泉都長屋物語
昭和40年頃 ある地方の温泉町にあった長屋の物語
一枚の写真がある。モノクロで十歳くらいの三人の子供がどこかの家の玄関の前で写っている。真ん中にいるのが私だ。向かって左に写っているのが、同級生のヒトミちゃん、何かこちらに向かって可笑しそうに笑っている。右に写っているのが同じく同級生のテツオ君だ。口を尖らしてふざけている。真ん中の私は半袖のシャツに半ズボン、手にウクレレのようなものを持って何か歌っているようだ。ヒトミちゃんはワンピースのスカート姿で、テツオ君はランニングシャツに半ズボンだ。季節は夏頃、七月か八月くらいだろう。三十年くらいの前の写真だと思う。
この写真の撮影場所は私の母の実家だ。母の実家は当時としては、裕福な方で母屋の裏に続いてコの字型に長屋があった。何軒あったかは忘れた。テツオ君もヒトミちゃんもこの長屋の住人だったのだ。
コの字型の内側には鶏小屋や井戸、小さな畑などがあった。何か江戸時代の長屋のような雰囲気で、住民同士も仲が良かった。
テツオ君は両親と妹と一緒に長屋に住んでいた。テツオ君の家の玄関には、家の表札とは別に「左官」という表札が掛かっていた。多分何かの職業だと思い、「左官て何?」とテツオ君に聞くと、「よく知らない」と答た。なぜ、自分の親の職業を知らないのか不思議に思ったが、それ以上聞かなかった。ただ、軒先にいつもてるてる坊主が下がっていたのが不思議だった。
ヒトミちゃんの家は母子家庭だった。ヒトミちゃんには二つ下の妹がいた。小学校一年生くらいだったと思う。
お母さんは病院の付添婦として働いていた。仕事が無いときには、ヒトミちゃんのお母さんは台所でお好み焼きを作って長屋の住人や近所の人に売っていた。
私は、母の実家である母屋で何度かそのお好み焼きを食べたことがある。ヒトミちゃんのお母さんが作っているところを見たことがあるのだが、小麦粉を練ってフライパンで焼いて、その上にはもやしをソースに絡めて炒めたものを載せ、折っただけの簡単なものだったが、ソースに絡まったもやしが美味しかった。
また長屋には下駄職人が住んでいた。若い下駄職人は、家の中で下駄を毎日作っていた。私が入り口に立って、不思議そうに下駄作りの作業を眺めていると、下駄職人はこちらに向かって顔をくしゃくしゃにして笑った。そして、右手で何か動作をした。「こんにちわって、近くにおいでって言ってるよ」、奥から声がして、見ると下駄職人の奥さんらしき人が笑っていた。下駄職人は口がきけなかった。 奥さんの足元には二歳くらいの女の子が立っていた。私は「また」と言って帰った。
下駄職人はまた黙々と作業を始めた。
何ヶ月か経って、母と母屋を訪ねたところ、叔母が私の母に、〇〇さんて、ほら下駄職人の人知ってるだろ、娘さんが急に熱を出してね、お医者さんが来たんだけど肺炎だったのかね、亡くなったんだよ。と話していた。
私はあの下駄職人のことだと思い。長屋の家に行って見た。入り口に鍵はかかってなく、開けて見ると誰もいなかった。
ただ、土間の入り口のところに柱があり、焦げ茶色の柱の下の方に、横に一本白い傷のようなものが見えた。私は上がり込んで、よく見て見ると、「二才 十月四日」と刻んであった。子供の背を測って、刻んだのだ。私はあの顔をくしゃくしゃにして笑う下駄職人を想った。後で聞くとお通夜でも葬儀でも声にならない声を上げながら泣いていたと叔母が言っていた。下駄職人は妻の実家がある県外へ転居したとのことだった。
長屋には看板屋も住んでいた。当時は映画の宣伝用の看板は全て手書きだった。確か、怪獣ものだったり、時代劇だったり、映画は庶民の娯楽だったので、看板屋は繁盛していた。
母屋とロの字型の長屋の脇の道路に面した所に母屋の土地があったが、空き地となっていたので、そこで看板屋が良く作業をしていた。
看板屋の親父は作業着を着て頭にタオルのハチマキを巻いていた。
そして看板広告の原画を見ながら、数メートル四方あるような大きなベニヤ板に絵を描いていた。
近くに行くと、ペンキの匂いがプーンとした。
私は看板屋の作業を近くで見ながら、「おじさん、良くそんなに大きく描けるね」と声をかけた。
おう、母屋のボンボンか、これは、コツがあるのよ、なんせ遠くから見るだろう、だからあまり細かく描いちゃいけないんだ、端折ることが大事だよ。ボンは絵が好きか?
私はうんと首を縦に振った。
ボンも看板屋になるか、弟子にしてもいいぞ、と看板屋は笑いながら言った。しかし、手書きの看板はすぐに大きな写真広告に変わってしまい。看板屋はいつのまにか居なくなってしまった。
長屋の中にはそろばん塾があった。若い独身の男の先生が母親と住んで居た。狭い居間がそろばん塾の教室だった。当時はそろばんが盛んで大抵の子供はどこかのそろばん塾へ通って居た。私も母から無理やりその塾へ入れられ、週に二度ほど通っていた。
先生は痩せて色白で黒縁のメガネをかけていた。大抵白いワイシャツにズボン姿で小さな椅子に座って教えていた。
「願いましては」で始まり「○円なーり」という言葉で終わる数字を一生懸命そろばんに置いていった。狭い部屋は子供達でぎゅうぎゅう詰め状態で、机の上にそろばんを置くのだが、横の子供と時々肘が触れるほどだった。その若い先生は、初めての子供や長く習って上達している子供達を分けて教えていた。大変短気な先生で、ふざけていたり、簡単な計算ができないと、すぐ物を投げることがよくあった。ある時など、手のひらサイズの四角いプラスチック製の貯金箱を投げたことがあった。その貯金箱には硬貨が詰まっていたらしく、それが生徒の子供のおでこを直撃した。投げられた子供は泣き出した。ところがその先生はなだめるどころか、その位で泣くならもう来るなとえらい剣幕で起こる始末だった。今なら親が飛んで来るようなものだが、しかし、その泣いた子供は次も何もなかったように塾に来ていた。その子のおでこにはこぶができていた。
その若いそろばん塾の先生は、そのように怒りっぽかったが、教え方も上手かったので多くの子供達が来ていたのだろう。
当時はそろばんの試験は九級から受けることになっていた。私もしばらく通ううちに、暗算もできるようになった。暗算の場合はそろばんは触らず、目をつむって先生の言う数字を聞いて頭の中で計算するのだが、慣れると頭の中にそろばんが浮かび、頭の中に浮かんだそろばんの玉をはじくことによって計算するのだ。
私は暗算ができるようになったのが嬉しくて、九級の試験を受けるのを楽しみにしていたのだが、試験の直前に転校してしまったので、試験を受けずじまいだった。転校先ではそろばん塾へは通わなかったので、今でもそろばんの九級の試験を受けることができなかったことを残念に思うことがある。子供達で一杯だったそろばん塾も、先生が結婚し、別の場所に移ったと後で叔母から聞いた。
長屋の角の家には不思議な老婆が住んでいた。その家には、昼間から若い女性や中年の男性たち入れ替わり立ち替わり出入りしていた。叔母に聞くと占い師だと答えた。占い師など見たこともないので、興味が湧き。僕もみてもらいたいとせがんだ。あらあんたは何か悩みでもあるんかえ。占いというのは、何か困ったことがあるから、どうしたら良いか占ってもらうんだよ。「僕の将来を占って欲しい」となお食い下がった。すると叔母はしょうがないねえと言い。
じゃあついておいでと言った。私は叔母について、長屋の角の家に行った。
戸口には「光蓮尼」と書かれた表札が掛かっていた。入り口を開けると玄関に続いて居間がありその奥の廊下の奥にその老婆が座っていた。ちょうど、若い女性と入れ替わりに私たちは奥へ上がって行った。居間には立派な仏壇がありその前の丸いちゃぶ台に、ふかした芋がザルに三つ四つ載っていた。
「光蓮さん、この子が将来を占って欲しいんだと」と叔母が奥に座っている老婆に笑いながら言った。六十代後半のような老婆は白髪混じりの髪を後ろで束ね、紫色の尼さんのような服を着ていた。年の割にはしわのない丸顔にメガネをかけていた。
「おや、これはおたくの甥ごさんかね。今ちょうど空いたからみてあげよう」と言い、ああ、お金はいらないよと言った。
じゃあ、よろしくお願いしますと言って叔母は出て行った。
光蓮と呼ばれた老婆は笑いながら、歳はいくつかえ、ああ十歳ね
じゃあこの紙に生年月日と名前をお書きと紙と鉛筆を私に寄こした。
老婆は笑っていたが、メガネの奥の目は笑っているようには見えず、また、瞳は濃い灰色だった。
老婆の前には小さな机が置いてあり、名刺と思われるものが積み上がっていた。
私は来たことを少々後悔しながら、名前と生年月日を書いた髪を老婆に渡した。老婆はその紙をしばらくじっと見て、それから目を上げ私をじっと見た。「遼一君と言ったかね。あんたの将来はね、まだわからないよ」と言った。私はなんだと内心思った。この老婆は口から出まかせを言っているんじゃないかと疑った。次に老婆は「しっかり勉強をおし、あんたの横で見守っている子がいるからね」と言った。「え、誰ですか」と私は驚いた。
女の子だよ、あんたの兄妹で誰か死んだものはいないかね。
母から妹がいたけど生まれてすぐ死んだと聞いたことがあり、小さな赤ちゃんの写真が家の仏壇にあった。
「妹がいたけど、赤ちゃんの時に死んじゃったらしいです」
「そうかい、死んだ者はね、決してあの世に行くんじゃないんだよ。この世にいるけど普通の人には見えないだけなんだ。私にはお前さんの横で、見守っている女の子が見えるよ。しっかり、その子の為にも勉強しなさいよ」
私は背筋が寒くなり、「ありがとうございました」と言うと飛んでその家を飛び出した。
母屋に帰ると、叔母からどうだったの聞かれたがそれには答えず、家に帰った。家ではそのことは誰にも話さなかった。
後で、あの老婆はどんな人かと叔母に尋ねたが、叔母が言うには若い頃、和歌山の高野山で修行をしている時に何かが降りて来たらしくそれ以来、色んなものが見えるようになったらしいとのことだった。私は光蓮尼という老婆の灰色の瞳を思った。
私はそれから時々家の仏壇に向かって手を合わせるようになった。母はそんな私を不思議がり「何かあったの」と聞いたが、「何も」と答えるだけで何も言わなかった。
今まで親族や友人・知人達の死に会い、葬儀の場で、僧侶が亡くなった者はこの俗世を離れあの世に行きますみたいなことの説教を言うのを何度も聞いたが、私は決してそうは思わず、亡くなった人は、多分この世にとどまり近くにいるだろうと思っている。ただ、見えないだけだと。
その占い師の老婆の横の家には、物書きらしき人間が住んでいた。
ある日玄関が開いていたので、覗いてみると三十過ぎくらいに見える男が、居間で、一人で机に向かって何か書き物をしていた。原稿用紙だろうかその机の回りにクシャクシャに丸められた紙が散乱していた。
男は白いシャツにステテコ姿で机に向かっていた。机の横に酒と思われる一升瓶が置いてあり、男は時々湯のみに酒を注ぐとクイと一口飲み、また原稿用紙に何かを書き付けていた。玄関から覗いている私に気づくと、「誰?」と聞いた。母屋の親戚だと言うと、「ああ、大家さんとこの、まあ上がんなよ」と言うので、居間に上がって行った。
居間には大きな本棚があり、当時は名前も知らなかった、ドストエフスキーやトルストイのような外国の本や、共産主義や資本論などの難しい本が一杯並んでいた。
「俺はね、小説を書いているんだよ、でもこれで食える訳ではないからね、嫁さんが働いて生活費を稼いでいる訳さ」
どんな小説を書いているのかと尋ねると、まあ恋愛小説ではないよ、
なんて言うのかな、やはりイデオロギーの闘争とでもいう小説かな。
君なんかにはわからないかも知れないけれどね。君はどんな本を読むのかな。私は当時読んでいた、江戸川乱歩の名を挙げた。
その男は、まあ何でもいいから色んな本を読むことだね。僕もいつかなんかの賞を取って、いっぱしの物書きになりたいと思っているんだよ。と言って湯飲みの酒をクイと飲んだ。
その本棚にある本で好きなものがあれば貸してあげるよと男が言ったが、私に読める本は無さそうだった。私は礼を言って帰った。帰り際に、男がまた遊びにおいでと声をかけた。
私は何か知らない世界の住人を見た気がして、内心嬉しかった。
母屋に帰ってその話を叔母にすると、まあ、あのろくでなしのところなんか、行くんじゃないよ、奥さんばかし働かせて、自分はいっぱしの作家気取りなんだから。昼も夜も酒ばかり飲んで、言うことは立派なこと言うけど、なっちゃないんだからと憤慨そうに言った。
数日経って、その男の家を覗いてみると、男は酒に酔って何かわめいていて、その傍に奥さんらしき人がうつ向いて泣いているようだった。やはり、叔母の言うことが正しいのかなと思った。
母屋には叔母の家族五人が住んでいた。長屋は平家建てだったが、母屋は二階建てだった。叔母の夫、つまり母の兄の叔父と二人の子供たち、いとこになる長男は健一といい長女は玲子といった。健一さんは私より五つ上で玲子さんは二つ上だった。だから、いとこと言っても小さい頃から遊んでいるので私たちは兄妹のようだった。
それにもう一人居候がいた。康夫さんといって母の弟で独身だった。
何かの問屋さんに勤めているようだったが、良くは知らなかった。
二階には健一さんと玲子さんの部屋があり、康夫さんは母屋に続き棟となっている隣の家に住んでいた。
母の兄、叔父は市役所に勤めていた。叔父は私の母より三才年上だった。普段あまり喋らず寡黙な人間だったが、日曜大工が得意で休日はよく大工仕事をしていた。母屋の縁側が古くなったのを自分で作り直していたが、とても素人とは思えない出来栄えだった。
叔母は叔父とは正反対の話好きで、印象的にはいつも誰かと喋っている印象しかない。それも、だいたい、どこそこの誰だれがどうしたこうしたと、何かくだらないことばかりを話しているようだった。叔母はこの小さな温泉町の片隅に住んでいながら、さながらレーダーを張り巡らし町の人々の動向を窺っているようであった。
健一さんは私よりも五つ年上の中学三年生で、二才下の玲子さんは中学一年生だった。健一さんは高校受験があるのか、毎晩机に向かって勉強していた。健一さんも叔父に似てあまり喋らずおとなしい性格だった。玲子さんは母親に似て、おしゃべりだった。私はよく玲子さんから長屋の人たちの話を聞くことが多かった。しかし、それも大抵、叔母と同じような話で、玲子さんは玲子さんで長屋にレーダー網を張っているようだった。
日本でも有数な温泉地であるその町には市営温泉がいたるとこにあり、おまけに安いので、叔父の家を含め、住民は家に風呂を持たないところが多かった。朝早くから温泉が開いているので、よく叔父は朝一番に温泉に行き、それから役所に出勤していた。
母によると、叔父は戦後、近くの海岸から海水を汲んで塩を作って売っていたらしい。物のない時代だからそんなことができたのだろうか、その当時塩は専売公社が売っていたが、勝手に塩を作った時代があったのだと思った。母は良く戦後食べ物が無くて不自由したと言っていた。そのためか、母にとって食べるものがあることが重要であり、美味い不味いは二の次のようなところがあった。
だからか、時々母の作る食事に何か言うと、「文句を言わずに食べなさい」とよく叱られた。
私とテツオ君とヒトミちゃんは同じ小学校に通っていたが、教室は別々だった。だから、普通は下校時に同じになることは、なかった。
しかし、たまたま同じになることがあり、三人で帰ることがあった。その時、いろんな話をお互いにしたのだけど、今はもう何を話したかほとんど覚えていない。
ただ、テツオ君の家の軒下のてるてる坊主について、私があれは何なのかと言ったとき、ヒトミちゃんは分かっていたらしく笑っていた。
テツオ君は、帰りながら、重い口を開いた。
あれはなあ、雨が降ると父ちゃんの仕事が無くなるんや。左官ってほら、家を作るときに壁を漆喰で塗るやろ。あれ、父ちゃんの仕事なんや。ところが、雨が降ると仕事ができんのや、だから、雨の日は父ちゃんは、昼間から酒飲んでグダグダ言うんや。俺はそれが嫌いやから、毎日天気でありますようにっててるてる坊主を下げているんや。
テツオ君はお父さんの仕事を、分かっていたけど、何故か私には知らないと言った。テツオ君は雨の日お父さんが昼間から酒を飲んでいる姿を見るのが嫌だったんだ、だから、軒下にてるてる坊主を吊るしていたんだと初めて分かった。
ヒトミちゃんは明るい子だった。母子家庭でお母さんが一生懸命働いて二人の子供を育てているのを分かっていた。
「ヒトミちゃんは将来何になりたい?」と聞いた。するとヒトミちゃんは、私ね、将来看護婦さんになりたいの。お母さんも病院で働いているしね。早く働いてお母さんに楽をさせてあげたいな。
まだ、小学生なのにはっきりと将来の目標を持っている、ヒトミちゃんが羨ましく感じた。
「遼ちゃんは、何になりたいの」と今度はヒトミちゃんから聞かれた。僕は、何も考えていなかったが、この前の長屋の尼さんの言葉を思い出した。
「わからない。でも勉強だけは一生懸命やろうと思う」
「俺は絶対左官なんかには、ならない」とテツオ君が突然言った。
その顔がとても真剣だったので、僕とヒトミちゃんは顔を合わせて笑った。
私の父は警察官だった。当時は四十歳くらいだったと思う。父は毎日電車で隣町の警察署まで通勤していた。私の家は建てたばかりだった。たまたま叔父の土地が、町外れの小高い丘にあったので、その土地を削り、小さな家を建てさせてもらったのだ。間取りは六畳、四畳半、三畳に台所、風呂、トイレという間取りだった。そこに親子三人で暮らしていた。
家からは、海が見えた。家から下って行くと、鉄道のガードがありそこを抜けると、路面電車の線路が通っていた。
父はその路面電車で隣町の警察署まで通っていた。家から歩いて五分ほどの所に電停があった。夕方になると私は電停まで行き、父の帰りを待っていた。電車には多くの人が乗っていた。
電車が停まるたびに、降りる人の中に父の姿を探した。父の姿を見つけると駆け寄り、「お帰りー」と言って、父と手をつないで一緒に家に帰るのが日課だった。
父は家に帰ると、丹前に着替え晩酌をするのが常だった。今では丹前を着ることさえ珍しくなったが、当時の男性は家では良く丹前を着ていた。母は割烹着を着て料理を作り、小さな台所で親子三人が食卓を囲んで夕食を食べていた。
ちょうど戦後二十年ほどが経過し、世の中は高度経済成長期に入っていた。
父と母は結婚して十二、三年であったが、新婚旅行に行かないままだったので、七月の夏季休暇を利用して、東京見物を兼ね遅ればせながらの新婚旅行へ行くことになった。そこで、その間私は叔母の家へ預けられることになった。
私は、いとこの健一さんや玲子さんと一緒に遊べるのが嬉しかった。そんな、ある晩のこと、居候の康夫さんこと康夫叔父が、「遼ちゃん。街へ美味いもんを食べに連れて行ってやろう」と言い出した。 康夫叔父は母より三つ下の二十九歳だった。叔母が「おや、良いね。遼ちゃん、ヤッちゃんに美味しいものを食べさせておもらい」と言った。叔母は康夫叔父のことを何時もヤッちゃんと呼んでいた。
康夫叔父は痩せてヒョロっとしており、髪はざんぎり頭で顔は青白くちょっと頬骨が出ていた。半袖の開襟シャツにズボンという出で立ちの康夫叔父と私は夜の街へ出かけて行った。
叔父の家から十五分も歩くと繁華街の入り口だった。そこは長いアーケード街になっており、夜七時だというのに、多くの店が開いており、人々が行き交っていた、中には浴衣姿の人もいた。旅館に泊まった観光客は大抵浴衣姿で街をぶらついているようだった。
康夫叔父はアーケードの中をしばらく歩くと、途中で左に曲がった。
道の両側には、居酒屋やキャバレー、スナックなどのネオンサインや看板がずらりと並び、また人通りも多かった。私は初めて見る夜の街を興味深く感じ、またワクワクしていた。夜空を見上げると星が瞬いているのが見えた。
康夫叔父はしばらく歩くと通りの左手のお店の引き戸をガラリと開けた。上を見ると「やっちゃん」と書いた看板が灯ってっていた。
店に入るとそこはカウンターだけの店で、店には客は誰も居なかった。店の女将とおぼしき女性が康夫叔父さんに、「あら、やっちゃんいらっしゃい、お久しぶりね」と声をかけた。康夫叔父はカウンターの一番奥の席に座ると、「どうも、まずビールね」とニコニコしながら注文した
「おう、遼ちゃん、こっちに座んなよ」というので私は、康夫叔父の横の席に座った。
「あら、誰この子」と女将がいうと、「俺の甥っ子だ」と康夫叔父が応えた。「まあ、こんな小学生をこんなところに連れて来ていいの」
「いいよ、社会勉強だよ、遼ちゃん、ここに来たのは内緒だぞ」と康夫叔父は私に笑いかけた。
「あのな、この女将の名前が靖子って言うんだ、だから店の名前が、やっちゃんなんだよ、俺もやっちゃん、やっちゃん同士で仲良くさ、ハハハハ」
やっちゃんと呼ばれた女将さんは、五十過ぎくらいの年齢で和服を着て、赤い口紅をしておりタバコをふかしていた。ただ、その声がガラガラのしわがれた声なのがどうも不思議だった。女将さんは康夫叔父にビールを注ぎながら、「何を食べるのかな、この子は」と訊いた。
「おう、遼ちゃん何でも食べな、この女将は何でも出来るぞ」
見ると女将さんの後ろに黒板があり、チュークで書いたメニューが見えた。
刺身、鶏唐揚げ、コロッケ、冷奴、カレーライス、オムライス等色々書いていたが、私は「オムライス」と言った。
「はーい、飲み物は何にする、ビール?」と女将が笑いながら、そのしわがれた声で私に訊いた。「コーラを下さい」と私。当時コーラは日本に入って来たばかりで、珍しかったのだ。
「相変わらず、ガラガラ声だな、タバコの呑みすぎだろ」と康夫叔父はコップのビールを飲みながら、女将に話しかけた。
「いやあ、あのね、この前お医者さんに行ったんよ、そしたら先生が、なんか声帯がビロビロしているから手術しないと治らないというのよ、どうしようかしらね、店は休めないし」と女将はため息をついた。
「いいじゃないか、ハスキーボイスで」とまた笑いながらぐいとビールを飲んだ。
「ま、人ごとだと思って、あら、オムライス待ってね、今すぐ作るからね」と女将は料理を作り始めた。
私はオムライスを食べてコーラを飲み、康夫叔父はビールの後はお酒と刺身を食べていた。お店には小一時間ほど居て、私たちはまたもと来た道を歩いて帰った。通りには結構な人たちが歩いていた。
数日後、父と母が東京旅行から帰って来た。私はお土産のおもちゃをもらい、両親は母屋の皆にお土産をあげていた。母屋の居間では宴会が始まり、私の父と叔父さんは酒を酌み交わしながら、楽しく東京の話しなどをしていた。
そこで叔母が、「ねえ、講一郎さん、相談があるんだけどねえ」と話を始めた。講一郎は私の父の名前だ。
「何でしょうかと」父。「実はだねえ、今度うちの借家に新しい人が入ったんだけど、大阪出身だったかねえ、どうもあっち系の人らしいのよ」
「あっち系というと」と父は猪口を口に運びながら叔母の顔を見た。
「どうもヤクザ屋さんらしいのよ」と叔母が、叔父の顔を見ながら言った。「ヤクザ」という言葉を私は知らなかった。
「その人がね、うちに挨拶に来たんだけど、その時の挨拶がね、
ほらよくテレビなんかで、渡世人だったかね挨拶するじゃない。こう、両膝曲げて右手を下手に出してね、ふつつか者でございますがよろしうおたのもうします」って、和服の着流しでね玄関で挨拶したのよ」もう、びっくりしちゃったわ。
「しかし、保証人はいるんでしょう」と父が聞いた。
すると叔父が、「保証人というのが、なぜかこれが大学の先生でね、どうして大学の先生が保証人になっているのか、わからないんだが、まあ、大学の先生が保証人になっているから、こちらも信用して、
入ってもらったんだけどねえ」と叔父がことの経緯を説明した。
「まあ、そういう職業の人はいるからね、人に迷惑かけなければ特に問題はないと思いますけどね、まあ一応調べときましょうか」
「名前は何というんですか」
「えーと、清田とかという名前でしたよ、仕事はねえなにしてんのかね、一人暮らしですよ、あなたと歳は同じくらいかねえ」と叔母が言った。
私は二階にそっと上がり、勉強をしていた、健一さんに、「あのさ、ヤクザってなに?」と尋ねた。
健一さんは私の方を向いて、「ヤクザというのはねえ、八、九、三という数字を読み替えたものでさ、八、九、三というのは花札では一番つまらない組み合わせらしいんだ。それで、まあ世の中の役に立たないという意味でヤクザ者っていうらしいよ」と教えてくれた。
すると、すぐそばにいた玲子さんが、「あのね、遼ちゃん、その人ねテツオ君ちの隣に入ったらしいよ」と教えてくれた。
数日後私は学校の帰り道、テツオ君と一緒になった。
「テツオ君とこの隣に誰か新しい人が入ったんだって」と聞いてみた。「ああ、なんか大阪から来たんだって、この前うちに挨拶に来たよ。なんか、坊主頭のずんぐりむっくりしたおじさんでね、目がギョロッとしてたよ」
「怖い感じ?」
「いや、そうでも無かったよ、大阪のおこしをくれたよ」
「へー、そうなんだ」
私はテツオ君の家まで一緒に行き、隣の様子を探って見たが、留守のようだった。
母屋へ寄ってみると、玄関に中年の男の人が来ていた。白いハンチング帽を被り、ベージュのジャッケットに白いズボンを履いていた。私は叔母に挨拶すると居間に上がった。玄関の方から声が聞こえて来たので、聞くとはなしに耳をそば立てた。
「あのお宅の店子の清田の件ですがな、確かに大阪のヤクザもんだったんじゃが、組が解散してですな、それでこちらに兄貴分らしきもんを頼って来たらしいんですわ。しかし、その兄貴分というのが先々月病気で亡くなりましてな、それで、まあ頼るところが無くなったということでしてな、その兄貴分の親戚に大学の先生、確か教授だったと思いますが、その方が、まあ身元引き受け人になったということですわ
まあ、本人は大阪では総会屋みたいなことをしたり、まあ、警察沙汰を起こして、刑務所にも入ったことがある、まあ前科者ですが、
足を洗ったと本人も言っておりますからな、そう、心配せんでも良いと思いますが、まあ、何かあったら私か署の方へ連絡ください」
そう言って刑事らしき男は叔母に名刺を渡した。
「そうですか、わざわざありがとうございました。まあ、私んとこの店子さんたちは、良い人ばかりなんでね、ちょっとね相談されたんですよ」
何かあったら連絡させていただきます、と言って叔母は頭を下げた。
その刑事らしき男が帰ると、叔母は居間に戻り、「あら、遼ちゃん来たのかい。あんまり長屋をウロウロしたらいけんよ」と私に言い、夏みかんでもお食べというと夏ミカンの皮を剥き始めた。当時の夏ミカンは大変酸っぱく、そのままで酸っぱすぎるので、塩や時には炭酸を付けて食べていた。炭酸を付けるとシュワっとして、酸っぱ味が和らげられた。
夏ミカンを食べていると、玄関から声がした。
「ごめんやす、誰かいてはりまっか」大阪弁だったので、例のヤクザ屋さんだなとすぐわかった。
「はーい」と叔母が立って、玄関へ行ったので私も一緒に出た。
玄関には、例の清田という男が立っていた。料理人が着るような、襟のない白い上下服姿だった。
「これは大家はん、さっき刑事はんが来られましてな、まあ真面目に働けよちゅう話でんがな、わいはな確かにヤクザもんじゃったんじゃが、聞かれたかもしれへんが、親分も死んでもうて、組ものうなって、まあ、こちらでやり直そう思うてな、兄貴分を頼って来たわけだんね。ところが、その兄貴分も死んでもうて、どないしょと困っとたんですわ。ほたら、その兄貴分の縁戚にな、大学の先生がいましてな、前から顔は知ってたんやけど、まあ、わいはこんな人間やからな、こちらからの付き合いはせなんだけど、その先生がわいの困っているのを見てな、腰を落ち着けて働いたらどうや、ついては住むところも必要になるだろうが、このご時世、流れもんには誰も部屋を貸さんやろ、だからその時は保証人になったげるというてもろた訳だんねん。まあ、それで大家さんとこを借りられた訳だんがな。
そいでな、わいは店しようと思うて、暫く飲み屋で働くことにしましたんで、まあ、それでこういう格好してまんねん。まあ、そういうことでよろしく頼んまっさ」と言うと今度は私の方を見て、そのお子はどなたでっか、ああ、そうでっか、甥ごさんでっかよろしうな、ほなと言うと帰って行った。
叔母は、ぽかんとして「あの刑事さん、なんか言ったのかねえ」
「まあ、でも真面目に働くと言っているし良いことじゃないかね」
と独り言を言った。
私はその母屋の居間で宿題を済ませ、帰って来た健一さんや玲子さん暫く、ワイワイと話をして母屋を出た。
夕方四時すぎくらいで、テクテクと歩いて家へ帰っていると右手に市営温泉があり、温泉の入り口にあるベンチに例のヤクザ屋さんが座っていた。ちょうど風呂上がりらしく、着流し姿で、隣に洗面道具がありタバコをふかしていた。私は知らないふりをして温泉の横の道を通り抜けようと歩いていたが、「よう、さっきのボンやないか、ちょっと来な」
と手で私を招いた。しょうがなく私が近づくと、「今帰りか、どや牛乳かコーヒー牛乳飲まへんか」と私に尋ねた。
私が黙っていると、「そない警戒せんで良いやないか、じゃコーヒー牛乳飲も」と言うと温泉の番台から二本コーヒー牛乳を持って来た。
「まあ、座りない」と言うと私にコーヒー牛乳を渡した。
「ボンはいくつか、そうか十歳か、しかし、ここはええとこやな、温泉に入れてのんびりできるわ」と空を見上げながら呟いた。
私は男の横に座り、コーヒー牛乳に口をつけた。
「どや、うまいか、風呂上がりの一杯は格別やな、ビールやったらまだ良いんやけどな」
「おじさん、大阪の人ですか」私は初めて男に話しかけた。
「ああ、大阪に長う暮らしたで、わては、ほんまは愛媛出身なんや
戦争にも行ったんやで、もう終戦間近やったな、内地の山口やったかな、高射砲部隊に配属されてな、アメリカのB29が飛んでくると、B29目がけて高射砲打つんや、ところがな、これが、弾が届かへんねん。じゃけん当たる訳ないねん。しかし、打たんとしょうないから打ってたけどな。その内に戦争が終わってしもたわ。戦争でわいのアニキも戦死してもうてな、フィリピンやったかな。骨も戻ってきいへんかったわ。親父とお袋は泣いとったな。それから、わいは戦後の大阪に行ってな、闇市やいろんなところで働いたわ。みんな貧乏やったしな。生きるのに精一杯やったわ。しかし、こない早よ日本が復興するとは思わなんだわ。まあ、そんで、ある組のお世話になることになってな、それからいろんなことがあったわ。まあ、そんでこっちに流れて来たわけでな、ボンの大家さんちの長屋にお世話になるようになった訳よ」
「おじさん、何の仕事するんですか」と聞いた。
「わいはな、昔から料理が得意やねん。じゃから、店持とうと思うんやけど、急にはでけへんからな、やっちゃんという、亡くなった兄貴分の義理の妹がやっている店が飲み屋街にあってな、そこでちょっと働かせてもらうねん」
「僕そこ行ったことがある」と言うと、「え、ほんまか、なんで小学生がそんなとこ行くねんな」
母屋の康夫叔父と行ったことを話すと、世の中狭いなあ、そらなんかの縁や、そのおじさんとな、また店においでえなと男は笑って言って私の頭を撫でた。
私は礼を言うと男と別れて家へ急いだ。あのヤクザ屋さんの男について、なぜ、私に身の上話をしたかはわからないが、怖い人ではないなという気がした。
両親のからの東京土産になぜか、おもちゃのウクレレがあった。ブリキ製でナイロンの弦が張っているものだった。私はそのウクレレを持ってよく母屋へ遊びに行った。それで健一さんや玲子さんの前でポロンポロンとウクレレを弾きながら即興の歌を歌った、どんな歌を歌ったかはもう覚えていない。多分、当時テレビでやっていた、お笑い番組の歌か子供達に人気のあった人形劇の主題歌なんかを調子っぱずれで歌ったんだと思う。しかし、大変それが受けて、玲子さんなんかは、私がウクレレをポロンと弾くだけでコロコロと笑い出した。気を良くした私は、叔母の前でもウクレレを披露した。
叔母は笑いながら、大きくなったら歌手でもなるのかえと言った。
ある日いつものように、家からウクレレを持って母屋へ向かっていたら、ちょうど、テツオ君に会った。テツオ君が「なにそれ」と言うので、「ウクレレだよ、おもちゃだけど」
僕にも貸してと言うので、テツオ君にウクレレを渡すと、テツオ君がウクレレを弾き始めた。ところが、ちゃんとメロディーを奏でるので私はびっくりした。「どうして、そんなに弾けるの」と私はテツオ君に尋ねた。「へへ、僕のいとこがな本物のウクレレを持っててな、それで、ちょっと弾き方を習ったことがあるんだ」と言った。
私は、ちょっとショックを受け、なんとなく暗い気持ちになった。
もう、人前で弾くのは止めようと思ったのだが、テツオ君が「なんでも良いじゃん、音が出れば良いんだから」と慰めにもならないようなことを言ってくれた。
テツオ君がヒトミちゃんを誘ってなんか遊ぼうよと言い出した。
そこで、二人でヒトミちゃんちに行くと、ヒトミちゃんも良いよと言って三人で母屋の前まで出て来た。
すると、そこに休みなのか康夫叔父が玄関の前に立っていた。手にはカメラを持っていた、康夫叔父は写真を撮るのが趣味だった。当時は高価だった銀色に光るカメラを首からぶら下げて、空を見上げていた。
私たちが挨拶をすると、「おう、三人組のお揃いか、よし、俺が写真を撮ってやるから、そこに並びな」と私たちを玄関の前に並ばせた。
私が真ん中で、向かって左にヒトミちゃん、右にテツオ君 が並んだ。
私は真ん中でウクレレを持ち、ポロンポロンと鳴らすと、ヒトミちゃんが笑い出し、テツオ君はなぜかふざけたふりをした。
康夫叔父は何回かシャッターを切り、「この写真ができたらみんなにあげよう」と言った。そして、後でもらった写真が冒頭の写真だ。
夏の昼下がり、陽光が僕たちを照らし出し、陰影がくっきりしている、少し変色した写真はその当時の空気が染み付いているようだった。
私たちはかくれんぼをしようと言うことになり、じゃんけんをした。私が負け、鬼となった。近くの電柱に私は自分の手で目隠しをして、「もういいかい」と声を出した。すると、ちょっと遠くから「まだだよ」と聞こえた。また暫くして、大きな声で「もういいかい」と聞いてみた。
すると「もういいよ」と遠くから小さな声が聞こえた。
母屋がある周辺は、戦時中の空襲を免れたと言うところで、昔ながらの建物が多かった。また建物と建物の間に細い路地が何本もあった。
私は駆け出し、彼らを探し始めた、ところが、どこを探しても見つからない。ある路地の入り口に立つと、両脇の暗い建物の向こう側に縦に明るい空間が見え、そこをすっと黒い影が横切った。多分テツオ君だろうと思い、その狭い路地を駆け抜け、明るい向こう側へ出てみたが、左右の家並みが見えるだけで、通りには誰もいない。
左に暫く歩くと、大きなゴミを入れる箱があった。上が開閉式になっているもので、ちょうど子供が入いるのにちょうど良い大きさだった。私は近づき、上の蓋を持ち上げた。すると、そこにヒトミちゃんが隠れていた。「みーつけた」と私が言うと、ヒトミちゃんは
残念そうに「あー、あ、見つかっちゃった」と舌を出した。
「後は、テツオ君だな」と私は、探し始めた。しかし、テツオ君はどこに隠れているのか、全然見当がつかなかった。
私が、ウロウロしていると、道端で同級生の末男君にばったり出会った。末男君は肩から袋のようなものを下げていた。
「何してんの」私は尋ねた。「新聞配達、夕刊を配ってるところ」と末男君が答えた。「そうなんだ、偉いね」
「今度うちに遊びにおいでよ」と末男君は言うと、走って立ち去った。
「なんだよ、探しに来ないじゃないか」とテツオ君が突然現れた。
「どこにいたのさ」
「母屋の裏の電柱さ、電柱に登っていたんだ」
「だから、わからなかったんだよ、電柱に登るのは反則にしよう」
と私は提案した。
それから、暗くなるまで私たちは、かくれんぼをして遊んだ。
それから、暫くして、夏休みに入る前の終業式があり、その下校途中で末男君と会った、それで末男君の家へ遊びに行くことになった。
末男君の家は、母屋からそう遠くない角地の四軒長屋の奥にあった。その長屋は通路を挟んで両側に二軒、二階建ての家が並んであり天井は上で繋がっていた。奥は行き止まりになっていた。天井は乳白色のトタン板のようなもので、光が通るようになっていた。天井からの柔らかい光が下の地面を照らしていた。
末男君の家は、入り口を開けると小さな、土間があり、すぐそこは居間だった。四畳半ほどの居間に続いて奥に台所があり、居間の脇には二階へ上がる階段があった。居間にはテレビと水屋と丸いちゃぶ台が置いてあった。ちゃぶ台の上にはお盆の上にせんべいがあった。その長屋は隣の建物と近接していたので、窓から日が差さず、昼でも蛍光灯を点けていた。
「さあ上がんなよ」と言うと、末男君は二階に上がって行った。
ランドセルを置いてきたらしく直ぐに降りてきた。
私は靴を脱ぎ居間へ上がるとランドセルを脇に置いた。
末男君は小柄な体型で、大人しいそうな顔をしていた。学校でも勉強はよくできる方だった。
「これ食べなよ」とちゃぶ台の上のせんべいをすすめてくれた。
「お母さんは、どうしてんの」と私は尋ねた。
「仕事に行ってる、最近近くにスーパーマーケットっていうのができたやろう、そこで働いてるんや」
その頃は、肉は肉屋、魚は魚屋、野菜は野菜屋と別々の売っていたのがスーパーマーケットというのが出来始め、その中では、肉も魚も野菜も揃って扱うようになっていた。
「末男君、いつも新聞配達してるの」と私は聞いた。
「週三日だけや、お手伝いしている訳や、子供はあまり働いたらいけんらしいわ、でもうちも貧乏やからな、なんか働こう思うてるんや」
「偉いなあ、お父さんは?」私が聞くと、末男君は下を向いて、
「なんかな、スエたちが小さい時どっかに行ったらしい、母ちゃんあまりそのこと言わんけどな、だから顔も見たことない」
「母ちゃん苦労させて、知りたくもないわ」と末男君は吐き捨てるように言ったが、その顔はちょっと悲しげだった。末男君はなぜか自分のことを僕とは言わず「スエ」と呼んでいた。
末男君には小学校一年生の弟がいるが、普段は近くの親戚の家が預かっているらしく、母親が仕事帰りに迎えに行っているとのことだった。
「スエなあ、将来の夢は社長さんや」と末男君は突然言った。
「何の社長?」
「わからんけど、なんかの社長になる。貧乏は嫌や、この家も古いから、もうすぐ取り壊すんやて」
「こんな長屋暮らしは嫌や、遼ちゃんは良いよなあ、ちゃんと一戸建ての家に住んで、両親もちゃんと居て」とせんべいをポリポリかじりながら、末男君は言った。
私は何も言わず、せんべいをかじった。
末男君の家を出て私は母屋に寄ってみた。すると居間に叔母と康夫叔父がいた。康夫叔父は私を見るなり、「おう、遼ちゃん、この前行ったあの店な、昨日行って見たんやけど、例の清田というオヤジが働いとったで。ちょっと話をして見たけどな、もう極道は辞めて
堅気になるんやと。身の上話も聞かされったけど、あのオヤジさんな結婚して子供もおったんやそうや、ところが、その子が小さい時事故で亡くなったらしい、生きとれば遼ちゃんくらいの歳だと言ってたぜ」
それを聞いた叔母が、「あんた、あんなところに遼ちゃんを連れってたんね、もう連れて行くのは止めなさいよ」と康夫叔父を睨みつけた。
「わかった、わかった」と康夫叔父は苦笑した。
私は、あの男が私に優しかったのは、そんなことがあったからだろうかと思った。
夏休みも終わる頃、私は用事で、登校でいつも通る道を歩いていた。すると左手に空き地が見えた。え、こんなところに空き地があったっけ。しばらく、更地になった空き地を眺めていたが、空き地には何か強力な存在感があり、それまで何の建物が立っていたのか思い出させないような力があった。
あ、そうだ、末男君の長屋があったところだ。そういえば、長屋を取り壊すとか言っていたなあと、末男君の顔を思い出した。
すると一匹の赤トンボが飛んできて、空き地の上をぐるぐると回っていたが、しばらくすると何処かへ飛んで行った。
私は、その空き地を眺め、末男君が住んでいた長屋を想った、その時、ふと、この世の中はいろんな哀しみに満ちているような気がした。
でも、皆んな、誰もがそんな哀しみを抱いて生きて行くんだろうと思った。
その後、母屋の裏の長屋は半分取り壊され駐車場になった。今、母屋は、叔父も叔母も亡くなり、健一さん夫婦が住んでいる。玲子さんは、結婚して県外へ嫁いだ。康夫叔父も結婚して母屋を出た。
テツオ君は高校を出て裁判所に勤め、結婚して家を建てたそうだ。ヒトミちゃんは希望通り看護婦になり、大きな病院で働いているらしい。結婚したかどうかは知らない。末男君は小さな会社を経営してると聞いた。
私は、父の転勤で、小学校を転校し、それ以来、写真の二人には会っていない。
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