第十四話
曲がり角を二人で曲がってようやく青い屋根の家が見えた時、佐良はぴたっと足を止めた。一歩先でアーベルが訝しむ。
「どうしたんだ?」
一瞬息が詰まって、直後に佐良はアーベルの質問にも答えず再び歩き始めた。さっきまでは心地良かった微風が髪を撫でるたびに寒気がする。耳に入る音は全てノイズになり、歩く速度を速めると鼓動のリズムが音量を上げていった。
「おい! どうしたサラ!」
「…明かりが、真っ暗で…」
「明かり?」
もう空は月が存在感を主張する暗さになっていた。なのに家の明かりはひとつも点いていない。窓枠から闇が浮き出すように真っ暗だ。
「あぁ…もう寝たんじゃねぇの? …何でそんなに焦ってんだ」
「…………ごめ、なさ…」
「…落ち着け、大丈夫だから」
途切れ途切れに息をする佐良の肩に、無骨な手がまわった。もう片方は低位置のように頭上に置かれる。
「…っは、ぁ…」
伝わる温度に、人の温度に、呼吸が徐々に落ち着いてきた。無責任な言葉に、心が静まっていく。
ここはあのマンションの最上階じゃない。メルヴィンもフーシュもロロもいる。寝ているだけだ。生きている。死んでない。死んでない。
「…だいじょうぶ、です。ごめんなさい…」
「…歩けるか?」
「はい、いけます」
背中を撫でる手が離れて、代わりに夜風が肌を撫で上げる。玄関が見えたあたりで、佐良はアーベルさん、と声をかけた。
「玄関までで結構です。お仕事中なのにありがとうございました」
「それはいい。…大丈夫か?」
「はい。…マリにもよろしく言っておいてください。今日は本当にありがとうございました」
「…無理はするなよ」
アーベルはまだ佐良の体調を気遣う素振りを見せたが、佐良のきっぱりとした物言いに諦めたように玄関で指を鳴らした。途端に色とりどりの箱が現れる。今日購入した品々だ。
マリは「送った」と言っていたけれど、アーベルのところに送っていたのか。佐良はマリに住所も教えていないし納得だ。
「…じゃあな」
「おやすみなさい」
玄関のドアを閉めると、家じゅうに静寂が立ち込めた。箱を開ける気分にもなれない。
まだ動悸も収まらぬまま、佐良は努めて静かに階段を上った。既に寝ているらしい家族への配慮である。息をつけたのは、部屋のドアを完全に閉めた後だった。脱力したようにドアへもたれかかる。
「…ふぅ」
少しだけ、落胆する気持ちがあったことは否定しない。明かりの点いた家を、「おかえり」を、佐良はどこかで期待していたんだろう。お風呂だって、今日も一緒に入るのだと思っていた。
「…サラ」
ずるずるとドアに沿って座り込む佐良の耳をぽとりと雫のような呟きが掠めた。透き通った子供の声だ。
「…メルヴィン?」
「…サラ」
メルヴィンだ。闇の中で、衣擦れの音がした。目を凝らすと薄墨の空間にも濃淡がついてきたので、確かめるように床を踏みながらベッドへ向かう。彼の澄んだ声が、佐良の水面に波紋を作っていた。
「…メルヴィン、ただいま」
メルヴィンはベッドでシーツを被って丸くなっていた。端に腰かければ軽く軋む音がする。
「遅くなってごめんね」
「サラ」
メルヴィンが被っていたシーツを引きずるように脱いだ。白金が暗闇の中で浮く。星屑の湖に浸かってきたような髪だ。
「ひゃ…っ!」
見とれる佐良に、メルヴィンは突撃するように飛び込んできた。その勢いでメルヴィンもろともベッドに倒れこむ。
「メ、メルヴィン…?」
「僕…いや…」
「どうしたの…?」
メルヴィンは佐良の首に巻き付ける腕を強めた。明らかに様子がおかしい。そもそも、どうしてわたしの部屋にいるんだろう。
そういえばメルヴィンと抱擁するのは初めてだなぁと、頭の隅では冷静な自分がいた。
「メルヴィン?」
「アーベルと…ぎゅーしちゃ、やだ…」
「へ? 朝のやつのこと?あれはわたしが階段から…」
「ちがう、さっきの…」
さっき…?
思い返してみると、ひとつだけ心当たりがあった。
明かりの点いていない家に焦った佐良をアーベルが落ち着かせてくれた時だ。確かに家の正面だったけれど…。
「み、見てたの?」
「サラ遅いから…お外みてた…」
「そっか…気分がね、悪くなっちゃって。大丈夫、大丈夫ってしてくれてただけだよ」
言葉に合わせてメルヴィンの頭を優しく撫でる。弟がいたら、こんな感じだったのかもな、なんて。子供に押し倒された状態で呑気にそんなことを考えていると、そっとメルヴィンが顔を上げた。
といっても佐良の首の両脇に腕をついただけで、体は佐良に跨ったままだ。
「どうし」
どうしたの?
全てを言う前に、唇にやわらかいものが落ちてきた。




