第7話
夏休みが明けて2学期が始まった。長らく同じ席順のままだったが、このタイミングで席替えがあり俺と鷹野は大分と席が離れることとなった。俺は廊下側の前の方。鷹野は窓際の後ろの方だ。授業中、彼の姿は視覚に入らないが先生の呆れ声でその様子が容易に想像できた。2学期に入っても鷹野は相変わらずだ。
「和泉くん、俺、今日掃除当番やから先行っとってええで」
「あぁ分かった。じゃ、あとでな。終わったらすぐ来いよ」
「ほーい!」
俺はあれから、老人ホームでまた鷹野と一緒に演奏するようになった。あのデュオ演奏は入居者のお年寄りをはじめ、職員の方たちからも絶賛の声が本当に多かったらしく、俺が再びステージに上ると大きな歓声が上がったほどだった。今では俺も、鷹野に続いてこの施設のエンターテイナーとなっている。
「こんにちは」
受付カウンターへ向かうとベテラン職員さんが顔を出した。
「あらぁ和泉くん、いらっしゃい。今日もよろしくね。あら?鷹野くんは今日は一緒じゃないの?」
「あいつは今日掃除当番なんで俺だけ先に来ました。終わったらあとで来ますよ。あの、時間まで少しだけ場所借りてもいいですか?」
「いいわよ。音量だけ気を付けてね」
「ありがとうございます!」
俺は中庭へ足を運んだ。木陰のベンチにヴァイオリンケースを置くと、同時にスマホから通知音が鳴った。鷹野からだ。あの日の帰り、俺たちはようやく連絡先の交換をした。鷹野に伝えると、「ああ!ホンマやな!」と彼も今気付いたというふうに笑っていた。
通知を開くと、「いま電車乗った!あと30分くらいで着く!」という文とダッシュしている変な生き物のスタンプがついていた。思わずクスリと笑ってしまう。鷹野が使っている変な生き物シリーズのスタンプが妙に面白くて俺も何気に気に入っているのだ。
「よし、あいつが来るまで少し弾いとくか」
あの日から、俺は少しだけ変わった。一人でもヴァイオリンが弾けるようになったのだ。俺にまとわりついていた黒い影、その存在が段々と薄れていったのだ。以前は鷹野の音がなければ弾けないような状態だったが、今では集中すればその存在を意識的に消すことができるようになった。まだ完全とまではいかないが、鷹野の存在を胸に意識するだけで大分と違う。
それほど鷹野は俺にとって大きな存在だ。またヴァイオリンを楽しく弾けるようになったのは鷹野がいてくれたおかげだ。本当に彼には感謝しかない。
この気持ちを彼に伝えたい――好きだという想いと一緒に。
演奏を終えると、中庭の隅から拍手が聞こえた。顔を向けると、そこには三木さんが立っていた。
「相変わらず上手いねぇ、和泉くん」
「ありがとうございます」
体を屈めてケースにヴァイオリンを戻していると、彼女は俺の隣にやって来るなり、しゃがんで体を寄せてきた。そして口元に手をやると小声で聞いてきた。
「で?君たちあの後どうなったの?」
「えっ」
三木さんが口元を緩ませながら興味津々といった様子を見せていた。
「和泉くん、ついに告白した!?」
「いえ……、鷹野から曲のプレゼントを貰って、それだけです。特に告白とかは……」
「えぇ!?そうなの?最近二人とも妙に距離感近いから、私はてっきり付き合い始めたのかと思ってたんだけど」
「つ、付き……!?」
思わず大きな声が出てしまい、咳払いをして小声に戻した。
「付き合ってませんよ。……でも、鷹野がくれた曲は何というか、強い情熱が込められていて、あぁ、俺のこと真っ直ぐ見てくれているんだって、そう感じました。……俺、自分が同性愛者だって口にするのが怖くて、まだ鷹野に気持ちを伝えられていないんです。でも、ちゃんと自分の気持ちを言おうって、今では思ってます。気持ちを伝えて、たとえ断られてしまっても、鷹野なら変わらず等身大の俺を受け入れて接してくれるって、そう思えたから」
ふと、三木さんに視線を向けると、彼女は眉を下げ口元を押さえながら興奮気味に目を輝かせていた。
「ああぁ!いいねぇ青春だねぇー!大好きだよそういうの!もっと頂戴!」
「三木さん……?」
彼女はもともと明るい大人の女性ではあったが、最近は、出会った頃の落ち着いた印象が薄れて親しみやすさがより増した気がする。気持ちが昂っている彼女を見ていると、年上の人だということを忘れてしまいそうになる。
三木さんはふふっと柔らかく笑みをこぼして言った。
「まぁね、恋は焦らずって言うし、和泉くんは和泉くんのペースでいいんだよ。その時が来たら一輝くんにしっかり伝えてあげて。あの子はきっと、和泉くんを傷付けるようなことはしないわ」
「はい」
「なーに二人でコソコソ話しとるん?」
背後から鷹野の声が降ってきた。
「たっ、鷹野!」
慌てて振り返ると、口を尖らせてじっとりとした目をした鷹野が見下ろしていた。
「あー!私そろそろ仕事戻らなきゃ!それじゃ二人ともあとでねー!」
颯爽と施設の中へ戻っていく三木さんの後ろ姿。見送ったあと、ぽつんと中庭に残った俺たちの間に微妙な空気が流れた。
「ほ、ほら!俺たちも中に入ろう!」
施設の中へ向かおうとした俺の腕を鷹野が掴んで止めた。
「ちょい待ち」
「な、何……?」
鷹野が俺の行く手を阻み正面に立った。両腕を掴んで俺をじっと見つめる。何なのだ。そんなに見つめられると目のやり場に困ってくる。
「虫が付いとるわ」
「……は?」
「和泉くんの髪にくっついとる。取ったるから、ちょい動かんとってな」
鷹野の手が俺の頭にそっと触れる。ついっと動かした指。髪がいくらか持ち上げられ、はらりはらりと落ちていく。たったこれだけのことなのに、鷹野に触れられると、すぐに熱が上がってまたたく間に溶けてしまいそうになる。
「ほい、取れたで」
そう言って鷹野は手に乗せた小さな虫を見せてきた。が、すぐに羽をはばたかせてどこかへ飛び立って行ってしまった。
「ははっ、和泉くんの髪、お花みたいにええ匂いでもしとったんかな」
「何だそれ」
胸の高鳴りを隠すように、俺は鷹野から視線を逸らして髪を整えるふりをしてやり過ごした。すると不意に、頭に添えていた俺の手を鷹野がそっと握った。その手を下ろして、左手も同じように触れてくる。
「え……」
鷹野の足が一歩近づく。肌がより触れ合って俺の体に緊張が走った。木陰でも残暑で汗がにじんでくる。そんなに近付かれたら、汗をかいていることを知られてしまう。心臓の音が段々と加速していく。彼の顔が俺の横をゆっくりと滑る。優しく握られた両手。鷹野の指がついっと俺の手のひらを撫でた。思わずびくりと肩が跳ねて反応してしまう。耳に触れそうな距離で、蜜のように甘い鷹野の声が俺に流れ込んできた。
「ホンマやな。和泉くん、ええ匂いする」
途端、ぶわりと熱が駆け巡った。
「たっ、鷹野……!」
振り絞ってそう声を出すと、鷹野はパッと手を離してにっかりと笑った。
「ほな、中入ろか」
施設の方へ歩いていく鷹野の後ろ姿。俺は思わず力が抜けてその場にへなへなとしゃがみ込んでしまった。
あの日から、鷹野も変わったことが一つある。俺へのスキンシップが今まで以上に増したことだ。夏休み前はあんなに避けていたくせに。三木さんは俺たちの距離感が近くなったと言っていたが、多分、鷹野の過剰なスキンシップのせいだ。正直、心臓がもたない。
「和泉くーん、早よ」
先を行く鷹野が振り返って俺を呼ぶ。まったく、こちとらオーバーヒートしそうで大変だというのに。
「今行くよ!」
俺は立ち上がって鷹野のもとへ駆け出した。
今日も大盛況で演奏を終え、帰り支度をしていた時だった。三木さんが一枚のチラシを持ってきて俺たちに見せてきた。
「ねぇ二人とも!これ出てみない?秋に行われる市の音楽イベント!結構大掛かりなイベントで、毎年有名な音楽家が来たり、アマチュアや市民の人も有志で参加できるイベントなんだよ!」
彼女が手にしていたのは参加者を募る募集チラシだった。そのイベントのことは俺もよく知っている。参加資格にプロ、アマ、年齢制限はなく、音楽であれば使用する楽器も自由で誰でも応募が可能だ。それこそ、俺が神崎綾人と出会ったのもこのイベントがきっかけだった。
三木さんは目を輝かせながらも真剣に俺たちを見て言った。
「二人にはいつも食堂のステージで演奏してもらってるけど、あんなに凄い演奏をこの施設だけで終わらせちゃうのが何だか勿体ない気がしてて。私、二人の演奏が本当に大好きなんだ!初めてコラボ演奏聞いたとき、鳥肌立ったくらい感動したの。だから、入居者の方たちだけじゃなくて、もっと沢山の人にもあなた達の音楽を聞いてもらいたいのよ!ねぇ、二人ともどうかな!?」
三木さんは、ずいっと身を乗り出して俺たちの返答を待った。
「どうする、鷹野?」
「ええやん!こないおっきなステージで披露すること中々ないし、ぎょうさん聞いてもらえる思たらワクワクするわ!和泉くんはどない?」
「鷹野がやりたいって言うなら俺も一緒に出るよ」
「ほな、決まりやな!」
三木さんは花を咲かせたように笑顔を見せて喜んでいた。
「じゃあ、応募用紙渡しておくわね!あぁ、あなたたちはまだ未成年だから、親御さんの署名もちゃんともらってね。私、当日絶対見に行くから、楽しみにしてるよ!」
と、彼女は言っていたが、俺たちは帰りのバスの中で一つ気付いたことがあった。応募チラシに目を通していると、そこに書類審査の文字があったのだ。
隣に座っていた鷹野が「審査」の言葉に反応してチラシを覗き込んできた。改めて内容を確認してみると、どうやら、応募は誰でも可能だが、参加するには審査を通過する必要があるようだった。三木さんはそれを知ってか知らずか、俺たちが出場する前提で行く気満々になっていたが、俺たちはまだ審査にも受かっていない。出演者の枠は限られている。ステージに立つには他の応募者と競わなくてはならないのだ。
ステージ当日は順位を付けられるようなことはないが、そういえば、鷹野はこういう優劣を付けられることを、あまり良く思っていなかったなと思い出した。隣に視線を向けると、案の定、鷹野はどこか不貞腐れているような表情を浮かべていた。
「何でわざわざ審査されなアカンの」
「仕方ないだろ?自由度が高いぶん応募者も多いんだよきっと。大きいイベントとはいえ時間も人数も制限はあるし、それなりの規模だから一定以上の腕が求められるのは当然だろうな。そんなにお前が出たくないって言うなら、俺一人だけで応募してもいいけど」
「えっ!イヤや!一緒に出ようや和泉くん!」
ちょっと焦った鷹野を横目に、俺はチラシで口元を隠しながら小さくほくそ笑んだ。
目の前の人を楽しませたい――彼がそう言っていたように、俺も最近そう思うようになった。聞いてくれた人たちが晴れやかな笑顔を見せてくれると嬉しくなって心が弾む。賞を取るのとはまた違った喜びがそこにあるのだ。
これはきっと、鷹野と一緒だからこそ見れる景色だ。俺一人だけの演奏ではとても得られなかっただろう。彼が側にいてくれるから、そっと寄り添ってくれるから、俺も安心して自分の音が出せるのだ。
だから俺も、出るなら鷹野と一緒がいい。
「和泉くん、何ニヤついとるん」
「べ、別にニヤついてなんかないし!」
「あっ!チラシで顔隠しよった!絶対わろとるやん!バレとるで、ほれほれ顔出してみぃ」
いたずらっ子のような声を出して俺の横腹を突っつく鷹野。窓際の席に逃げ場はなく、体をよじらせて避けようにも、腕を使わなければ勝てっこない。俺はもはや顔を隠すことも忘れて、込み上げてくる笑いを自然とこぼしていた。こんなふうに鷹野とふざけ合うのも、心までくすぐったくて堪らなくなる。
その時、車体がぐんと揺れ動き鷹野の体が不意に俺に寄り掛かった。「あっ」という小さな声と同時に、鷹野はバランスを支えようと咄嗟に窓際へ手を付いた。気付くと、息がかかりそうな距離に鷹野の顔があった。少しでも動いたら唇が触れてしまいそうな距離。俺は思わず、ごくりと生唾を飲んだ。
バスが停車し、次の駅に到着したことを知らせる。乗車口の扉が開くと、俺はその音にハッとして咄嗟に顔を背けた。少しの間を置いて、鷹野が隣で座りなおす気配がした。何も話しかけてこない。静かになった鷹野。その沈黙が気まずくて、俺はチラシに目を向けて口を開いた。
「あっ……、審査用に音源も提出だってさ!演奏する曲目どうするか決めないとだな!」
「……せやな」
ぽつりと一言しか返ってこない返答。気を悪くさせてしまったのだろうか。ちらりと隣に視線を向けると、鷹野は肘掛けに頬杖をついてそっぽ向いていた。
バスが再び発車すると、その揺れにつられて彼のピアスがゆらゆらと揺らいだ。右耳に細く垂れさがるシルバーのピアス。その右耳が、ほんのりと赤く染まって見えたのは夕日のせいだろうか。
狭い二人掛けの席。揺れるたび触れ合う肩と膝。曖昧なこの距離感が、もどかしくて堪らない。
俺は膝に置いている彼の右手に視線を移した。自分の左手をそっと近付け、彼の小指につん、と触れた。彼の心音をこっそり覗いてみたい。小指から全部伝わればいいのに。そんなことを心の中でそっと思う。鷹野も今、俺と同じくらい胸がうるさく騒いでいるだろうか。
高鳴る胸の鼓動。脈打つ心臓の音。鷹野が振り向いた気配がした。俺もゆっくりと視線を上げて鷹野を見つめた。彼は不意を突かれたような表情を見せていた。俺は今、どんな顔をしているのだろう。
触れていた小指を俺はゆっくりと動かし、そっと鷹野の小指に絡ませた。
「鷹野、俺――」
途端、後方の席から赤ん坊の大きな泣き声が車内に響きわたった。どきりと胸が跳ねて、俺は咄嗟に手を引っ込めて下を向いた。
次第に冷静さを取り戻していく頭。俺はこんな場所で何を言おうとしていたのだ。気持ちを伝えるにも、もっと他に場所とタイミングというものがあるだろう。ふわふわした気持ちにのまれて危うく口にするところだった。
というか、小指を絡ませるとか何て大胆なことをしているのだ俺は。急にそんなことされたら困惑させるに決まっているだろう。
ぐるぐると頭の中で考えていると、ダメ押しのようにバスの揺れに乗って窓に頭をぶつけた。結構いい音がした。
「だ、大丈夫、和泉くん!?」
頭を抱える俺に鷹野が慌てて声をかける。もう何だか色々と恥ずかしくて顔が上げられない。俺は下を向いたまま、「大丈夫」と頼りない声を返すので精一杯だった。
そうだ、こういうことはもっと雰囲気とか、二人きりになったタイミングとか、そういったチャンスがやって来たときに伝えるべきだ。焦る必要はない。大体、応募に向けた練習や老人ホームでの演奏もあるし鷹野と過ごす時間は結構多い。いくらでも伝えられるタイミングはあるのだ。
そう思った矢先だった。ちょうど学校祭の準備が重なってしまった。うちの高校は1日目に体育祭、2日、3日目が文化祭の構成となっている。俺はクラスの文化祭の出し物に関わることとなり大忙しとなってしまい、鷹野は鷹野で、運動神経を見込まれてクラスで体育祭のリーダー的存在に抜擢。そんなわけで曲の合わせをする時間がなかなか取れず、しばらくはお互い個人練習に専念することになった。鷹野は俺の家の防音室を使うこともあったが、文化祭の準備を口実に遅くまで残っていられるからと、放課後は学校で練習していることの方が多かった。
それからいくらか時間の調整を重ね、俺たちは何とか曲の合わせをして学校祭の前には応募も無事済ませることが出来た。それは良かったが、肝心の告白はずっとおあずけ状態である。
結局、文化祭当日は湊も含めて鷹野と三人で他のクラスの出し物を見て回ったり、俺はクラスのタイムスケジュール管理で抜けることもあって、鷹野と二人きりになることがほとんどなかった。体育祭では、戦力の要である鷹野はほとんど競技に出ずっぱりだった。運動部が少ない俺たちのクラスとしては、大分と健闘したのだが結局5位という結果に終わった。全学年の総合順位で5位なのだから結構すごいことだと思う。
文化祭、体育祭とあっという間の3日間だった。今年の学校祭は残すところ後夜祭のみ。参加は自由だが、俺はもう正直へとへとだ。鷹野は体育祭好成績の立役者としてクラスのMVPとなり後夜祭にも引っ張りだこだ。
俺は着替えを済ませると誰もいない教室に戻り、自分の席に座って机に突っ伏した。片腕を伸ばして枕代わりに頭を預ける。思わず、ふう、と長い息が漏れた。音楽イベントの演奏練習と学校祭の出し物、体育祭の練習。全部並行してこなしたせいか、さすがに疲れてしまった。けれど、今年は鷹野がいてくれたおかげでとても賑やかな学校祭だった。
何だかんだ、今までで一番充実して楽しかったかもしれない。疲労感と充実感が程よく混ざり合い眠気に誘われる。まどろむ意識。抗う気力はなく、俺はそのまま眠りに落ちた。
どれくらい眠っていただろう。再び目が覚め、ゆるりと体を起こすと左の席から声がした。
「あ、起きた?」
思わず顔を向けると、そこには机に頬杖をついて、こちらに体を向けて座っている鷹野の姿があった。
「おはようさん!」
「え、鷹野!?あれ?後夜祭は?そっちに行ってたんじゃないのか?」
「うん。けど抜けて来た。和泉くん探しに来てん」
「俺を?あ、もしかして俺呼ばれてた?何か係の用事残してたとか?」
「ちゃうよ、和泉くんホンマ真面目やなぁ。後夜祭、一緒に行かへん?って送ったんやけど、見てないやろ」
俺は慌ててスマホを確認した。どうやら俺は連絡に気付かないままうたた寝してしまったようだ。
「既読も返信もないしどないしたんやろって、気になって探しとったんよ。そしたら和泉くん、ここでぐっすり寝とったわ」
「……起こしてくれてよかったのに」
「せやかて、あんまりぐっすり寝とるし起こすのも悪いやん。それに、和泉くんの寝顔見とるのもええな思って」
「んなっ……!」
鷹野がご満悦そうに笑う。
「で?和泉くんは後夜祭どないする?」
「……俺は、いいや。ここで少し眺めたら帰ろうかな。結構クタクタなんだ」
「前から思っとったけど、和泉くんって実は体力ミジンコやんな」
「うるせぇよ。お前が体力おばけなんだよ」
まだまだ元気が有り余っているという様子で自慢げに笑う鷹野。すると外から軽快なメロディーが聞こえてきた。窓の側まで寄って見るとダンスが始まっていた。
「後夜祭もそろそろ終わりかな。鷹野、行かなくていいのか?」
そう言って振り返ると、鷹野は頬に笑みを浮かべ、真っ直ぐ俺を見つめながら手を差し出した。
「一緒に踊りませんか?」
「え……?」
胸がまた小高い音を鳴らし出す。鷹野が差し出した手のひら。この手を取っていいのだろうか。でも、男二人で踊っているところなんて誰かに見られたら――。
「や、俺ダンス苦手だし……」
戸惑いながら目を逸らすと、鷹野は俺の手を掴んで引き寄せた。
「踊ろうや!大丈夫やで、俺がリードしたる!」
「へ!?わっ!」
音楽に合わせて鷹野がステップを踏んでいく。それにつられて俺も後に続いていく。繋がれた手と手。触れては離れ、そしてまた触れ合う体と体。俺よりも少し大きい肩幅。胸の厚み。指先の爪の形、皮膚の硬さ。触れるたび、認識していく鷹野の体の骨格や輪郭、熱と呼吸。
誰もいない教室で鷹野と二人だけの時間。何だか、夢の中にいるような心地だ。ふわりふわりと綿毛が飛んでいるような、そんな柔らかくて温かな感覚。ほんのりと熱を帯びる頬。胸の高鳴り。その鼓動までも、まるで小躍りしているかのようだった。
曲がフェードアウトしていき、向かい合わせでステップを終えた。鷹野の手のひらが緩んだのを感じて、俺は離れるのを拒むように握り返した。伝えるのは、今だと思った。
「鷹野……!」
顔を上げて彼を瞳に映す。小首を傾げ、俺の言葉を待つ鷹野。一言、たった二文字。声に出すだけなのに、いざ構えて言葉にしようとすると途端に言えなくなってしまう。段々と、夢心地のような宙に浮いた感覚から、地に根を張った冷静さが戻ってくる。次第に自分の顔が紅潮していくのが分かった。
「どないしたん?」
「あ……、えっと……」
言え、言うんだ。こんな絶好のタイミング今しかない。
「す、す……す……」
「す?」
――好き。
「スマホの充電器持ってないかッ!?」
「充電器?んー、鞄入れとったかなぁ。ちょい待ってな、見てみるわ」
机に置いていた自分の鞄を漁り始める鷹野。俺は脱力してその場にへたり込んだ。
俺って実は意気地なしなのかもしれない。中3の時は街を離れて行ってしまう彼への焦りと桜並木という景色に酔っていたから言えたのだ。先日のバスの中でも変な雰囲気にのまれて口に出しそうになっていた。
俺、空気に酔ってないと言えないのかもしれない。もしくは追い詰められていないとダメなのかも。多分俺は、将来お酒の力を借りないとダメなタイプだ。そんなことを冷静に分析している自分に肩を落とす。
「おっ、あったで」
俺は気が抜けた炭酸のような笑みを鷹野に向けながら、さして必要のない充電器を受け取った。結局、告白できないまま学校祭も幕を閉じたのだった。
10月に入り、ようやく秋めいた過ごしやすい気候になってきた頃。一通の封書が家に届いた。音楽イベントの合否結果だ。ちょうど曲合わせのため鷹野が俺の家に来ていたので、俺たち二人は防音室でその内容を一緒に確認した。
「よし、じゃあ開けるぞ」
「おう……!」
深呼吸をひとつして、俺は三つ折りの書類をゆっくり開いた。目に入ってきた『審査通過』の文字。お互い顔を見合わせて笑顔を向け合った。すると鷹野の腕が俺の背中を覆い、俺は息つく間もなく抱き締められた。
「ちょっ!た、鷹野っ……!」
「へへっ、嬉しいなぁ!和泉くんと、こないおっきな舞台で演奏できるの楽しみやわ!」
鷹野の弾んだ声。本当は俺も嬉しくて飛び跳ねたいくらいだ。鷹野とともに立つ音楽イベントのステージ。そこはどんな景色が見られるだろうか。彼と一緒なら、また新しい景色が見られる気がする。そう思うと心が弾んでわくわくする。
封書にはあと2枚重ねられていた。前日と当日のスケジュールやリハーサル、注意事項などが記されていた。そして最後の1枚は出演者一覧とプログラム順が書かれていた。今回も名の知れた音楽家が呼ばれているようだ。テレビでもよく出演している有名なピアニストの名前が挙がっていた。当日会えたら握手してもらいたい。そんなふうに浮かれながら出演者一覧を眺めていると、そこに書かれていた一人の名前が目に入り、途端、俺の思考が止まった。
「え……」
神崎綾人。演奏楽器――ヴァイオリン。彼と同じ名前、同じ楽器。間違いない、あの神崎綾人だ。瞬間的にフラッシュバックする彼との様々な記憶。くしゃりと書類に皺が入り、俺の指が小刻みに震えだす。
なぜ、彼がわざわざこのイベントに。県外の大学に在学中のはずだ。出場すれば否応なしに彼と顔を合わせることになる。また、あの目を、あの言葉を向けられてしまう――。
「――くん、和泉くん!」
鷹野の声にハッとした。気付いたら俺は鷹野に両腕を掴まれていた。俺は浅い呼吸を繰り返しながら鷹野を見上げた。
「どないしたん?なんや急に顔色悪なってんで?」
「あ……、いや、大丈夫だ。何でもない……」
俺は急いで書類を折り畳んで封筒に戻した。鷹野には関係のないことだ。せっかく楽しみにしている舞台を俺のせいで台無しにするわけにはいかない。大丈夫だ、今は鷹野が側にいる。鷹野の音に集中すれば問題はない。
「今日は合わせだったよな。練習始めよう」
「おう……」
大丈夫だ、大丈夫。俺はもう克服している。あれから何度も人前でヴァイオリンを弾いてきた。もう、一人でも弾けるようになったのだ。いつも通りに弾けばきっと大丈夫。
目をつむり、鷹野のメロディーを耳に拾う。ふっと瞼を開き弓を構えた時だった。
目の前に、はっきりと姿形を成した神崎綾人の幻影が俺を見つめて立っていた。視点が揺れ、呼吸が早くなる。手が、指が震えて感覚が失われていく。黒く覆われていく視界。なのに、神崎綾人の幻影だけは、くっきりと残ったままそこに居続けている。深い水の底に沈んでいくように、膜で覆われて鷹野の音が段々と俺から遠ざかっていく。
――なんだこれ、音が……聞こえない。
「――和泉くん!」
ハッと気付くと目の前に鷹野の姿があった。
「……た、かの?」
いつの間にか、俺は床にへたり込んでいた。手にヴァイオリンの感触がない。見ると、ヴァイオリンと弓は鷹野の手の中にあった。落としそうになった楽器を間一髪のところで支えてくれたらしい。神崎綾人の幻影も消えていなくなっていた。
「和泉くん、さっきから何やおかしいで。体調悪いん?今日はもうええから休も?まだ時間はあるんやし、練習は体調ようなってからにしよ、な?」
「……あぁ、悪い。そうする」
そのあと、俺は鷹野に一時的なスランプだと伝え、しばらくはお互い個人練習にしようと提案した。俺はその日を皮切りに、ヴァイオリンを手にすると再び神崎綾人の幻影を目にするようになり、まともにヴァイオリンを弾くことができなくなった。
鷹野はあの後も老人ホームへ訪れているようだが、もちろん俺はそこでの演奏もできるはずがなく、しばらく顔を出していない。
本番まで時間も迫ってきている。合わせの練習もほとんど出来ていないし、それ以前に一音も出せないようじゃステージに立っても意味がない。どうにかしなければならないのに、どうしたらあの人の幻影が消えてくれるのかが分からない。焦りと苛立ちが、時間とともにどんどん募っていくばかりだった。
「和泉くん」
放課後、鷹野が俺の席へやって来た。
「調子、どない?」
「……ごめん、まだ戻らなくて」
「そっか」
俺は膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「鷹野……、もし俺の調子がこのまま戻らなかったら、音楽イベントはお前だけで出てくれ」
「嫌や」
「なっ……!何でだよ!せっかくのステージなんだからお前だけでも――」
「俺は和泉くんと出るって決めたんや。あのステージは俺のステージとちゃう。俺たちのステージや。和泉くんが出やんなら俺も辞退するで」
「そんな、わがまま……」
「そうやで、俺ワガママやもん。俺は、和泉くんと舞台に立ちたいねん」
「鷹野……」
俺だって、鷹野と一緒にステージに立ちたい。俺たちだけの音楽を披露したい。けれど、こんな状態でまともに演奏なんて出来っこない。俺のせいで折角の晴れ舞台も台無しにしてしまう。もう、辞退するしかないのだろうか。
弱い自分が情けなくて、悔しくて、俺はぎゅっと目をつむって唇を固く噛み締めた。
「和泉くん、このあとちょっとええか?」
「え……?」
「気分転換、しに行こや」
電車に揺られて30分。鷹野と一緒に向かったのは砂浜が広がる海水浴場だった。着いた頃には西の空がほんのりとオレンジ色に染まり出していた。当然今の時期は遊泳禁止で泳ぎに来ている者は誰もいない。10月も半ばになると潮風が少し肌寒く感じた。
鷹野は緩やかなコンクリート階段に三味線ケースを置くと、波打ち際まで行き海水に足をさらし始めた。
「うひー!さすがに冷たいわー!」
「当たり前だろ、もう10月だぞ」
「和泉くんも足つけてみる?」
「やらねぇよ。冷たいの分かっててそんなことするのお前くらいだ」
オレンジ色が徐々に濃くなる夕日を浴びて陽気に笑う鷹野の姿。鷹野なりに俺を元気づけようとしてくれているのだろう。気を遣わせてしまって何だか申し訳なく思う。
途端、大量の水しぶきが顔にかかった。
「うわっ!冷た!」
見ると、鷹野が濡れた両手を胸元に垂らして、少し引きつった笑みを向けていた。
「いや、今のはな、ちょっと体にかけるつもりやったんよ!それが思ったより勢いついてしもーてな……」
「……たーかーのー!」
俺は袖をまくり、両手で海水をすくい上げて鷹野目がけて思いっきり放り投げた。
「わー!タンマタンマ!和泉くん、ちょお待って!その量はアカンて!」
「こら逃げんなー!」
「逃げるわ、こんなの!」
避けながらも鷹野も隙を見て反撃してくる。茜色に染まった空に黄金色の粒がいくつも舞っていく。またたく星のように、きらきら、きらきらと反射して跳ねていく。鷹野のこぼれる笑みがオレンジ色に彩られて鮮やかに映えた。鏡映しみたいに、いつの間にか俺も彼と同じように笑っていた。
波が、引いては寄せてを繰り返す。俺たちは波先が届かない一歩離れた場所に腰をおろして、水平線に沈んでいく夕日を眺めた。こんなふうに、ゆっくり景色を眺めることも、腹の底から笑ったのも久しぶりな気がする。ずっと張り詰めた糸に絡まって、がんじがらめになっていた。鷹野のおかげで少し肩の力が抜けたように思う。
水平線の近くに、まだわずかに残る茜色。空が段々と夜のグラデーションに染まりつつあった。日が落ちると星が姿を現しはじめ、急速に景色も様変わりしていく。ひんやりとした潮風が肌をかすめ、波の音が先ほどよりも近くに感じた。
「ほんなら、ぼちぼち帰るとしますか」
「そうだな」
波打ち際を歩いていく鷹野の後ろ姿。薄暗く夕闇に染まっていく景色のなか、その背中がどこか艶めかしく映って、俺は思わず目を細めて見つめていた。
あぁ――。
好きだ。
波の音が潮風に乗って俺の側をざぁっと通り抜けた。
「何か言うた?」
鷹野が足を止めて振り向いた。
「えっ!?いや、何も……!」
「ふうん」
鷹野が再び前を向いて歩き出す。俺は口元に手を当てて、思わず自分の足元に視線を向けた。
――もしかして今、声に出していたのか?
完全に無意識だった。同時に、あれ?と思った。
誰もいない、誰にも聞こえない。今、ここに俺たち二人しかいない。このまま伝えてしまってもよかったのに、俺はさっき、咄嗟に誤魔化してしまった。鷹野のことを信じているはずなのに、どうしてこんなに心にブレーキがかかってしまうのだろう。
電車が最寄り駅に到着すると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。定期券を改札にかざし、駅の出入口へと階段を下りていく。
「和泉くん家、今日晩ご飯なに?」
「え、何だろ。昨日は豚の生姜焼きだったけど」
「ええなぁ!俺も食いたいわぁ。和泉くん家のご飯、前に食べさせてもろたやん?あん時めっちゃうまくて俺感動したんよな。あないうまい料理毎日食べられるなんてホンマ羨ましいわ。和泉くん家の母ちゃん、実は料理の天才なんちゃう?」
「大げさだって。そういやお前、あの時おかわりもしてたよな。お前がずっと美味しい美味しい言うから母さん凄い上機嫌だったよ」
「だってホンマにうまかってんもん!あー、食いもんの話しとったらお腹空いてきたわ」
「だったら、途中でコンビニでも寄って――」
駅の出入口に差し掛かった時だった。途端、俺の足はその場から動かせなくなった。視界に入った光景に体が一瞬で凍りつき、すくんで歩けなくなったのだ。
「和泉くん?」
隣で鷹野が俺を呼ぶ。けれど俺は鷹野へ顔を向けることが出来なかった。それほどまでに、体が言うことをきかない。俺の視線は、真っ直ぐ出入口の一点を捉えて逸らすことが出来なかった。
灯りに照らされた、ゆるいウェーブのかかったブロンズ色の髪。高く通った鼻筋が、横顔の輪郭を滑らかに描く。肩にヴァイオリンケースを提げ、出入口の柱に凭れかかっていた彼は、2年経っても変わらない顔立ちをしていた。スマホの画面に向けていた美しい切れ長の瞳が不意にこちらへ向く。目が合った瞬間、息が止まった気がした。彼のまとう空気がぎこちなく変わったのが分かった。
「……透」
「……綾人、くん……」
体が強張って動けない。呼吸が段々と浅くなっていく。音楽イベントで、彼ともう一度顔を合わせることになるのだと覚悟はしていた。けれど、まさか今このタイミングで出会うなんて予想もしていなかった。
冷や汗が吹き出し、心臓の鼓動が緊張とともに大きな振動を繰り返す。
「和泉くん、どないしたん!?」
隣で鷹野が焦りを見せているのが分かる。何か言わなくては。そう思うのに、息が詰まって声が出せない。目の前に立つ彼が居心地の悪そうな声で言った。
「……まぁ、こっちに戻って来たら、どこかで会うかもとは思ってたよ。……透、お前、まだヴァイオリン続けてたんだ」
肩がびくりと跳ねる。俺は彼から視線を逸らし、震えと一緒に自分の片腕を胸に抱き寄せた。
「小中学校のコンクールであれだけ賞を総なめしてた奴が、ぱったりと名前聞かなくなったから、俺はてっきりヴァイオリン辞めたんだと思ってたよ。だから正直驚いたよ、今度の音楽イベントにお前も出場するって知った時は。……なぁ、透。これって、俺への当てつけなわけ?」
「へ……?」
鋭い視線が俺を刺す。当てつけだなんて、そんな意図あるはずがない。そもそも、審査結果の通知が届くまで、お互い参加することを知るはずもなかったのだ。
彼は乾いた笑いをこぼして続けた。
「よく舞台に立とうなんて思えるな。自分がどんな音を出しているのか、自分が一番分かってるくせに」
ぞわりと背中に悪寒が走った。目の前に立つのは幻覚ではなく本物の神崎綾人。彼の軽蔑の眼差しと冷たい声が再び俺に牙を向いた。
「そんなに聞かせたいのかよ、お前の気持ち悪い音」
その瞬間、鷹野の片手が勢いよく彼の胸ぐらを掴んだ。
「おい、あんた今なんつった。和泉くんの音が、何やて?」
今まで聞いたことのない鷹野の低い声。普段の明るくおどけた声からは、とても想像ができない。彼の声には、煮えたぎったマグマのような感情が渦巻いているようだった。
「た、鷹野っ……!」
咄嗟に鷹野に駆け寄り、俺は胸ぐらに伸ばした彼の腕を震える手で掴んだ。しかし彼は手を離そうとはしない。
「あぁ、きみが鷹野くんか。今度の音楽イベントで透と一緒に演奏する相手って、きみなんだね」
「だったら何なん。あんた、和泉くんの何やねん。さっきから和泉くんのこと侮辱しよって。いい加減にしやんと、俺がしばくで?」
「何って別に、同じヴァイオリン教室に通ってた、ただの幼馴染さ。まぁ、そう思っていたのは俺だけだったみたいけど。こいつさ、俺に何て言ってきたと思う?『好き』って告白してきたんだよ。恋人同士になりたいんだって言って」
「え……」
喉が、ひゅっと音を鳴らした。目を見開いたまま俺の体は凍り付いた。小さく開いた唇が小刻みに震えだす。こんな話、鷹野に聞かせたくないのに、やめさせたいのに、俺の声は頼りなく、か細い音しか出てこない。俺はただ、わずかに首を振ることしか出来なかった。
やめてくれ。お願いだ。もうそれ以上、鷹野の前で何も言わないでくれ。
「知らなかった?透は、同性愛者だよ」
鷹野の腕が彼の胸元から離れ、だらりと下ろされた。込み上げる屈辱感と、心をえぐるような恥辱が俺を襲い胸を痛めつける。俺は顔も頭も区別できないくらい、両腕で抱え込むように自分を覆い隠した。こんな形で鷹野に知られたくなかった。自分自身のことも、彼との過去も。鷹野にどんな顔を向けたらいいのか分からない。俺はただ、体を震わせ胸の痛みに耐えながら、ぎゅっと目をつむることしかできなかった。
「……それがどないしたん」
「は?」
「それが、和泉くんの音と何の関係があんねん」
鷹野の真っ直ぐで毅然とした声。その声が、俺を縛っていた糸をわずかに緩め、俺はそろりと顔を上げてゆっくりと鷹野へ視線を向けた。
「……あぁ、そう。そういうことか。納得したよ。きみが透と一緒に音楽イベントに出場するのも、透に対して妙に熱くなっている理由も。きみ、透の彼氏ってやつ?」
途端、軽蔑をはらんだ声が鋭利な刃物となって鷹野へ振りかざされた。
「ほんっと、揃いもそろって気持ち悪――」
「違うっ!!」
俺はつんざくような大声で空気を裂いた。
「鷹野は!鷹野はそんなんじゃない!鷹野は……ただの、ただの……っ友達だ……!俺とは違う、普通、だから……」
上擦っていく声。喉に詰まりながらも俺は必死に声を出す。たとえ口に出すその言葉が胸をきつく締め付けて、潰れそうで、痛くても。
大粒の涙がいくつも頬を伝って流れていく。みっともなく醜態を晒していることは分かっている。それでも俺は、制服に皺ができるほど自分の胸元をぎゅっと強く握り締め、ただただ懇願するように首を垂れて続けた。
「お願いだから、鷹野には、そんなふうに言わないで……。お願い……お願いだから……」
どうして俺は、鷹野に自分の気持ちを伝えられなかったのか、その答えが今、胸の痛みを通してようやく分かった。
鷹野まで周りから白い目で見られてしまうからだ。俺だけじゃなく、鷹野まで否定されてしまう。俺はそれが、ずっと怖かったんだ。
「泣くほどかよ……」
彼はばつの悪い声をこぼして苛立ちを帯びた溜め息をついた。踵を返し立ち去ろうとする足音。その背中に鷹野が声を投げた。
「おい、どこ行くねん!まだ話は――」
「悪いけど迎えの車が来たんでね。それに、これ以上お前たちと話してても気分が悪くなるだけだ。それじゃ失礼するよ」
そう言って、彼は車に乗り込んで俺たちのもとから去って行った。
「……和泉くん、立てるか?」
しゃがみ込んだまま動けない俺に、鷹野はそっと声をかけ、静かに膝をついた。涙がとめどなく流れ続ける。そんな俺の背中に触れる彼の手が、優しくて、温かくて――痛かった。
「……ごめん、鷹野……ごめん……」
「何で和泉くんが謝るん?和泉くんは何も悪いことしとらんやん」
「だって……、俺のせいで、鷹野まで……」
「俺は何も気にしてへんよ。とにかく、こないな場所にずっとおらんと、今日はもう帰ろ。な?」
帰り道はお互い無言だった。並んで歩くのがはばかられて、俺はわざと彼の一歩後ろを歩いた。途中、鷹野が何度か振り返って俺の様子を伺っている気配を感じたが、俺は気付かないふりをして、ずっと自分の足元を見つめていた。
長い沈黙の末、自分の家の前に着いて俺はようやく顔を上げた。「ほなな」と、そっと言葉を添えて鷹野も自分の家に帰っていく。俺は門扉に手を添えるも、開けるのを躊躇った。鏡を見なくても、自分が今どんな顔をしているのか分かる。このまま帰宅して母さんに見られたらさすがに何か言われるだろう。心配させてしまうのが目に見える。でも、繕うほどの気力が今の俺には残っていない。何だか、もう、たくさん疲れた――。
途端、左手をぐんと掴まれ俺は思わずそちらを見上げた。そこには、家に向かったはずの鷹野が立っていた。彼はふっと眉を下げ柔らかく言った。
「うち寄ってきぃや。誰もおらんし、落ち着くまでおったらええ。家も隣なんやし、和泉くんちの母ちゃんもそない言うてきーひんやろ」
何で分かったのだろう。俺が家に帰りたくないと、何となく思っていたこと。
目の奥が、またじんと熱を生む。俺は鷹野の袖の裾を控えめに掴んで、こくりと頷いた。
鷹野の部屋に通されたのはこれが2回目だ。部屋は相変わらず散らかっていて、鷹野は慌てて物を避けて座る場所を作り始めた。以前訪れた時はそんな部屋の様子に呆れ果ててしまったけれど、今はこの光景に何だかホッとしてしまう。
彼が飲み物を持って来ると言って1階へ下りて行った。俺はその間に母さんへ一言連絡を入れておいた。遅くなり過ぎないようにね、と返信が来たのを確認して俺はスマホの画面を閉じた。
ふと、勉強机の横に貼られている用紙に目が向いた。A4サイズほどの紙が壁に何枚も貼られている。近くに寄って見てみると、それは全て手書きで書かれた譜面のようだった。かなり多く書き込みがされていて、消しあとも目立っていた。
「和泉くん、お茶いれたで。……って、あぁ、それ見とったん?」
鷹野がお盆に湯呑を乗せて部屋に戻ってきた。彼は湯呑をちゃぶ台に置きながら続けて言う。
「それな、和泉くんに贈ったオリジナル曲の譜面やで」
「あの曲の……」
「気に入っとるから飾っとんねん。やけど、そうやってまじまじ見られると、ちょっと気恥ずかしくなるな」
俺は、小さく頬をゆるめた。
「鷹野も恥ずかしいって思うことあるんだな」
「当ったり前やん!俺ロボットちゃうで!?」
そう言って鷹野はおどけたような表情を見せた。確かに彼の言う通り、鷹野だって一人の人間だ。普段、表に出さない感情なんて、きっとたくさん内側に持っている。彼が神崎綾人に向けた感情だってそうだ。あんな鷹野は初めて見た。
「鷹野」
「ん?」
「……さっきは、ありがとな。俺のこと庇ってくれて」
「俺はそんな大層なことしてへんよ。頭にきて、ただ思ったことを言うただけや」
俺は首を振って小さく笑みを向けた。
「それでも、嬉しかった。俺のために怒ってくれて。……彼が言っていたことは、本当なんだ。俺が同性愛者なのも、昔、彼のことが好きだったことも」
鷹野は俺が同性愛者だと知っても変わらない態度で接してくれた。俺の音を否定しないでいてくれた。
俺にはもう、それだけで十分だ。
「……鷹野、ずっと黙ってたことがあるんだ。今から話すこと、真面目に聞いてほしい」
俺は鷹野の側まで足を進めると静かに腰を下ろした。彼はこくりと頷く。小さく深呼吸をして俺は口を開いた。
「……俺は中学3年の時、さっきの彼、神崎綾人くんに好きだと告白をしたんだ。そしたら彼に言われたんだ、気持ち悪いって。俺に対しても、俺のヴァイオリンの音に対しても……。それが原因で、俺はヴァイオリンを弾くことが出来なくなった。弾こうとすると、あの時の彼が幻となって目の前に現れるようになったんだ。あの時の光景と言葉が何度も蘇って、震えが止まらなくなった。恐怖に苛まれてどうしようもなくなった俺は、とうとう大好きだったヴァイオリンを手放した。そうすることでしか、俺は自分を保てなかったんだ。それから2年間、俺はヴァイオリンを遠ざけて過ごしてきた。もう二度と弾くことはないと、そう思ってた。そんな俺が、もう一度ヴァイオリンを手にしたのは鷹野のおじいさんが亡くなった後だ。防音室で弾いた、あの時なんだ。お前に、俺の音を聞かせたいと思ったから」
鷹野の瞳が見開く。小さく開いた口は何か言いかけたような気配があったが、彼はすぐにつぐんで俺の話の続きを待った。
「あの時も、彼の幻影は俺の側にいて、こちらをじっと見ていた。耳元で同じ言葉を繰り返し囁かれたよ。それでも、あの時は必死で、無我夢中で、鷹野に聞かせたい一心で弾いてた。だからかな、彼の存在を視界から消すことができたんだ。と言っても、俺の中から彼の記憶が消えたわけじゃない。その後も、いざ弾こうとヴァイオリンを構えると、彼の幻影は俺の前に必ず現れた。老人ホームで俺が初めて舞台に立った時、すぐに弾けなかったのはそのせいなんだ。彼の幻影が怖くて体がすくんでしまった。そんな俺を助けてくれたのが鷹野の音だった。大袈裟かもしれないけど、あのデュオ演奏が俺を救ってくれたんだ」
目を細めて鷹野に微笑みを向けると、彼も眉を下げ、慈しみを帯びた瞳で微笑み返した。
「それからは、鷹野と一緒に演奏していれば幻影は気にならなくなって、段々とその姿も薄れていった。最近までは一人でも弾けるくらい回復してたんだ。でも……、音楽イベントの出場者一覧に彼の名前を見つけた瞬間、また恐怖が蘇った。今度は幻影じゃなく、本人が見ているなかで演奏しなきゃならない。そう思ったら震えが止まらなくなって、俺はまた、ヴァイオリンが弾けなくなったんだ……」
膝に置いていた手をぎゅっと握り、俺は眉を寄せて目をつむった。
「情けないと自分でも思ってる。弱くて、臆病で、彼の前に立つと足がすくんでしまう自分が、情けなくて悔しい……!俺だって、鷹野と一緒にステージに立ちたいのに……!」
固く握った震える手に、鷹野の手のひらがそっと触れた。温かな温度がじんわりと伝わってきて俺の震えを解いていく。その手がゆっくりと俺の両手を包み込んだ。穏やかな声で鷹野が言った。
「俺は、和泉くんの音が好きや」
真っ直ぐ俺を見つめるその瞳が、澄んだ空のように透き通っていて、吸い込まれてしまいそうなほど綺麗な輝きをしていた。
「俺だけやない。ミキちゃんやホームの皆もそう思っとる。和泉くんの音が加わってから、俺だけの演奏やと物足りひん言うじいちゃんばあちゃんもおるくらいなんやで。ホンマ嫉妬してまうわ」
鷹野がニッと歯を見せて苦笑した。ふわりと穏やかな笑みに戻ると鷹野は続けた。
「けどな、皆がそう言うのも分かんねん。和泉くんの音はな、透き通った綺麗な水滴みたいな音がすんねん。曇ったもんを洗い流してくれるみたいな、不思議な音色や。それだけやない。繊細さの中に、青い炎みたいにな、静かに燃える熱いもんが音に宿っとる。みんな、その熱に惹かれてまうんやろな。俺もその一人や。和泉くんは俺の音に助けられた言うたけど、俺かて和泉くんの音楽に救われたんやで。みんな誰しも怖いもんの一つや二つある。俺かてそうやってんもん。俺が今も三味線を弾けとるんは、和泉くんがもう一度、俺と三味線を繋いでくれたおかげや。和泉くんの音が、そうしてくれたんや。せやから他の誰でもない、俺は和泉くんの音やから、一緒に音楽やりたい思ったんやで」
触れていた手のひらに、きゅと力が込められた。
「情けないことなんてない。怖い思たならそう言うたらええ。俺が気ぃ済むまで聞いたるよ。足動かんなったらそう言うたらええ。俺が担いで歩いたるわ。もっと俺をつこてや。むしろそれぐらいさせてや。だって俺たちのステージやんか。和泉くんは一人やないんやで。安心しぃ、俺が隣におる。俺の音で和泉くん支えたる。誰が何て言おうが、天地がひっくり返ろうが、なんぼでも言うたる」
鷹野が、晴天の太陽のように眩しい笑顔を見せた。
「俺は、和泉くんの音が大好きやから!」
瞳の奥がじんわりと熱を帯びて、視界が段々と滲んでいく。俺は鷹野の肩に顔を預け、頬を伝う雫とともに込み上げる想いを言葉にした。
「うん、俺も。俺も鷹野の音が好き。大好きだ」
鷹野の手が背中にそっと触れた。ずっとこのままいたい。そう思うほど、鷹野の腕のなかは温かくて、安心して、陽だまりのように心地よかった。
「ほんならな」
鷹野がわざわざ門扉の前まで送ってくれた。大分と泣きはらしてしまったから、俺の目元はきっとまだ赤いだろう。でも、絡まっていた糸が解けたように肩が随分と軽くなっていた。
もう大丈夫――そう思えるほどに。
「和泉くん」
鷹野が一歩前に出て言った。
「俺な、今までコンクールとか大会とか、順位で優劣つけられるんが納得いかへんかってん。音楽は人を楽しませるためにある。やから、音楽には勝ち負けなんかいらへんと思っとった。それは今でも変わらん。けど、今日あの人に会って、俺、初めて負けたないって思ったんや。イベント当日は順位つけられるわけやないし、あの人がどんな演奏するかも知らん。せやけど俺、あの人よりも、もっと大勢の観客を魅了してやりたい思ってん!和泉くん、俺たちの音楽がどんだけのもんか、あの人に聞かせたろうや!」
鷹野は拳を握ると俺に向けて突き出した。そして、ニッと歯を見せ不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「俺たちの演奏で、観客全員虜にしたるで!」
以前、鷹野が言っていた言葉を思い出した。彼のおじいさんが昔言っていたそうだ。鷹野には人を笑顔にしてしまう才能があるのだと。その通りだと思った。鷹野は不思議な引力を秘めている。彼は大地を明るく照らす太陽だ。人に活力を、動き出すエネルギーを与えてくれる。降り注ぐその輝きに人々は喜びを感じて自然と笑顔になっていく。そんな目の前の太陽に出会い、俺もあっという間に心を動かされてしまった。
拳を作り、俺も不敵に笑って鷹野の目の前に突き出した。
「あぁ!届けよう、俺たちの音楽を!」
俺たちは拳を合わせ、澄んだ秋の夜に確かな決意の音を刻んだ。
音楽イベントまであと1週間。俺たちの晴れ舞台がもうすぐ幕を開ける。




