終章 夏空の終わりに
二学期の始業式、何となく、と言うには早過ぎるほど早朝にはるかは教室に行った。
そして幻を見た。
今は無くなっているはずの窓際の一番後ろの席、そこに座って文庫本のページをめくる小柄な少女。
白く冴えた顔と夜の闇を刷いたような黒髪を朝日に煌めかせ、その幻は存在した。
「何、読んでるの?」
「シャーロック・ホームズ」
声をかければ返事もしてくれた。
「へ、へぇーっ、ミステリーならアガサ・クリスティー辺りを読んでるかと思ったら、違うのね」
ミステリーにあまり詳しくないはるかは、とりあえずイメージで有名所の名前を出してみる。
「ミステリーが好きな訳じゃないから」
「じゃ、じゃあ何でホームズ?」
「私が読むのはエンターテインメント。どんなジャンルでもハッピーエンドが好きだから」
そこで初めて幻は顔を上げた。本に栞を挟んで閉じて。
真っ直ぐに、はるかの目を見て言う。
「おはよう、はるかさん」
はるかは挨拶を返す。
「おはよう、サキさん」
沈黙の天使が通り過ぎて行った。
どうかしたのか、とでも言うようにサキは小さく首を傾げる。そこに部活の朝練があるのか、生徒たちの話声が近づいて来た。
慌てて、はるかはサキの手を引いて走り出した。
「はるかさん?」
「いいから着いて来て!」
「ふぅ……」
重い鉄製のドアを閉め、はるかはようやく一息つく。
体育で使うマットの上には、小さな肩で息をつくサキが制服を乱して、しどけない様子で座り込んでいた。
「こ、こんな所で何を……」
はるかを警戒するようにサキは身を縮める。はるかが二人きりになれる場所として連れ込んだのは体育館の用具室だった。
「ちっ、ちがっ!」
慌てて、はるかはサキの誤解を解こうとする。
「そ、そんな意図なんか無くて、二人きりになれる場所って言ったら、ここしか思いつかなくて!」
「二人っきりになって、何を?」
更に危機感を持ったように後ずさるサキに、頭を抱える。
「だ、だって大騒ぎになるじゃない! 死んだはずのサキさんが教室に居るなんて!」
「死んだ?」
サキは首を傾げる。
「誰が?」
「サキさんが!」
「私?」
サキはまじまじと、自分の身体を見下ろして、
「死んだの、私?」
そう問う。
「う、そう聞かれると……」
はるかも自信が無くなる。
「誰から聞いたの、そんな話?」
かすかに眉をひそめサキは聞く。
「誰からって、病院で!」
「病院で?」
「い、意識を失って! 心音も危険を示して!」
「確かに重体になって、一時はもう意識を取り戻すのは無理かと思われたみたいだけれど」
サキは彼女らしく、まるで他人事のように淡々と語った。
「は?」
「でも学校の方には病気の療養の為、休むと届けたはず」
「た、確かに翠もそう言っていたけれど、それは亡くなったことをみんなに隠すため……」
「誰が、そんなことを?」
「誰がって……」
誰もそんなことは、言っては居ない。
「ま、まさか、全部……」
自分の勘違い?
「勝手に殺さないで欲しい」
サキの、止めの一言。
「うあああああ……」
はるかは頭を抱えると、しゃがみ込んだ。穴があったら、入ってダイナマイトで吹き飛ばしたい。
それなら一週間、人事不省に陥ったのも、夏休みサキの面影を探し彷徨ったのも、全部、はるかの思い込みの一人芝居ということになるではないか!
「うぅー、うぅー」
「だ、大丈夫?」
心配してくれるサキの無垢な視線が痛い。痛過ぎる、はるか。
しかし何とか気力を振り絞って、これだけは確かめる。
「それじゃあ全部、私の思い過ごし。サキさんは大丈夫なのね!」
「良く分からないけど大丈夫なのは確か」
「サキさん!」
思わず、その小さな体を抱きしめようとして……
「あ」
はるかはサキに、するりとかわされる。一人、体育のマットに沈む自分が間抜けに思えたはるかだった。
「こんな所に連れて来て、やっぱり……」
サキは警戒心も露わに、じりじりとはるかから距離を取っていた。
「それはない! それはないから!」
感動の再会の抱擁も、神様とサキは許してはくれないようだった。
これも、はるかが熱心なクリスチャンでは無い為か。それとも、こういう時に神様の馬鹿、と思わず呟いてしまうその言動に問題がある為か。
そうこうしている内に、体育用具室の外で人の気配がし始める。はるかが、そっと外を覗き見ると始業式の準備を生徒会のメンバーと教員が始めている所だった。
「あ、やばっ」
出るに出られなくなってしまった。
しかしサキには、その心配が分からない様子だった。
「私たちも、そろそろ教室に戻らないと」
「だ、駄目よ! 先生方に、どうしてここに入って居たかって聞かれたら、どう答えるの!」
はるかはうろたえるが、サキは素直に答える。
「はるかさんに連れ込まれた、と」
「絶対駄目っ!」
それをされたら、はるかは身の破滅だ。同性を体育用具室に連れ込むような危険人物とは思われたくない。
事実だが違う!
「それじゃあ、どうするの?」
「式が終わるまで待つしかないわ」
「さぼるのは良くないと思う」
「いいから!」
はるかはしぶるサキを何とか宥めすかせて、式を欠席することを了承してもらう。
外では生徒たちが入場して来たようだった。そして教師の話が始まる中、ようやく一息ついたはるかは尋ねる。
「それで、今までどうしてたの?」
それに対してサキは、不思議そうに聞き返した。
「榊先生から聞いてないの?」
「はぁ?」
榊先生…… そう呼ばれる人物には、一人にしか心当たりのない、はるかだ。
「お父さん?」
「そう、私の身体を治してくれたのは、榊先生」
至極あっさりと、サキは告白した。
「ちょ、ちょっと待って。それじゃあ、お父さんがアメリカで手掛けていた患者さんって」
「私」
「ええっ?」
それでは、はるかの父が難しい患者の治療法を求めてアメリカに渡ったのも、その患者の治療の為、夏休みに帰って来なかったのも、すべてはサキの為になる。
「お父さん、何で、そんな大事なこと……」
「話が無かったの?」
サキは不思議そうに尋ねる。
「あったら、こんな誤解してないわよ」
「そう、私はてっきり、はるかさんから先生に私の話が伝わっているものと」
思案顔で言うサキの言葉に、はるかは引っかかりを覚える。
「は? 逆でしょ。お父さんから私に……」
「そうじゃなくて」
サキは言う。
「はるかさんから私のことを聞いていなければ、医師が家族といえども患者の話を漏らす訳が無いと思う」
「ああ!」
合点がいって、はるかは手を叩く。言われてみれば、知り合いと分かっていなければ患者のプライベートを父親が話す訳が無いのだ。
そして一気に落ち込む。
「あぁー、それじゃあ私が一言、お父さんにサキさんのことを話していれば、こんな誤解をせずに済んでいたのね……」
サキのことを大事に想い、軽々しく話す気にはなれずに居たはるかだったが、それが完全に裏目に出ていた。
落ち込むはるかを不思議そうに見つめながらサキは言った。
「榊先生には感謝している。成功率が半分を切る、難しい手術を成功させてくれたから」
「そうだったんだ。怖くなかった?」
「私には、お守りがあったから」
サキは、胸元に大切そうに手を当てる。その仕草は最近のはるかにも覚えがあって、
「着けていて、くれてるんだ」
「お墓まで持って行くって、言ったはず」
そして、見つめ合う二人。
「見せてくれる?」
自分の制服の襟元をくつろげながら、はるかは言う。聖稜女学院の制服はシスター服をイメージさせるもので、襟元がきっちりしているからペンダントを取り出そうとすると、こうするしかないのだ。
自分の分のペンダントを取り出したはるかだったが、サキが戸惑っていることに気づく。
「どうしたの?」
「心臓の手術痕、あるから」
「大丈夫、私は小さな頃から、お父さんの手伝いで見慣れてるし。それに……」
はるかの声が、真剣味を帯びる。
「サキさんを生かしてくれた跡、見たいな」
そう言うと、サキは真っ赤になってしまった。そしてサキはたどたどしい手つきで、自分の制服の胸元を開けてくれる。
「はい」
その広げられた胸元には、ビーチグラスのペンダントに守られるように赤い縫い跡が刻まれていた。
「ちょっとブラ、ずらすわね」
フロントホックではないため外してみる訳にも行かず、はるかはサキのブラジャーをずり上げる。そうやってサキの胸元に刻まれた傷跡を確かめる。
「さすが、お父さん、いい腕してる。十センチ程度の跡ってかなり小さいのよ」
指先で跡を辿りながら言うと、くすぐったかったのかサキは上ずった声で答えてくれる。
「そう、なの?」
「うん、他の先生の所で手術した人の跡と比べると一目瞭然よ。あと、まだ赤いけど半年もすれば赤みも退くから……」
そう言いかけた時だった。音を立てて体育倉庫の扉が開き、教師が顔を出したのは。
「こんな所で、式中に何を……」
と言いかけ、固まる。もちろん、胸元を開けられたサキの制服の下に手を伸ばし、ブラジャーをずり上げて覗き込んでいる、はるかの姿にだ。
教師の背後には、その隙間から様子をうかがっている生徒たちの目。
「あ……」
その後、学院長の所まで呼ばれたはるかは、何とか誤解を解くことに成功した。
しかし全校生徒の前で晒したその姿は恰好の話題となり、はるかには完全に、そういう趣味の人と言うレッテルが張られるのだった。
もちろん、ことの顛末を聞いた翠が腹筋が筋肉痛になるまで、笑い転げたのは言うまでも無い。
鳥獣王女 完
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
ブックマークや評価、感想はとても励みになります。今後もどうか応援ください。