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読んでも読まなくてもどっちでもいい

あのマグカップに抜け殻を

作者: 阿部千代

 負けた。

 空前絶後の負け方だった。

 全てが思いどおりに進んでいたはずだった。俺のデッキは目を見張る速さで回転していた。オツベルの小屋で六台の稲扱いねこき機械がのんのんのんのんのんのんと、唸っている場面を幻視したほどだ。

 俺は自分に酔い過ぎた。コンボを繋ぐ快感にとらわれていた。あまりにもうまくことが運ぶものだから、どれだけ差をつけて勝つかに焦点をあててしまった。

 実際のところ、フィールド上に魔導師が売りに出された時点で、コンボはそこそこにしておいて土地の買い占めに舵を切っていたならば、間違いなく俺が勝っていたのだ。

 油断。それをヤツらは見逃さなかった。

 序盤にあれだけ猛威を振るったミュゼル族の双子戦士部隊が、あれよあれよという間に討ち取られていく様を見ているのは爽快ですらあった。コンボの起点である、最大まで成長させた鉄工所をあっさりと閉鎖させられた時は思わず笑ってしまった。異端審問官が糾弾されたのには心底たまげた。そんな手を隠していたとは。

 ヤツらは皆、参っちまうなあ、やってられねえよなあ、つまんねえなあ、なんて顔をしながら、誰一人諦めてなんていやしなかったのだ。流石としかいいようがないし、あの状況から最下位にまで落ちた俺にはマヌケ以外ふさわしい言葉はなかった。


 ベランダに出て、十月の月を見上げながらタバコに火をつけた。随分と寒くなったものだ。目の前のイヌビワの葉の裏にはまだセミの抜け殻がしがみついていた。いつなくなるのかと注目しているのだが、台風がきても大雨が降っても、真夏の盛りの頃からずっと変わらず、この抜け殻はここにあった。


 妻が出ていってから二ヶ月が過ぎていた。

 とてつもない暑さのなか、書き置き一つ残して、妻は猫を連れて消えたのだ。

 書き置きは、謝罪で始まり、家賃と生活費は振り込む旨、そして、楽しい生活も大事だけどやっぱりお金も大事だよ、という締めの言葉が、拙い文字で綴られていた。

 俺は朝方、しこたまに酔っ払って帰って、テーブルの上のそいつを見つけた。

 事態は把握したがどうしていいかわからず、傍らに転がっていた油性ボールペンをつまみ上げ、「凶器はこいつか」と呟いてみた。静まりかえった部屋の中が、たちの悪い冗談で笑ってくれていたひとがいなくなってしまった事実を親切丁寧に教えてくれた。

 あれから、ずっと酔い続けている。

 気付くと、俺の家はボンクラどもの溜まり場となっていた。酒とビデオゲームとボードゲームの出鱈目な毎日で、家中が荒れに荒れていた。妻の誕生日に俺があげた猫の絵の描いてあるマグカップには、水を吸って焦げ茶に染まったタバコの吸い殻がみっちり詰まっていた。妻はそいつを、それはそれは大事にしていて、結局は一度も使うことはなかったはずだ。馬鹿な女だ、と思った。お気に入りのものをしまいこんでおくなんて。結局はこうなった。

 もちろん、俺もわざとこのマグカップを吸い殻入れにしているわけではなかった。気付いたら、こうなっていた。いつの間にか、こうなっていた。気付いた時には、どうしようもなかった。


 ベランダの床でタバコを揉み消して、室内に入った。

 連中はさっきの一戦の、俺の慢心とヤツらの諦めない心が生んだ世紀の逆転劇の、感想戦でもしているのだろうと思っていたが、皆押し黙って、ばつの悪そうな顔をしていた。

 ヤツらの視線の先に妻がいた。

 不機嫌そうな顔をしていた。

「おかえり」

 俺は努めて普通に、なるべく何の感情も入らぬように、そう言った。

「ずいぶん楽しそうにやってるじゃん」

 強ばった笑顔で部屋を見渡しながら、皮肉っぽさを隠そうともせずに妻は言った。

「いや、悲しくて仕方ないからこうなっちまったんだ。憂いの沼にはまって動けなくなったアルタクスのような気分だよ」

 妻の神経を逆なでするのを承知で、俺は言った。憂いの沼とかアルタクスとかいったって、妻にはわからない。妻ははてしない物語を読んでいない。きっと映画も観たことがない。

 妻を怒らせたいわけではない。思いついてしまったことを、俺は言葉に出さずにいられない。どうしても、我慢ができない。きっとそういう病気だ。

「私にはそうは見えないけど」

 妻が言った。

「悲しみ方も人それぞれだよ。部屋のすみっこで膝を抱えてめそめそしてたら、あんたも納得できたのかもしれないけど、それは半日で飽きた」

 俺がそう言うと、妻の目つきが変わった。俺の言い方に可愛げがなかった。妻の怒りが膨れ上がっていくのが手にとるようにわかった。

「俺、そろそろ帰るわ」

 部屋に漂う空気に耐えきれなくなったのだろう、一人がそう言うと、皆一斉に帰り支度をはじめた。

「いいよ、忘れものを取りにきただけだから。私すぐに出てくから」

 何人かは妻の見知った顔もあった。そいつらに、妻はそう声をかけていた。

 いやいやほらアレだから、とか曖昧なことを言いながら、ヤツらは潮が引くようにさっと部屋から出て行った。


 妻はすぐに出て行くといいながら、部屋に留まっていた。

 俺と妻、二人きりになった。かつては当たり前のことだった。たった二ヶ月、たったそれだけの時間で、当たり前のことではなくなっていた。俺ははっきりと居心地の悪さを感じていた。

「痩せたね」

 俺の顔を見て、妻が言った。憐憫の情からというよりも、ただただ呆れているように聞こえた。

「あんたもな」

 様変わり、というほどではなかったが、妻は確かに痩せていた。

 しばらく鏡を見ていないので、俺自身がどれだけ痩せているのかはわからなかったが、この二ヶ月の間の俺の栄養事情を振り返れば、痩せて当然だと思った。俺は酒で命を繋いでいた。質の悪い燃料でやっとこ動いているこの体は、そう遠くない未来にがたがくることは自明の理だった。

 外で猫が喧嘩をしていた。唸り声の様子だと、どうやら二匹の実力は拮抗しているようだった。俺はこの家にいた猫のことを思い出した。

「ペンは元気か」

 妻の表情が一瞬だけ曇った。黙って連れ出したことに罪の意識を感じているらしかった。

「うん、元気」

 そう言った妻は黙った。俺も黙っていた。妻がなぜ黙っているのか俺にはわからなかったが、なにか話してほしいと思っているわけでもなかった。俺と同じで、なにも話すことはないと判断しているのかもしれなかった。妻の表情からはなにもわからなかった。まっすぐに俺をみていた。責めているのかもしれなかった。謝っているのかもしれなかった。なにか他のことを考えているのかもしれなかった。

 車が通り過ぎる音が聞こえた。隣の部屋の女の子の弾くピアノの音がうっすらと聞こえた。往来を行く誰かの足音も聞こえた。上の階でドアが開いて閉まった。秒針の動く音が聞こえた。俺はいつの間にか、耳に入ってくる音に神経を集中させていて、目の前の妻のことを忘れていた。ぬるく気の抜けた缶ビールをあおった。テーブルに置くと、かすかに無数の泡が弾ける音がした。妻は俺から目を逸らしていた。

 唐突に、何かを話そうという考えに至った。妻を笑わせようと思った。不健康な顔を並べて二人で黙りこくっているのはとても馬鹿らしいことのように思えた。

 しかし言葉が出て来なかった。何をいえば妻が笑うのか、検討もつかなかった。今だから笑って話せるというような、二人の思い出話はないかと探してみたが、やめた。下を向いて疲れた笑いを浮かべている俺と妻が頭に浮かんだ。そんな情けない風景の一部にはなりたくないと俺は思った。妻は吸い殻の詰まったあのマグカップを見つめていた。


「俺は美しく生きたいと思っていたんだ」

 言い訳がましく聞こえないように、気を遣いながら俺は言った。だけど、やっぱり言い訳だった。何に対する言い訳なのかはわからないが、妻に俺を理解して欲しかった。妻は吸い殻の詰まったあのマグカップを見つめていた。

「自分を誤摩化したりとか、嘘をついたりとか、とにかく嫌なんだ」

 妻は吸い殻の詰まったあのマグカップを見つめていた。

「それなのに、ちょっとでも気を抜くとかっこつけちまう。自分を騙しちまう。俺って上手く立ち回れるんだぜって見せつけちまう。俺は小器用だから何だってこなしてる風に見せられるさ。そのへんのアホに、お、こいつ中々のもんじゃん、なんて思わせるのはわけねえよ。でも、むかつくんだよ。自分が、他ならぬ俺が、世界で一番美しく生きなければならないこの俺がだ、なんで勘違いした薄汚い卑怯なやつらとヨロシクやってる演技をしなきゃならねえんだって思っちまう。思っちまうんだよ、どうしても! 業界人づらして偉そうに威張ったり若いやついじめたりさ。どうしてやつらは自分が恥ずかしくならないんだ? どうしてやつらが美学を語れるんだ? 俺はもう限界だよ。あとはもう刺すしかなくなる。目にモノ見せてやるしかなくなるんだよ。わかるだろ?」

「やればいいじゃん」

 妻はあのマグカップを見つめながら吐き捨てるように言った。やれるもんならな、そう言っているように聞こえた。ああ、妻は俺をもう愛してないんだ、と俺は悟った。一欠片の情すら残さず消し去ったのだな、と俺にはわかってしまった。同時に、妻の俺への気持ちが永遠に変わらないものだと、今の今まで信じていた自分を、俺は見てしまった。それは一番見たくない自分だった。やるしかねえ、そう思った。頭から氷水を被ったように、俺の全てが一瞬で冷えきった。やるしかねえ、俺はそう思っていた。

 妻はあのマグカップを見つめ続けていた。俺は黙って立ち上がり、キッチンに向かった。俺の全てが冷えきっていた。やるしかねえ、俺はそう呟いた。


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