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第8話

 爽やかな秋晴れの日曜日。いよいよこの日がやって来た。俺は洗面台の鏡に映る自分の姿を見つめて大きく深呼吸をした。

「……よし!」

 市内で一番大きなホールで行われる秋の音楽イベント。ついに、今日がその日だ。遅れをとっていた俺は、あれから時間の許す限りヴァイオリンの練習に打ち込んだ。やれるだけのことはやった。あとは、本番ですべてを出し切るだけだ。俺はもう、彼の幻影に、神崎綾人の言葉に惑わされない。

 俺は――俺たちは、自分たちの音楽を披露する。

「透、準備できたー?」

 玄関から母さんの呼ぶ声がした。

「うん、今行く!」

 俺は返事をしてコートを羽織ると玄関へと向かった。

 開演は午後だが、出演者は午前に会場入りをしなければならない。着替えや音出し、立ち位置の最終チェックなどがあるためだ。車で送ってもらうとなると、開演までの間、父さんも母さんも時間を持て余してしまう。そうなるのは申し訳ないと思って、俺は最初、電車を使って先に向かうつもりだと伝えた。ところが母さんに「そんなこと気にしなくていいの!」と、たしなめられてしまった。幸い、会場には併設されているカフェや、近くに眺めのいい海もあって時間を潰せる場所はあるようだった。そんなわけで、ありがたく送迎してもらうことにした。

 鷹野とは会場で落ち合う約束だ。着替えに時間がかかりそうだから余裕をもって早めに家を出ると言っていた。

 俺自身、ヴァイオリンの練習で頭がいっぱいだったせいで、鷹野と衣装について話し合うことをすっかり忘れていた。とりあえず色だけは統一感を出しておいたほうがいいと思い、衣装のカラーリングはモノトーンにしようと提案したのだが、その時の鷹野は衝撃を受けたような表情を浮かべていた。普段から派手な格好を好む鷹野のことだ。せっかくの晴れ舞台、奇抜な衣装を考えていたのだろう。

 俺はというと、白のシャツに蝶ネクタイ、スリーピースの黒スーツという、至って一般的なコンサート向けの衣装だ。こういう衣装を纏うのは中学以来だ。舞台用に着ることはもう無いと思っていた。ヴァイオリンをやめて、当時着ていた衣装は処分されているものと思っていたが、母さんは大切に仕舞っていたようだ。当時の衣装をもう一度目にした時は、懐かしさで思わず頬がゆるんだ。とはいえ、あの頃から背も伸びていたため、サイズが合わず慌てて新調することになってしまったのだが。

 今更だが直前にバタつき過ぎた。鷹野とも、衣装については前もってよく詰めて話しておくべきだったかもしれない。彼は一体どんな衣装を着るのやら。そう思いながら蝶ネクタイと一緒に上着とベストが吊るされているガーメントバッグに目をやった。彼の衣装が、変に気合を入れた派手な格好でないことを祈って。

 ホールに着いて両親と別れたあと、俺は指定された控室を探した。廊下を歩くと各部屋ごとに出演者の名前が書かれた紙が扉に貼られていた。俺は一つの部屋の前で足を止めた。神崎綾人の名前が書かれた貼り紙。俺はその名前をじっと見つめ、手のひらをぎゅっと握りしめた。今日、俺は彼と同じステージに立つ。あの頃に描いていた未来ではないけれど、きっと俺にとって、今日は忘れられない日になるだろう。俺は再び歩みを進め、自分たちの控室を探した。しばらく先の部屋で名前を見つけ、俺はその扉を開けた。

「鷹野、おは――」

 室内に一歩踏み入れ鷹野の姿を視界に入れた途端、俺は思いがけず目を見開いた。

 そこには、瞼を閉じ、凛とした姿勢で椅子に座っている袴姿の鷹野がいた。耳に散りばめられたピアス。その中で、右耳のシルバーのピアスが存在感を放って真っ直ぐに伸びていた。静かで洗練された空気。こんなに気品が漂う鷹野を見たのは久しぶりだ。思わず見惚れてしまった。

 鷹野の瞼がふわりと開く。視線がこちらに向き、俺の存在に気付くと彼の取り巻く空気がふっと色を変えた。

「あ!和泉くん、おはようさん!」

「あ、あぁ!おはよう……!」

 いつものひょうきんさが漂う鷹野だ。けれど、袴姿という普段見慣れない格好の彼にギャップを感じて何だかドギマギしてしまう。白の長襦袢に黒の着物、下はストライプ柄の縞袴。正直、衣装でこんなに印象が変わるとは思わなかった。

「和泉くん今日おでこ出しとんのやな!髪、自分でセットしたん?かっこええやん!」

「えっ!?あ、うん……あ、ありがと」

 頬にほんのりと熱を感じる。鷹野に言われると気恥ずかしくて胸がむずがゆくなる。コートをハンガーにかけながら、視線をチラリと向けて俺も鷹野に返した。

「鷹野も……袴、似合ってる」

「ホンマに!?嬉しいわぁ!最初は金ぴかな袴にしよ思っとったんやけど、色合わせるんならこっちやなぁ思て。地味ちゃうかなぁ思たけど、和泉くんがそう言うてくれるんなら良かったわ!」

 何も言わなかったら本当に奇抜な色を選んで来ていたようだ。事前に伝えておいて本当によかった。

 すると、ドアのノック音とともにスタッフの方が顔を出した。ステージ上の最終チェックなどを行う、場当たりの時間についてらしい。

 今回、出演者は10組だ。俺たちのステージは7番目。そして、神崎綾人のステージは4番目だ。このステージ順で場当たりが始まっていく。

 俺は、あの告白の日以降、彼のヴァイオリン演奏を聞いていない。あの後、俺は彼から逃げるようにヴァイオリン教室を辞め、関わらないようにあらゆる接点を避けて過ごしてきた。そのためか、彼についての情報は県外の音楽系の大学に進学したと聞いたくらいで、彼のヴァイオリンに関する話題は、その後、耳にしたことがない。接点を避けていたとはいえ、地元のこの狭い世界なら偶然耳にすることもあったと思うのだが、あんなに実力と実績を兼ね備えた人なのに、こんなに話題に上がらないものだろうかと、今となっては少し疑問に思うところがある。

 秋は全国でコンクールや、大学で音楽祭も軒並み行われるような時期だ。どうして彼がわざわざ地元に戻って来てまで、市の音楽イベントに出場しようと思ったのかは分からない。とにもかくにも、彼の演奏を聞くのは2年半ぶりになる。彼は今日、どんな演奏を披露するのだろうか。

「そろそろ場当たりの時間だな」

「ほな、行こか」

 舞台袖に着くと先頭の出演者がすでに最終チェックを初めていた。俺も音出しの準備に取り掛かろうとヴァイオリンケースを開いた。ところが、ケースの中に松脂が入っていないことに気が付いた。そういえば、控室で一度ケースから取り出していた。音のチェックもあるし、場当たり前に弓に松脂は塗っておきたい。幸い、俺たちの順番はまだ先だ。すぐに戻れば十分間に合う。俺はケースを閉じて鷹野に伝えた。

「鷹野、悪い!俺、控室にちょっと忘れ物したから取ってくる!すぐ戻るからこれ頼む!」

「え!?お、おぉ……」

 鷹野にヴァイオリンケースを預け、俺は控室へと急いだ。舞台袖を抜けて重厚な扉を開けると無機質なベージュの廊下が続いている。他の出演者たちも全員舞台裏に移動したのか、廊下はしんとしていて自分の足音だけが反響していた。

 控室へ戻り、俺は扉を開けると真っ先に机に視線を向けた。

「あった……!」

 机に置きっぱなしにしていた松脂を手に取って室内の時計に目をやる。まだ数分ほどしか経っていない。舞台と控室がさほど離れていなくて良かった。俺はホッと胸をなでおろして足早に舞台裏へと向かった。

 その時だ。向かい側から足音が聞こえた。誰かがこちらへ歩いて来ているようだ。恐らく場当たりを終えた出演者だろう。決して広くはない廊下。俺は急ぎ足を緩め、ペースをいつもの調子に戻した。曲がり角から現れたその人を見た瞬間、俺は思わず「あっ」と小さく声が出て足が止まった。

 そこにいたのは、ヴァイオリンケースを手に提げた神崎綾人だった。彼はこちらに気付くと眉を寄せてあからさまに目を逸らした。足を止めることなく、彼は無言のまま俺とすれ違った。

「綾人くん!」

 俺はそんな彼を呼び止めた。今日、彼と会ったら伝えておきたいと思っていたからだ。

「……何だよ」

「本番、俺たちの演奏を聞いててほしい」

「は……?」

「鷹野が言ったんだ。俺たちの演奏で、観客全員を虜にしてやろうって。鷹野が言う観客ってのは、きっと客席に座っているお客さんだけじゃない。ホールにいる全員を指して言ったんだと思う。スタッフの人も、出演者の人たちも、漏れなく全員まとめて虜にする。鷹野はきっとそのつもりでいる。俺も、そういう気で演奏するよ。俺たちの音で、みんなを楽しませて笑顔にする。俺たちは今日、その為にここに来たから」

「……何を言うかと思ったら……」

 彼は振り向くと、口角を上げ目元を鋭く吊り上げながら俺を睨んだ。

「お前はお気楽でいいよな!そうやって、気ままにお遊びでヴァイオリンをやってるだけなんだから!俺はお前とは違うんだよ。実力を示して、評価されて、賞を取って世界で活躍するヴァイオリニストにならないといけないんだ!こんな小さな街の娯楽目的のイベントに参加している暇なんて俺にはないってのに……!」

 彼の瞳は焦燥感が色濃く滲んでいるように思えた。

「……綾人くん、何か、あったの……?昔はもっと、ヴァイオリンのこと楽しそうに話してたのに……」

 すると、彼は体の向きを変え、俺に向かって真っ直ぐ歩いてきた。壁に追いやられ、彼の腕が顔のすぐ横をかすめると、俺は思わず目をつむり肩をすくめた。同時に耳元で平手が壁を叩いた音がした。

「いつの話してんだよ」

 彼の、真っ黒に染まった瞳が俺を刺すように睨みつける。

「才能に恵まれたお前には分からないだろ。俺が練習して練習して練習して、やっと超えた壁も天才たちにとっては些末な壁なんだよ。俺がどんなに多くかけた時間も、天才はその半分以下の時間でやってのける。お前も同じだよ、透。初心者だったお前が、たった数年で俺のすぐ後ろに立ってた。お前はいつもキラキラした目で俺を見つめてたな。お前のその目が、俺を脅かす目に思えてならなかったよ。案の定、お前はあっという間に俺を追い越していった。俺がどれだけ時間を費やしても取れなかった賞を、お前は片っ端から取っていきやがった。さぞかしいい気分だっただろ」

「そんな、俺はそんなこと――」

 その時、彼の背後から鷹野がぬっと姿を現した。俺は思わず驚いて肩をびくりと跳ねてしまった。足音を立てずに近寄ったのか、鷹野の存在に全く気が付かなかった。名前を呼びそうになった瞬間、鷹野がそれを止めるように、笑みを浮かべた口元に人差し指を立てた。

「俺にはもう後がないんだよ……!そんな俺に自分たちの音楽を聞けだ?見下してんのかよ、この――」

 その瞬間、彼は突如体のバランスを崩した。

「うわっ!?」

 倒れるのを分かってか、鷹野はすかさず彼の両脇を支えて転倒を防いだ。

「は……?な、何……?」

「こんちは。確か名前は……、神崎さんっすよね。和泉くんの相方の鷹野一輝言います。この間はどーも」

「は、放せ……!」

 彼は鷹野の腕を振り払うと2、3歩後退りをして体勢を立て直した。俺は鷹野に近寄って小声で聞いた。

「鷹野、お前いま、綾人くんに何したんだよ」

「膝カックン。キレイに決まったやろ」

 鷹野はニカっと笑いながら俺にピースサインを向けた。まったく、突飛なことをして驚かせないでほしい。俺は胸を撫で下ろし再び彼に視線を向けた。怪訝そうな顔を鷹野に向けている。そんな彼に対して鷹野がフランクに言った。

「神崎さん、さっき、一瞬フワッてなったやろ。どないです?ちょっと力抜けたんとちゃいますか?」

「は……?」

「せっかくええ音出しはるのに、そない力んどったらええ音も台無しになってまいますよ。音楽って、音を楽しむって書くやないですか。せっかく観客がぎょうさんおるのに、楽しまんと勿体ないですやん。今日、俺たちが舞台上で演奏できる時間はたったの20分や。その限られた時間で、神崎さんはどんな演奏したいと思ってはりますか?」

 笑みを乗せたまま鷹野は真っ直ぐ彼を見つめていた。彼は口をつぐんだまま問いを返さない。そんな彼に向かって、鷹野は親指を立てて腕を前に突き出した。

「俺は断然、お客さん沸かせて思いっきり笑顔にさせる演奏がしたいですわ!自分の演奏でお客さんみんなの心を鷲掴みにしてまう、そういう景色、見たないですか?」

 屈託なく笑う鷹野の姿。睨んでいた彼の瞳が、一瞬、揺らめいたように見えた。

「本番、神崎さんの演奏楽しみにしとりますんで、俺らの演奏も絶対見てってくださいよ」

 すると、鷹野は思い出したようにこちらを振り向いて言った。

「せや!和泉くん呼びに来たんやった!場当たりの順番もうすぐやで!はよ行かな!」

「あ、あぁ……!」

 俺は一瞬だけ彼の姿に視線を向け、踵を返し舞台裏へと向かった。彼はその場に立ったまま俯いていた。その表情はよく見えなかったが、先ほどまで剥き出しだった感情が、わずかに薄らいだようにも見えた。

「鷹野、綾人くんの演奏聞いたのか?」

「ん?……あぁ、和泉くんが控室戻ったあとな、ちょうど神崎さんの場当たりの順番がきて舞台袖からその様子を見たんよ。この間、和泉くんにあないなこと言うとった人やし、どんな音出すんやろ思たけど、正直びっくりしたわ。あの人、超が付くほど真面目なんとちゃう?」

「え?」

「音がな、真っ直ぐやってん。なんてゆーか、ピンと伸びた線の上に音があってな、それら全部を一つずつ丁寧に掬っていくみたいに音が伸びていっとったんよ。真っ直ぐな線をキレイになぞっていっとるような感じ。その線も細いんとちゃう。芯の通った強い鋼の線や。和泉くん、あの人ただもんとちゃうな。ますます負けられへん思たわ」

 隣を歩く鷹野の表情が、悔しそうに、けれど口角を上げて笑っていた。真っ直ぐ前を向くその瞳には燃え盛る闘志が宿っていた。あの日、駅で神崎綾人と出会ったあの時、鷹野は彼の言動に突き動かされて今日という日を迎えていた。けれど、鷹野は今、違う理由で突き動かされている。純粋に音でぶつかり合いたい。きっとそう思っている。あんなに音楽に対して勝負事を嫌がっていた鷹野を、ここまで奮い立たせてしまうのだから、彼は――神崎綾人は、本当に才に溢れた演奏者だ。

 彼は、あたかも自分には才能がないように言っていた。けれど俺は知っている。彼がこれまで、どんなふうにヴァイオリンと向き合ってきたのかを。小さい頃から同じヴァイオリン教室で、ずっと彼の背中を見てきたのだから。

「あぁ。彼は、努力の天才だから」

 午後1時。イベント開演の合図が送られた。演奏家たちが次々とステージ上で自分たちの音楽を披露していく。俺たちは控室の側にある共有スペースのモニターでその様子を眺めた。いよいよ次は神崎綾人の演奏だ。

 先ほどの言動から、恐らく彼は自分の意志でこの音楽イベントに参加しているわけではないのだろう。たとえそうであっても、ステージに立つ以上、いい加減な演奏はしたくないはずだ。与えられたステージでスポットライトを浴び、最高の演奏をする。それは、演奏する者であれば誰しも思うこと――演奏家のプライドだ。

 俺はモニターに映る彼をじっと見つめた。

 彼がヴァイオリンを構える。そして弓を引いた瞬間、その曲に俺は思わず息を呑んだ。彼がこのステージに選んだ曲。それは、クラシック曲の中でも超絶技巧が求められると言われているパガニーニの、24のカプリース第24番。そんな難曲をこの音楽イベントに持ってくるなんて。

 細かい技巧が散りばめられたこの曲はミリ単位でもズレが許させない。なのに、彼はそんなことを感じさせることなく、滑らかに、そして華やかに奏でていく。

 俺は不意に引きつった笑みを浮かべていた。駅で彼に言われたことを思い出す。

 ――これって、俺への当てつけなわけ?

「当てつけだなんて、よく言うよ……」

 モニター越しでも分かる。すでに演奏を終えた3組のグループとは全く違う。彼の演奏は、手拍子などを誘う観客参加型の音楽スタイルではない。彼の独壇場。圧倒的な実力の誇示。異質な空気だ。正直、浮いているとさえ思う。けれど、今ここにいる観客の視線が全員彼に釘付けになっている。みんな彼の演奏に心を鷲掴みにされている。

 俺の演奏に酔いしれろ――そう言われているかのように。

「……俺、えらいこと言うてもうたんかな。神崎さん、さっき聞いた音と全然ちゃうわ」

「なんだ、怖気づいたのか?」

「ちゃ、ちゃうし!俺たちは俺たちの音楽やるだけやし!」

「あぁ、そうだな」

 2年半ぶりに聞いた彼の演奏は技術力と表現力が格段に上がっていて、正直、圧倒されたことは否めない。でも、どこか安堵した自分もいる。正々堂々、彼の前で俺の音楽を出し切れる――そう思ったからだ。

 定刻。まもなく俺たちのステージの時間が始まる。舞台のセットが完了し、MCが俺たちのことを紹介してくれている。舞台袖から覗いたステージがキラキラと輝いて見えて、俺はふっと目を細めた。胸が、高鳴る。

「鷹野」

「ん?」

 俺は不敵な笑みを乗せて鷹野に腕を伸ばした。

「楽しもう!」

「おう!」

 鷹野の拳が合わさって、彼もいつものようにニカッと笑顔を返す。

「――それではどうぞ!」

 MCのアナウンスと同時に、俺たちはステージへと足を踏み出した。

 観客の拍手、大勢の視線が俺たちに向けられる。ステージ中央に立つと、鷹野が簡単な挨拶を始めた。ここにいるほとんどの人たちは、俺たちのことをよく知らないだろう。なにしろ知名度も何もない無名の高校生コンビだ。でも、そんなの関係ない。

「ほんなら、聞いてください!」

 俺はヴァイオリンを構え、鷹野に視線で合図を送った。彼は俺の呼吸に合わせ、弓と同時に撥をはじいた。初手は老若男女、誰しも一度は聞いたことのある有名曲。テレビ番組の番組名としても有名な一曲だ。曲の冒頭から、聞いた者の心を掴む軽快なリズムと耳に残る心地のよいメロディーライン。老人ホームでも人気が高くリクエストも多かった。鷹野と選曲について話し合った時、これは外せないと意見が一致したくらいだ。

 ヴァイオリンと三味線、二つの旋律と色が混ざり合い、一つの音楽となって会場内に響きわたる。すると、どこからともなく手拍子の音が聞こえた。鷹野はその音を耳に拾うと、すかさず前に出て体を動かしながら手拍子を促した。次第に大きくなっていく手拍子の音。胸の奥から込み上げてくる高揚感。会場が一体となり、沸き起こる熱が体全身を覆っていった。三味線を奏でる鷹野もその熱を一身に感じている。彼の音を聞けば一目瞭然だ。撥さばきが、いつも以上にキレていて音の精度が上がっている。俺もその勢いに感化されている。指がいつもより自由に、滑らかに動いていくのがよく分かる。

 その時だ。鷹野と視線が交じり合った。瞬間、彼は音に遊びを入れてきた。突然のアドリブ。もちろん打ち合わせなんて何もしていない。俺はニッと口角を上げ、鷹野に訴えた。

 ――まったく、相変わらず自由奔放なヤツめ!

 俺もすかさずアドリブで応えていく。それを受け取ると鷹野は口を開けて満足そうに笑った。

 降り注ぐライトの光。はじける笑顔。隣で演奏する鷹野が、こちらを向いて訴えてくる――楽しくてたまらない、と。

 ひときわ輝くその表情に、俺も堪らず笑顔がこぼれる。まさか、自分がもう一度ヴァイオリンを弾けるようになるなんて、ましてや、こんなふうにまたステージに立って演奏できるなんて、2年前の俺は想像もしていなかっただろう。一人でステージに立てたとしても、きっと同じ景色には出会えなかった。同じ感情は得られなかった。鷹野と二人だからこそ、こんなにも心が躍るのだ。こんなにも、自分の音を好きになれるのだ。

「ほな、早いもんで次がラストの曲になります。最後の曲紹介は……せやな、和泉くんにしてもらおかな」

「えぇ!?」

 またこいつは予定していなかったことを急に振ってきて。鷹野は否応なしに、ずいっとマイクを渡してきた。もう俺が紹介する流れだ。ここで断るわけにもいかない。俺は仕方なくマイクを受け取り口元に運んだ。

「えっと、最後に披露する曲はベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章、歓喜の歌です。恐らく皆さんも一度は聞いたことのある曲だと思います。通常の曲調からアレンジを加えて、ヴァイオリンと三味線が織りなすアップテンポな曲に仕上げました」

 そこまで伝えると、俺は一拍置いて鷹野へ顔を向けた。彼は小首を傾げ俺を見る。

「……俺はこの曲に、その名の通り喜びを込めて演奏します。今日を迎えられたこと。ここに立てたこと。……そして、隣にいる彼と、一緒に演奏ができること。皆さんに届けられる喜びをこの曲に乗せて披露します。どうぞ最後まで楽しんで聞いてください」

 鷹野が不意を突かれたようにはにかんで笑った。どうやら仕返しは効いたようだ。俺もふふっと笑みをこぼす。

 さぁ、このステージ最後の曲だ。ベートーヴェン《交響曲第9番》第4楽章「歓喜の歌」。心が沸き立つ音楽を観客に届けよう。

 お互い楽器を構え、目と目で合図を送り合う。

 次の瞬間、ステージと観客の空気が華やかに色を変えた。追い風を感じるような爽快な曲の入り。走り出したくなるような軽やかな音のリズム。和と洋が融合した絶妙な音の調べが会場に陽を照らしていく。そう、この音はまるで陽の光だ。

 ヴァイオリンを手放したあの日から、俺はずっと、暗くて長い迷路のようなトンネルの中をひたすら歩いていたように思う。そしたら、ある日、聞こえたのだ。真っ暗だけどずっと先のほうで。弦をはじく美しい和楽器の音――三味線の、温かでやわらかな音が。気付いたら走り出していた。引っ張られるように俺はその音を追いかけていた。音はやがて光になって俺を導いてくれた。抜け出したトンネルの先に見えたのは、どこまでも青く広がる大空。そして、さんさんと照らす眩しい太陽が俺を待っていたんだ。

 鷹野の三味線の音が俺の背中をそっと支える。ヴァイオリンの主旋律が、強く、真っ直ぐ前へと奏でていく。調和した二つの音が会場を包み込み、震わせ、観客を魅了していく。

 ――鷹野、俺を導いてくれてありがとう。俺の音を好きだと言ってくれてありがとう。俺にとって、鷹野に出会えたことが一番の喜びだ。

 照明の熱、会場の熱、指先からつま先、神経に至るまで、体全身に迸る熱を感じる。ラスト一小節。ヴァイオリンと三味線、二人で奏でた旋律が、最後の一音まで熱く会場に響きわたる。やがて終わりを迎えたメロディーは、きらめく照明に溶けるように空気へと消えていった。静かな余韻を残し、静寂に包まれる会場内。次の瞬間、観客席から盛大な拍手と歓声が沸き上がった。

 息が弾む。胸の鼓動が大きく鳴り響く。鳴り止まない拍手と歓声。目の前に広がる輝く景色。俺は目に焼き付けるようにこの景色を見渡した。

 そして思う――この先も、奏で続けたいと。すべては、この瞬間のために。

「和泉くん!」

 鷹野が晴れやかな笑顔を向けながら片手を挙げていた。俺も平手を伸ばし、重なり合った二つの手のひらは宙で高らかに音を鳴らした。

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