第四章 黄金週間
「ゴールデンウィーク、はるかはどうすんだ? もし良かったら、家に泊まりに来てくれって母さんが言ってたぜ」
翠は、はるかにそう勧めてくれた。
体育祭の時、満開の桜の木の下で出会った翠の家族は良い人たちだった。
普通のおじさんのように見えて、物腰がどこか常人とは違うのが素人のはるかでも分かる四ツ小屋道場の師範、実篤さん。
本当に翠を産んだのか、信じられないほど若く見える頼子さん。
翠の三つ上で、彼女に良く似たハンサム顔の兄、竜也にも紹介してもらった。
そして、はるかの方も、礼儀正しく接したのが気に入られたのか、何度か泊まりにも行かせてもらうほどの仲となっていた。
そのことがあっての翠からの誘いだったが、はるかは残念だけど、と断った。
しかし、
「残念と言いつつ、全然、残念そうじゃねーな」
そう、はるかは非常に上機嫌だった。
「親父さんでも帰って来んのか?」
翠のいぶかしげな問いかけに、はるかは肩をすくめて見せる。
「まさか。お父さんは海外よ。日本のゴールデンウィークが関係する訳が無いじゃない」
「だったら何で、そんなに嬉しそうなんだ?」
その問いに対する、はるかの答えはごく単純なものだった。
「うん、サキさんも寄宿舎に残るって聞いたから。ゴールデンウィークの期間中は、普段、幅が取られている食事の時間が決められた時間だけになって、残ったみんなで一緒に食事を取るんだって」
はるかから見て謎めいた少女、黒羽サキはずいぶんと不規則な生活をしていて、食事を取る時間がまちまちの為、今まで同じ寄宿舎に住んでいるというのに食事を共にできたのは片手で数えることができる程度だったのだ。
「だから一気に仲を深められるチャンスかな、と思って」
弾んだ声で話すはるかを、翠は呆れ顔で見る。
「食事程度で、えらいご機嫌だな…… あ、そっか、仲を深めるって、あれか?」
翠は手を打って、なるほどと、したり顔でうなずく。
「あれって?」
翠は口の端を釣り上げ、人の悪い笑みを浮かべて、はるかにささやく。
「兄貴の友達が言ってたぜ。女にタダで夕飯食わせるのは、二度までで、三度目には、お持ち帰り……」
「女同士で持ち帰って何するって言うのよ!」
その意味する所に気付いて、はるかは顔を赤らめ抗議する。
しかし翠は、そんなはるかを鼻で笑って問いかけた。
「じゃあ想像してみ、あなたの目の前には夕食後、満腹感からか、その場で眠り込んでしまった黒羽サキが居る」
「はぁ?」
唐突な発言に首を傾げながらも、はるかは思わずその情景を想像してしまう。
「あなたは彼女を持ち帰って、その綺麗な髪を撫でながら一緒のベッドで眠りについてもいいし、そのまま立ち去ってもいい」
「ぐっ……」
卑怯過ぎる設問だ。
普段、隙を見せないサキの無防備な寝顔なんて、やっぱり見てみたいし、密かに憧れている、あの流れるような黒髪にも触れてみたい。それに一緒のベッドで寝るなんて、そこまで仲良しになれたら最高だ。ここまで誘惑されて、そのまま立ち去ってもいいなんて言われても立ち去ることができるだろうか?
いや、
「で、できないっ、そのまま立ち去るなんて、できないっ!」
はるかの、魂の叫びだった。
だが、はるかはそこまで言って気付いた。背後から感じられる小さな人の気配に。
振り向き、そして思いっきりうろたえることになる。
「あ、え、うえええっ!?」
思わず、奇声が漏れた。
そこに立っていたのは、サキ当人だった。普段、感情を表さない白皙の顔いっぱいに驚愕の表情が張り付いている。
「あ、ちょっ、これは違うの!」
はるかが言い訳しようとするものの、サキは、いつものネコのように足音を立てない足取りで、はるかが距離を詰めた分、遠ざかって行く。警戒するように、徐々に後ずさりながら。
「ね、ねぇ、聞いて。違うの違うの。ほんとに変な意味じゃなくってね…… 翠ぃ、笑ってんじゃないわよ!」
腹を抱えて笑っている翠を、はるかは怒鳴りつける。
もちろん翠はサキが通りかかったのをみすまして、はるかを引っかけたのだろう。この悪魔が。
「はるか、グッジョブ過ぎ」
しかし、嵌めた翠本人も、ここまで上手く行くとは思っていなかったのか、笑い過ぎで痙攣を起こしていた。
「ね、ねぇ、サキさん、話を聞いて。ねぇってば!」
そして、はるかの情けない声がサキを追いかけて行くのだった。
「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン」
サキの小さな唇から食前の祈りの声がささやくように、しかし厳かに呟かれると共に十字が切られる。
ゴールデンウィーク、食事を共にすることになって分かったことがある。サキが敬虔なクリスチャンだということが。
ミッション系の学校に入った以上、はるかもお祈りぐらいはすることにしたが、もっと、ずっと簡単に済ますことにしている。周囲の生徒たちだって大抵はそうだ。
そうでないとすると、
「ねぇ、サキさんのご両親って、クリスチャンだったの?」
その瞬間、波紋が広がるように周囲の空気が変わった。それに戸惑いの表情を浮かべていると、サキが答えてくれた。
「亡くなった母はクリスチャンだったって聞いてる」
淡々と事実を告げる声だった。
「あ、ごめ……」
謝りかける、はるかの声をサキが遮った。
「別に私は気にしない。けど、ゴールデンウィークに寄宿舎に残っている人の事情を考えて、疑問は口にした方がいい」
「あっ……」
はるかは言葉を失う。
そうだった。
ここは基本的にお嬢様が入る寄宿舎だ。それなのに、ゴールデンウィークにここに残っているということは、みな、両親に関して何らかの事情を持っているということだった。サキに言われるまで、それに気付かなかった。
「ご、ごめんなさい、みなさんっ!」
上級生も居る為、はるかは敬語で謝る。真剣さが通じたのか、固まった周りの空気も和らいだ。
「いいのよ、分かってくれれば。それに榊さんだって、お父様が海外なんでしょ。大変なのはお互いさまよ」
皆を代表して、緩く波打つ栗色の髪が素敵な上級生、副寮長も務めている天城冬香が言ってくれる。
その話は、そこで終わりになった。
しかし、はるかは思う。ああいった気配りまでできるサキが、どうして学院内で孤立しているのか。人を思いやる心配りと優しさを兼ね備えているというのに。
夕食後は、休み前に出された課題を持ち寄って夜間学習を行う。ゴールデンウィークが明けたら間もなく中間テストがあるため、休みとはいえ気は抜けない。
しかしながら、この集団学習は冬香を始めとした上級生のお姉様方がいらっしゃるため、非常にスムーズに進む。分からない所は理解できるまで親切に説明してくれるし、先生ごとの出題傾向や過去問まで教えてくれる。過去問は先輩の更に先輩たちから引き継がれたもので、これにより居残り組の休み明けテストの成績は高レベルを維持しているらしい。
そして下級生たちは、先輩たちの指導に感謝の言葉を口にすると共に、紅茶を淹れてそれを形にして表す。
紅茶の淹れ方はゴールデンルール、すなわち、
一つ、常に新鮮で良質の茶葉を使う。
二つ、茶葉を入れる前にティーポットとカップはあらかじめ温めておく。
三つ、茶葉の分量を正確に計る。
四つ、汲みたて、沸かしたての沸騰した湯を使う。
五つ、ポットの中で十分蒸らす。
以上を守った上で、更に個々人が工夫をこらして淹れる。それが相手を楽しませてくれるのだ。
聖稜女学院の女子生徒にとって紅茶を淹れることは基本技能らしく、今まで紅茶とは縁の薄い生活をしていたはるかにも同級生らが懇切丁寧に教えてくれた。
「みなさん、頑張ってますね」
はるかたちが勉強に集中していると、落ち着いた年頃のシスターがやって来て皆に声をかけた。
「い、院長先生!?」
驚きの声を上げるはるかに、シスターは目を細めて微笑みを浮かべた。そう、シスター服に身を包み、ベールを被ったこの女性は聖稜女学院の学院長だった。
しかし周囲は、はるかのように驚くことも無く学院長を温かく迎えていた。
「ようこそ先生。お座り下さい」
サキの正面に座っていた冬香が勉強道具を片づけると席を立って、その椅子を勧めた。
「ああ、ありがとう。ごめんなさいね、皆さんのお勉強のお邪魔をしちゃって。これでも教育者なのにね」
歳に似合わない悪戯っぽい表情で言う学院長に、冬香は首を振る。ウェーブのかかった髪が肩口で絹糸のように流れた。
「いえ、私たちも休憩を挟まないと能率が低下すると思っていた所でしたから。お茶をお淹れしますね」
「それなら、お土産があるのよ。若い人たちの、お口に合うのか分からないのだけれど」
そう言って学院長は紙袋を差し出してくれた。それを見た生徒たちが喜びの声を上げる。
「わっ、杉屋のシュークリームですね」
「合うお茶をお持ちしますね」
あれよあれよという内に小さなお茶会の準備が整えられて行く。
「あ、黒羽さんは、院長先生のお相手をしてね」
「プライベートでは、久しぶりでしょ」
上級生たちは口々にサキに言ってお茶の準備に立つ。
「えっ、えっ?」
そして、なぜ学院長の相手がサキに任されるのか分からない内に、サキの隣に居たはるかはサキと共に取り残されてしまう。
そんなはるかに、学院長は柔らかな声で話しかけてくれた。
「あなたが、榊はるかさんね。榊先生の娘さんの」
「は、はいっ。って、父のこと、ご存知なんですか?」
先生と呼ぶからには、医師としての父を知っているということだろう。
「ええ、腕のいいお医者様で大変お世話になっていますよ。その代りという訳ではありませんが、あなたの高等部への編入をお勧めさせていただいたのですけど」
そういう伝手で、自分はこの学校に入ることができたのか。
初めて知ると共に、口数が少なく肝心なことを伝え忘れるのが多い父親に嘆息する。
「榊先生?」
隣でサキが何かを思うように小さく首を傾げていた。
サキに父親のことを話したのは初めてだったな、と改めて思うはるかに、学院長が話しかける。
「サキがお世話になっているようで、お礼を言わせてもらいますね」
「い、いえ、とんでもない。私の方こそ、サキさんにはお世話になりっぱなしで」
何しろ、サキはどんなお返しも受け取ってくれないのだから、そういうことになってしまうのだ。はるかの心の債務不履行は、嵩むばかりだ。
「あ、あのっ」
はるかは、また無神経にも踏み込んでしまうかも知れないと危惧しつつも、ちらりとサキに視線を走らせて問う。
「あの、院長先生はサキさんとは、どんなご関係なんですか?」
緊張しながらも思い切って聞くはるかに、学院長は笑って答えてくれた。
「贔屓をしているとか勘ぐられて、この子が辛い思いをすることになるのが嫌だったからあまり大っぴらには言ってはいないんだけれど」
そう前置きして、言う。
「私がこの子の、今の保護者なの。彼女の亡くなった母親とは、親友同士でね」
「そ、そうなんですか」
初めて知った、新たな事実だった。
しかし、
「知るのは私たちだけですものね」
冬香が、お茶の準備をしながら口を挟む。
「サキさんには毎回感謝だわ。私たち居残り組に、院長先生とお茶会をさせて頂く栄誉を与えて下さるんだから」
その言葉に、冬香の同級生たちから同意の声が上がる。
「これも居残り組だけの秘密だけれどね」
冬香はその秘密を共有する仲間として迎えるかのように、はるかにささやいてくれた。
長期の休みに、寄宿舎に残った者にのみ訪れるひと時。
みな、両親と何らかの事情で会えなかったり、実家と折り合いがつかなかったり。そんな家庭の事情を抱えた彼女たちを見舞うのが、学院長がここを訪れる理由なのだろう。
「でも、みなさんも元気そうで何よりだわ。それだけが心配だったから」
学院長はそう言って目を細めた。元々、柔和な線を描いていた細い目が更に糸のように細められる。
そして、お茶と学院長のお土産のシュークリームが皆に出された。
しかしフォークとナイフまで出されて、はるかは目を白黒させた。
「ねぇ、サキさん。これ、ナイフとフォークでどうやって食べるの?」
仕方なく、小声でこっそりとサキに聞く。
「杉屋のシュークリームはシューが堅いタイプだから。まず、上の皮だけとってクリームをつけて食べる」
サキは実際に手で上の蓋を外して、それでクリームを掬いながら食べる。
はるかもとりあえず、それを真似た。
「その後にナイフとフォークを使って、一口大に切って食べる。それをやることによってシュークリームが綺麗に食べられる。でも」
サキは周囲を指し示す。見ればナイフやフォークを使わずに、そのまま食べている娘も多い。
「別に正式な食べ方が決められている訳じゃ無いから好きに食べればいい。それにこの方法はシューの堅いタイプにしか通用しないから」
「なるほどー」
はるかは感心するしかない。よもやシュークリーム一つでここまでの世界が開けようとは。お嬢様の世界は奥が深い。
「でも、美味しい。このシュークリーム」
ほど良い硬さのシューに上品な甘さを持つクリームの取り合わせは、今までに食べたことのないほどの味わいだった。はるかの頬も、自然にゆるんだ。
「杉屋は、この街でも一番の喫茶店だから扱うお菓子も最上級」
「へぇ」
サキの説明に、はるかは相槌を打つ。
そんなはるかたちの様子を微笑ましげに見守りながら、学院長は紅茶のカップを前に顔をほころばせた。
「あらあら、でも淹れて下さった紅茶の方も素晴らしいですよ。これは今年のファーストフラッシュ?」
そう言う学院長だったが、紅茶にはまだ口を付けて居なかった。
ファーストフラッシュが何を意味するかは分からなかったが、何故分かるのかと思ってはるかが疑問に思っていると、紅茶を淹れた冬香が学院長に答えた。
「今年の取って置きを開けてみたんですけど、やっぱり分かっちゃいます?」
冬香は柔らかな笑みを浮かべて問う。
「それはね。ファーストフラッシュは薫りが高いのが特徴だから」
学院長は楽しげに笑って紅茶を口にした。
なるほどと思ってはるかは香りを楽しんでみる。
「確かに。凄い、いい匂いがする」
そしてサキに聞いてみる。
「ねぇ、サキさん。ファーストフラッシュって?」
「紅茶には大きく分けて三種類がある。春摘みのファーストフラッシュ。その後で摘まれるセカンドフラッシュ。そして秋に摘まれるオータムナル」
基本的に無口なサキだったが、聞けばちゃんと答えを返してくれる。律義な性格の持ち主なのだ。
「ああ、じゃあ春に摘んだ、今年のお茶って訳ね」
今度は味を楽しんでみる。普段飲んでいる紅茶より淡く金色をしたそれは、癖も少なく飲みやすかった。
そのまま飲んでしまおうとして、
「そう。生産量が少なくて、お値段も高め」
そう言うサキの言葉に身体が固まった。
「あらあら、旬の楽しみにお値段の話を出すなんて無粋よ」
紅茶を淹れてくれた冬香が、サキの言葉を聞き咎めやんわりと諭す。
「失礼しました」
サキは素直に謝る。
その横で、むせそうになるのを必死になってこらえる、はるかだった。