幕間・かつて存在したかもしれない男の物語
とある少年――――いや、青年の話をしよう。
父と母と少年とまだ幼い妹の四人家族で幸せに暮らしていたとある一家があった。これだけ聞けば、どこにでもある話であり、何の変哲もない話だ。ありふれ過ぎてインフレ状態だと言っても良いだろう。
ある日、父親が死んだ。これでもまぁ、まだある話だ。事故死か、それとも殺人かの違いこそあれど、結局は人が死んだだけ。一家がそれから先苦労する事になるだけで、そこまで稀少な話ではない。父親が死んだ影響で母親が発狂死してしまう。ここまで行くと流石に珍しい話になってくる。母親が父親の事を愛しすぎてしまったが故に、起こってしまった不幸というべきだろう。
ここから先となると、大体決まっている。親戚筋に預けられるか、或いは養護施設に預けられるか。しかし、それが当然と言えば当然の話だ。子供の身でできる事など限られているのだから。
しかし、ここから先は違った。残された少年はたった一人残された身内である妹を養うため、奔走し始める。友達を作る事も、勉学に励む事も、誰かと遊ぶ事も、子供が体験するであろう楽しみの総てを放棄して彼はお金を稼ぎ続けた。
ここで恐ろしい事が、彼はそんな生活をしながらも決して少女を蔑ろにしなかった事だ。少女の生活を保ちながらしかし、少女が立派に成長できるように金を稼ぎ続けた。恐ろしくなるほどの精神力と体力と言えるだろう。
勉学も常にトップを取り続けていた。どこに勉強する時間などあるのか、と言いたくなるような生活をしているにも関わらず、だ。そのあり様はまさに天才や鬼才と呼んでもおかしくないような代物だった。どうやったらそんな事ができるようになるのか、周囲の人間にはまったく分からなかった。いや、本当にまったく分からなかったのは、その為に積んできた途方もないほどの努力量だった。
寝る時間などほぼないに等しく、あらゆる意味で人知を凌駕したその在り方。それに対して、まるで何も思う事など無いと言わんばかりに行動していた。そんな人物が周りに馴染む事など出来る筈もなく、少なくとも学校では誰も彼には近寄ろうとすらしなかった。
しかし、出る杭は打たれるというような対応をされたかと言えばそうでもない。やろうとした人間は先手を打たれて潰されるからだ。出る杭は出る前に潰しにかかるのが彼だった。どこからか相手の弱点をかき集め、それを使って脅す事で日々の平穏を得ていた。
そんな事はともかく。
片時も止まる事なく、切り捨てられる物を総て切り捨てながらも彼は妹の幸せを願った。彼女に唯一、親からの愛を与えられない事を歯痒く思いながらも必死に生きていた。それだけが彼にできる事だと信じていたが故に。だが、兄の狂的なまでの努力を知っていたからこそ、妹は兄の事を心底尊敬していたし、愛してもいた。
それが分かっていたからこそ、彼はその生き方を辛い物だとは思わなかった。そう、決して思う事はなかった。たとえ、己の青春の総てを犠牲にしたとしても後悔はないと断言できるほどに。彼は己の全てを賭けて、妹の幸せを願っていたのだ。それだけが彼の唯一縋ることの出来る絆であったが故に。
彼は止まらない。止まれないのではなく、止まろうとしない。目標のために全力を尽くし、そのためなら許容する総てを蔑ろにする。ある意味で、彼は人として破綻していたと言っても良いだろう。それほどまでに、彼は周りを見渡す事もなかった。どんな助力も、どんな助言も、どんな忠告も、総てを無視し続けた。そんな物にかかずらっている余裕などなかったからだ。ただ一つの目標に視線を向け続けた。
そんな生活を続けていたある日、彼は漸くその呪縛にも等しい生活から解放された。しかし――――彼の願いとはまったく違った方向――――妹が死ぬという方向で。通り魔によって身体を犯され、全裸で放置されて凍死した。余りにも悲しみが深すぎたせいで、泣くという行為すらできないほどに彼は絶望という物をその瞬間に理解した。
彼が唯一幸せを願った妹すらも死んでしまった。これで彼は天涯孤独の身の上になってしまった。彼の手元に残ったのは、家族の遺品と彼女のために稼ぎ続けたお金だけだった。それ以外には何もなく、それを見た彼は思わず笑ってしまう。
それは彼がどれだけ切り捨て続けてきたかの証明であり、どれだけ彼が妹のために尽くしてきたかの証明でもあるからだ。それは嬉しくもあり、同時に悲しくもあったからだ。この家は切り捨てる事に慣れ切っていた自分の成れの果ての姿なのだから。
それからの彼はまるで抜け殻のようになっていた。幸いと言うべきか、妹のために稼ぎ続けたお金のお陰でそれなりに裕福な生活を送っていた。裕福なだけで、心は満たされていなかったが。何もなかった。彼の心の内には何もなく、ただ決められたルーチンを行うだけの機械。そんな存在となって、青年へと成長した少年はある行動を起こした。
妹を殺した相手を致死寸前まで追い込んだ。裁判で終身刑を求刑され、最後に話をする機会を与えられたその場所で――――四肢を踏み砕き、出来る限り痛みが残るように殴り続けた。血が噴き出し、骨が剥き出しになっても顔色一つ変えずに。
周りにいた人間に止められなければ、きっとそのまま殺していただろう。そう感じさせる程にその瞳は冷たく、そこに温もりなどという物は欠片もなかった。まさに機械の如く、その相手を殺そうとした。その余りに現実離れした姿に、誰もが動く事が出来なかった程にその場面は現実離れしていた。しかし、それに対して彼は決して自分が悪いとは思っていなかった。
彼は自分の事を塵屑だと認識していた。ありとあらゆる繋がりを自分の意志で断ち斬ってきた。自分に手を差し伸べてきた人も、自分を蹴落とそうとした人も分け隔てなく。だからこそ、自分が誰かに殺されるのなら欠片程度でも納得したかもしれない。それほどまでに、彼は自己に対する評価という物が途轍もなく低かった。
だが、だからこそ、彼にとって妹は至高の宝石も同然だった。妹が幸せであれば、それでよかった。いや、それ以外の事など至極どうでも良かった。自分のような塵屑には似つかわしい綺麗な妹だった。己の幸せの総てを構わないと、そう思っていたのだ。
そんな相手を殺したのだ。悪意を持って殺したのだ。だったら、そんな相手は死んだ方が良い。命の尊厳を語ると言うのなら、人を殺した人間は死ぬべきだ。終身刑など生温い事などせず、遺族の手で殺してやれば良い。それが一番相応しい末路だ。あの子がそんな事を望むはずがないとか、そんな理屈は彼には通じない。何故ならこれは、彼にとってのケジメの問題だからだ。
復讐とは虚しい物か?――――いいや、否。復讐とは感情の呑み込むための物なのだ。それが間違っているなど、ある筈がない。本当に大切なら、それを失って納得できる筈がない。だからこそ、大切な者の命を奪ったと言うのなら、その者は死ぬべきだ。少なくとも、死という物を味わうべきだ。それこそが道理と言うべき物なのだから。
なんにしても、そんな姿を晒したのだ。青年は学校でも街でも平等に恐怖され、畏怖の念を抱かれた。だからこそ、と言うべきなのだろうか?彼という存在が多くの人を集め、一つの巨大なコミュニティを作りあげていた。自分という個我をどこまでも貫くその姿に、多くの者が羨望ていたからだ。民主主義という全体主義な社会の中、それでも自分という存在を貫く。それがどれほどに難しいのか、皆分かっているからだ。それ故に、彼の元には人が集った。
彼がかつて切り捨て続けた物を、彼はもう一度手にしていたのだ。それでも、彼の心は満たされない。彼の心は癒されない。本当に大事だった物を失ってしまった瞬間から、彼の心は凍り付いてしまったのだから。彼がその手に光を取り戻す日があるのか否か――――それはまだ分からない。




