プロローグ
愛する人への最後の言葉は、いったいどれが一番いいのだろう。
刻々と時間が過ぎていくが、正確な時刻は分からない。少しずつ薄暗くなっていく自室の中で佐良はただある一点をじっと見つめていた。背筋をしゃんと伸ばして、目の前の、何の変哲もない灰色の壁の一点だけを。
見たくない。
目は逸らさなかったんじゃない、逸らせなかったのだ。少しでも逸らしたら周りの物が視界に入ってしまう。この部屋には物がたくさん溢れているし、そのすべてに思い出が詰まっているというのに。
見たくない。見たら絶対に涙が出るに決まってる。泣くとはすなわち、受け入れるということだ。理解するということだ。
そんなことは、したくない。
自然に佐良の頭が振れた。否定するように何度か左右をゆるゆる行き来した。
―――それがいけなかった。
目に入ったのは母親のお土産である小さなクマのぬいぐるみ。父親が買ってくれたCDプレイヤー。兄が貸してくれた小説の山。休日に一緒に映画を見たテレビ。雨の日に勝手に鞄に放り込んでくれた折り畳み傘。全員の部屋にひとつずつある同じデザインのシンプルな鏡。そこに映る、虚ろなわたし。
まっ黒な服を着た、母親そっくりなわたし。
「マ、マ」
ほとんど音にもならないような、掠れた声だった。
「ママ」
静寂の中で、行き場の無い言葉がぽとりと落ちた。
佐良、どうしたの。そう駆け寄ってほしかった。
泣き虫だな、なんて呆れたように笑ってほしかった。
鼻かめよ、ひどい顔だぞとちり紙を押し付けてほしかった。
ひどい顔ってなによ。眉を寄せて怒りたかった。
そしてみんなで笑いたかった。笑ってしまいたかった。
「あああぁぁ……!」
目の奥が熱を帯びて痛み、ほとんど同時に視界がぼやけた。視界の下の方が水中のように揺らめいては頬を熱いものが伝う。
呼んだって返事なんかあるわけない。喪服に斑点が増えるほど、込み上げるものは大きくなる。
『新幹線が脱線した』
落ち着いて聞いてほしいと言われた電話の内容は散々なもので、電源をつけたテレビはすぐに消した。ニュースは犠牲者の数で賑わっていた。けれどそんなものに興味は無かった。わたしにとって大切なのは、その内の三人だけだった。
ママは小さなことでもすぐ驚くから、きっとすごくびっくりしただろうな。
パパは、ママのことを守ろうとしたに違いない。
心配性のお兄ちゃんも家族に手を伸ばしただろう。
だけどみんな死んでしまった。
心臓が誰かに鷲掴みにでもされているように痛い。みんなはもっと痛かったと思う。優しいあの人たちは苦しんで死んでしまった。悲しくても、辛くても、わたしは家族がいたから耐えて来られたのに。
大好きだった。そんな言葉で収まるような気持ちじゃなかった。家族は、わたしの全てだったのだ。
咆哮のように叫んだ。むせび泣いた。声にならない声で、悲鳴のように。
慰めてくれる人も、肩をたたいてくれる人も、もういない。叫んだって静寂しか返ってこない部屋でひたすら泣いた。噛みしめたのは喪失感と孤独。
気付けば部屋は既に暗くなっていた。春先とはいえずいぶん寒い。何かの罰のように、何かに苦しみたくて、わざと暖房はつけなかった。よろつきながらも立ち上がり、ベランダの鍵をそっと開ける。すぐさま滑り込んでくるひんやりとした風に肌が粟立った。
「ごめんなさい」
部屋をぐるりと見回して、吐息のような声で懺悔した。そばに置いてあるクマのぬいぐるみを強く抱きしめながらベランダへ向かう。体が勝手に震えるが、構わない。高いところは怖いけれど、もっと怖いことは起こってしまったから。
“愛する人への最後の言葉は、いったいどれが一番いいのだろう”
聞いてもらえなかったけれど。
「愛してる」
だからこそ耐え切れなかった悲しみとともに、佐良はベランダから落下した。




