第十話
バゲットの中は新鮮な野菜にサーモン、炙ったベーコンにとろーりと溶けたチーズに半熟卵と味のバリエーションも豊かで、ほっぺたが落ちそうなくらいに美味しかった。バゲットも熱々で香ばしく、みずみずしいトマトの酸味がたまらない。
「今まで食べたサンドイッチの中で一番おいしいです…」
「こんなんで良かったら、いつでも作ってやるよ」
シャキシャキの野菜を頬張りながら佐良が言うと、アーベルは薄く笑ってジュースのグラスに口をつけた。長い脚を持て余したように組み替える。今日は黒のパンツにラフなシャツ、グレーのジャケットで、唯一ピアスだけがキラリと光っていた。
…なんだか、大人の男の人だなぁ。急いでサンドイッチにかじりつく自分がひどく子供に思えてきた。
「アーベルさん」
「ん?」
「ごめんなさい、寝坊、しちゃいました…」
言い訳のようだが、彼と昨晩に約束をしたのはちゃんと覚えていたのだ。ただ、お昼頃という時間帯に油断をした。こんなに寝るとは思わなかったのだ。約束したのに、迎えに来たら相手はまだ寝てるって最低すぎる。
「お待たせしてすみません…」
「いや?全然待ってねぇよ」
しかし返事はあっけらかんとしたものだった。
「むしろピッタリ。来たらさ、メルヴィンが腹へったっつーから簡単なもん作って、そんだけ」
サンドイッチ出来立てだっただろ?と聞かれて、ああ、と佐良も納得する。
「だから気にするな。食ったら行くけど、ゆっくり食えよ」
「は、はい」
お言葉に甘えて再びがぶりとやると、とろけたチーズが伸びてきた。それを口で追いかけながら、無意識に、珍しく大人しいメルヴィンの様子を伺う。黙り込んだまま、ちまちまバゲットを齧っていて、さっきからずっとこの調子だ。佐良の視線に気付いたアーベルがメルヴィンに声をかける。
「…メルヴィン、お前も行くか?」
「……どこに?」
「街。サラに必要なもん揃えないとだしな」
「え?!」
驚いたのは佐良だった。そういえば何をするのかは聞いていなかった。
…だから昨日、服のことを聞いてくれたのか。
アーベルの優しい心遣いに胸がじぃんと温かくなる。
「僕…いかない…」
がたっと音を立ててメルヴィンは立ち上がった。不機嫌そうな目と一瞬だけ視線が交わる。止める間もなく、リビングから駆けるように出て行ってしまった。締め切られたドアが静寂を呼ぶ。
「…わたし、何かしてしまったんでしょうか…」
「いや、あれは気にしなくていい」
「え、アーベルさんは何でメルヴィンが怒ってるのか知ってるんですか?!」
沈み込む佐良に、アーベルは困ったように自分の髪をクシャっと崩した。鳶色の髪が無造作に乱れる。
「怒るっつーか…ただの餓鬼の我儘だ」
「わ、わがまま…?」
「そ。それより、食った?」
「え、はい、ごちそうさまでした!」
熱々のバゲットはおいしすぎて、佐良は用意された自分の分を全てを平らげてしまった。アーベルもそれを満足げに確認してから「行くか」と腰を上げる。佐良もリビングから出ようとしたが、直前で真上から「サラ」と声が降ってきた。見上げて、その近さに瞠目する。
「ちょい待ち」
アーベルは羽織っていたグレーのジャケットを脱いで、佐良の肩にひっかけた。おしりを余裕で覆う大きさだ。
「これ、着ていって」
ボタンまで丁寧に閉めていくアーベルに顔が真っ赤になる。近い。とりあえず距離が近すぎる。
「あ、う…!」
うまく言葉も言えない佐良を一瞥してからアーベルは気まずそうに視線を逸らした。この距離で流し目は目に毒だ。
「…俺も男だから」
そう言って離れたアーベルの言葉に、ついさっきまでの自分の恰好を思い出す。メルヴィンの母親の、やたらと扇情的なデザインのネグリジェだ。丈は長いし、一番地味なものを選んだとはいえ、胸元はギリギリまで開いていたはず。ていうか、わたし寝起きのままだ!寝ぐせもそのまま…!
「ご、ごめんなさい…!」
もう蒸発してしまいそうだ。ふしだらでだらしない女だと思われたかもしれない。せめて髪を手櫛でといてから微かな声で謝ると、いたずらな笑顔でアーベルが振り返った。
「やっぱりサキュバスか」
「ち…!違います!」
勢い余って怒鳴ると、アーベルは声を出して笑い出した。玄関の扉を開いて先に促してくれる。からかったくせに女の子扱いなんて、なんだかこの人はずるいと思う。
「…いってきます」
玄関を出る直前に二階へ続く階段を振り返ったけれど、もちろん返事なんてあるわけもなく。
…何を怒っているんだろう。
皮肉にも外は雲一つない快晴で、
「…ありがとうございます」
歩幅を合わせて歩いてくれているアーベルにお礼を言えば、「何が?」とぶっきらぼうな返事があっただけだった。




