その13 買った男
綺麗だとどんなに褒められても、鏡の中の自分を見てとてもそうは思えなかった。
派手に結い上げられた髪には重たい飾りがじゃらじゃらついている。原形をとどめない化粧に、襟が大きく開いた衣を幾重にも着せられたが、紐を引くと全てが一瞬で脱げてしまうような心許無さ。香水は付けられなかったが、室内には香が焚かれて細く白い煙が立ち上っている。
これが娼婦の纏う戦闘服なのだと知り、否定はしないもののやはり違和感は拭えない。結い上げた髪には高価な髪飾りがつけられたが少しも似合っておらず、顔に乗る化粧すら乗せすぎて重みを感じるのは気の所為ではないはずだ。
これからここが自分の生きていく世界と押し付けられても、納得していないユアは怖くて体が強張ってしまい動けない。覚悟をしようにも出来ないまま準備がすすんで夜が来てしまった。足の腱を切られるのを覚悟で逃げ出したかったが、そんな隙もなく今に至る。ユアは入口に立つ男とメリディナを見ていることしかできなかった。
メリディナと買い主である男が二言三言交わすと扉が閉められる。ついに見知らぬ男と二人きりにされてしまった。
泣いて喚いて暴れてもいいだろうか。みっともなく叫んで死ぬのを覚悟で窓を飛び越えてみようか。折檻されても努力した分だけ納得できるのではないだろうか。緊張で血の気が引いて指先を白くしたユアの前に男が腰を下ろした。
天蓋付きの寝台に豪華な椅子。揃いの台にはとても食べ切れない量の酒や食べ物が並べられている。
飾り彫りの施された鏡台が置かれ、ふかふかの絨毯が敷かれたこの部屋は、上客を迎えるための特別な場所だ。ユアはテーブルの向こうに腰を下ろした男を恐れつつも観察した。
年の頃は四十代半ばの男だ。髪は白髪交じりでユアと同じ緑色の瞳をしている。座っているので分からないが、背はそれほど高くはないだろう。
金鉱を所有しているそうなので裕福な暮らしをしているのだろう。アイデクセとレイトールを見慣れたユアからすると細身の男性に見えた。
これなら抵抗してもなんとかなるだろうかとの考えが過るも、相手が男であるのには変わりなく、血色も良くて健康そうだ。ユアでは勝ち目がないのは誰の目からしても明らかだった。
男は長椅子にゆったりと腰を落としてクッションに肘を乗せ足を組んでいる。佇まいには品があり、敗戦国の将であったというゴーウェンとの違いに少しばかり驚かされた。
狭い世界で育ったユアは、ウィスタリアの属国となったアシュケードの男は乱暴者なのだろうとばかり思っていたのだ。これまでに接したアシュケードの男がゴーウェンと娼館の護衛だったせいもあるだろう。
眼の前の男は黙ったまま緑色の瞳でユアを眺めている。知的な印象すら感じるが、それでも女を買うような男であることに変わりはない。
暫く互いに観察し合っていたが、男がついに口を開いた。
「蜥蜴の女と聞いた。間違いないか?」
男はユアをじっと見つめたまま、視線を外さずに静かに聞いてくる。よほどアイデクセを相手にした女というものに興味があるのか、ユアは悔しさを感じながらもしっかりと頷いた。
「偽りではなく?」
「もうすぐ……妻になる予定でした。花嫁衣装を縫って、式を挙げる準備をしていました」
馬鹿でないならここで察するだろうと、皮肉を込めせめてもの抵抗を見せた。
がっかりするだろうか、約束が違うと騒ぎ立てるだろうかと出方を待っていると、男は一つ頷いて組んだ足を解き、両手を合わせ絡めると膝の上に乗せて僅かに前のめりになる。そしてじっとユアを見つめる視線は穏やかで怒りの色など少しも宿していなかった。
「君は蜥蜴を恐れているかな。それとも異形の英雄と呼び崇拝しているだろうか」
何故こんな質問をするのだろうかとユアは眉を顰めた。この男はアイデクセに抱かれたユアに興味があったのではなかったのだろうか。もしかして他に目的があるのかと考えてはっとした。
「アイデクセさんをアシュケードに引き込もうとしているのですか?」
口にしてそんな馬鹿なとすぐに否定の考えが浮かんだ。
この男は金鉱の所有者で戦いとは無縁の場所にいるのではないか。戦争が起これば流通に支障が出て障害になりそうなものだ。
アイデクセを言いなりにして国の重鎮に名を連ねる野望でもあるのかもしれないが、頭がいい人間ならユアを人質にしてアイデクセを従える危険性も考慮するだろう。
それとも金鉱の主というのは真っ赤な嘘で、アシュケード再興に関わる権力者の一人なのかもしれない。年齢的に指導者というのも有り得ると、ユアは注意深く相手を観察した。
「君は蜥蜴にとってどの程度の存在かを理解しているかい?」
大人が子供に優しく問うように男が問を続ける。
「蜥蜴が君を大切にしているというのは本当だろうか」
「それは本当です。アイデクセさんは優しくて、わたしのことを傷つけるようなことは絶対にしません」
アイデクセだけではなくレイトールもユアを大事にしてくれていた。見かけが怖いのはどうしようもないが、それだけは勘違いして欲しくなくて口調が強くなる。聞いていた男は納得したのか口角を上げるとしっかりと頷いた。
「なるほど、蜥蜴を信頼しているのだな。それなら君は蜥蜴のもとに戻りたいだろう。望むなら私が戻してやってもいい」
「戻れるって……」
魅惑的な言葉にユアは警戒を強めた。目の前の男が蜥蜴に抱かれた女に興味があるのではなく、アイデクセ自身に興味を抱いているというのは確実だ。
彼の言う通りにすればアイデクセのもとに戻してくれるのかもしれないが、いったい何を要求されるのか分からずユアは身構える。
「君を身請けして屋敷に招き、蜥蜴に連絡を取ろう。望むなら花嫁衣装を準備してやってもいい」
「そんなことをしてあなたにどんな利益があるのでしょうか。何が目的なのかはっきり仰って下さい。アシュケード人のあなたはアイデクセさんをどうしたいんですか?」
友好的にという考えはまるで浮かばなかった。何しろウィスタリアに侵攻したアシュケードは、思いもしない敵を迎え敗北したのだ。アイデクセに取り入って何をするつもりなのか。陥れてウィスタリアを滅ぼすというのも有り得る。
「蜥蜴というより、蜥蜴と命を繋げた王子と話がしたい」
「レイトール様?」
この時ユアはあることに気付いた。
レイトールと話がしたいのに、男はアイデクセの事ばかり聞いてくる。ユアを使ってアイデクセに繋がろうとしているのは、もしかしなくてもユアとレイトールの関係を知らないのだ。
特に隠しているわけではなかったが、大々的に公表したわけでもない。唯一といえば、セリナに絡まれた際にレイトールが口にした程度だろうが、一体誰が王子と庶民の娘が正式に結婚をしたなど信じるだろう。
アイデクセとレイトールは二人で一つだ。
それならファミが言ったように、ユアがアイデクセに気に入られ、生贄として与えられたとするのがアシュケード側から見ると最もらしい話ではないだろうか。アシュケードの人たちにとって、アイデクセは恐ろしい存在以外の何物でもないのかもしれない。
「君は娼婦になるつもりなどなかったのだろう? なのにこんな場所にいて私に買われている。ここから無事に出るために、このまま私に身請けされてはどうだろうか。この提案は君にとって最善だと思うよ。その代り君は私に助けられたからと蜥蜴を説得し、レイトール王子と話をする場を設ける努力をして欲しい」
男はユアを盾にするつもりだ。アイデクセに恩を売ってレイトールと話がしたいのだ。
黙って聞くユアにそれが条件と、男は口角を上げたままじっとユアの瞳を見つめていた。
断られると思っていないようだが、男の意に反しユアは考えるまでもなく首を横に振った。
「蜥蜴では満足できなかったか?」
驚いたのだろう、男は僅かに緑色の目を見開いた。
「失礼なことを言わないで下さい。わたしはアイデクセさんやレイトール様の不利になるかもしれないことを、自分の身を守るためだからって約束できないだけです」
優しく側で守ってくれた人を売るような真似は出来ない。それならユアはアイデクセやレイトールの為に体だって売って見せると、心内で自らに言い聞かせ唇を噛みしめる。
「私の願いを聞いて蜥蜴や王子とつなぎを取るくらいなら、ここで多くの男に体を許すのを選ぶと?」
「レイトール様もアイデクセさんも、わたしを人質にしなくたって話くらい聞いてくれます。アシュケードの人たちは何もできない女を捕らえてからじゃないと話をする度胸もないんですか?」
アイデクセのことを化け物だと勘違いしたままの人間が多すぎて腹が立った。アシュケードだけでなくウィスタリアでもそうであったが、こうして面と向かって言われるとどうしても腹が立ってならない。
ユアを捕まえて交渉の道具にするのは身勝手な権力者たちのやることだ。アイデクセを誘拐したウィスタリアだけでなく、国を違えてもやることは誰も彼も同じらしい。
「人の体を握りつぶす化け物が相手だ。見てのとおり私は軍人でもないのでね、身の安全のために君を手に入れたい。君は望まない男の相手をしなくて済むんだ。恩を売るやり方をしても卑怯だとは思わないが?」
「わたしがあなたに助けられたら、きっと二人はあなたの願いを聞いてしまいます。とんでもない願いだって何でもないと言って。だから怖くて名前も知らないあなたの言う通りなんてできません。アイデクセさんやレイトール様に嫌な思いをさせるくらいなら、ここで体を売って生きるのも運命だと受け入れます」
本当は嫌だ、死にたくなる程に嫌なことだ。病気をうつされたと何でもないことのようにファミは言っていたが、ユアからするととんでもない出来事だ。
けれどアイデクセやレイトールの枷になってしまう位なら、体を売ることだってできるとユアは気合を入れる。
これまで逃げて守られるばかりの人生だったが、いい加減に誰かの負担にならないための一歩を踏み出す時だと、ユアは自分自身に必死になって言い聞かせた。
「そうか」
必死に言い聞かせていたが、男が身動きした途端にユアの体が驚き弾ける。飛び上がらんばかりに弾けたユアを前に男は一瞬動きを止めたものの、すぐに顔をほころばせると薄く微笑んだ。
「怯えなくても取って喰いはしない。私の名はサヴァド。ここアシュケードの北に鉱山を持っているが、商談でたまたまこの街に寄った所で君の噂を聞いてね、競りに参加したのだよ。王子としたい話は土地の問題だ。私が所有する鉱山のほとんどが少しばかり厄介な場所にあってね。このままだと丸ごと取られる可能性があるのだ。属国となった後、鉱山のある土地の領主が処刑されて不在になった。次につく領主によっては鉱山を奪われる可能性がある。それを回避するために王子の後ろ盾を得て私が土地の領主になりたいと思っている」
アシュケードは王国の体裁をとってはいるがウィスタリアの属国だ。弱小貴族は留め置かれたが、力を有する貴族たちは処刑されるか、身分を剥奪され平民に落とされている。
サヴァドの所有する鉱山は有力貴族の領内にあり、領主が不在となってからは巻き上げられる税金が減って良かったのだが、新たな領主はアシュケードからやってくることが決まっていた。
現在はレイトールの婿入りが立ち消え保留となっているが、金を生み出す土地をウィスタリアがこのまま放置し続けるはずがない。
ウィスタリアから新たな領主がやって来て莫大な税を課せられるだけならまだいいが、鉱山ごと奪われる可能性もあるのだ。好戦的なアシュケード人なら当然そうすると男は話した。
だから男はユアを伝手に蜥蜴と生活を共にしているレイトールと話をつけ、自分自身がその地の領主に収まる計画を思い付いた。
たまたま訪れた国境で偶然にも蜥蜴の女が娼婦として店に出る話を聞いて駆けつけ、何が何でもと競りに勝つために莫大な投資をしたのだ。
「つまりあなたは、自分の鉱山を守るために領主様になりたいというわけですね」
「その通りだよ。第二王子は王とは不仲との噂もあるが、王太子とは良好な関係を築いているとも聞く。属国の北にある土地の領主を私にすることくらい、蜥蜴の威を借りれば難しい問題でもないと思うが?」
もし駄目でもアイデクセを盾に脅せと言っているのだ。
サヴァドにとっては大切な鉱山かもしれないが、ユアにとってはアイデクセやレイトールが大切な存在である。レイトールと王の確執は事実で、しかもアイデクセを使って我儘を通させるような真似をすれば、王との関係は更に悪化するのではないだろうか。
「ごめんなさい、出来ません。あなた自身の力でどうにかしてください」
「どうにかしてこの結果なのだけどね。まぁいいよ。君との時間はあと三日ある。金も払ったことだし、交流を深めていけば君も分かってくれると期待してみよう」
「娼婦ってこんな風に扱うものではないのでしょう?」
「そうだよ。色んな意味で遊んだりするものだ。だけど君は蜥蜴の女だ。競りに参加した男の殆どが君を組み敷きたがってのことだろうけど、その後のことを考えられないほど私は愚かではないよ。目先の恨みや興味本位で手を出すのは自ら命を短くするようなものだ。例え腹が立っても手を出すようなことはしないから安心しなさい。私も命は惜しいからね」
その後サヴァドは食事と酒を楽しんで夜が更けると帰って行った。
これがユアが攫われて五日目の夜だった。
ユア自身は意識を失っていた時間もあるのでしっかりと記憶があるわけではなかったが、あと三日、ユアは男が自分の体をいいようにしないのだと確信するも、置かれた状況が状況だけに、親交を深めようと誘うサヴァドが身動きするたびにびくつき身構える。
どうせこの男に抱かれなくても娼館にいる限り未来は決まっているのだ。何とか逃げ出せないだろうかと様子を窺っていたが、サヴァドは一晩中ゆるりと過ごすだけで眠ろうとはせず、夜明け前に館を後にした。
「何もされなかったの。そっか。運が良かったのか悪かったのかどっちだろうね」
「あの人はアイデクセさんと話をして、ウィスタリアの王子に交渉を持ち掛けたかったみたい」
不安なユアがつい漏らすと、結い上げた髪を解いてくれていたファミが「へぇ」と相変わらずの無表情で返事をする。
「あたしらとは違ってユアって特別なんだね。羨ましぃ」
鏡越しに笑わない瞳のまま、紅を落とした唇で弧を描いたファミと視線が合う。
「わたし応じるつもりないわ。アイデクセさんを売ったりしないから」
「女将が聞いたら怒るかもね。でもまぁユアの思うようにすればいいでしょ。でもせっかくの機会を逃していいの?」
こんないい話二度とないよと零すファミに、ユアは俯きながら首を横に振った。
本当はサヴァドの甘言に頷きたくなる。どこの誰とも知れない不特定多数の相手をさせられるなんて嫌で嫌で仕方がなかった。
「あの人の言うことを信じていいのか分からないもの」
「まぁね。攫われて娼婦にされたし、簡単に人なんて信じない方がいいよ」
ファミが当てた櫛が髪の綻びに引っ掛かりユアの首がかくんと引っ張られる。ごめんと誤ったファミの顔が表情を持って笑っていることに、俯いたまま大丈夫と答えたユアは気付けなかった。