第九話
甘えているのかもしれない、ベッドへよじ登る小さなメルヴィンを見ながら佐良はぼうっとそう思った。離れたばかりの手が、もう寂しい。
「ほら、サラ」
舌足らずな声で差しのべられた真っ白い手は魔法の手だ。あたたかくて、ひどく安心して、だけど壊れそうで強くは握れない。この手を払う理由なんて、どれだけ探しても見つからない気がする。
「おやすみ、メルヴィン」
「うん、おやすみ。また明日」
帰ってきた返事に涙を一筋落としてから、手をつないだまま佐良は沈むように眠りに落ちた。そう、それが昨日の夜。
「…ん……」
まず目に入ったのは水色の壁だった。やっぱり夢じゃないんだなと安堵するように息をついて起き上がる。そこでやっと周りを見た。
「…メルヴィン?…フーシュ?ロロ……?」
白いベッドの上には佐良しかいなかった。
「みんな…?」
縋るようにベッドの周りに散らばるガラクタのようなカラフルなおもちゃを目でたどった。ここは間違いなくメルヴィンの部屋だ。
だけど誰もいない。もともと誰もいなかったように静かだ。頭を過るのは暗い暗いタワーマンションの最上階。
「いや……!」
もつれる足で、転ぶようにベッドから出た。メルヴィン、メルヴィンと確かめるように名前を呼びながらドアノブを捻る。
「メルヴィン…」
壁をつたうように触りながらふらふら進む。床も壁も、どうしてこんなに冷たいんだろう。静寂がうるさくて眩暈がした。
「メルヴィン…!どこ、フーシュ!…ロロ!」
首を絶えず動かしながら階段を一段一段降りていくが、プラチナの髪は見つからない。一段降りるたびに、足の裏が冷えていく。
「どこ…」
わたし、もう、あなたたちしかいないのに。家族になろうと言ってくれたあなたたちしか、わたしにはいないのに。
「あれ、サラー?」
階段は残り三段、そんな位置で声がやっと返ってきた。間違えるはずもない、幼い高い声は、リビングの扉からやってくる。浅葱色の瞳がなぜかすごく懐かしい。メルヴィンに続いてアーベルもドアから顔を出した。
「メル、ヴィン…」
「おはよーサラ! ちょうど今ね、アーベルがサンドイッチ作ってくれたとこだよ! いっしょにたべよ! …サラ?」
「………」
「サラ!どしたのー?」
「………よかった」
「サラ?!」
無邪気なメルヴィンが朗らかに笑うのを見て、佐良の中でピンと張っていた糸はぷつりと切れた。気が抜けて、足腰の力がふっと消える。
あ、と思ったときには視界が大きく揺らいでいた。
ぶわっと体を包む恐怖。
やっぱり落ちるのは怖い。
迫ってくる床に、本能で目を瞑る。
衝撃は、すぐにやってきた。
「あ…っぶねぇ」
「……え?」
やわらかい衝撃。背中に回された逞しい腕。厚い胸板。高い温度。耳元でした声にそろりと顔を上げた。いつもより高い景色だ。
「あー、べるさん…?」
「ん、おはよ」
「あ、お、おはようございます…」
背の高いアーベルが同じ目線にいる。アーベルは佐良を抱き留めたまま淡々と挨拶をしてくれた。
「サラぁ~」
「あ、メルヴィン…」
見下ろすと、佐良を見上げるメルヴィンが眉を下げて情けない顔をしていた。高いところから見ると、いつもより小さく見えて可愛いかもしれない。
「びっくりした~よかったぁ~!」
「ご、ごめんね!腰が抜けちゃって…」
「けが、ない?痛いところは?」
心配そうなその様子に泣きそうになる。うれしくて目の奥が熱い。目に涙の膜が張ったけれど、泣くのはアーベルもいるから我慢だ。
だけどメルヴィンにはしっかり見られていたらしい。
「サラ、やっぱり痛いの?治すよっ」
メルヴィンの伸ばす手から淡い光が漏れだしてきて佐良はいよいよ焦った。この子ならば魔法でなにか本当にやりかねない。
「ち、ちがうの!ほんとに大丈夫だから!ほら、アーベルさんがこうやって…」
そこまで言ってから今の自分のアーベルと隙間なく密着している状況を見直して佐良はかぁっと赤くなった。背中に回された腕が力強い。男の人の体に、男の人の力だ。
「…おい、睨むなメルヴィン。いじめてねーよ」
「…アーベル、あんまりサラをぎゅーてしないで!」
「しょうがねぇだろ、ちょっとは我慢しろ。…サラ、とりあえずリビングの椅子に下ろすな」
「あ、はい!ごめんなさい重いのに!」
「いや、軽すぎ。作ったから食って」
本当にアーベルは軽々と佐良を抱き上げたままにリビングへさっさと向かっていってしまった。食卓の上にはこんがり焼けたバゲットのサンドイッチが載っている。グラスに注がれたジュースもある。
「おいしそう…」
「おいしいよ」
しれっとそんなことを言いながら椅子に下ろしてくれるアーベルさんに佐良は思わず笑ってしまった。しかしサンドイッチに目を輝かせた佐良に、硬直したアーベルも、更に不機嫌になったメルヴィンも映らなかった。




