第二十三話
氷水を心臓に注ぎ込まれたようだった。
「…家族じゃないの……?」
傷ついた表情のメルヴィンは、佐良の胸を容易に刺した。傷つけた。この事実だけがぽっかり行き場をなくしたように、自分の中で重量を持って浮いている。
「なんで…?」
メルヴィンは、サラとその隣に立つフーシュを見比べてくしゃりと泣きそうな顔をした。
一一一待って。
そんな表情を見るのは初めてだった。
させたのは自分なのに、見たくなかったと勝手なことを思う。
だって、メルヴィンいつも能天気に笑ってるじゃない。ニコニコ笑顔でいるじゃない。
彼は泣かないものだと思っていた。
それは、死なないものだと思っていた家族に対する思いと、ひどくよく似ている。佐良の周りを透明な膜が囲んで、その中に感情がどぷっと満ちるのに一秒もかからなかった。
「……っ」
なんでいつも、こうなるの。
なんでいつも、うまくやれないの。
なんで、なんで、なんでなんでなんで。
「サラ…!」
佐良は追い詰められたようにギリっと唇を強く噛んで、メルヴィンに背を向けて走り出した。逃げることは狡いことだと分かっていながらも、逃げることしか選べない。
そこにある何かと向き合えば、心の中で土砂崩れを起こしている彼女は、また何かを失ってしまうと思ったのだった。
「………」
自分の元から逃げていく佐良を、メルヴィンは止めることも追いかけることもしなかった。ただ自信を無くしたように足元を見る彼の視界に、大きな黒い革靴が入ってくる。
「ご主人は追いかけないの?」
「フーシュ…」
彼の主人は恨みがましそうに見上げてくるが、フーシュは何処吹く風でゆるりと笑う。
「ご主人は少し腹黒いからね、バチがあたったんじゃない」
「…サラに嫌われたのかな」
さあね、と適当な返事を返してから、フーシュは混み合う街中を水槽の中を眺めるように見た。街に来るのも彼には久しぶりのことだった。
「ご主人、サラってどんな人間?」
忙しく働く人、楽しく買い物をする人。
フーシュが人間観察をしながらそう尋ねると、メルヴィンは不機嫌そうに口を尖らせた。
「そんなの…フーシュの方が分かるでしょ。中が見えるんだから…。サラに、すぐ懐いてたし…」
拗ねたような口調に、フーシュは長い脚を折ってメルヴィンの側にしゃがみ込んだ。人の姿の時は、これでやっと視線が合う。メルヴィンは年齢の割にも小さい。
「分からないの?」
分かりやすい挑発に、だけどメルヴィンはムッとした。佐良が一瞬で人型をフーシュと見抜いたことや、フーシュが佐良をレストランから連れ出したことも関係しているのだろう。
「分かるもん!きれいで、髪の毛がつやつやで、笑ったらすごく可愛いの!」
「見た目だけだね」
一蹴するフーシュに、メルヴィンはぐっと言葉に詰まった。
「年齢は? 兄弟は? 前の世界の家族は? 好きな食べ物、嫌いな食べ物、趣味、特技、癖」
「…っ!」
「ご主人、知らないって怖いことだよ」
「…それはフーシュが全部分かるから…!」
「何で隠すの?」
反応を見るところ、主語は無くとも通じたようだ。びくっと揺らいだメルヴィンの瞳が、何より雄弁に事実を語っていた。
「サラは気付いてるよ、ご主人が隠し事してること」
「!」
膝に肘をついたフーシュは、ふわりと笑ってその驚きに応えた。笑う時に首をこてんと倒すのはもう癖だ。
「僕は少し久しぶりの街を楽しんでから帰るよ」
それが合図だった。
軽々と腰を上げたフーシュに弾かれたように、メルヴィンは前のめりで走り始めた。
前髪を風で煽られながらも、その後ろ姿をフーシュはきちんと見届ける。
うん、合ってるよご主人。
あの子にはあの家しか、帰るところなんて無いからね。
「ご主人は手がかかるなぁ」
一息ついて、フーシュは雑踏に向かって踵を返した。
人間って面白い。
今日は少しのんびり帰った方がいいかもね。
次々と飛び込んでくる人々の思考に、フーシュはゆるりと微笑んだ。
「何か用?」
背後でびくっと肩を震わせたのは、赤毛の少女だった。




