第三十二話
ーーーピチョン
水の滴る音で目が覚めた。そぅっと目を開けてみるけれど、真っ白で何もない。
手をついてゆっくり起き上がってみれば、そこは薄浅葱に色付いた一面の湖だった。
ーーーピチョン
また雫が落ちてくる。真っ白で無限の空から落ちてくる。
ぷかぷかと湖に浮かびながら、なんだか心地よくて再び目を閉じようとすると、次は雫が頬に落ちてきた。
ーーーピチョン
頬を滑る雫は、体を伝って、大きな湖に還ろうとする。薄い薄いその色が、目を閉じてもなぜか瞼に焼き付いて離れない。
この色はなんだっけ。
この色。
薄浅葱。
ーーーピチョン
ああ、この色は
「ーーーメルヴィン」
「あっサラ!目が覚めた!?」
ゆっくり目を覚ました時、視界いっぱいに映ったのは輝くプラチナの髪と浅葱の瞳だった。光に透けてサラリと揺れる髪の向こうで、嬉しそうな心配そうな瞳が揺らぐ。
「サ、サラ…?」
返事もせずただ瞳を見つめていると、メルヴィンの心配の色が濃くなる。まっすぐな気持ちが嬉しくて、自然に腕が伸びた。
突然頬に触れられたメルヴィンは少し驚きつつも、決して振り払おうとはしない。
「助けてくれて、ありがとう」
そう微笑めば、メルヴィンがヒュッと息を吸い込んだのが聞こえた。刮目したその目が少し潤みを帯びる。瞳が、さっきの湖のようだった。
「やんサラーーー!!!大丈夫!?」
「キュっキュー!」
どんっ!とメルヴィンを押しのけるように登場したのは人型のロロと綿に戻ったフーシュだった。
ロロの肩に乗っていたフーシュがぽふんっと佐良の横たわるベッドに降り立ち、手に持っていた小さなハンカチで額を拭いてくれる。ああ、知らない間にこんなに寝汗をかいてたんだ…。
「マスターがあのみみっちい魔法は解いてくれたから、もう大丈夫よ!」
「ま、魔法…?」
「うん、サラは魔法をかけられてたんだよ」
答えたのは、ロロ達に押されて少し頬を膨らませたメルヴィンだった。
「幻覚、というか。視覚をちょっと騙すレベルってだけなんだけどね」
「そ、そうなんだ…?」
「うん、だからサラは幻覚を見せられただけだよ」
「…? どういう意味?」
「生きてるよ、マリ」
にこっと笑ったメルヴィンがパチンと指を鳴らすと、ベッドの隣にマリが立っていた。周りを一通りキョロキョロした後、佐良を見つけて嬉しそうに笑う。
「サラ!お見舞いに来たわよ!それにしても凄いわねこの家!家の前にいたのに…びっくりしちゃった」
「マ…………リ………?」
「なぁに、まだ二日酔いなの? っていっても私も昨日の晩は途中から記憶がないんだけどね! 朝起きたら領主様とメルヴィン君がお迎えに来てびっくりしちゃった! お酒弱いんなら先に言いなさいよ?」
メルヴィンが悪戯なウインクをするのが見えた。ああ、本当なんだと遅れて現実が頭に入ってくる。
昨日のは全て幻覚。マリは覚えていない、みんながなかったことにしてくれている。あんなの覚えてなくていい。真っ赤な部屋も、真っ赤な男も、真っ赤な血も。
マリは死んでいない。
マリは生きている。
「マリ…っ!」
生きててよかった。
また、失ったかと思った。
父と、母と、兄と、同じように。
「わ、どうしたの?サラってば」
抱きつかれたマリが呆れながら笑う。
「よかった…!」
「もう、何のこと?」
マリがあったかい。
マリの体温が、血の流れが伝わってくる。
安心したら涙が出てきた。
「また泣いてる…ああ、泣いてると言えば」
「…?」
「昨日、途中までしか言えなかったけど、わたしね…」
『わたしね…』
佐良の中で、声が重なった。真っ赤な男に吹き飛ばされる前、マリは確かに何かを言おうとしていた。
「わたしね、サラのこと親友だと思ってるよ」
「…え」
「うーん、素面じゃさすがに恥ずかしいね!そのために誘ったのにまさかあたしが途中で潰れるとは思わなくてさ!」
あはは、と照れくさそうに髪をいじるマリはそうだ!と誤魔化すように持ってきた麻の鞄からゴソゴソと白いものを取り出した。
「じゃん!見て、調理服持ってきた!あたしもシェフの端くれだからさ、二日酔いに効くおいし〜いご飯作ってやろうと思って」
「マリ…」
「キッチン借りるよメルヴィン君!」
「うん、ありがとうマリ!」
「ちゃんと後で食べてよね、それじゃ、お大事に!」
すっくと立ち上がったマリが部屋を出て行こうとする。言わなきゃ。言わなきゃ、言わなきゃ、駄目だ。
「マ、マリ!」
閉じる寸前の扉が、ぴたっと止まる。
「わたしも………思ってる」
「…へ?」
「マリのこと、親友って思ってる!あの…お見舞い、ありがとう。……嬉しい」
ぷっ
「えっ」
吹き出したのはマリだった。扉をバンバン叩いてお腹を押さえている。
「ぶっきよ〜〜!!!アッハッハ!不器用すぎる!!!顔真っ赤っかだよサラ!」
ひぃひぃ笑うマリに、さすがに佐良もムッとする。
「もう!笑わないでよー!」
「だってもうおっかしい…あはは!嘘とかつけなさそ〜!そういうとこ本当好きよ!」
「えっ、ぁ、あ、りがとう…」
「素直!アッハッハッハッ!!!」
お腹痛い〜と大層楽しそうにマリは部屋を出て行った。律儀に部屋のドアもパタンと閉めていく。
「な、何だったの…?」
「でも、サラ嬉しそうだね」
枕元でメルヴィンが朗らかに笑う。
「嬉しくて、死んじゃいそう」




