第二十話
マリは使い込まれた真っ黒な鉄鍋に油を引いて、丸々としたオムレツを作ってくれた。周りにハーブが散らされていて、見た目も洒落ている。香ばしい香りを放つそれに、思わず佐良はごくりと喉を鳴らした。
続いてバスケットに入った焼きたての雑穀パンのようなものと、野菜がゴロゴロ入ったスープも出てくる。ご、豪華だ…。
「なにボケっとしてんの、熱いうちに食べてよね!」
厨房から飛んできたからかうような声に、メルヴィンと元気良く食前の祈りをしてから朝食に手をつけた。
「おいしそうだねぇ〜」
「ほんとだね…」
メルヴィンと一緒に、せーのの掛け声でオムレツにナイフを入れる。
「わっ?!」
すると中からは、四角にカットされたジャガイモにジューシーなトマトが出てくるではないか。刻まれたバジルの香りが湯気とともに顔を包む。
一口大に切って口に運べば、香ばしいバターの風味が広がって、後味にトマトの程よい酸味とチーズの甘みがじわっと残った。
その優しい味に、佐良の目の縁が熱を帯びる。
なぜか、母親の料理を思い出した。
「おいしい…」
「やだ、そんなにー? おおげさね!」
マリは涙目の佐良を笑いながらも嬉しそうだ。メルヴィンは口から伸びるチーズに、無邪気に喜んでいた。
「なんだ、早速来たのか」
パンに、付け合せのチーズペーストを塗りつけて口に含んだところに、厨房の奥から調理服に身を包んだアーベルさんが姿を現した。
「あ、さっきぶりですアーベルさん」
「アーベル〜、マリのごはんね、すっごくおいしいよ!」
メルヴィンは嬉しそうにフォークを掲げたが、マリは今度は笑わなかった。
「え、ボス、今朝出てたのってサラの家だったんですか」
「ああ」
あ、だめ。
ひやり、背中に汗が伝ったような気がした。
これは、だめだ。あれの空気だ。わたしの苦手な、女の子の空気だ。
“ねえ、あんた何で滝内くんと喋ってんの?”
“目障りなんだけど”
“男に媚び売んのやめてくれない?”
ぞっとする。
そりゃあ嫌だろう、自分の好きな人が、頻繁に恋人でもない女の家に通っていたら。自分の失言を後悔する。
「じゃあボスも朝食まだなんじゃない? 今まで下ごしらえしてたんでしょ? わたし作るよ」
だけどマリが続けた言葉はカラリとしたものだった。
「いや、行く前に済ませといたんだ。ありがとな、マリ」
その言葉に、マリは嬉しそうな顔をした。女のわたしですらドキリとしてしまうような、女の子の表情だった。
可愛い、なぁ。
アーベルさんがマリのこと好きになってくれたら素敵だなぁ。
「…メルヴィン」
「んー?」
マリとアーベルさんが下ごしらえについて話し出したのを確認してから、コソッとメルヴィンの服の裾をくいくい引く。内緒話だ。
「ずっと気になってたんだけど、アーベルさんって何であんなに頻繁に家に来てくれるの?」
佐良がこの世界に来たその日にも、アーベルは家に訪ねてきていた。髪色や顔つきからして、明らかに兄弟ではない。精悍なアーベルさんの容姿は、中性的なメルヴィンには似ても似つかないのだから。
「んんっとね…」
いつも通り、単純明快に子供らしく説明してくれると思っていた。佐良から視線を外して言葉を探すメルヴィンに既視感を覚える。
“あの、グループ入れてもらってもいい…?”
“え、えっと…”
みんな一緒だ。
答えたくないことには、同じような反応をする。
「ご、ごめん。ずかずか勝手なこと聞いちゃったね!」
ぱしゃんと心に墨がこぼれた。波打つたびに、全てを黒く染めていく。
…いやだな。
大好きなメルヴィンが、もうたった一人の家族のメルヴィンが。
ーーー「みんな」と被って見えてしまった。
「なんつー顔してやがる」
「!」
突然、頭の上に温かい重みを感じた。
ああ、わたし、この温度が誰だかわかる。この人は、いつも温かい手をしている。
「アーベル、さん」
「マリ、小腹が空いたわ。俺もオムレツ食いてぇ」
「ふふ、やっぱりね〜」
アーベルは佐良の左隣のカウンターに腰掛けて、何食わぬ顔でマリに料理を注文した。マリは嬉しそうに厨房でいそいそ卵を割り始める。片手で軽々割っていく姿は見事だ。だけど佐良はそれどころではなかった。
「食えば? 右利きだろ? 俺、両利き」
左ひじをカウンターについて、厨房のマリを眺めたままアーベルは何の問題もなさそうに小声で言った。
「ねーマリ! スープもおいしい!」
「メルヴィンってば、おだてても何も出ないよー? デザート以外」
「わーいっ! デザート!」
右隣のメルヴィンと、正面で調理を続けるマリは楽しそうにお喋りしている。誰も何も気づいていない。
ーーーごめん、ごめんマリ。今だけ、ごめん。
震える佐良の左手は、強く温かい指先に握られて温度を取り戻しつつある。欲しいだけの安心をくれるアーベルの指先は、佐良の心の墨を一滴残らず吸い取ってくれた。




