その12 娼婦になる
メリディナが出て行くのと入れ替わるようにして、年の頃は十代半ばの、左の足を引きずっている少女が入ってきた。戸惑うユアを他所に、少女は表情もなく淡々と口を開いた。
「あなたの世話をするように言われたの。ファミよ、よろしくね」
見た目は成人する前の少女なのに大人びた雰囲気がある。見た目との不均衡にうすら寒さを感じてユアは我が身をさすった。
「もしかして……あなたも娼婦なの?」
「そうよ。でも病気を感染されて休業中」
「病気なのに寝てなくてもいいの?」
「娼婦の病気といえば性病でしょ、ウィスタリアの女はそんなことも分からないのね。客に感染したらメリディナの店の評判が落ちるから店に出られないのよ。こんな仕事でもやらないよりまし」
こんな仕事とはユアの面倒を見ることらしい。それよりも体を売る方がいいと言われて驚くユアに、ファミと名乗った少女は無表情のまま鼻で笑う。
「休んだ分だけ借金が嵩むのよ。稼がなきゃ娼婦もやめられないでしょ。あと十年は縛られるってのに、病気を貰う度に休業させられて上がったりだわ」
ファミは壁の隅に置かれた椅子を引くとそこに座るようユアに指示した。動けないでいると手を引かれて座らされる。
壁には鏡がかけられており簡易の化粧台のようになっていた。ユアを座らせたファミは箪笥を開くと道具一式を取り出してユアの髪に櫛をあてる。
ユアは鏡越しにファミから目が離せなかった。
こんな少女までが身売りして客を取っているなんて。しかも病気まで伝染されているなんて思いもしなかったのだ。
ユアの人生で想像すらしたことのない現実がここにある。実際に存在してユアに触れているのに、どこか遠くにも感じられて、信じられないものでも見ているかのようだ。それでもファミの無表情が彼女の境遇を物語っているようだった。
「女将に色々教えておくように言われたけど本当に何にも知らないのね。まぁあたしも初めはそうだったけど。大丈夫、そんなに怯えなくたって女将はちゃんとしてるから、悪い気さえ起こさなきゃ大事にしてもらえるわよ。確かユアっていうんだったわよね。ここではあたしの方が先輩だから、年上でも姉さんなんて呼ばない。ユアって呼ぶわよ」
話をしながらファミはユアの髪をとかして結い上げて行った。
朱色の飾り紐が赤茶色の髪に通されていくにつれ、今夜からでも客を取らされる恐怖に身が竦むが、なんでもない風のファミの様子から、本当に自分は体を売るのかだろうかと実感が薄れそうになる。
「蜥蜴の女なんだってね。初物じゃなくてもそれだけで付加価値がつくからお得ね。あたしが客を取ったのは十三の時よ。ユアと同じで攫われて売られたの。初物だったし子供好きの親父が高値で買ってくれたのよね。でもきっとユアの方がいい値がつくわ。だってあの蜥蜴の女だもの。初物よりずっと価値がある」
どうやらユアはアイデクセの女として、娼婦初の床を競りにかけられるらしい。ファミの時も同様で、一番の高値を付けた男が最初の客となる。
こうして髪を結って着飾らせるのも商品をよく見せて少しでも値を吊り上げる為だ。今夜は競りだけで実際に客の相手をするのは翌日以降となるのだと、何も知らないユアにファミが丁寧に教えてくれた。
「初物って、あの……わたし。アイデクセさんとはまだそういうことをしていないの」
「へぇ、そうなの。嘘でも本当でもあたしはどっちでもいいけど、女将が知ったらどうだろうね。ユアが蜥蜴とした女だから競りに加わる客も多いから、言わない方がいいかもよ。ユアの価値は蜥蜴の物を咥え込んだってことなんだろうから。ああでも蜥蜴だから、大きすぎて入らなかったとかいえば誤魔化せるかもだけど、どうなんだろうね」
髪を結いながら独り言のように答えるファミにユアは現実を噛みしめた。自分のここでの価値はアイデクセに抱かれたかどうか。抱かれていないと知ったら価値が下がって売値が下がるのだろう。
そうなるとメリディナにも怒って辛く当たられてしまうのだろうか。いっそのこと放り出してくれないかと思うが、メリディナがゴーウェンに払ったお金の問題があるので、何事もなく追い出されるなんてことにはならないだろう。
アイデクセと交わっていないならファミのように初物として競りに出されるのか、もしくは他の方法をメリディナが思いついて付加価値をつけるか。ユアには先を想像できるだけの知識がなかった。
結局ここから出るには娼婦になって勤め上げなければならないのだろう。レイトールやアイデクセが助けに来てくれることも考えられるが、居場所がわからない限り期待しても無駄だということはユアにも分かっていた。
奇跡的にも見つけてくれたとして、それはいったいいつになるのか。
その頃のユアは娼婦という職業にどっぷり浸かりきっているだろう。ファミのように病気になっているかもしれない。そんな状態で二人に見つけてもらいたくない。二人にそんな姿を曝すくらいならいっそ死んでしまった方がましだった。
「ほら、泣かないで。化粧が出来ないでしょ」
「ごめ……わたし、娼婦になりたくない」
娼婦として働く少女を前に口にしていい言葉ではない。けれど同じ経験をしたファミは実年齢よりもずっと大人でユアの心情を理解していた。
「分かるけどさ、仕方ないのよね。そんなに悪い仕事じゃないよ。酷い奴もいるけど優しい客もいるし。心が伴えば気持ちいいしね。それに上手くやれば身請けしてもいいって馬鹿な男もいるんだから、あとは慣れるかどうかだよ」
十代半ばの少女に慰められて鼻をすする。経験の差だろうが情けなくて余計に涙が流れてしまった。目が腫れるから泣くなと注意されるが文句を言われている訳じゃない。
ファミも経験からユアの心内を理解してくれているのだろうと思うと余計に泣けてしまい、結局泣き止んでも腫れた瞼のままで化粧を施され、確認に来たメリディナにファミが怒られてしまいユアは申し訳なさでいっぱいになった。
「自分で自分の価値を下げるような真似をしてまったく……まぁ仕方がないわね、売られた娘なんてこんなものだもの。それにしても蜥蜴の女のくせに随分と弱い心なのね。もっとがさつで豪快な女かと思ったけど、そこはまぁ良い所じゃないかしら?」
夜の化粧を施したメリディナは原型をとどめない別人へと変わっていた。そしてこれから店の手伝いに出るファミもユアの傍らで化粧を済ませ、ぐっと大人びた美少女へと変貌を遂げる。
これだけの化粧の腕があればユアの瞼の腫れなどなかったかにできそうだが、競りが翌日に延びると聞いて余計なことは口にしなかった。
高い塀に囲まれた敷地にはいくつもの建物が併設し、陽が沈むと客が集まり多くの部屋から艶めかしい声が漏れ聞こえる。
夜の闇に紛れ逃げ出せないだろうかと部屋を出たユアだったが、すぐに屈強な護衛に阻まれた。これ以上進むと客の目にとまり面倒になるからと追い戻されれば、恐ろしくて素直に従い部屋に籠る。
艶めく声だけではなく笑い声や罵声も届き、間違った客が入り込んでしまわないかと怖くて震えながら夜明けを迎える。その頃には泊まりの客が残っているだけで辺りが静まりはじめ、一晩中緊張していたユアも糸が切れたように寝台に沈んで眠りに落ちた。
そして次に目が覚めた時には環境の変化について行けなかったようで、高い熱にうなされていた。
「疲れがたまってるんだろうけど、今夜の競りには出てもらうわよ。その潤んだ瞳なんてとってもいいわ。一晩待って正解だったわね」
発熱してもやることはやらされるのだ。しかし今夜は競りだけで客を取る必要がないと知り、熱でぼんやりした頭で考えて安堵する。
こんなことならレイトールやアイデクセの求婚にさっさと応じて早々に結婚しておけば良かったとか、レイトールとはたとえ国王が認めていなくても書類上は正式に夫婦なのだから、体を合わせてしまっておけば良かったとか、経験のないのを理由に恥ずかしがって自分から求められなかったこととか、後悔につながる様々な思いが込み上げてきた。
「アイデクセさんとは上手くやれるのかな……」
種族は違っても性行の仕方は同じなのだろうか。違いがあるとしたらどうなのだろうかとか、現実逃避のように次々に考えが浮かんでは消え、いつの間にか眠って、肩を揺らされ再び目が覚めるとファミが支度の手伝いに来ていた。
綺麗にしてくれているのだろう。魅惑的ではないからとの理由で露出は少なく着飾らされ、色とりどりの粉を使って化粧を施される。メ
リディナやファミのようにきつい匂いの香水を使われることはなかったが、熱で弱った体には嗅ぐだけでも胸がむかついて気分の悪さが増した。
そんなユアの姿に娼館の女将であるメリディナは満足そうに笑みを絶やさない。
「蜥蜴にいいようにされて弱り切っている感じがでていいわね。予想したより良い値がつきそうだわ」
大きな別室に連れていかれたユアは今にも倒れてしまいそうで、特別に肘掛けのついた椅子に座らされる。
枠だけの窓から沢山の娼婦が好奇心に溢れる視線を覗かせてはどこかへ消えていくのを、座ったままぼんやりと眺めていた。
娼婦たちの訪れが終わると、機嫌のいいメリディナが一人また一人と男を連れてやって来た。
彼らは部屋には入らずに窓枠の外からユアの様子を窺う。俯かずに顔を上げるよう指示されて守ればそれで終わりだ。
幾人もの男が部屋の前を通り過ぎ、その度にメリディナの機嫌が良くなっていたから、彼女の願い通り値がつり上がっているのだろう。
知らぬ間に売られ借金を抱えたユアとしても高く売れた方がいいに決まっているが、とてもそんなことを思える余裕はない。
熱のせいでぼんやりとした頭でアイデクセとレイトールのことばかりを考えて、現実から目を逸らしていた。
「初出しは明後日、旦那様は金鉱の所有者よ。ウィスタリアや蜥蜴に恨みをもっているのではなくて、蜥蜴の女に興味があって買って下さることになったの。伽の教育は必要ないとのことだから、素人っぽいままの方が好きなのでしょうね。ユアにとっては良縁ね。気に入ってもらえればこのまま身請けしてもらえる可能性もあるのだから、旦那様の機嫌を損なわないように頑張って頂戴ね」
翌朝上機嫌なメリディナに相手が決まったと教えられるが、ユアにとっては絶望でしかない。顔を背けたユアの額にメリディナの掌が添えられ熱を測られる。
「うん、下がってる。これなら大丈夫そうね。期待しているわよ」
いくらで買われたのか知らないが、金鉱の所有者というだけありユアが想像できないような莫大な金額になるのかもしれない。それでも解放されることにはならないのだから、もしかしたら想像よりずっと安いのだろうか。
高値が付く娼婦はよほどでなければ手放してもらえない仕組みが出来上がっているなど知りもせず、顔色を悪くするばかりのユアの所に、仕事を終え風呂に入って身綺麗にしたファミがやってきた。病気で客が取れなくても他の娼婦の手伝いに駆り出されるのだ。
「伽の教育もしないんだってね。大丈夫なの、蜥蜴とやってないって知れたらただじゃ済まないよ?」
「ただじゃ済まなくてもどうしようもないわ」
「本当は処女の方が喜ばれるのにね。旦那たちはあんたが蜥蜴にどんなふうに抱かれたかに興味があるのよ。いっそのことそこの護衛誑かして抱いてもらう?」
見張りとして部屋の外にいるようになった護衛を指し、黙っててあげるからと無表情で告げるファミに、ユアは首を振って否定した。
「あなたはメリディナさんに告げ口したりしないのね」
「お互いさまだから。それにユアは蜥蜴の女だし。そんな人に恩を売っておいて損はないんじゃない?」
「あなたと同じ娼婦になるのよ。アイデクセさんの女だからとか、そんな肩書きはなくなるわ」
誰かの特別ではない、お金で買われ不特定多数の男を相手にするのだ。今回は大金持ちの男に買われるのだとしても、ユアは自分に誰か一人を引き留めるだけの価値などないと思っている。
アイデクセやレイトールは偶然が重なり特別になっただけなのだ。ア
イデクセは見知らぬ世界で寂しさに震え、彼の見かけを恐れなかったユアに心を開いてくれた。そしてレイトールはアイデクセと命を繋げたせいで、ユアを好きだという感情に引っ張られている。
それが現実だから嘘の想いだとか否定したりする気持ちはないが、娼婦に落ちた身で二人の待つ場所に戻れるとも思えなかった。戻るなら明後日までにここを逃げ出すしかない。
「あたしらはあなたが蜥蜴の生贄になってるんだって思ってるよ。ウィスタリアは陰険な国だってのがこの国の認識だし。でもさ、ユアはもしかして蜥蜴のことがちゃんと好きだったりするの? 娼婦ではあるけど、恐ろしい化け物から逃げられるってのにちっとも嬉しそうじゃないね」
硬い鱗に覆われた体に、握るだけで人の頭を潰してしまうほどの人とは異なる強靭な力。人と同じで背筋を伸ばして二足歩行するが、どこからどう見ても尻尾の生えた黒い化け物だ。あんな蜥蜴の相手を好んでやる女などいる筈がないと誰もが思うことだった。
蜥蜴の機嫌を取るために与えられた可哀想な生贄。それがユアなのだと、アイデクセを知らない人々なら当然そのように思ってしまっても仕方がない。
けれどユアは違う、無理にアイデクセの側にいるのではない。実際にはその逆で、祖父を無くし一人になってしまったユアの為に彼らは側にいてくれているのだ。
「アイデクセさんは優しいの。人は脆くて弱いと戸惑って、触るのも恐々なのに側にいてくれる。そんな人を好きになるのに見た目は関係なかったわ。アイデクセさんの存在はこの国を不幸にしたかも知れないけど、わたしにとっては大切でかけがえのない大好きな人よ。アイデクセさんもね、ウィスタリアに無理矢理連れて来られたのよ。そして嫌な人殺しをやらされたのに、わたし達を恨まずに愛してくれる。そんな心の優しい人なのよ」
意に反する状況で、沢山の人を殺して恨まれても前を向いて生きている。きっとユアが攫われたことを知って自分を責めているに違いない。
かつて家の窓が割られた時も異形の自分がいるからだと俯いたアイデクセだが、そんなことはないのだ。
ユアだけではない、レイトールだってそうだし、他にも国を守ってくれたアイデクセを好きでいてくれる人が沢山いるのだから。
「あんな化け物が好きなんてユアも変わってるね。けど、それなら悲しいね」
好きな男がいるのに他の男に抱かれるのは悲しいよと、少女の面影を残すファミが涙の伝うユアの頬を一撫でした。
「それでもね、ここの女たちはやらなきゃいけないの。いい旦那がついたんだから頑張るしかないよ」
ファミの言う通りだった。ユアに値がついてからは決して逃げ出さないようにと護衛が増やされて、見えるすぐ側に置かれたのは、逃げた際に捕まえて足に傷を負わせるのを防ぐためでもある。
ユアの為を思ってのことではなく、金鉱を所有する旦那様に傷をつけた娘を差し出して不快になられるのを避けるためだ。
またファミのように逃げ出して捕まり片足の腱を切られても、同情した客が買ってくれるという場合もあるが、今はまだ傷をつける時期ではなかった。
それから二日後の夜。美しく着飾らされたユアは、この日の為に与えられた特別な部屋でメリディナに付き添われ客を迎えた。