第十九話
少し前をとたとた歩く子供の背中に、佐良はこっそり笑いを漏らした。メルヴィンは石畳を二つ飛ばしに歩くことに熱中していて笑われていることには気づいていない。幼いころ、わたしも横断歩道の白い部分だけ踏むやつはハマったなぁ。
「空気、おいしいなぁ」
肺に、今朝生まれたばかりのような澄み切った外気を目一杯吸い込むと、とても清々しい気分になる。
佐良の独り言に、メルヴィンは耳ざとく振り返った。
「おいしー? 味ないよ?」
「ちょっと意味が違うかな。思いっきり息を吸ってごらん?」
「すーーーっ……ぷはっ!」
「気持ちよくない?」
「…わかんないー!」
自分が汚れきった都会の空気を吸い続けてきたから、こんなにも感動するのだろうか。ここで毎日暮らす彼にはよくわからなかったようだ。
首を傾げつつも、メルヴィンはご機嫌だった。
「サラと、はじめてのおでかけだねっ」
さっきから、こればかりだ。
そう、今日はメルヴィンとユノシスに行くことになったのである。発端は、今朝に物凄いタイミングで訪ねてきたアーベルさんの『マリが遊びに来いってよ』という捨て台詞だ。彼が出て行った後のメルヴィンの言葉はシンプルだった。
『マリって誰?』
じゃあ一緒に行こうと言った佐良に返ってきたのは、とびきりの笑顔だった。よほどおでかけが嬉しいらしい。
「あ、れ?」
「どうしたの?」
次は後ろを向いて歩くことにハマりだしたメルヴィンが佐良の顔を凝視してくる。どうでもいいけど、その歩き方ハラハラするよ。
「サラ、寒いのー?」
「ちょっと肌寒いぐらいだけど…どうして?」
「ほっぺた、りんごさんなんだもん」
当然、佐良には上着類の持ち合わせなどないため、新調した薄桃のドレス一枚の格好で家を出てきた。頰に指先を触れてみれば、確かに冷たい。真っ赤なんて、少し恥ずかしいな。
「ぎゅっ」
メルヴィンはそんな佐良のもう片方の手を、可愛らしい擬音と共に握りしめた。自分で口で言っちゃうのね。
「おてて繋いでたら、あったかいかなぁ」
じんわり温かい小さな手に、少しだけ力を込めた。
「あったかいよ」
そんな風にとろとろ街へ向かっていた佐良たちだったが、いざ到着した時は、手をつないでいて良かったと心から実感した。なにしろ人の数が物凄い。どうやら朝は仕入れの時間らしく、大きな木箱や樽を運んでいる人々が目立った。
「メルヴィン、はぐれないようにしっかり手を握っててね」
「うん!」
人の濁流にひるむ佐良だが、メルヴィンは元気いっぱいだった。地元だし、慣れているのかもな。
とりあえず、目指すはキスカ色の建物だ。マリに会いに、いざ参らん!
「あ、サラ?!」
「ふぇ?」
うわ、恥ずかしい。
勇み足で人ごみに入ろうとしたところで背後から声を掛けられて、思いの外情けない声がでてしまった。しかも声の主は、お目当のマリだ。大きな木箱を抱えている。
「なんでこんなとこにいるのー?!」
「いや、こっちのセリフだよ! あたしは仕入れだけど…なに、もしかして会いに来てくれたの?」
「う、うん」
未だに、女の子と話すことには慣れない。嬉しいのにむず痒くて、緊張する。もじもじする佐良に、マリはニカっと笑顔をくれた。全部見透かされてそうだ。
「ねぇサラ、だーれ?」
「ん? なにこの子…って、あ」
くいくい佐良の手を引くメルヴィンに、いち早く反応したのはマリだった。幼い子供を覗き込んで、ニヤリと笑う。
「なるほどね…。キミ、サラの家族でしょ?」
え、なんで分かったんだろう。
メルヴィンは元気に返事をする。
「うん! 僕メルヴィンっていうの。おねーさんがマリ?」
「そ、マリアンナだよ。よろしくね、メルヴィン」
「よろしく、マリ!」
佐良を一人取り残して、マリとメルヴィンは勝手に仲良くなってしまった。すごい、二人とも恐ろしいコミュ力だ。わたし、確実に子供にも負けてる。
「こんなとこで話しててもなんだし、お店行かない?」
マリの提案にはっと意識がかえってくる。
「あ、ご、ごめんねマリ! お仕事中なのに…」
「いいよいいよ、うれしいもん」
マリがサラリと放つ一言に心臓が存在感を強める。こんな不器用な喜び方しかできない自分がもどかしい。
「それよりさ、二人とも、朝食は済んでるの?」
「まだだよ〜」
「あ、そういえば、まだだね」
呑気な返事にマリは呆れる。なんてゆるい生活してんのよ、と。返す言葉もございません。
「ほら、お店いこ! 付いてきて!」
ちょっとごめんねーなんて声を掛けながらマリは雑踏を歩き始める。メルヴィンと手をつないだまま後に続くが、あれ、さっきより歩きやすい。あ、マリが道を作ってくれてるのか。
「マリ、あ、ありがとう」
「どういたしまして。楽しみにしといてよ〜」
後ろ姿から、おどけた声がする。楽しみってなんだろう。気になって問えば、一瞬振り返ったマリからウインクが飛んできた。
「朝ごはん、ごちそうするね!」
下から、メルヴィンの歓声が飛んだ。




