その1 蜥蜴と呼ばれる男
ユアが彼を始めて目にしたのは、まだほんの少女の頃。成人してすらない十歳の冬だった。
魔法王国ウィスタリアと、西の軍事大国アシュケードが戦を始めて二年。軍事面を魔法に頼っていたウィスタリアは、訓練され統率のとれたアシュケード軍に押され、戦況は悪化の一途をたどっていた。
ユアの父親は騎士団に所属し一軍を預かる将であったが、一年前に最前線にて仲間と共に命を落としていた。
幼少期に母も失っていたユアは、仕事に出ると滅多に帰宅できない父に代わり、主に母方の祖父の手元に預けられて育つ。そして両親ともに失ってからはそのまま祖父のもとで生活を続けていた。
その祖父に連れられ出向いたのは王都中央に位置する広場だ。
国境は越えられいくつかの街がアシュケードに占拠されているというのに、遠く離れた都は戦が始まる前とさほど変わらない日常が続いていた。
今回ユアが連れて来られたのは、とても珍しい催しがあると聞いたからであったのだが、出向いた先でユアが目にしたのは、太い鉄格子の檻に入れられた奇妙な生き物だった。
「お爺さん、あれはなに?」
「魔法使い八人の命を犠牲にして、異界から無理矢理に連れてきた魔物だよ」
「どうしてそんなものを連れてきたの?」
魔法の国と銘打っていても誰も彼もが魔法使いになれるわけではない。その魔法使いの命を八人分も犠牲にして異なる世界から魔物を連れてきたというのはいったいどういう了見なのか。
珍しいものを見ようと人が集まりひしめき合う中で、可愛い孫が潰されないよう広場の端に避け、見やすいようにと石壁の突起にユアを立たせた祖父のロアークは皺だらけの顔を顰めた。
「ウィスタリアを救う救世主を召喚しようとして失敗したのだよ。召喚はな、相手の都合も何もかもを無視した誘拐だ。それに失敗して手に負えないから殺すという。だから儂は禁呪を蘇らせるのを反対したんだ」
忌々しそうに吐き出した祖父の、白く濁り始めた視線は遠く離れた檻の中にいる魔物に向いていて、ユアも釣られるようにしてそちらへと視線を移した。
ロアークはかつて城に仕えた魔法使いで、引退してかなりの年月が過ぎているが、ほんの最近まで王に意見を許されるほどの発言力を持っていた。
しかし禁止された魔法を使い異なる世界から人を連れてきて戦わせるという提案に猛反対したせいで、ロアークの立場は国に盾突くものと判断され、発言する力も奪われてしまったのだ。
召喚にかかわった魔法使いはかつての弟子たちでもあり、多くの命を使い失敗に終わった召喚の末路に悔しさばかりが滲み出る。そんな祖父の背にユアは小さな手を回して身を寄せた。
「失敗したのなら帰してあげればいいのに」
「戻す魔法はないのだよ。だから余計にやりきれん」
「可哀想、いっぱい血が出ているわ。あの魔物も帰りたいのよ」
少し離れているのでよく見えないが、檻の中には真っ黒で艶やかな体を持つ魔物が蠢いていた。
形は人に似ているが、太く長い尻尾が生えている。周囲を警戒するように身を縮めていたかと思うと、檻に体をぶつけて大きな音がなり、空気が振動していた。両手両足を太い鎖で繋がれているがかなりの力があるようだ。
死刑執行の鐘が鳴り、ユアは祖父に回した腕の力を強めた。ロアークはやりきれない感情を胸に孫娘を抱き締め返す。
ウィスタリアの勝利の為に猛者の力を借りたいと思うことには納得できるが、禁止された秘術を蘇らせ、異界の地より望む力を持った者を無理矢理に召喚する行為はけして許される事柄ではない。
しかも召喚したものは人ではなく、言葉も解さない、強固な鱗に覆われた獰猛な魔物というではないか。
ようやく檻に閉じ込めることが叶うも、飲まず食わずで一月以上も生き延びているという。
結果として持て余し、どうしようもなくなり公開処刑となったのである。ウィスタリアを脅かす存在として、見世物となり槍に突かれ殺されるのだ。
「助けてあげられないの?」
「すまないな。これが我らが王の下す決断だ、しかと見ておけ」
最高位の魔法使いとなった実力があるのだ、老いたとはいえ魔物を檻から出すことくらいはできるだろう。
けれどロアークがユアの願いを聞き届けた先に未来はない。
自分は良くても、幼い孫娘の命を取られる危険を犯してまでやり遂げる意志は持ち合わせていなかった。
成人もしていない可愛い孫娘に見せるには惨い光景だが、これが自分たちが住まう国の、そして仕えた王家のやることなのだとロアークはユアに教える。
魔法使いであったユアの母であるロアークの娘も、そして軍部に在籍したユアの父親も戦場で命を散らした。
最後に残った老いぼれに残された時間もそれほど長くはないだろうと、ロアークは可愛いからこそユアに真実を見せ、生きるための糧を授けようとしているのだ。それをユアも理解しているが、魔物が可哀想で、そして怖くて祖父にぎゅっとしがみつく。
複数の死刑執行人が檻を取り囲んで向けたのは巨大な槍斧だ。
鋭い槍と斧の性質を併せ持った武器の一つが差し込まれ魔物を傷つけようとしたのだが、魔物の太い腕が持ち手を捕らえると引き込まれ、握っていた死刑執行人はたたらを踏んだ。その隙をついて伸びた腕が執行人の頭を掴んで握りつぶすと観衆から悲鳴が上がった。
「お爺さんっ」
「何というものを召喚したのだ!」
抱き寄せられたユアは祖父の胸に顔を寄せるが、片方の瞳が惨劇を追い目が離せない。鋭い爪と五本の太い指を持った掌は、人間の頭部を一握りで潰せる人知を超えた力を持っていた。
確かに召喚は成功したのだろう、これだけの力を有したものがウィスタリアに付いたなら、軍事大国であるアシュケードの軍を蹴散らすのも可能であろうから。
けれどそれは理性を持った人であるのが条件だ。
決して奇妙な音をまき散らし、巨大な尾で反撃してウィスタリアの人間の命を奪うような輩であってはならない。
いっそのこと王の頭が潰されてしまえばよかったのにと、身分を隠して高みの見物を楽しむ愚かな王の姿を認めたロアークは眉間の皺を深くする。その時、胸に閉じ込めたユアが何かを指さした。
「お爺さん、あれ。王子様じゃない?」
ユアが指差すのは、ウィスタリアの第二王子レイトールだ。
王家特有の眩い金髪に覚めるような碧眼で見目も良い十八になったばかりの王子が、魔法使いの身分を示す漆黒のローブを纏った人間をつれて躍り出ると、身分を隠して観覧席に座る王の前に膝を付き何やら捲し立てている。
「どうしたのかしら?」
「しっ、黙って」
ユアを黙らせたロアークは見えない目の代わりに魔法を使って唇を読み会話を盗む。真剣な表情の祖父を前にユアは言いつけを守って口を閉ざし成り行きを見守った。
何かを言い終えた王子と魔法使いが獰猛な魔物が閉じ込められた檻に駆け寄ると、首から上をなくした死刑執行人の遺体を横切り血飛沫が上がる。
大量の血が流れているそこに膝を付いた王子は魔物に向かって何かを告げているようだ。
ユアは魔物に人が殺されるのを見たばかりで、王子が頭を潰されるのではないかと冷や冷やしていたが、王子は自ら檻の中に腕を差し込んで魔物を呼ぶ。
その隣では漆黒のローブを纏った魔法使いが何かしらの呪文を唱えているようだ。何の呪文だろうかと窺っていると、檻の中に延ばされた腕に魔物が噛みついた。
「王子さまっ!」
禁じられていたのに思わず声を漏らしてしまう。
第二王子であるレイトールは見た目だけではなく、清廉潔白で、王と異なり国民の支持が高い。
彼が王になればアシュケードとの戦争も起こらなかったのにとの声も多く、父王の言いなりになっている王太子ではなく、彼を次なる王にと望む声は祖父も度々上げていた。
祖父があまりにも第二王子を誉めるので、ユアも同様に彼のことを好ましく感じているのだ。
そんな人が異界の魔物に腕を食われたとなり、ユアは体を硬くして祖父に回した腕に力を籠める。
どうなってしまうのだろうと不安で恐ろしく祖父に縋りついていると、腕から血を流していた王子の隣で魔法使いが意識を失い、血でできた水たまりの上にぱったりと倒れた。
王子は倒れた魔法使いにかまわず檻の中の魔物に何事かを話しかけている。そうして間もなく魔物が噛みついた腕から牙を外すと、ユアの頭上でロアークが大きく安堵の溜息を吐き出した。
「成功だ。よくやったものだ」
「成功って、どうしたの?」
「異界のものと言葉を繋いだのだよ。どうやらあの魔物には知性があったらしい」
何があったのか分からないユアが不安気に祖父を見上げると、ロアークはユアを高見から降ろして人込みを抜ける。
「殿下の傷を癒してやらねば。あのままでは使い物になるまい」
「お爺さんが行くの? 禁じられているのに?」
「騎士団に伝手がある。あれだけの傷を癒せる魔法使いは今現在いないだろうからな」
かつてはロアークの弟子でもあった有能な魔法使いたちは、異界より無理矢理人を召喚したせいで命を落としている。第二王子のレイトールの隣にいた魔法使いは言語を繋ぐ魔法を開発したのだろうが、魔力を使い果たして意識を失ったのだ。
そうなるとレイトールが負った傷を癒せるだけの力がある魔法使いは、引退して王の不興を買い遠ざけられたロアークくらいのものだろう。
ロアークは騎士団の伝手を頼り王子に伝言を頼むと孫を連れて自宅へと引き返す。必要ならそのうち王子が自分からやってくるはずだといい、実際にその通りになった。
夜も更けロアークの自宅を訪問した王子の腕は食いちぎられる寸前だった。
誰もが憧れ信頼する王子の訪問ということでユアは眠らず起きていたのだが、魔法による治療はあっという間に終わってしまい王子は慌ただしく仕事へと戻って行った。
残念に思いながら見送るユアの頭を、王子が治療されたばかりの手で一撫でしてくれたおかげで興奮してしまい、その後は朝方まで寝付くことができなかったのは少女期の憧れだったのだろうな、と―――大人になったユアは、ほんの少しの飲酒で酔いつぶれ、台に突っ伏している王子の蜂蜜色に輝く金色の髪を眺めながら当時を思い出す。
「この方はわたしの初恋だったんですよ」
「初恋……その恋は継続中か?」
酔い潰れた麗しの王子の隣には、黒光りする巨体が鎮座している。
低くて耳に心地よい、男性特有の声色をした異種族の男がユアの漏らした言葉に応えた。
「憧れの王子様ではありますけど、今はもう恋ではありませんね」
飲酒によりほんのりと頬を染めたユアは王子の隣に腰かけた、とても大きな巨体を正面から見上げ、二十歳にしては少しばかり幼いと思える雰囲気を纏い、にっこりと笑って異種族の男を見上げる。
「でもわたしにとってアイデクセさんは、今でも憧れの救世主様です」
現在は蜥蜴と呼ばれるようになった異種族の男は、救世主との呼ばれ方を不相応と嫌っている。
それを分かっているのにユアはあえて口にした。
アイデクセは、不機嫌そうに分厚い瞼を三分の二ほど下げて、鋭い目つきでユアを見下ろしている。
「俺は救世主ではないと何度も言っている」
不機嫌そうに声色が変わり、耳元まで大きく避けた口が開きもせずに言葉を発した。
酔っぱらって眠るレイトールの血と、優秀な魔法使いによりこの世界の言葉を理解するようになったアイデクセだが、あくまでも魔法で意思の疎通が取れるようになっただけで、実際に彼はこの世界の言葉ではなく、彼自身の国の言語を発しているのだ。
口の動きと言葉が合わないのもそのせい。
お陰で言葉を得たアイデクセだが、レイトールの血を使っての魔法であったためにその弊害として、レイトールの寿命が尽きると同時にアイデクセも同様に命が尽きるような繋がりとなってしまっている。
それを解くには新たな魔法を開発する必要があるのだが研究は進んでいない。
「でもアシュケードの猛将をことごとく血祭りにあげて、ウィスタリアを勝利に導いた英雄には間違いないでしょう?」
異界から召喚した魔物は神がかり的な恐ろしい力を持った化け物だった。
黒光りする鱗に全身を覆われている。太い腕の先にある五本の指には鋭い爪が延びており、屈強などの人間よりも大きな筋肉に覆われているのに俊敏で、ぴんと背筋の伸びた二足歩行可能な蜥蜴。
太く大ぶりな尾までが意思を持つ武器となって力を揮い、頭髪のない頭上には第三の目まで存在している。
五感が鋭く匂いや気配だけで誰なのかわかるし、相手が向ける感情にも敏感だ。
とても人間ではかなわない化け物。
捕らえることが出来たのは、召喚されてすぐであったために動転してくれていたお陰だろう。そうでなければ今頃ウィスタリアは滅亡していたに違いない。
「何度も言うが、俺の世界ではこの程度の力など平凡なものだ。空を飛べる訳でもないのに戦士を名乗るのはおこがましい。俺がやったのなどただの弱い者いじめだ。襲ってくるという理由をつけ、非力な人間を殺してまわっただけだ」
言葉が通じるようになった異界の魔物は想像以上に温厚だった。
人を傷つけるくらいなら殺されてもいいと言い、それならと王は我が子であるレイトールを人質に取って従わせた。
アイデクセは言語を繋ぐ魔法の副作用としてレイトールと命を繋げている。アイデクセが死ねばレイトールも死ぬと知り、召喚されてより味方であると感じていた相手を人質に取られたアイデクセは従う他なくなってしまったのだ。
仕方なく戦場に立ち、向かってくる敵を薙ぎ払う。そうして軍事大国アシュケードは瞬く間に落ちて、魔法王国ウィスタリアの属国となったのだ。
「もとは薔薇が大好きな庭師でしたっけ」
「話したことがあったか?」
「ええ、ずいぶん前に。夢は自分の庭を持つことで、それを聞いてわたしはアイデクセさんのことがますます好きになったんですよ」
ふふっと笑うユアは手にしたグラスを口につけ傾けた。酒が喉を潤す動きをアイデクセの黄緑色に囲まれた黒い瞳孔がじっと見つめている。
「酔っているんじゃないのか」
「これくらいじゃ酔いませんよ」
「いや、酔っているな。今日はこれで暇しよう」
「レイトール様も眠っていることですし、アイデクセさんも遠慮しないで泊まって行ってください」
「今夜はやめておこう。レイトールは担いで帰る」
酔いつぶれたレイトールが泊まって行くのはよくあることだ。
その場合はアイデクセもレイトールと同じ客室に泊まらせてもらうのだが、何分真面目なアイデクセだ。酔った戯言とはいえ、好きという言葉をうら若い娘に向けられては遠慮するべきだと結論付けていた。
それに同く戦場に立つ身であるとはいえ、アイデクセにかかればレイトールなど軽い荷物の一つに過ぎない。
家族でもない男を年頃の娘と同じ屋根の下にはおけないとアイデクセがレイトールに腕を伸ばせば、今まで眠っていたはずのレイトールが突然起き上がってものすごい勢いでユアの肩を掴んだ。
「ユアっ、私はどうしたらいい。どうやって償えばいいんだっ!」
「レイトール様、それはお爺さんが頑張っていますから」
突然のことではあるがいつものことでもある。
飛び起きる一瞬は驚かされるが、ユアはすぐに落ち着いて首を傾けるとにっこりと笑って返した。
しかしレイトールは安心できないと相手が誰であるかも気にせずユアの肩を遠慮なく揺らすと、とんでもなく失礼な言葉を大声で叫んだ。
「いつぽっくり逝くとも知れない老体でどこまでやれるというんだ!」
その老体は二階の部屋で眠っているはずなのだが、年を取ると眠りも浅くなる。暴言を聞いていないだろうかとユアは祖父の寝室を見上げ、それからレイトールをあやすように煌びやかな蜂蜜色の金髪を撫で付けた。
いつもはしない行動からユアもかなり酔っているのは明らかだ。
大した量は飲んでいないのだが、人間は酒に弱いとアイデクセは空にもなっていない酒瓶をちらりと見やった。
「わたしが嫁に行くまでは死なないと言っていますから、きっと大丈夫ですよ」
「うう……苦労かけるな。行き遅れてどれ程のしわくちゃ婆になろうと必ず私が責任を取るから」
「いやですよレイトール様。その前にレイトール様は政略結婚させられるに決まっているじゃないですか」
ウィスタリアの第二王子で、実の父親が嫉妬するほど国民にも人気で清廉潔白な文武両道の王子様。
けれど彼は驚くほどお酒に弱く、一口飲んだだけで酔いが回り始め、一杯飲むだけで酔いつぶれることができる。
普段は軍に属する者として、さらに王子としても慎重に気を使って人前で飲むようなことはしないのだが。
この世界での蜥蜴という生き物に似ていると揶揄される異界の友人が楽しめる場所がないからと、アシュケードとの戦が終わった五年ほど前のある日、レイトールはロアークを頼ってこの家へアイデクセを連れてやって来た。
ロアークの元を選んだ理由は、魔法使いとしての責任でロアークがアイデクセを元の世界へ帰す魔法を研究しているというのもあるだろうし、二人の繋がれた命を切り離す研究にも力を注いでくれていたからだ。
同時に娘婿でありユアの父親はレイトールの剣の師でもあった。
そう言ったつながりもあり、一般人として暮らしているロアークを頼り、アイデクセの世界を広げようとやって来たのが始まりだ。
最初の頃は話をするだけであったが、姿形でアイデクセを恐れないユアが同じ席につくまでに時間はかからず、やがてユアが成人すると食事を振る舞うだけではなく、老いた祖父に代わって酒に付き合うようになった。
蜥蜴のような見た目をした大男と、身分を隠した王子が人目を避け訪ねてくるのは決まって深夜だ。
老体は時間が来ると客人を放って遠慮なく就寝するようになり、その後をユアが受け持つようになっていた。
ユアは二人の意を理解して、冗談では救世主だの王子様に恐れ多いなどと口にするが、過剰反応してアイデクセを恐れたり、レイトールに色目を使ったりしない。同じ目線で同じ立場として受け入れてくれる。
そうなると誰もが憧れるレイトールが本性を見せるまでさほど時間は要しなかった。
酔ったレイトールは素直になりなんでも思ったことを口にする。そのほとんどは無理矢理召喚してしまったアイデクセに対して負い目を感じているというものだ。
時には泣き出すレイトールの背を撫で『はいはい』と頷いて聞き役に徹するのがユアの役目となっていた。
そしてすぐ側では種族を超えた友を案じて涙するレイトールを、アイデクセが何とも言えない表情で見守り無口になっている。『そんなことはない、お前に出会えてよかった』と慰めれば大泣きしだすので口を噤んでいるというのもあるだろう。
「やはり連れて帰ろう」
流石に迷惑だろうと、アイデクセはレイトールの首根っこを軽々と掴んでユアから引き剥がした。すると持ち上げられたレイトールは足をばたつかせ苦情を吐く。
「くそうっ、誰が政略結婚なぞするものかっ。私は恋愛結婚に憧れているんだ、絶対にあきらめないぞ!」
間に戦争を挟んだとはいえ、二十八歳になった王子はとっくに貰い遅れだ。
縁談はいくつもあるのだが、政略結婚の典型でもある両親を見て育ったので恋愛結婚に憧れているらしく、飲むと決まって口にして騒いでいる。
それを知っているのは恐らくユアとアイデクセ位のものだろう。
政略結婚は嫌だと駄々をこねる王子の為につい先日、強制的に見合いが行われたのだが、レイトールはその席でアイデクセとの同居は必須と相手方に言い放ったそうだ。
しかも寝台も同じにするらしい。
王子様然とした完璧な笑顔で絶対に譲れない条件だと提示し、見合い相手のご令嬢からは引きつった笑顔で断りを入れられたという。
王子様も大変だなと酒のせいで染まる頬をゆるめながら、どうやら本当に帰ってしまうらしい二人を見送りに外に出る。冬を目前に冷たい空気が火照る肌に心地よいが、寒がりのアイデクセは分厚い冬用のコートに袖を通していた。
「どうぞお気をつけて」
「見送りはいいから中へ戻れ」
「ええ、でも少しだけ」
肩に抱えられたレイトールは再び眠りに落ちているようだ。酔っているにしても、よくあんな体制で眠れるものだと感心しながらユアは闇に溶け込む巨大なアイデクセに手を振る。
恐らくこの世界の誰よりも大きくて屈強な体をしているだろう彼はわかりやすくため息を吐くと、握りこぶしを作って爪を隠し、ユアの体を傷つけないようにしてからそっと肩を押して室内へ戻るよう促した。
「こんな庭先で襲われたりしませんよ」
「爪が触れただけで血が流れる肌をしているくせに冗談はよしてくれ。心配だからさっさと引っ込んでくれないか」
「わかりました、言う通りにします。アイデクセさんは本当に心配性ですね。そういう所も好きな一つですよ」
肩を押す鱗に覆われた硬い拳を、ユアは両手で包んで祈るように額に押し付ける。
恐れながらも多くの人間がアイデクセに感謝の意を示していた。けれど何の迷いも企みもなく触れてくるのはユア位のものだ。
この世界にたった一人きりの奇妙で恐ろしい異種族の男にこうして触れるのは、彼を一人にしてしまわないようにという気遣いであるのをアイデクセは理解してた。