第二十六話
玄関からただいま、と声が聞こえたのは、ちょうどお風呂から上がった時だった。
佐良は慌てて身体に巻きつけたバスタオルをかき集めた。人型のフーシュは高校生ぐらいの男の子なのだ。
「お、おかえり」
「ただいま。遅くなってごめんね」
にこりと笑う顔は昼間と同じく涼しげで、佐良は困ったように眉を下げて笑い返した。
ほんっと隙がないなあ。
「あっ」
バスタオルともこもこ戦っていたメルヴィンがひょこっとバスルームから顔を出した。髪はまだぺちゃんこだ。
「おかえり〜フーシュ」
「ただいま、ご主人」
「おでかけ楽しかったー?」
「うん」
短く答えて、フーシュは何やらポケットに手を入れてがさごそやり始めた。
探し当てたものを、いまだに体にバスタオル一枚巻いただけの格好の佐良の手のひらにポスっと載せる。甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「…クッキー?」
フーシュに手渡されたのは、透明の包み紙に詰め込まれ青いリボンで飾られたクッキーだった。
ザラメがまぶされていたり、茶葉が混ぜ込まれていたり、チョコレートがかけられていたり、どれもこれも何ておいしそうなんだろうか。
「わぁ…これどうしたの?」
フーシュはクッキーに大人気なく興奮する佐良をクスッと笑い、メルヴィンの髪を優しく拭いてあげながら「もらった」と端的に答えた。
「そ、そうなの…」
ああ、絶対相手は女の子だ。佐良は確信した。そしてその考えはザルに通したようにフーシュに伝わったようだった。いたずら気な瞳と視線が絡む。
「…ふふ、赤毛のね」
「え?」
「レストランの子」
「それって…マリ?」
フーシュはとびきり綺麗に笑って見せた。意味することは肯定だった。
「…なんで?」
浮かんだクエスチョンマークは素朴なものだった。だって今朝がフーシュとマリの初対面じゃなかったのだろうか。メルヴィンさえマリとは面識が無かったというのに。
「領主さま、だって」
「へ?」
考え込んだ佐良に、フーシュはくすくす笑って思い出し笑いをしているようだった。
え、なに、領主?
「ご主人は小さいからね、僕が外向きにはこの家の主のフリをしてるんだよ」
「この家って領主の家なの?!」
「そうだよ」
ああ、道理で働かなくてもいいとか言われる訳だ。アーベルのセリフがやっと胸に落ちた瞬間だった。
…ん? でもフーシュって普段は魔獣なのに大丈夫なのかな…。
「僕はほとんど外に出ないよ?」
「……」
当たり前のように思考に返事されるのは、まだ慣れそうもない。
「人嫌いの領主様だって」
「なにそれ?」
「街の噂。髪が真っ白らしい、とかね。おかげでクッキー貰っちゃった」
フーシュはにこにこしている。今日は街で存分に楽しんで来たみたいだ。
「それ食べていいよ、サラ」
「…でもこれ、フーシュが貰ったものでしょう?」
「僕は食べれないから」
小さく声を漏らした佐良に、フーシュは優しく薄く笑った。
フーシュは人間が口にするものを、同じように摂取することは出来ない。魔獣は皆そうなのだと言う。彼らが命の糧にするのはただ一つ、魔力だけだ。
「僕も、お風呂一緒に入りたかったな」
見上げると、フーシュは首をこてんと倒してふわっと微笑んだ。長い純白の睫毛が象牙の頬に影を落とす。
「…え?」
まばたき、一回。
見上げていたフーシュは、前触れもなく忽然と佐良の視界から姿を消した。
その代わり。
「きゅっ」
佐良の足元には、真っ白な綿菓子のような魔獣が短い手をちょこちょこ伸ばしていた。
「…いきなりだなあ」
しゃがみこんで手のひらで優しく抱き上げてやると、フーシュは可愛らしく喜びを露わにした。水色の瞳がつぶらで綺麗だ。
「んー…しょうがないなぁ」
「どしたのー?サラ」
「もう一回フーシュと一緒にお風呂入ってこようかなって思って」
「えー!僕も入るー!…ひゃぁっ」
膝を曲げてぴょんぴょん飛び跳ねだしたメルヴィンは、突然自分の首筋をスルリと撫でる感触に悲鳴を上げた。
「なに!…あ、ロロ!」
橙の体躯を光の翼でゆるゆる移動させる猫の姿があった。目がトロトロしていて非常に眠そうである。
「ロロってばもしかして今おきたのー?お寝坊さんなんだから〜」
「フリーダムだね…」
くあっと欠伸を一つして、ロロはメルヴィンの首筋にすりすり体を擦り出す。
「ふぁ…っ、く、くすぐったい〜っ」
「メルヴィン遊ばれてるね…」
メルヴィンにじゃれつくロロを見ていると、胸元をぽこぽこと叩かれた。綿菓子に叩かれたって何のダメージもないが、フーシュはじれったそうにきゅいきゅい鳴く。
「分かった分かった!もうみんなで入ろっか、お風呂!」
「わあ、楽しそう!はいろ!」
いつも通りの賑やかな夜だった。




