23話:君がいない日常に生きる意味なんてない4
膨大な蔵書が所狭しと列べられている。種類もライトノベル、一般文芸、純文学、近代文学、古典文学、新書、選書など豊富で、恐らく三年間どう頑張ってもそれら全て読破することは無理だろう。そして、他の高校がどうかは知らないが、ここは充実していると思う。
図書室に入ると不思議と気持ちが穏やかになる
少し年期がかったエアコンがごうごうとうなりを上げていた。
軽く息を吸い込むと、本の特有の匂いが鼻を刺す。
俺、八代秋葉は最近ワックスを塗ったばかりであろう床をパタパタと音を立てながら歩く。
そして立ち止まり一冊の本を取り出した。
「早見ならこういうのが好きだろ」
辞書かよと思わず叫びかねないほどの厚さ。それなりに本を読んでいないと頭が痛くなる内容。
俺も読めないことはないが、わざわざ好んで読もうとまでは思えない。
「真星さんはどんな本が好きなのかな」
本棚に背中を預け、早見へ渡すことになっている本のページをぺらぺらと捲りながら、そんな物思いに駆られた。
「趣味が合うといいな」
次に話す機会があったら聞こう。
願望という名の欲望を胸に抱きながら、背中を離した。
「……でも、真星さんは学校に来るのだろうか……」
問題はそこである。
次に真星さんがいつ登校するのか。
今日は来なかった。もしかしたら明日も来ないかもしれない。そのまた明日も。
生まれた小さな不安は黒いシミとなって、白き布のごとき心を侵食していく。そんな不安からか、明るい彩色を使って描かれた本の表紙は歪み、醜悪なものへと形を変えていった。
思わず吐き気が込み上げてきて、口を押さえる。
やがて収まってきたものの、しばらくの間、俺の心中は穏やかではなかった。
ただ、再び本棚に背中を預け、少し高さのある天井を見つめていた。
「……八代先輩?」
聞き覚えのある声。乱れに乱れ、荒野と化した俺の心にするりと入ってくる。だが俺は視線を動かそうとはしなかった。
そっとしておいてほしかったのだ。
なので、誰か違う人のことを呼んでいるのだと無理矢理思い込むことにする。たらり、と額から汗が垂れた。
「先輩ですよね? こんなところで何してるんですか?」
また、誰かを呼ぶ声。おいお前誰かに呼ばれてるぞ!
俺じゃないからな。俺は知らないからな。
そうやって素知らぬ顔をしようとする。しかし、目の前に立たれて、覗き込むように上目遣いをされてしまっては逃げることは出来ない。
俺は目の前にいる者の名前を呼んだ。
「鈴音こそどうしてここに……」
鈴音──相良鈴音は俺の所属している文芸部の後輩である。
相変わらず、というか耳まで赤くして俺の目を覗き込んでいた。
恥ずかしいならここまでしなくてもいいのに。
つい、可愛いと思ってしまった。
「その、早見先輩に聞いたら八代先輩がここに行ったと……。あ、あの迷惑でしたか……?」
ぐらり、と体がよろめいた。
辛うじて背中を受け止めた本棚が微かに揺れる。もし、後ろに何も無かったら尻餅でもついていただろう。手に持った本を落としてしまう。、
あまりの可愛さに、声が震えた。
「……め、迷惑じゃない。も、もしかして手伝いに来てくれたの?」
「はい、なにか力になれることでもあれば、と思いまして」
「あー気持ちは嬉しいんだけど、大丈夫だよ」
「すみません!」
いきなり謝られて背筋に震えが走った。
言い方がまずかったのだろうか。つかさず言葉を付け加える。
「あ、いや! そんなつもりで言ったわけじゃ。こっちこそごめん」
「え、なんで八代先輩が謝るんですか! 悪いのは私なんですからぁ!」
頭を抱え込んでその場にふさぎ込む鈴音。表情は窺えないもののどうやら誤解を与えてしまっているらしい。
俺は身を屈め、床に落とした本を拾う。そしてその本で彼女の頭を軽く叩いた。
「鈴音のせいじゃないって。自分を責めすぎだ。悪いのは俺だ。ったく後輩にこんな顔させるなんて俺はダメな先輩だな」
「……八代先輩こそ」
「ん、何か言ったか?」
「いいえ! な、なにも!」
暗い表情をして、いつもよりも低い声で、呟いたかと思えば、急に電源の入ったロボットのように慌てふためいて何事もなかった風に振る舞う。
何を言おうとしたのだろうか。
訊きたくて仕方なかったのだが、己の本能というものは愚かなもので、俺にある感慨を抱かせる。
普段は恥ずかしがり屋のせいで赤くなりがちの肌は、ほんの数秒ではあるが、恐ろしいほどに白く透き通ったものになっていた。陶器のような肌といっても足らない、玉肌といっても足らないくすみ一つない非常に美しいものであった。
撫でたい──という欲望に精神が犯され手を伸ばしそうになるが、そこで、はっ、と理性を取り戻し、その手を戻す。
バカか俺は……。俺には真星さんがいるのに。いや、真星さんでもダメだろうがぁぁぁあああああ!!
誰かこの鈍器の如き分厚い本で殴ってくれと思いながら、俺は立ち上がった。
そして一つ咳払いをした後、俺は鈴音に手を差し出す。
「ありがとうございます」
そうお礼を言って、彼女は手を取った。
「礼にはおよばないよ」
立ち上がる彼女をなるべく視界にいれないようにして、平然と答えた。今、彼女のことを見ていたらどうにかなってしまいそうな気持ちになったからである。
そんな邪な気持ちに、拭いきれないであろう罪悪感だけが残った。
俺は、真星さんが好きだ。
先ほどから自分の心に何度もそう言い聞かせている。しかし、一瞬ではあるが、その気持ちが揺らいだ。
浮気をするつもりもないのに浮気をした人の心境というのはまさにこういうものを指しているのではなかろうか。
『つい出来心で……』
こういう時の常套句と言ってもいいくらい、よく出る言葉だと思う。本当は本命の人のことが好きなはずなのに、浮気をした人のことを魅力的だと思ってしまう。
──今の鈴音は魅力的だ。
俺が愛してやまない真星さんにも匹敵するくらい。
「や、八代先輩。やっぱり言います!」
「なにを?」
自分でもひどいと思えるほど間抜けた声で訊いてしまった。仕方がないと言ってしまえばそれまでなのだが、どうにも俺はそれで済ませれるような性格ではなかったらしい。
俺は、自分を責め立てた。
一時的ではあるにしても意中の人とは別の人のこと思い、挙げ句の果てにはそれによって生まれた動揺が表立って現れた。
あれだ。いっぺん氷の張った冷水に頭を突っ込んだほうがいいな。もしくは──。
と、自分に罰を与える方法を考えてる所に、鈴音の柔らかな声が入った。
「八代先輩のほうこそ自分を責めすぎです」
「え……」
「さっきの先輩。ものすごく怖い表情をしてました。声をかけるのも止めようと思ったんです。でも、私、そんな先輩がほっとけなくて」
「……」
「お節介ならお節介って言ってもらって構いません。けど、話してもいいものだったら話してもらえませんか?」
誰が。
誰がこの頼みを断れようと言うのか。
──答えは決まっていた。
「頼む」
「ありがとうございます」
「いやいやなんで鈴音がお礼を言うんだよ」
「すみません!」
前で手を交差させて、頭を下げる鈴音。その動きにつられて舞う髪の毛から薔薇のような甘い香りがした。
◇◇◇
うちの図書館にはトーキングスペースという場所があって、そこでは大きな声を出していいことになっている(限度はあるが)。広さは教室の半分ぐらい。図書室との仕切りは恐らく防音性の素材で出来ているだろう。値段に関しては気にしないようにしよう。多分というか、絶対高い。
俺と鈴音の他には今のところ誰もいない。このまま誰も入って来ないことを祈ろう。
全体的に木の基調で調えられた図書室とは違って、プラスチック性のテーブルに、イス。もしこれらが同じ空間にあったら、バランスが悪いな、と思いかねないが、仕切りの効果もあってそれはない。
俺はこの部屋の端っこの席を引いて、彼女にそこへ座るよう促した。
その前へと俺は座る。
俺の隣には、保健室とかでよく見かける観葉植物が置いてあった。確か、テーブルヤシだっただろうか。
曖昧な記憶をたどりながら、テーブルヤシを眺めていると、彼女の方から話を切り出してきた。
「先輩って好きな人でもいるんですか?」
なぜいきなりそれを。あまりに突拍子のない質問に、俺は思わずテーブルに頭をぶつけそうになった。
「あのなぁ」
「え、いないんですか!? だったら大変失礼なことを」
「いや、いるんだけど。さっきの話との繋がりが読めなくてな」
「な、なるほど。私は恋煩いだと思ってきいたんですけど、脈絡がなさすぎましたか?」
「まぁそうなる」
「わぁぁぁあああああ、すみませんすみません!」
「謝らなくていいから座って」
「……はい」
座る合間に「また恥ずかしいところを見せちゃったな」と鈴音が呟いたような気がした。鈴音自身も自分の性格に引け目を感じているのかもしれない。
俺はいいと思うけど。
それより──。
「で、思ったんだけど、意外と鋭いな。鈴音って」
「ふぇ?」
「恋煩いで合ってるよ」
「えええええ!?」
「ばかっ、声が大きすぎるよ」
しーっと、指を口の前に当てたのだが、ここがトーキングルームであったことを思い出し、急に身体が熱くなった。
「そうか。ここはトーキングルームだったな」
すでに頭を垂らしている鈴音に俺も倣った。今すぐここから立ち去りたくなるほど恥ずかしい。ハァハァと息が荒い。大して動いたわけではないのに、百メートルを全力で走ったような感じである。
猛烈な速さで脈を打つ心臓が収まるのを待ってから、俺は口を開いた。
「……その、なんだ。あれだ」
あれだ、って何だよ。と一人で脳内ツッコミをかます。鈴音も何がと言いたげに顔を起こして、首を傾げている。
「俺の好きな人が休んでて心配なんだよ!」
ありのままの事実を告げているはずなのに、どうしてこんなにも全身から汗が吹き出しているのだろう。もし、痩せる方法はなにかと問われたならば俺はこのような状況に陥ること、とオススメする。
「……ふふふ、なんだか可愛いですね、八代先輩って」
目の前では、鈴音が口に片手を添えて微笑んでいた。
ドキリ、とさせられ、また魔の手が俺に忍び寄ってくる。だが、鈴音に話題を振ることによってそれから逃れようとした。
「そういえば。鈴音にはいないか? 好きな人」
仕返しと言わんばかりにニヤリと唇を曲げる。しかし、鈴音は無言で瞠目して、俺を見つめていた。口を開けて。
「おーい」
反応がない。ショートでもしてしまったのだろうか。
「ヤバいなこれは。おーい鈴音ー」
彼女の眼前で手を振ってみるも、やはり反応がない。
これはあれしかないだろう。
漫画とかではよくこのような状況に陥った場合には、つつくと元に戻ると言われているが、ここではどうであろうか。
あれだよ! 決して変な気持ちが湧いてしようとしてるとかじゃないから! このままだと困るからしようとしてるだけだから!
と、つまらない言い訳を言い聞かせ、恐る恐る片手を伸ばしていく。
その手がいよいよ彼女の肌に触れようとした時──。
「で、このさぁ、」
声。その方に首をゆっくりと動かすと、闖入者が一人、二人。
どちらも見ては見ていけないものを見てしまったのかのような目をしていた。
「お邪魔しましたー」
そして、そのまま立ち去っていた。戸を締める音だけが虚しく響いた。
「ふぇ? いたずらがバレたかのような顔をしてどうしたんですか? 八代先輩」
「いやぁ、あはは。ははははは」
どうやら俺はいらぬ誤解を招いてしまった。
しばらくリアルが忙しくて投稿が遅くなってしまいました。ここ最近、月刊更新とかしているので頑張って以前のペースを取り戻したいです。