その11 消した繋がり
箱を受け取ったナハトの手は震えていた。呪文を紡いで蓋を開くと、灰色の瞳を潤ませ感嘆の溜息を吐く。
「なんと美しい紡ぎの言葉なのでしょうか」
王の側に仕える魔法使いはローアクが完成さえた魔法の文字を瞬きすることなく追う。
ロアーク最後の弟子として選ばれたナハトは、兄弟子たちを召喚の儀で失い、現在はウィスタリア一の魔法使いとしての地位を獲得している。
師であるロアークと決別し、恩義を忘れる不届き者として白い目を向けられ軽蔑されているが、裏ではローアクを信仰し続けレイトールとも繋がり、アイデクセを異界に帰す研究を続けていた。
「このロアークが残してくれた魔法を使えば、俺とレイトールの命を切り離しても、言葉を理解することができるだろうか」
「勿論です、勿論ですとも。ロアーク様の魔法は私では考え付かない方向から紡がれた、それはそれは美しい完璧な傑作です。殿下とアイデクセを切り離すと同時に、言葉を理解する魔法がかけられる。ロアーク様の最後の作品ともいえる美しく完璧な魔法です。ロアーク様を失い、二度と教えを乞えないと落胆していましたが、再びこうして触れることが叶うとは夢にも思っていませんでした」
目線の位置に箱を掲げるナハトの瞳には涙の膜が張っていた。感激のあまり言葉を失って箱の中を覗き込んでいる。
「出来るのなら急いでくれ、ユアの命がかかっているんだ」
レイトールが周囲の存在を忘れているナハトを急かす。
「ああ、そうでしたね。私としたことが思わぬ出来事に取り乱し、師の大切な孫娘であるユアさんのことがすっかり頭から抜けておりました。大変申し訳ございません」
レイトールに急かされ謝罪しながらも、ナハトの視線は魔法が納められた箱に釘付けだ。
箱を開けるだけの力を持った魔法使いはナハトだけであり、ロアークもそれが分かって鍵をかけたのだが。鍵のことも魔法のことも全てを理解したナハトは、師に託された魔法に感激し、ついに涙を溢れさせた。頼りない弟子として申し訳が立たなかった自分にロアークが託してくれた魔法の存在が、落ち込んで地に落ちていたナハトの心を一気に浮上させたようだ。
完璧と表現された魔法がナハトによって紡がれた。
仄かな光がアイデクセとレイトールの二人を包み込んだと思うと、二人の中で何かがぷつりと切れる感覚が起こる。それからカチカチと歯を鳴らすような音がアイデクセの口から洩れたのも束の間、再びアイデクセだけを光が包んだ。
「レイトール、俺の言っている言葉が分かるか?」
「ああ、分かるぞ。どうやら成功らしいな」
「ロアーク様の魔法が失敗などあるはずがありません。殿下とアイデクセ、双方の命は離れてそれぞれの物となっています」
箱を閉じたナハトは呪文を紡いで再び鍵をかけると箱を見つめている。そして惜しむように額に摺り寄せていた。いろいろと思う所があるらしい。
「俺たちはこのままユアを迎えに行く。それはお前が持っていてくれないか」
「よいのですか!?」
「俺が持っていても魔法など使えないからな。ロアークの形見だが、問題ないならお前が保管して人の役に立ててくれ」
「なんてことだ……」
ナハトにはこれからも世話になるのだし、ロアークの魔法をアイデクセが保管していても宝の持ち腐れになってしまう。言葉を解せる魔法というものは一般的にも役にたつものだ、秘されて埋もれさせるのは忍びない。感激してさらに涙を流すナハトを置いて二人はユアの救出に向かった。
ウィスタリアの西、アシュケードと隣接する国境は有って無きに等しい。かつてはアシュケードからの攻撃を恐れ築かれた砦も先の戦争で崩れ去ってしまったが、ウィスタリアが勝利し、アシュケードを属国としてからは必要なくなり再建する予定がなくなったのだ。
念のために見張りを兼ねた国境警備が置かれているものの出入りは自由で、よほど怪しい輩がアシュケード側より通過してこない限り止められることもない。
だがこの日、全身をローブで覆い隠した怪しい身なりの大男がウィスタリア側からやって来たのを、怪しんだ衛兵が見つけ引き止めた。
「こんな時期に随分と怪しい身形だな、フードをと……ひぃぃぃ?!」
暖かい日差しが降り注ぐ中、真冬でもあるまいし全身を覆うマントにフード姿の怪しい男に声をかけた衛兵が、フードを取れと鞘に納めた剣の先で男の顎を持ち上げてみれば、黄緑色の眼球に覆われた黒い瞳孔に睨まれ悲鳴を上げて飛び上がった。
異変に気付いた他の兵が駆け付けるが、邪魔だとばかりに男は爪の伸びた腕で兵たちを押しのけ進むのですっかり騒ぎになってしまう。
「怪しい奴め、止まれ!」
「止まらないなら容赦しないぞっ!」
走って追いかけた兵士がたなびくマントを掴んだ拍子にフードが取れ、鱗に覆われた漆黒の頭部がさらけ出される。途端に周囲からは悲鳴が上がり、やがてそれはどよめきとなって広がって行った。
「ばっ、化け物!」
「違うよ、アイデクセ様だ!」
恐れる者が大多数の中、ウィスタリアの窮地を救った英雄として憧れを抱き声を上げるのは子供の声だ。
棘のない歓喜の声にアイデクセは一瞬足を止め視線を送るが、そこにあるものが求める女でないと知り踵を返して突き進む。その後を馬に乗ったレイトールが追う形でようやく現れた。
「だから待てと言ったのにお前という奴は。皆、騒がしくしてすまないな。通らせてもらうぞ」
アイデクセが本気で走り出すと馬と変わらぬ速さになる。国境に向け人の往来が激しくなり、馬を走らせることが難しくなっていたレイトールを置いて、アイデクセは振り返りもせず突き進んでいた。
ようやく人波を避け追いついたレイトールが顔を曝して身分を示すと、騒ぎ立てていた兵士たちもほっと胸をなでおろして平静を取り戻したようだ。敬礼し見送るのを横目にレイトールは歩みを止めないアイデクセを追う。
「アイデクセ、急くのは分かるが無暗に進めばよいというものではない」
「国境を越えた街にいるのだろう、助けを求めるユアの声が頭の中で響いている。幻聴だと分かっていても気が急くんだ」
馬が怖がるので騎乗できないアイデクセだが、出来たとしてもあまりの巨体に馬の体力が持たないだろう。一人馬の背に揺られるレイトールはいつもは見上げる友人を久方ぶりに見下ろしていた。
「街に入ればユアの匂いを嗅げるのか?」
「距離にもよる。だがユアが近くにいれば絶対に逃さないし、悲鳴でも上げれば間違いなく俺の耳は聞き取る」
ゴーウェンの目的が何なのかはっきりしないが、二人を呼び出したいのだけは間違いない。それならユアの命は保証されているだろうが安心はしきれなかった。
アシュケード側にある国境の街に入ると王太子の指示を受けた間者が接触してくる。ゴーウェンの居場所は掴めているがユアが何処にいるのかまでは分かっていないとのことだった。
アイデクセは気ばかりが急き、求めるユアの感覚が現実のもののように感じて嗅覚聴覚を上手く働かせることができない。アイデクセの様子からレイトールは二手に分かれる決断をした。
「ゴーウェンの元へは私が行こう。アイデクセ、お前はまず落ち着け。ユアの居場所はお前の鼻と耳にかかっているのだから、まずは冷静になって周囲を観察しろ」
「レイトール、俺はユアを失っては生きていけない。その後の自分がどうなるのか、想像するだけで恐ろしくて耐えられなくなってしまうんだ」
自ら望んだこととはいえ、レイトールとの結びつきを破棄してしまったことも影響しているようだ。アイデクセは一本の糸のようなもので繋がっていた大切なものを切り離し、心が不安定になってしまっていた。
アイデクセの召喚以来、二人は初めて別行動をとることになる。まだまだこの世界に疎いアイデクセを一人にするのは危険だが、この状態でゴーウェンと対峙させるには不安しかなかった。
たとえ相手が片腕を失っていてもウィスタリアの近衛騎士を赤子のようにあしらいユアを攫ったのだ。全盛期の実力がなくとも十分な準備を整えて挑んでいるはずである。
いくらアイデクセの動きが俊敏で、人知を超えた力を有し多少は戦術を習ったとはいえ、かつてのアシュケード四将軍の一人を相手に戦時中のような戦いができるだろうか。アイデクセの弱点は素人という面であり、かつ心が優しすぎるところだ。向こうは絶対にそれを見逃さない。
当時の戦争で力の加減ができるようになってから、アイデクセ自身が命を奪った数はほとんどなく、止めを刺したのは側にいたレイトールだ。四将軍の他三人の心臓を貫き絶命させたのもレイトールであり、アイデクセの傍らでひたすら多くの命を奪い続けた。
レイトールはそれだけ多くの命を奪い続けたのだ。王太子とは生きて戻ると約束したが、今更己の命を惜しみはしない。
ウィスタリアにとってもアイデクセさえ存在すれば他国の脅威となり、これまで通り脅し一つで敵を退けられるだろう。だから国に対する守りの面での不安はなかった。
後はユアだが、それはアイデクセに託すしかないだろう。人の世界に生きるには困難な姿をしているが、そのせいで全てが敵になるわけではない。
ただレイトールは妻とした女性に未だに触れていないのを惜しく感じる。アイデクセとの繋がりを絶っても消えないのだから、やはりレイトールがユアに感じる想いは本物なのだろう。
分かっていたが何処かほっとした。
レイトールから向けられる想いに不安を感じて揺れたユアの瞳を思い出し、今こそ正直に心の内を告げたくなるが、果たしてそれが叶うかどうかはレイトール自身にもわからない。
これから向かう先でどのような結果となるのかは分からないが、簡単に殺されるつもりはなかった。それでも確実に生き残れるかといえば、相手が相手だけに答えが出せない。
ただユアが幸せになってくれればいい。レイトールは不安定な状態に陥ってしまった漆黒の鱗を纏う巨体の大男をじっと見つめる。
「アイデクセ、お前なら必ずユアを見つけられる。見つけたら骨を折らない程度に抱き締めてやれ。ユアもそれを望んでいるんだ」
「待てレイトール。ゴーウェンとかいう男は強いのだろう、俺も一緒に行くべきだ」
「奴の所にユアはいない。私達の優先は建前は国だが本心は妻だ。お前も夫ならか弱い妻をさっさと取り戻せ」
「ならばユアを取り戻してから一緒に行けばいいだろう」
「そうしたい所だが、迎えが来たようだ」
レイトールが視線を向けた先には怯えた様子の子供がいてこちらの様子を窺っている。襤褸を纏った子供は戦災孤児かそれに近い状態なのだろう、特に珍しい存在ではない。汚れた手には紙切れが握られ、駄賃を渡され伝言を預かったのだと一目でわかる姿だ。
レイトールが側に寄るように手招きしたが、アイデクセを怖がって首を振り紙切れを投げ捨てて逃げてしまった。捨てられたそれを拾ったレイトールは視線を走らせ眉を寄せる。
「四将軍が下種に成り下がったようだ。半時以内に奴の待つ場所にいかなければユアが殺されるらしい」
「ユアも奴の所に?!」
「いや――娼館だとさ」
視線を落としたせいでレイトールの感情は読み取れない。しかしアイデクセは身を硬直させた後で鱗に覆われた体をぶるりと揺らした。
「娼館とは、あれか?」
「ああ、あれだな」
白くて柔らかいものに憧れを抱くアイデクセを喜ばせてやろうと、レイトールは一度だけアイデクセを娼館に連れて行ったことがあった。
よかれと思い、アイデクセを受け入れてくれる館と娼婦を見つけたのだが、辿りついた先でアイデクセは女たちの状況を知りすっかり意気消沈してしまい、女を抱く所ではなかったのだ。
そこでレイトールは初めてアイデクセの種族が生涯ただ一人の女性を慈しみ愛しぬくのだと知る。欲望を吐き出すために女を利用するような価値観がないと知ってからは、話題にすらしないように周囲にも注意を促したのだ。
「アイデクセ、一刻も早くユアを見つけてくれ」
他の男の匂いがつこうが二人の気持ちに変わりはない。しかし普通に育った娘であるユアは違うだろう。攫われ娼館に放り込まれて幾日経っているのか。想像せずとも辛い時間を過ごしていると予想がついた。
攫われた時から最悪を予想してはいたが突きつけられると辛いものだなと、珍しく音を立て踵を返し走り出したアイデクセの背をレイトールは黙って見送った。
酷な状況にレイトールの胸には怒りが湧き起るが冷静さも失わない。取り乱すアイデクセのお陰で反って落ち着いた。
レイトールは指示された場所へと移動を始める。
伝言には蜥蜴一匹でとあったのでレイトールは間者の同行を拒否した。どうせ隠れてついてくるのだろうが、出来るだけユアの命にかかわるようなことは避けたいのだ。
「望んだのは蜥蜴か。ゴーウェン将軍、お前の思うようにさせてやるものか」
ユアを苦しめた報いと、レイトールは何が何でもアイデクセとの決戦を叶えてやるつもりはなかった。殺す役目を背負うのはレイトールだ、心優しい蜥蜴ではない。
ユアを傷つけた男たちの分も報復してやると、表情を消したレイトールは馬を駆けさせる。
召喚したのはウィスタリア、そして救ってくれたのは蜥蜴。
国は勝手に攫ったくせに、意思の疎通が出来ないと分かると扱いに困って処分しようとした。
レイトールはナハトに何日も徹夜させてようやく完成させた魔法で命を繋ぎ止めたが、アイデクセの意に反して彼に多くの命を奪わせることになってしまった。
レイトールは常に傍らにいて、優しい蜥蜴が惜しんだ命を嘲笑うかに摘み取った。
戦争が終わって五年、穏やかに生きていたが人殺しの報いが回ってきた。それも大切な女性を巻き込む形で。
残った最後の一人が最強の敵だ。しかし愛しい女の為と説得してアイデクセの手にかけさせたくはない。
アイデクセと命の繋がりが消えたおかげなのか、レイトールは自分の命に対して執着が薄れていた。
これまではアイデクセの命も預かっていた状態なのだ。身勝手は避けていたが制約がなくなり、堂々と挑める今の状態に身震が起こる。
相手がアシュケードの四将軍最後の一人だからではない、ユアを傷つけた男だからこそ自らの手で決着をつけたいとの思いがあった。