女は本当に無事でどの男にも体を開くようなことにはなっていない。私は彼女を守るために努力をした。あなたが心配するようなことにはなっていないと断言できる。そして彼女をここから連れ出すために必要な手続きも代わりに引き受ける。彼女は自由だ。女将、それでいいだろう?」
最後はメリディナに命が惜しければ手放せとサヴァドが説得する。金はサヴァドが支払うのだ、それで赤は出ないと言われれば、損をしないならとメリディナもしぶしぶ納得するしかない。
アイデクセにとってサヴァドの言葉は底まで落ちた意識を浮上させるものとなった。ユアが自分のせいで酷い目に合わせれた事実は変わりないが、それでも命があり、さらには体を男の自由にされていないのだと知り本当かと縋るような、けれど一般的には鋭く射殺すような眼光をユアに向けた。
結局サヴァドに見受けされ、彼の望むようになってレイトールに迷惑をかけるのだ。ユアは自分の不甲斐なさにやりきれない気持ちに陥る。
それでもアイデクセの勘違いは訂正できた。再び会えたことに安堵する気持ちもあった。
結局は強がっても自分には何の力もないのだと思い知らせれたユアは、アイデクセの胸に額を摺り寄せてこくりと頷く。
「サヴァドさんの言うことは本当です。ごめんなさい、アイデクセさん。こんなことになるなんて、自分の無知と無力さを思い知らされました」
アイデクセやレイトールと一緒にいる意味をきちんと理解できていなかったのだ。天涯孤独のただの娘から格上げされていた立場を侮り、軽く見ていた結果がこれである。最悪だ。