第十五話
彼氏のキスは乱暴だった。
固いベッドの上でただ口内を硬い舌で乱暴に掻き回され、部屋を荒らされているような気分になったのを覚えている。彼の快楽を満たすだけの行為に思えて、佐良には不愉快極まりない儀式だった。
「……や…」
「………?」
表面で温度を伝え合うだけのような短い、幼い口づけを受けて、佐良はゆっくりと口の端を上げた。どうしてか、自然にそんな表情になっていた。
「サラは、僕の家族なの…! 帰るおうちはここなんだから…! アーベルのとこ、行っちゃやだ…」
メルヴィンが話すたびに、柔らかい髪が佐良の額を動く。髪も、睫も、肌も、薄闇の中ではみんな真っ白に見えた。この子は暗い場所でよく映える。ふかふかで快適なはずのベッドは、急に居心地が悪くなった。
笑えてきたのだ。メルヴィンはとても神聖なものに見えたから。
―――自分がとても、穢れたものに思えてきて。
「行かないで、行かないで…!」
「行くところなんて、他にはないよ」
ばかだなぁ、ただいまと言ったのに。
わたしは、この青い屋根の家にちゃんと帰ってきたのに。
なんて純粋な独占欲なんだろうか。幼いころ、兄に構う母親に癇癪を起したことがあるが、それに似ているように思う。
行かないで、という言葉が、変に佐良の心を揺さぶった。そのまま聞いていたら、自分の中にいる子どもが家族を求めて暴れ出しそうな気がして、佐良は早口になる。
「メルヴィン、わたし、ここしかないよ。ここにしか、もう居場所なんかないの」
「…ほんと?」
「ほんとう。メルヴィンしかいないよ」
猫を馴らすように、やさしく背中を撫でる。不思議な感覚だ、誰かの体に、こんな風に触れるなんて。
死に損なって、また誰かの優しさに手を伸ばして、わたしは再び家族を手に入れた。なんだか酷く、狡くて汚い。投げた命が繰り返すなんて都合が良すぎるな。
「…サラ、サラ」
「大丈夫だよ、家族だよ」
不安そうなメルヴィンに、誤魔化すように、何度も何度も繰り返した。
落ち着いた彼が、眠りの落ちるまで。
「家族…かぁ」
佐良は独りごちた。メルヴィンの寝息が安定してきたので、頭を撫でる手を静かにどかす。高価なプラチナの髪が彼の呼吸に合わせて艶めいて、まるで世界の宝物みたいだ。
「…メルヴィン」
微かに動かした唇には、まだ違和感が、他人の温度が残っていた。
どうしてキスしたの?
この世界では、家族でキスするのも当たり前なんだろうか。
“別れて、もう終わりにして。お願いだから”
“…は? なんでそういう事言うんだよ”
“もう嫌なの、お願い、別れて、お願い…。ぁ、や、やめて!”
“なんで、なんでだよ!…許さねぇ”
ねぇ、と音もなく語り掛ける。
家族ってなんだろうね。
おかしな気分だった。手を差し伸べたメルヴィンが、佐良に焦りを見せるなんて。それは立場が逆じゃないかな。
嫉妬してキスなんて、家族じゃないと思うんだ。どっちかっていうとね、恋愛に似ているような気がする。あの息苦しい心のやり取りに、似ている気がするんだ。
しっとりと柔らかいメルヴィンの頬に指先を滑らせた。吸い付くような感触にため息が漏れる。
「はぁ…」
でも、この子はたぶん何も知らない。家族も恋も、きっと何も区別できていない。純真無垢な幼子なのだ。
それに、家族に恋なんて、佐良にだって分からなかった。この子に説明しろ、なんて言われたって、出来っこない。
何もかも失った佐良には、したくても、出来ない。
こんなに難しい問題、いったい誰が分かるというのだろう。神様だろうか、仏様だろうか。あるいは、母なら分かるだろうか。
“新幹線が脱線”
流れたテロップに頭を振った。
答えを持つ者が誰であろうと、佐良はそれを聞けそうもない。
「…んぅ」
ごろん、とメルヴィンが寝返りをうった。長い睫と交じり合うように目元にかかった髪を指の腹で払ってやる。
「わかんないよね」
分からないなら、分からないままでいいかな。
何もかもに知らんぷりして、それでいいかな。
夜のまどろみが佐良を誘い出し、思考に靄がかかりはじめたが、佐良には何故か「これでいいのだ」という妙な自信があった。
「メルヴィン」
ねぇ、わたしの家族。
「おやすみ」
このキスは、無かったことに。




