変質の始まり
バダックたちとの模擬戦を終えた後、自宅に戻り椅子に座った。カチアが俺の頬の傷を回復魔法で治し始めた。頬の傷が徐々に回復し始め、痣が消え始めた。もともと大した傷ではなかったが、カチアはその程度の傷を残しておくのも嫌らしい。
「この程度の傷など放っておけば治るだろうに……律儀だな」
「当然です。あのような野良試合で御身の体に傷がつくなど、とても容認できるような事ではございません。ご主人様はもう少しご自愛くださいませ」
「さて、考えてはおくが……無駄だろうな。どうせ、いざという時はそんなことは考えていられないだろうな。使うべき時には何の躊躇いもなく力を使う。それが俺という人間だからな」
「分かっております。だからこそ、申し上げているのです。やるべき事、言うべき事は必ず言っておいたほうが良いのですから」
「……なるほど?それは確かにその通りだな。お前の言うとおりだよ、カチア。で、何か言いたいことがあるのか?グレイ」
少し視線をずらすと『私、不満です』と態度で知らせているグレイの姿があった。まぁ、不満の理由はある程度は分かっているんだが……。
「そんな顔をしても、俺は黄金を使うことはない。少なくとも、人間相手にはな」
グレイは俺が途中で戦うことを止めたこともそうだが、何より『黄金』を使わなかった事が不満なのだろう。事実として、『黄金』を使っていれば初めからバダックたちを圧倒することはできていただろう。俺の適性は『漆黒』よりも『黄金』のほうが高いのだから当然だ。
しかし、適性が高いということは使いやすいという意味ではない。端的に言えば、『威力が出すぎる』のだ。出力の調整が効かないわけではないが、それは人間相手にはまったく意味のない領域の話だ。大火事と噴火を比べることに意味があるわけがない。
「でも、ご主人ならあんな奴らに手古摺ることなんてなかったでしょ?」
「さぁ、それはどうだろうな?バダックたちは弱い訳じゃない。いいや、ランク相応の実力を持っているといっても相違ないだろう。少なくとも、名ばかりの連中とは違うさ」
「そうかもしれないけど……」
「それに、バダックたちの戦いは良い機会だった。俺も考えていなかった領域に一歩踏みいる事が出来たしな。この調子でこいつもどうにかなると良いんだがな」
手元に黄金の焔を宿し、それを秒速で握りつぶした。先ほどのように手足にまとわせようとしてみたが、すぐさま俺の制御を離れそうになった。やはり、まだまだ今の俺に扱いきれる代物ではないらしい。これもまた要練習といったところだろう。
「……まぁ、良いさ。まだ時間はあるんだ。今すぐと拘る必要もない」
そう、それは分かっている。この力は決して一朝一夕でどうにかなるほど甘い代物ではないことぐらい重々理解している。しかし、何故だろうか?俺は早急にこの力をモノにしなければならないと思っている。俺に残された猶予はそれほど残されてはいないと、何かが俺に囁きかけている。
もう時間がないと、もう残された猶予は僅かなのだと。お前の役割を忘れるな――――■■としての責務を忘れるな。そのためにお前はいるのだ。そのためにお前は――――
「しっかりして、ご主人!」
「っ!?」
グレイの言葉に反応するように、意識が戻ってきた。しかし、身体の方はどうにもならず、地面に膝をついた。身体中から脂汗が出て止まらない。顔を掌で抑えつけ、自分が何をしていたのか、何をしようとしていたのかを振り返ろうとした。しかし――――分からなかった。
「俺は……何を?」
「ご主人様!意識をしっかりと持ってください!あなたはここにいるのです!」
「カチア……?」
「大丈夫です……あなたはヴィント・アルタール様。この世界に、私たちの目の前にいる確かな命なのです。どうか、それを否定しないでください」
カチアの、その必死な表情と言葉に記憶が刺激される。カチアの言葉が、意思が俺の何かを刺激してくる。しかし、それが何であったのか理解できないままに俺は意識を失った。
ヴィントside out
カチアside
ご主人様は限界だったのか、倒れられた。グレイ様に支えられたことで地面に倒れることはなかったものの、それでも放っておいていい訳ではない。
なにせ、ご主人様の身体が黄金の炎へ変化しかけたのだ。まるで現実に陽炎でも現れたかのように、実体のない存在になりかけた。そんな事になって大丈夫であるはずがない。
今必要なのは何よりも体力回復だ。目覚められた後は精神の休養が必要だろう。異能力を持つ存在であれば極めて稀にではあるが発症する症状だ。根本的な治療方法はない上に、どう足掻いても対処療法ぐらいしか出来ることがないのが口惜しいが、何もしないよりマシだろう。
「グレイ様、ご主人様を寝室へお連れしてください。今は体を休ませることが最優先です」
「分かった。他にできる事はないの?」
「……申し訳ありません。先ほどの症状はおそらく異能力の暴走に近いものです。宿しているご主人様ならばともかく、我々にできる事はないのです。ただ、そうですね……手を握っていていただけますか?」
「手を?」
「はい。ご主人様はここにいるのだと伝わるように、ご主人様の手を握っていて差し上げてください。そうすれば、少なくとも進行は和らぐはずですし、ご主人様も安心なさる筈です」
「はい。ご主人様が信頼されている数少ない相手である、グレイ様ならば」
ご主人様は基本的に人を信じない。善意も悪意も等しく見抜くだけの直観力を持っているからなのかどうかは分からない。確定的に明らかなのは、ご主人様は自分が信頼している相手以外に触れられる事を極端に嫌っているということだ。
私も他の方々よりかはいくらかマシだが、それでもグレイ様やバダック様にゾーネ様には劣る。今のご主人様に心理的ストレスを与えることは推奨されない。ならば、私よりもグレイ様に傍にいてもらった方がよっぽどマシだろう。
「……分かった。ご主人が起きたらカチアもすぐに呼ぶね」
「はい。お願いします」
私がそういうと、グレイ様はまるで風のように走って行かれた。しかし、それなのに足音の類は一切立てていない。恐らくだが、ご主人様の身体も一切揺らすことなく移動されているのだろう。天狼人としてのハイスペックな能力をフル活用しているのだろう。
そんなグレイ様の背中を見つめた後――――私はへたり込んだ。体から一気に力が抜けてしまったのだ。もう立つことも難しいくらい精神的に追い詰められた。そんな私の顔に急に影が差した。何かと思って見上げると――――そこには漆黒の装束を纏った女性が立っていた。
「やれやれ……私に引きずられたのかな?まぁ、あんな様ではまだまだ早いか」
「姫、様……?」
「やぁ、カチア。壮健そうで何よりだ、と言いたいところだが……大丈夫か?」
「どうして、姫様がここに!?いえ、どうしてグレイ様に気づかれずに……」
「グレイ?ああ、あの天狼人の娘の事か?矮小な存在は強大すぎる存在には気づけない。それと同じ理屈だよ。力の差がありすぎるから、本能が私の存在を見ないようにしているのだろうさ。それで、私がここにいる理由だったか?そんな物、問うまでもないだろう?」
「ご主人様を……見に来られたのですか?」
「ああ。なにせ、私の宿敵だからな。気を配らないわけがないだろう?お前を送ったこともそうだが、我々には果たさなければならない約定がある。それを蔑ろにされては困る……が、どうも今回は裏目に出てしまったようだな」
そう言った黒衣の女性――――姫様の肉体が先ほどのご主人様と同じように儚げな存在に変化した。私はその変化に目を剥くが、姫様は慌てることなく拳を握り締めた。すると先ほどまでの光景が嘘か冗談かのように元に戻った。
「このあり様ではな。また気を選んでくるとしよう。どうか願わくば……早めに目覚めることを勧めよう。我らに残された時間は、そう多くはないのだから」
そう告げた姫様はまるで影か何かに包まれ、その姿を跡形もなく消した。私は幻覚を見せられていたのではないか、そう思ってしまうほどに姫様の残滓すらその場には残されてはいなかった。




