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第6話

 玄関チャイムを押す指に、少し緊張がはらむ。チャイムを押すと、ドタバタと鳴らす足音が近づいて来るのが分かった。築年数のある木造の建物。すりガラスの木製玄関引き戸が音を立てて開いた。

「和泉くん、待ってたで!」

 今日は休日丸々使って鷹野の家で勉強会だ。と言っても、俺はほとんど鷹野の勉強を見るだけで一日が過ぎるだろう。まるで家庭教師にでもなった気分だ。そうでもしなければ、こいつはまた赤点確実なのだから仕方がない。期末テストまでもうあまり時間はないが、赤点回避できるくらいには何とか持って行かなければならない。今日は邪念を払い、心を鬼にして鷹野をしごいてやるのだ。

 そう、最近はやたらと俺の中に邪念が渦巻く。

 ――和泉くんと一緒におる時だけ、なんや今までとちゃう感じすんねんな。

 『特別』とでも言っているような言い草。先日、鷹野が言ったこの言葉のせいで、俺は変に期待するようになってしまった。

 この間だってそうだ。夜も更けた頃、久しぶりに鷹野の部屋から三味線の音が聞こえたので、注意しようと窓を開けた。すると鷹野はこう言ったのだ。

「あ、和泉くん」

「おいコラ鷹野、前も言っただろ。夜更けに三味線弾くな」

「せやけど、弾いとったら和泉くん顔出すやろ思て」

「はぁ?」

「なんや和泉くんの顔、急に見たなってん」

 その時はソッコーで窓とカーテンを閉めた。顔から火が出るかと思ったから。あの思わせぶりな言動をどうにかしてほしい。変に期待をさせないでほしいのだ。勘違いしてしまう。深読みして、もしかしたら――なんて思う自分がつくづく嫌になる。鷹野はただの友達だ。彼がそれ以上の感情を抱くはずがない。それが世の中の当たり前で、俺のほうが――。

 脳裏に蘇るあの言葉。

 ――気持ち悪い。

 あの時の二の舞は、もう、ごめんだ。

「和泉くん麦茶でええ?」

「あ、あぁ。お構いなく」

 ふと、居間の横の和室に視線を向けると、部屋の端に白く飾られた祭壇が目に入った。遺影と位牌と骨箱。それらを見つめていたら鷹野が促すように言った。

「拝んだって。じいちゃん喜ぶわ」

「あぁ」

 2階の鷹野の部屋に案内され、俺は初めて彼のプライベート空間に足を踏み入れた。窓越しに見るのと実際に部屋に入るのとでは全然見え方が違う。襖の近くに寄せられている敷布団。棚には雑誌やら小箱やら、ガラクタのようなものが乱雑に詰め込まれている。勉強机の上も冊子や紙類がぐちゃぐちゃに散らばった状態だ。何となく想像はしていたが、予想を裏切らない部屋の様子で俺は乾いた笑いがもれた。

 障子の窓に視線を向けると、俺の部屋が真正面に見えた。逆からの景色はこんなふうに見えるのか。鷹野の部屋の窓は内窓があって、ほんの少し腰かけられるスペースがある。鷹野はいつもそこに腰かけて俺と話しているのか。そういう小さな発見があると、何だか新鮮な感じがした。

 クーラーがない鷹野の部屋は、じっとしていると汗が滲んできそうだった。鷹野は部屋の隅に置いてあった扇風機を近くに寄せるとスイッチを入れた。

 円形のちゃぶ台の上に早速教科書とノートを広げる。シャーペンの芯を出しながら俺はふと思って聞いた。

「そういや、今日ご両親は家にいないのか?」

「オトンは仕事。土日祝あんま関係ないねん。オカンは夜勤明けやから昼くらいには帰って来ると思うで」

「ふうん」

「んじゃ、和泉くん先生お願いしやす!」

「何だその呼び名」

 勉強は意外と順調に進んだ。鷹野は途中ぼやきを漏らしていたものの、四苦八苦しながらも何とか問題を解き進めていた。なんだかんだ言ってやればできる。こいつはそういう奴なのだ。

 勉強会を開始して2時間近く。鷹野は低い声を出してぐったりとちゃぶ台に突っ伏した。さすがにぶっ通しでやり過ぎたか。集中力が切れてもしょうがない。

「よし、5分休憩しようか」

「えー!5分だけなん?10分にしよや、10分!」

「しょうがないなぁ。じゃあ10分な」

「へへっ、そんじゃちょっくら三味線弾こかな!」

 急に生き生きとした顔に戻り、三味線を取り出す鷹野。いつもの定位置、窓際に腰かけてゆったりとしたメロディーを奏で始める。俺もその音に静かに耳を澄ませた。部屋に広がる心地のいい響き。聞いていると自然と心も安らいでいく。

 鷹野が奏でるこの音が好きだ。そう思いながら、俺は目を閉じて心地よさに浸っていた。その時だ。

 彼の勉強机から突然雪崩のようにばらばらと物が崩れ落ちる音がした。その音に思わず鷹野の演奏の手も止まる。「ありゃ」と声を漏らし、彼は三味線を置いて拾い始めた。見かねた俺も手をのばす。

「鷹野、もう少し整理整頓したらどうだ」

「えー?今日は和泉くん来るし、これでも片付けたほうやで?」

 これ以上汚かったのかよ!と慄きつつ俺は言葉を返した。

「雪崩起きてんじゃねぇか。あのなぁ、ただ寄せただけなのは片付けたとは言わないんだぞ。本棚も物でぎゅうぎゅう詰めだし、この布団もせめて畳んどけよな」

「もー、なんや和泉くん俺のオカンみたいやわ」

「誰がオカンだ」

 すかさずツッコミを返す俺が面白いらしく、またケラケラと笑う鷹野。拾った冊子を机に戻すと、散らばっている本の間から楽譜のようなものがちらりと見えた。本を持ち上げて端に寄せて見ると、手書きで書かれた三味線用の楽譜が姿を現した。題名の記載はない。

「あぁ、それな。じいちゃんの誕生日に弾いた曲やで」

「例の、おばあさんに贈ったっていう曲だよな。でも楽譜はなかったって言ってなかったか?」

「せやで。やから、俺が記憶たどって書き起こしてん」

「えっ、すごいな、お前……」

 純粋に、心からそう思った。本人は大したことではないように言っているが、普通、記憶を辿って曲を再現するのも、それを譜面に起こすのも簡単にできることではない。生まれ持った音感と感性、これはまさに才能というべきだろう。

 ふと、まだ本の間に埋もれている楽譜があることに気付いた。これも同じく手書きだ。手に取って見るが、この楽譜にも題名が書かれていない。大分と書き直した跡がうかがえる。これもまた、おじいさんとの思い出の曲なのだろうか。

「あっ!それはアカン!」

「え?」

 突然、声とともに勢いよく手が伸びてきた。腕を掴まれ、左肩を押さえられた俺は、その勢いのまま体が後ろに傾いた。

「うわぁっ!」

 背中や頭部にさほど痛みを感じなかったのは、倒れた先がちょうど側に寄せられていた敷布団のおかげだった。目をつむったまま顔を横に傾けると、右頬にふわりとした布団の柔らかな感触と鷹野の匂いが鼻をかすめた。ハッと目を開け俺はようやく状況を把握する。動けない体。のしかかる重力。鷹野が俺に覆いかぶさって一緒に倒れていた。

 急激に上昇する体温と体に走る緊張。心臓の鼓動が段々と早くなっていく。

「た、鷹野……っ!」

「ん……」

 ようやく肘を立ててゆっくりと顔を上げる鷹野。被さる影。俺に当たるはずの部屋の明かりは彼の体ですっかり遮られていた。逆光を浴びる鷹野の顔。その輪郭に光の筋が伸びて陰影が艶めかしく映る。至近距離でぱちりと目が合うと、ひときわ心臓が飛び跳ねて俺は思わず顔を横に背けた。

「は、早くどけ!重いっつの!」

 鷹野はのそりと上半身を起こしたものの、そのまま動く気配がなかった。どうしたのだろうと、俺は目線だけそろりと戻して鷹野の姿を見上げた。

 途端、胸が跳ねた。

 そこにはいつものような冗談めかした表情はなく、代わりにあるのは笑みが消えた静かな表情。けれど、俺をじっと見つめるその瞳には、じんわりと熱が帯びていた。熱い眼差しが俺を捕まえて離さない。

 まるで、逃がさないと言っているかのように、鷹野の手が俺の顔の横に置かれた。彼の影が俺に覆いかぶさる。

「何でやろな……」

 鷹野の右手がゆっくりと俺の左首に伸びていく。やわらかく畳んだ人差し指が、俺の首筋に、つい、と触れた。

「っ……!」

 ぞくりと体に電流が走る。指の背で、さするように撫でるその触り方が、優しいはずなのに、どこかいやらしい。左の首筋、そこにぽつんとある小さなホクロ。彼はそれを執拗に撫で続けた。

「和泉くんのココ、なんや触りたくなんねんなぁ」

 顔が熱い。くすぐったさともどかしさが同時に押し寄せてきて変な感じがする。鷹野に触れられている所がじんじんと熱を帯びて火照ってくる。両手で鷹野の腕を掴むも、退けるほどの力が入らない。

「たか、の……」

 細く開いた目で鷹野を見上げ、俺はしぼり出すように吐息交じりの声で彼に訴えた。

「も……、やめ……」

 その時、鷹野の喉仏が上下に動いた。

 静かな部屋。麦茶に浮かぶ氷が、カランと小さく反響する。遠くで聞こえるセミの音。首を振る扇風機の風の音。そして、大きく鳴り響く自分の心臓の音。それらが妙にはっきりと耳に届く。

 首筋を撫でていた手がするりと頬に滑る。鷹野の大きな手のひらが俺の顔をやさしく支えた。甘い空気に酔いしれるように俺の口は小さく開いていく。ゆっくりと縮まる唇の距離。

 ――あぁ、このまま溶けてしまいそうだ。

「和泉くんいらっしゃい!お昼そうめんやけど、せっかくやから一緒にどない?」

 突然、部屋のドアが開き鷹野のお母さんが顔を出した。

「……あら、二人とも何しとるん?」

 一瞬で夢から覚めたような気がした。早く何か言わなくては。これはちょっとしたアクシデントで、ただすっ転んだだけなんです。そう伝えたいのに口が上手く回らない。焦った俺は咄嗟に鷹野へ振り向いた。お前も黙ってないで何か言え。そう目で訴えようとした――その時、目に入った鷹野の姿に俺は思わず息をのんだ。

 口元を覆い隠しながら、手で顔を押さえる鷹野の姿。目を見開いたその表情は困惑に満ちていた。

「……お、俺ちょっと顔洗ってくるわ!」

 ドタバタと床を鳴らしながら階段を下りていく足音。彼の背中を見送った鷹野のお母さんがこちらに向き直る。

「何やのあの子……。和泉くん、騒がしくしてもーてごめんな。もうちょい大人しゅうせぇ言うとるんやけどなぁ。あぁ、ほんで、お昼作るからよかったら食べてきぃや」

「は、はい……。ありがとうございます」

 鷹野のお母さんはそう言うと部屋をあとにして階段を下りて行った。俺の心臓はまだバクバクと大きく鳴っている。ゆっくりと体を起こし、俺は自分の唇にそっと触れて視線を落とした。

 先ほどの光景が脳裏に蘇る。近付く唇。困惑の色を滲ませた鷹野の表情。もしもあの時、鷹野のお母さんが部屋に来なかったらどうなっていたのだろうか。彼は一体何を考えていたのだろう。俺はただ、からかわれていただけなのか――知りたい。でも、怖くて聞けない。

 収まらない体の熱。俺は胸元をぎゅっと握って唇を噛み締めた。過去の恐怖を振り払えない俺には、この想いをただ押し込めることしかできない。我慢すればするほど、彼への想いは雪のように降り積もる一方だ。恋情と恐怖の狭間で俺はどうしようもなく、ただもがき続けている。

 お昼、食卓を共にした鷹野は元気ハツラツといった様子でいつもの彼に戻っていた。まるで、さっきのことが俺の妄想だったんじゃないかと思うほどに。午後、再開した勉強会で気まずい空気になるんじゃないかと思っていたが、鷹野はあれ以降何もしてくることはなく、話題にも出さず問題集とただひたすらに向き合い続けていた。

「じゃあ、ここと、ここ。あとここの問題は当日までに何回も復習しておけ。基本の公式を押さえていれば何とかなるだろ」

「ホンマ助かるわ。また追試とか、かなわんからな」

「そう思うなら授業中ちゃんと起きとけよ」

「授業中の睡魔ほど抗えんものはない!」

「まったく……」

 あっけらかんと笑う鷹野の姿。本当にいつもと変わらない。そんな彼を見て、どこか取り残されたような気分になっている自分がいた。結局俺は鷹野に期待をしていたのだ。そんな自分が浅ましく思えて心底嫌になる。俺は小さく嘲笑をもらして教科書とノートをぱたりと閉じた。

 玄関まで見送りに出る鷹野が手を振って言う。

「ほんなら道中気ぃつけて帰りや」

「いや、すぐ隣だろ」

 そう返す俺に鷹野が満足げにケラケラと笑う。玄関を開けると、夕方とはいえまだ陽は高く強い日差しが照り付けていた。

「和泉くん」

 鷹野の声に俺は振り向いた。

「期末テスト、俺頑張るわ!全教科赤点回避したるで!」

 親指を立ててニッと歯を見せる鷹野に、俺はいつものトーンで返した。

「当然だ。三味線取り上げられてまた騒がれでもしたら俺も困るしな。テスト期間終わったらまた練習するんだろ?」

「あぁ、そのことなんやけど……」

 鷹野が申し訳なさそうに笑って言った。

「和泉くん家の防音室、ちょっと使うの控えるわ」

「え……」

 なんで――そう言いかけた口を俺は止めた。聞いてどうする。そもそも借りたいと強引に言ってきて、入り浸るように人の家の部屋を練習場所に使い続けてきたことの方がおかしいのだ。鷹野もようやく遠慮というものを覚えた、ただそれだけ――そう思いたいのに、午前中の出来事が頭をかすめて俺の胸を締め付ける。段々と視線が足元へ落ちていく。

「……そうか」

 俺は固まった笑みを頬に貼り付けそう言って踵を返した。もう一度、鷹野の顔を見る勇気が俺にはなかった。


 期末テストが明け、返ってきた答案用紙を見て俺は肩を落とした。何となくそうだろうとは思っていたが、案の定いつもより点数が取れていなかった。当日、俺はテストに集中できなかったのだ。ここまで影響が出てしまうとは。自分が相当重症なのだと改めて自覚した。

 勉強会の日、鷹野が俺の家の防音室を使わないと告げた。その言葉の裏には、俺と距離を置きたい――そういう意味合いが隠れているようでならなかった。

 鷹野は表面上はいつもと変わらない。返却された彼のテストは宣言通り全教科赤点を回避し、彼は大いに喜んでいた。ただ、俺に対する接し方が少し変わった。簡単に抱き付いたり、スキンシップをしてこなくなったのだ。

 先日、俺が落とした消しゴムを鷹野が拾ってくれたことがあった。彼は差し出した俺の手が見えていたはずだ。けれど、見えていないふりをし消しゴムは机の上に置かれ、俺の手だけがその場に虚しく残されてしまった。さらには、掃除の時間、たまたま鷹野と肩がぶつかってしまったことがあった。その時は一瞬固まった表情を見せて、「ごめんやで」と苦笑しながら明らかに目を逸らされたのだ。湊や、クラスメートには肩を組んだり体を使ってふざけ合ったりするくせに、俺に対してだけ、些細なことでさえ触れることにぎこちなさが表れはじめた。

 俺は理解した――あぁ、避けられている、と。

 ――気持ち悪い。

 あのとき浴びた呪いの言葉が俺の胸を幾度も刺す。この痛みを、俺はどれだけ繰り返さなければならないのだろう。

 それでも日常は続いていく。淡々と毎日が巡っていく。俺は笑顔の仮面をつけて、毎日炭のようにボロボロと崩れていく心を隠して生きていかなければならない。

 心底思う。恋なんて、したくなかったと。

「――る、透!」

 湊の声に、俺はハッとして前を向いた。

「あ……、え、ごめん何?」

「だーかーらー、今度の休みカラオケ行かない?って話!」

 前の席に座っている湊が俺の机に頬杖をつきながらそう言った。

「あー……。悪い、俺はいいや。テスト結果の見直ししたいし」

「透、真面目過ぎでしょ。休日は遊ぶ為にあるんだぞ!んじゃあ、鷹野くんは?」

「俺も用事あって無理やねん。ごめんやで」

 湊ががっくしと肩を落として溜め息を吐いた。

「そっかぁ……。まぁ、もうすぐ夏休みだし、そん時に行くってのでもいっか。8月には花火大会もあるし、それは一緒に……って、透は無理なんだっけ?」

「……うん、ごめん。今年もやめとく」

「和泉くん、花火大会の日、何かあるん?」

「あ、いや、えっと……」

 歯切れの悪い俺の代わりに湊が口を開いた。

「透は花火大会と夏祭りが行われる神崎神社が何か苦手らしいんだよ。中学まではよく一緒に行ってたんだけど、2年前からだっけ?近くに行くと体調崩すようになってさ、だから初詣もあそこには行かないんだよな」

 神崎神社――そこは、神崎綾人の実家だ。彼は県外の音楽系の大学に進学したと噂で聞いた。けれど、時期的に帰省しているかもしれないし、そうでなくても、彼と関係がある場所には行きたくない。足を運ぶだけでも息苦しくなってしまい、今でも近付くことが出来ないのだ。極力、彼という存在から遠ざかりたくて、あの告白の日以降、俺は神崎神社へ行くのを避けている。

「家からでも花火は一応見えるし、俺はそれで十分だよ。当日は湊と鷹野で行って来いよ。クラスの奴も誘えば賑やかで楽しくなるんじゃないか?」

 俺は話題を切るように席を立った。

「透?」

「喉乾いたから、自販機で何か買って来る」

 勉強会のあとからだろうか。鷹野と俺は、また登校時間が別々になった。どちらから言ったわけではない。自然と、そうなっていった。

 鷹野が俺の家の防音室を使わなくなってからも、彼は学校に三味線を持ってきているようだった。でも、校内で弾いている様子はなかった。鷹野は放課後になると、すぐに教室を出て行くようになった。どこへ向かっているのか、校門の外へ急いで走っていく彼の様子を、教室の窓から見かけたことがある。段々と小さくなっていく背中。俺にはその姿が、まるで存在ごと遠くなっていくようにも思えてならなかった。

 それは休日の午後のことだった。

「あれ?もしかして壊れた……?」

 長年使っていたヘッドホンの寿命がとうとう尽きてしまった。無くて困るという物ではないが、ここのところ勉強にも身が入らなかったし、気分転換も兼ねて買い替えよう。俺はそう思い、大型ショッピングモールへ出かけることにした。

 栄えている大きな駅に来るのは久しぶりだ。休日は行き交う人々で混雑していた。買い物を済ませた俺は、迷路のような通路と人の波を潜り抜け、ようやく駅の改札へと辿り着いた。

 その時だった。

 ふと、視界の端に見慣れた姿が映った気がして、改札の向こう側に視線が向いたのだ。そして、その光景を目にした途端、俺の体は思わず凍りついた。

「え……」

 そこには、女性を抱き締める鷹野の姿があった。彼の顔を見間違うはずがない。体格、服装、そしてその背中に背負っている三味線のケース。間違いなく鷹野だった。顔を上げたその女性の横顔を見て、胸の痛みと同時に納得感が入り混ざった。

 あぁ、何だやっぱりか――そう思った。鷹野に抱き締められていた女性は、髪をおろしてお洒落に着飾った三木さんだったのだ。

「和泉くん」

 机に突っ伏していると、隣の席から鷹野の声がした。俺は顔を上げず低い声で返した。

「……何」

「夏休み前に、またホーム一緒に行かへん?」

「……行かない。お前一人が行けば十分だろ」

「やけど、ほら、前に俺と一緒に演奏したやん?あれで和泉くんの演奏また聞きたい言うとるじいちゃんばあちゃんがおんねん。ミキちゃんもな、凄く良かった言うとって――」

 俺は大きな音を立てて勢いよく立ち上がった。

「……和泉くん?どないしたん?」

「行かないって言ってるだろ……」

 俺は机に置いていた手をぎゅっと握り、下を向いたまま続けた。

「お前、俺ん家の防音室使わなくなってから、別の場所で練習してるだろ。その場所、当ててやろうか」

 放課後、一目散に学校を出て行く鷹野の姿。三木さんとの逢瀬。俺の知らないホームの会話。わざわざ向かうその場所は――。

「老人ホームだろ」

 鷹野の表情が意表を突かれたように固まる。外れてほしい。その思いを嘲笑うかのように鷹野の反応が正解だと物語っていた。潰れそうになる胸の痛みと、ぐちゃぐちゃにおかしくなりそうな頭の中。俺はもう、どんな顔をしたらいいのか分からなくなっていた。

 ただただ、恋に翻弄される自分の姿があまりにも滑稽で、気付いたら口から乾いた笑いがこぼれていた。

「図星かよ……」


 夏休みに入って、あっという間に半分が過ぎた。あれから鷹野とは口を利いていない。俺は部屋のカーテンを引いて彼の部屋からも自分の部屋からも姿が見えないように遮断した。夏休み中、鷹野の姿は一度も見ていない。

 リビングへ下りると、ちょうどテレビから有名な花火大会の話題が流れていた。この地域も今日は神崎神社の夏祭りだ。テレビが天気予報に切り替わり全国的にどこも快晴だと伝えていた。気温は高いが絶好の祭り日和のようだ。きっと夜には花火も上がる。家からでも見れるが、とてもそんな気分にはなれそうにない。

 朝食をとっていると、洗濯かごを抱えた母さんがリビングに顔を出して聞いてきた。

「透、今日の夜どうする?」

「え、夜?なんで?」

「何でって、今日は透の誕生日でしょ。ちょうどお祭りもあるし、お友達と出かけるなら屋台で何か食べるでしょ?お寿司とかお肉とか注文しようと思うんだけど、帰ってから食べれそう?あとケーキは何がいい?好きなもの買って来るから言って」

 すっかり忘れていた。俺はリビングのカレンダーに目をやった。8月11日。今年はお祭りの日と自分の誕生日がちょうど被っていたのだ。

「あぁ……、お祭りは行かないから家で食べるよ。ケーキも別に、何でもいい」

「あらそうなの?鷹野くんでも誘って行って来たらいいのに」

 母さんの何気ないその言葉に、箸を持つ手が止まった。フッと嘲笑が漏れ、そして聞き取れないほど小さな声で俺は呟いた。

「……誘えるわけないだろ」

「じゃあ、お寿司はお父さんと透と私の分で一人前ずつ注文しておくわね。ケーキは本当に何でもいいのね?」

「うん。あぁ、あと今日も一日図書館で勉強するから。夕方には帰るし、遅くならないようにはする」

「……ねえ透、そんなに勉強ばっかしなくても、もっと遊んでもいいのよ?夏休み入ってからずっと図書館で勉強してるじゃない。たまには羽をのばして――」

「ごちそうさま」

 俺は朝食を半分以上残して席を立った。

 家にいると鷹野の存在がどうしてもちらついてしまい集中が出来なかった。だから俺は毎日図書館へ行って勉強をした。あの時と同じだ。2年前、彼に振られヴァイオリンが弾けなくなったあの時も、同じように勉強に没頭して目を逸らしてきた。他のことに集中していないと、負の感情にのまれてしまいそうだったから。結局、ヴァイオリンは鷹野と一緒に演奏したあの日以降、一度も弾いていない。

 ――あぁ、あの演奏、すごく楽しかったな……。

 俺は電車に揺られながらボックス席の窓際に頬杖をついて、遠い過去を懐かしむように景色をぼんやりと眺めていた。

 その時だ。席の向かい側から子供のすすり泣く声が聞こえた。俺はびっくりして思わず前を向いた。座っているのは小学校低学年くらいの男の子ふたり。顔がよく似ているので、おそらく双子なのだろう。彼らは俺が座席に座ったあとに、「ここ、空いていますか?」と声をかけて座ってきた。親が付き添っている様子はなく、多分二人だけで電車に乗ったのだと思う。そのうちの一人が急にポロポロと泣き始めたのだ。

「しゅんちゃん泣いたらだめだよ」

「みぃくん、ほんとにおばあちゃんに会えるのかな?」

「だいじょうぶだよ。ママが書いてくれたとおりに行けば着くよ」

「でんしゃ、どこでおりる?」

「んと……」

 みぃくんと呼ばれていた子がリュックからメモを取り出して広げた。

「め……い、けさ……えき?」

「それ、つぎ?まだ先?」

 するとその子も次第に困惑した表情へと変わっていき、とうとう堪え切れず涙を流し始めた。目の前で泣くこの子らを放っておけるわけもなく、俺は見かねて声をかけた。

「ねぇ……、そのメモお兄さんにも見せてもらえるかな?降りる駅、分かるかもしれないから」

 みぃくんと呼ばれていた子が、こくりと頷きおずおずと紙を差し出した。メモに書かれていたのは俺もよく知っている駅名だった。ここからあと3駅先だ。正しい駅名と、3駅先だと伝えたが、それでも彼らの不安そうな表情は消えなかった。メモにはまだその先の乗り継ぎ手順が書かれている。駅を降りて終わり、ではなかったのだ。この年頃の子たちにはまだ難しいのだろう。本当は次の駅で降りるはずだったのだが、この子たちが無事に目的地まで辿り着けるかも不安だ。仕方がない。

「一緒に、行こうか?」

 そう伝えると、双子はぱあっと顔を明るくした。

 彼らの降車駅に着き、俺は一緒に改札を出た。駅前にはバス停が広がっている。電車の次はこのバスへの乗車だ。彼らの行先は3番乗り場になる。向かっていると、ちょうどバスもやって来た。俺は二人の目線に合わせるように屈んで双子の背中に手を当てた。

「ちょうど来たみたいだね。このバスに乗って、5駅目が降りる駅だよ。降りる時は席の側にあるボタンを押したら止まってくれるから。あとは二人だけで大丈夫かな?」

 すると、二人はもじもじとし始め俺の服の袖をきゅっと握った。両方からつぶらな瞳で訴えかけてくる。

「わ……分かった、俺も一緒に乗るよ……」

 そう言うと彼らは安心した顔で俺の手をきゅっと握ってきた。図らずも、双子の愛おしい仕草に俺の胸はときめいてしまった。

 電車の中で少し話を聞いたが、彼らの母親はあとでこの子たちと合流することになっているらしい。おばあさんはとても優しい人で、会うのをとても楽しみにしているのだと教えてくれた。

 バスに乗車し俺を挟んで座る双子たち。出発までの間、自分たちのお菓子をくれたりと、俺は双子たちにすっかりなつかれてしまった。バスが発車してしばらく。次の降車駅を報せるアナウンスが流れると、俺は双子たちに教えて彼らにボタンを押してもらった。バスのボタンを押すのは初めてだったようで、二人とも楽しそうに笑顔を浮かべていた。

 バス停に到着し、俺も一緒に下車する。バス停で待っていたらそのうち彼らの母親が迎えに来るのだろう、俺はそう思っていた。しかし、バスを降りるや否や彼らは俺の手を引いて、「こっち!」と促してきた。

「え、ちょっ、待ってそっちは……!」

 メモ用紙を受け取って、書いてある駅名と彼らの話を聞いてもしかして、と予感はしていた。そのバス停の名前が、俺もよく知っている見慣れた名前だったからだ。

「ここにおばあちゃんがいるの!」

 その子が指差す先は、凹凸のある四角い形をした白い外壁の建物。敷地の入り口に設置された看板には見慣れた文字が刻まれている。特別養護老人ホームなごみ緑寿苑――そこは、鷹野とよく来ていた老人ホームだった。

 こういう時、子供の引っ張る力は強い。俺は、あれよあれよという間にエントランスまで連れてこられてしまった。

 久しぶりに足を踏み入れた老人ホーム。どうしよう、三木さんと顔を合わせづらい。それに、もしかしたら鷹野も施設内のどこかにいるかもしれない。早くこの場から去らないと――。

「あれぇ?もしかして和泉くんかい?」

 お年寄りの声。振り向くより先に双子たちが声高らかに駆け出した。

「おばあちゃん!」

 振り返ると、嬉しそうな声で双子たちの肩を抱く車椅子のお年寄りがいた。彼女は確か、鷹野が「みっちゃん」と呼んでいた――光代さんだ。

「あのね、このお兄ちゃんがね、ここの行きかた教えてくれて、一緒に来てくれたの」

「そうかい、ありがとうねぇ和泉くん」

「いえ……、俺は大したことはしてないですよ。ただ付き添っただけで……」

「そんなことないのよ。遠い所からこの子たち二人だけでこんな場所に来るなんて、きっと心細い大冒険だったんじゃないかねぇ。でも、和泉くんがいてくれたからこの子たちも不安が和らいだんじゃないかい?誰かが側にいてくれるのと、いないのとでは全然違うからねぇ。和泉くん、この子たちを無事に届けてくれてありがとうね」

 光代さんの温かな笑顔と双子の愛くるしい笑顔。その姿に、俺の心はほんのりと温まり頬がふわりとゆるんだ。

「あ!ママだ!」

 双子たちがエントランスの入り口へ駆けていく。二人を抱き締める女性。ようやく彼らの母親も合流できたようだ。

「そういえば、和泉くん、今日は楽器持ってないんだねぇ」

「あ……えぇ、はい」

「かずくんとの演奏、あれとっても良かったから、また聞かせてちょうだいな」

 胸がチクリと痛む。多分、鷹野との共演はもう――。

「最近、かずくんがよく来てくれるのよ。もちろん演奏しに来てくれるんだけどねぇ、最近はそれだけじゃなくて、皆の話し相手になってくれたり、散歩に付き添ってくれたり。アルバイトっていうやつかね?職員さんのお手伝いをしてるみたいだよ。夏休みになってからは一日中いることもあってね、かずくんがいると本当に賑やかで楽しくなるねぇ」

 初耳だ。鷹野がここでアルバイトをしていただなんて。彼女がいる職場でのアルバイト。一緒にいる時間も共有できて、おまけに大好きな三味線も弾ける。さぞ毎日楽しいことだろう。

「なんでも、近々大事な発表会があるとかで、あそこの談話室とか外のお庭のベンチとか、色んな所で練習してるんだよ。偉いよねぇ」

「大事な発表会?」

 鷹野は大会やコンクールといった類には参加しないと言っていたが、どういう風の吹き回しなのだろうか。

「お、小川さん!」

 後ろから慌ててそう呼ぶ声が聞こえた。聞き慣れたこの声は――。

 振り向くと三木さんがこちらに向かって来るのが見えた。彼女は光代さんの側に寄ると、俺のことをチラチラと気にしながら何やら小声で伝えていた。しかし、光代さんの耳にはよく届いていないらしい。彼女が何度か聞き返していると、三木さんはとうとう腹から声を出て言った。

「だからね!そのことは和泉くんには内緒だって、一輝くんが言ってたでしょ!?」

「あれぇ?そうだったかい?」

「あっ……」

 三木さんが「しまった」という表情を浮かべながら俺のほうを向いた。

 受付を済ませた光代さんの家族が、「では」と言って談話室へ向かっていく。その姿を笑顔で見送ると、途端、俺は三木さんに腕を掴まれた。彼女はぶんぶんと首を動かして周りを確認すると、「ちょっと来て」と言い、そのまま俺は中庭へと連れて行かれた。

「あの……、何なんですか?」

 すると彼女はいきなりパンっと両手を合わせ、頭を下げた。

「お願い!さっき小川さんが言ってたこと、聞かなかったとこにしてくれないかな!?」

「……どういうことですか?発表会があるとか言ってましたけど、俺に内緒って……」

「え、発表会?」

「……え?」

「小川さん発表会って言ってたの!?やだ、私てっきり……あ、でも意味合いとしてはあながち間違ってない……?って、これ私が余計なこと言っちゃったってことじゃない!わー、やってしまったー!」

 三木さんは大きな独り言を言いながら頭を抱えていた。

「あの……、俺がそれを知ったところで別に何にもならないと思いますけど。鷹野がどこで何を披露しようが俺には関係のないことですし」

「もー、何言ってるの!大アリなんだから!」

 三木さんは額に手を当てて溜め息をつくと、「もう、しょうがないか」と呟き、人差し指を俺に向けて言った。

「あのね和泉くん、これはきみの為なのよ!」

「え……?」

「一か月くらい前かな。一輝くん、ここを練習場所として使わせてほしいって頭を下げに来たの。掃除でも雑用でも何でもするからって。急にそんなこと言い出すもんだからびっくりしちゃったわよ。それで理由を聞いたらね、和泉くんに贈りたい曲があるんだって言ったの。サプライズにしたいけど、いつもの練習場所だとバレちゃうからここを使わせてほしいって」

 じゃあ、俺の家の防音室を使わないと告げたのも、放課後すぐにここへ向かっていたのも、俺のために内緒で練習するため――。

 でも、だからと言って三木さんと鷹野が深い関係であることに変わりはない。練習の合間だって、きっと二人で楽しく話したり、笑ったり、一緒に出掛けたりしていたんだ。結局、特別感を出されたところで俺と鷹野の間には越えられない大きな境界線がある。俺は男で、鷹野も男。友達以上になんか、なれやしないのだ。

 こんな報われない想いを抱えたまま、その曲を素直に受け取ることなんて、俺には出来ない。

「……三木さん、鷹野に言っといてください。そんなことしなくていい。曲もいらないって」

「え?ちょっ、和泉くん何言って――」

「そういうのは、目の前にいる本当に大切な人に捧げるべきだって伝えてください」

 踵を返し、その場を去ろうとすると俺は腕を掴まれ引き止められた。

「何それ。聞き捨てならない。それって、一輝くんの努力と気持ちをけなしてるのと同じだよ。一輝くんは和泉くんのことを大切に思ってるから、その気持ちを曲にして毎日頑張って練習してるんだよ?なのに、何でそんなこと言えるの!?」

 俺は奥歯を噛み締めると、溜まっていた黒い感情を吐き出すように彼女へ言い放った。

「その大切の意味が!俺とあなたとでは全然違うじゃないですか!!」

 ――あぁ、こんなのただの八つ当たりだ。彼女に当たったところで何も変わりやしないのに。俺は本当にかっこ悪くてどうしようもない。

「私……?何でそこで私が出てくるの?」

 彼女の表情が困惑していた。誤魔化すような様子でも動揺する様子でもない。本当に何を言っているのか分からない、そういう表情だった。

「何でって……。だって三木さん、周りには内緒で鷹野と……付き合ってるんでしょう?」

「はい……?」

 三木さんは、ゆっくりと自分のおでこに手をやって考え込むように険しい顔で続けた。

「え、ちょっと待って。何がどうなってそうなるの?私が?一輝くんと?なんで?」

「だって、普段から二人とも仲良いですし……、特別感あるし……そ、それに!俺この間見たんですから!三木さんと鷹野が駅で……だ、抱き合ってるところ!」

「え、ちょっと待って?それ和泉くんの捏造じゃなくて?」

「本当です!ちょうど先月の今頃です。確かに三木さんでした!髪おろしてて、白のワンピース着てましたよ!」

「先月、髪おろして白のワンピース、駅……あぁ!思い出した!あの日ね!」

「ほら、やっぱり合ってるじゃないですか……」

「いやいや、あれは事故よ事故!あの日は推しのライブの日だったのよ。駅で一輝くんと偶然会って話してたら人とぶつかっちゃってね、転びそうになった私を一輝くんが支えて助けてくれたのよ。本当にそれだけ。私と一輝くんは付き合ってもいないし、そういう感情も一切ありません!そもそも私、年上が好みだし一輝くんは恋愛対象外よ。あっ、でも一輝くんの演奏は大好きよ!この間、和泉くんの演奏も聞いて私もうすっかり二人のファンになっちゃて――」

 彼女の後半の言葉はあまり頭に入って来なかった。三木さんが嘘やごまかしが下手なタイプだというのは、先ほどの慌てっぷりで何となく分かってしまった。この人は感情を素直に表に出す人だ。だから、今、彼女が言ったことはきっと本当のことだと、そう思えた。

 俺は脱力してその場にしゃがみ込んだ。

「わっ、和泉くん大丈夫!?」

 恥ずかしい。恥ずかしくて顔が上げられない。勝手に勘違いして三木さんにも八つ当たりして、ずっとぐるぐると思い悩んで空回りしていた自分が恥ずかしくて堪らない。

「ねぇ、というか和泉くんって、もしかしてそういうこと?」

 三木さんがしゃがんで小声で聞いてきた。俺はびくりと肩を跳ねらせて顔を上げた。喉の奥がヒュッと締まる。早く弁解しなければ。これは何でもないのだと。恋愛感情などないのだと。じゃないと――。

 脳裏に蘇る過去の記憶。軽蔑の眼差し。冷たい声。否定の言葉。それらが容赦なく降ってくる――。

「素敵ね」

「へ……?」

「高校生らしく青春してるって感じで素敵じゃない。んー、甘酸っぱいわぁ!」

「で、でも……俺、男……」

「人を心から好きになるって、素敵なことよ。愛することも、いとおしく思うことも。和泉くんは一輝くんのことを好きになった。『好き』っていう、素敵な感情を抱いた。ただ、それだけのことだよ」

 すると遠くから三木さんを呼ぶ声が響いた。

「やばっ!課長だ、仕事戻んなきゃ!それじゃ、私は行くね!」

 三木さんは俺に、「がんばれ!」とエールを送るようにガッツポーズをしながら施設に戻っていった。

 ――『好き』っていう、素敵な感情を抱いた。ただ、それだけのことだよ。

 そんなふうに言われるなんて夢にも思わなかった。

 ずっと、これは穢れた感情なのだと思っていた。だから口にしてはならない。悟られてはいけない。そう思ってひた隠してきた。

 張り詰めていた糸がふっと緩み、三木さんの言葉がじんわりと胸に沁みていく。気を緩めたら思わず泣いてしまいそうで、俺はきゅっと唇を結んだ。

 バス停に戻る途中、植栽の隙間から食堂の様子がチラリと見えた。お昼の準備で忙しそうに動く職員に混ざり、配膳を手伝うエプロン姿の鷹野が見えた。俺の足は止まり、彼の姿を自然と目で追っていた。

 暖色の音色を響かせる胸の鼓動。穏やかな余韻を抱きながら、俺は老人ホームを後にした。

 結局、その日は図書館に行くのをやめてそのまま家に帰った。帰宅してからは、ぼんやりと考えごとをしながら過ごしていた。夕方には、鷹野は湊やクラスの友達とお祭りにいくのだろうか、とか、本当は俺、鷹野と花火見たかったんだな、とか。

 花火を誘うにしても、そもそも俺は神崎神社には行けない。きっと体調を崩してしまう。鷹野はまだ、老人ホームでアルバイト中だろうか。スマホを手に取ってそういえば、と今更になって気付く。俺たちはまだ、連絡先の交換をしていなかった。その必要がないくらい、いつも隣にいたから。1分、1秒。会えない時間がこんなにも長く感じるなんて。

 ――会いたい。鷹野に、会いたい。

 夕方、母さんが夕食の準備をしている側で俺はリビングのソファに座ってテレビを眺めていた。インターホンが鳴ると、母さんは「手が離せないから」と言って俺を玄関に寄越した。そういえば親戚からお中元が届くと言っていたな、そう思いながら玄関を開けた。

「はーい」

 その瞬間、目にした光景に俺の時間は一瞬止まった。

「あ、和泉くんや!おこんばんは!」

「た、かの……」

 白地に大きな柄が入ったTシャツ。ダボついたカーキのズボン。その背中には三味線ケースを背負っている。鷹野は持っていた白いビニール袋を掲げた。

「外、行かん?一緒に食べよや」

 そう言って彼が小首を傾げると、右耳に付けた彼のピアスがさらりと揺れた。

「……ちょ、ちょっと待ってろ!」

 俺はリビングに戻って母さんに声をかけた。

「母さんごめん!俺、ちょっと鷹野と外行ってくるから晩ご飯あとにする!戻ったら食べるから先食べてて!」

「えっ、もう出来るのに」

「ほんとごめん!」

 急いで部屋に戻り財布とスマホをズボンに突っ込んで階段を駆け下りた。リビングを通り過ぎようとした時だった。母さんが俺を呼んだ。

「透!」

「なに!?」

 俺は逸る気持ちを押さえながら、急く足をいったん止めて顔を向けた。

「どうせなら花火も見て来なさいよ。終わったら真っ直ぐ帰ってくるのよ」

「……うん!」

 急いで玄関へ向かい、もう一度ドアを開く。オレンジ色の夕日に照らされた鷹野の姿。目が合うと彼が飴色に微笑んだ。

「えらい早かったなぁ。電光石火かいな」

「……うっせぇよ」

「ほな、行こか」

 鷹野が歩き出したのは駅へ向かう道だった。神崎神社とは真逆の方向だ。途中、すれ違った女の子たちは浴衣を着て小高い下駄の音を鳴らして歩いていた。きっと神崎神社のお祭りに向かっているのだろう。歩くたび、鷹野が手にしているビニール袋がかさかさと小さく鳴った。俺は指差して聞いた。

「鷹野、それって……」

「あぁ、神社の祭り寄って屋台メシいくらか買うて来てん」

「あ、なら払うよ。いくらだ?」

「ええてええて、こんぐらい。今日は俺のおごりや」

 視線が足元に落ちる。俺は少し躊躇いながら聞いた。

「……良かったのか?湊たちと一緒じゃなくて。祭りの空気とか好きそうじゃん、お前」

「せやなぁ、祭りも花火も海も山も川もみんな好きやで。大勢で集まってワイワイすんの楽しいしな!でも、今日は俺、和泉くんとおりたいねん」

 不意打ちの言葉に俺の胸が高く跳ね上がる。広がる頬の熱。今なら、赤く染まっていても夕日のせいに出来るだろうか。

 駅に着くと、いつもより人が多く感じた。浴衣姿の人たちもより多く目につく。しかし鷹野は人の波とは真逆の方向に向かっていく。彼は一体どこへ行こうとしているのだろう。

 電車に揺られてしばらく。降りた先は以前一緒に行った楽器店のある駅だった。鷹野が向かったのは楽器店から少し歩いた先。公園だった。彼はそのままベンチへと足を進めた。

「和泉くん、こっち座りぃ」

 空いているスペースをトントンと軽く叩く。腰を下ろすと、鷹野はビニール袋から白いパックを取り出して俺に差し出した。パックの底はまだほんのりと温かい。開くと、甘辛くて香ばしい焼きそばの匂いがふわりと漂った。

「たこ焼きも買うてあるで。こっちも食べや!せや、飲みもんもいるな。自販機で買うて来るけど、和泉くん何がいい?」

「じゃあ、お茶で。今、お金出すから――」

「ええてええて。言うたやろ、今日は俺のおごりや」

「じゃあ……お言葉に甘えて」

 何だか、至れり尽くせりだ。俺は公園を見渡した。カラフルな遊具たちが夕日に照らされてまばゆい暖色に染まっている。この時間帯は、もうどこの家庭も夕飯時なのだろう。公園で遊ぶ子供の姿はどこにもいない。鷹野と二人きりの黄昏の時間だ。

「ほい、和泉くんの分」

「あぁ、ありがとう」

 一緒に食べながら、鷹野は小さい頃おじいさんと一緒に行ったお祭りの話をしてくれた。金魚すくいが下手だったこと。かき氷を食べて舌の色を見せ合いこするのが楽しかったこと。はしゃぎすぎて迷子になったこと。釣ったヨーヨーで遊んでいたら急に破裂して驚いたこと。どの話も鷹野らしくて思わず笑ってしまった。そこらじゅうに灯る橙色をした屋台の明かり。その中を、幼い鷹野が笑顔いっぱいに駆け回る姿が目に浮かぶ。今の鷹野も同じことをしそうだと伝えると、「さすがに迷子にはならへんよ」と口を尖らせて言い返された。

 屋台メシは少し冷めてしまっていたけれど、ベンチに座って話しながら鷹野と食べた焼きそばとたこ焼きは、ソースたっぷりで味わい深く、そして、じんと沁みるように温かかった。

「日、落ちてきたな」

 鷹野が空を見上げて言う。夕暮れから夜の景色に移り変わる空。公園のライトもぽつぽつと点き始めた。

「和泉くん、ちょっとこっち来てくれへん?」

 そう言って鷹野が三味線ケースを背負って立ち上がった。言われるまま鷹野のあとをついて行くと、彼は公園の一角に設置されているカラフルなスツールの側で足を止めた。人ひとりが余裕で座れる大きさのスツールがまばらに5つほどある。鷹野はその中の一つを指差した。

「ここに座っとって」

 そして彼は三味線のケースを開き始めた。

「和泉くんにな、聞いてほしい曲があんねん」

 ――理由を聞いたらね、和泉くんに贈りたい曲があるんだって言ったの。

 三木さんと別れたあと、彼女のその言葉がふわふわと胸の中を泳いでいた。俺に贈りたい曲、それはどんな曲だろうか。俺も知っている曲か、あるいはクラシック曲の三味線アレンジかもしれない。想像して胸が高鳴る自分がいた。

 鷹野が織りなす音は胸にするりと浸透して心地良く響く。最後に鷹野の三味線を聞いたのは勉強会のあの日だった。夏休みに入る前だから、もう一ヶ月近く聞いていないことになる。次はいつ聞けるだろうか、そう思っていた矢先だった。夕方、鷹野が家に訪ねて来たとき俺は彼の姿を見て、「あぁ、きっと、それが今日なんだ」と確かな予感を抱いた。

 わずかな琥珀色を残して西の空が夜に染まっていく。公園の灯りが鷹野をくっきりと照らし出す。まるでスポットライトのようだ。彼は俺と向かい合わせになるように腰かけると柔らかく微笑んだ。

「和泉くん、今日誕生日やんな。プレゼント何がいいかな思て色んなもん考えたんやけど、やっぱり俺にはこれしかないな思て、曲贈ることにしてん。俺から、おめでとうと感謝の気持ちや。受け取ってや」

 鷹野が三味線を構える。降り注ぐ照明のもと静かに始まった演奏。その旋律を耳にしてすぐに分かった。この曲は、パッヘルベルのカノン。クラシック曲の定番だ。最初こそゆったりとした導入だったが、癒しや優雅さといった表情を一歩下げて、音を弾ませて楽しさを掻き立てるような明るいテンポと曲調に仕上げている。何とも鷹野らしい三味線アレンジだ。

 目の前の人を楽しませたい、鷹野は前にそう言っていた。もしかしたら、それが彼の信条なのかもしれない。その言葉の通り、俺の心も自然と沸き立ってくる。

 そして、この曲に込められた想いはまだ他にもある気がした。曲を通して伝わってくる鷹野の感謝の気持ち。思い出すのは、あの日の防音室。鷹野に披露したヴァイオリン演奏。感情を吐き出した彼の涙と、晴れやかな表情。

 鷹野がカノンを選んだ理由、それはもしかしたら、あのとき俺が弾いた悲愴のアンサーなのかもしれないと思った。深い悲しみを受け入れ、その想いとともにまた歩んでいく――そう語りかけているようにも思えたのだ。

 優しい旋律。小刻みに震える弦。まるで光の粒が舞い散るような美しい音色。こんなに素敵な誕生日プレゼントは他にない。どんな物にも換えられない、かけがえのない大切な贈り物だ。俺は胸いっぱいに響く鷹野の音を抱き締めて、その演奏を宝箱に収めるように大切に受け取った。

 演奏が終わると、俺は沸き立つ心のままに拍手を送っていた。

「ありがとう鷹野。俺の誕生日、覚えてくれてたんだな」

「当たり前やん、聞いたの俺やし!どや、なかなか良いアレンジやったやろ!」

 その自信満々な言い回しに思わず吹き出して返す。

「自分で言うのかよ。でも、確かに鷹野らしいなって思ったよ。何だか追い風に乗ってるみたいに楽しい気分になった。すごく良かったよ」

 鷹野は満足げに笑顔を見せると、一拍置いて改まって姿勢を正した。

「実はな、和泉くんに聞いてほしい曲、もう一つあんねん」

「もう一曲?」

「せや。この曲は和泉くんをイメージして作った、俺のオリジナル曲や」

「鷹野の、オリジナル曲!?」

 彼は照れくさそうに頷いた。そして、大きく深呼吸をすると俺を真っ直ぐ見つめて言った。

「俺の全部を詰め込んだ一曲や。せやから、和泉くんも真剣に聞いてほしいねん」

 鷹野の表情から、いつものひょうきんさが消え、俺を捉える眼差しが、瞳の色が、今までとは大きく変わった。三味線を構える彼の姿は、少し緊張しているようにも見えた。それでも一度目をつむり、次にふわりと瞼が開くとその頬には柔らかな笑みが乗った。

 撥が弦に触れる。紡ぎ出されていく音色。一音一音が朝露のように透き通った輝きをまとって跳ねていく。次第に激しくなる撥さばきは一気に魅了され片時も目が離せなくなった。

 混じりけのない澄んだ音が凛とした旋律を辿っていく。緩急のある音の調べが俺の心を鷲掴みにしてくる。時に柔らかく、小川のせせらぎのように優しい曲調が顔を出す。最初の荒々しさから一変して穏やかな曲調へ。そして、ぶつかり合うような激しい感情を帯びた旋律へと移り変わっていく。

 一本、また一本と、もつれた糸が解けていくように、その激しさが徐々に静まり返ると、その先に、芯の通った強く美しい旋律が姿を現した。

 鷹野は俺をイメージして作った曲だと言っていた。けれど多分それだけじゃない。俺と出会い、共に過ごしてきた軌跡も音楽にして表している。見えた景色、過ごした時間、内に宿る情熱。出会いが化学反応を起こして新たなメロディーを紡ぎ出していく。そんな嬉しさを曲にして語っているようだった。

 俺も同じ想いだ。鷹野の音に、鷹野自身に心を突き動かされて、俺はあの日、もう一度ヴァイオリンを手に取った。傷も痛みも消えたわけじゃない。それでも、鷹野との出会いがなければ起こり得なかった奇跡だ。鷹野が俺に、踏み出す一歩を与えてくれたのだ。

 溢れてしまいそうな想いに、俺は胸元をぎゅっと握り締めて唇を噛んだ。

 鷹野の音が好きだ。鷹野の演奏が好きだ。鷹野のことが、大好きだ――。

 その時、曲が最高潮を迎え三味線の音が二重奏を奏で始めた。その音にハッとした。いや、正確には二重奏ではない。3本の線を巧みに拾って音を二つ出しているのだ。まるで二人の音の掛け合いをイメージしているかのような演奏。音にリンクして蘇る記憶。昂りを感じた、あの時のデュオ演奏が脳裏に鮮明に映し出される。

 鷹野の音が、俺の胸を掴んで迫るように訴えかけてきた。強い感情。圧されるような勢い。そこに威圧感のような恐怖はない。例えるなら――祈りのような願い。

 ――俺の音だけをずっと見ていてほしい。

 そんな、独占的な強い願いが音に乗っている。

 まるで、曲を通して鷹野に強く抱き締められたような感覚に覆われた。途端、体中にあふれるような熱が広がった。波打つ鼓動が興奮を加速させる。押し寄せる大きな熱。俺は口元をおさえ、一音たりともこぼさないように、その熱をぎゅっと胸に抱き締めた。

 曲が次第に緩やかな坂を下っていく。再び穏やかで清らかな調べに戻ると、やがて水面に波紋が広がるように音は静かに空気へと溶けていった。

 演奏を終えた鷹野が肩で2、3回息を整えた。

「……どないでしょう?」

 俺は両手で顔を覆いながら下を向いた。鷹野が側で小さく焦っている気配がした。でもすぐに顔が上げられない。火照る頬。昂る高揚感。まさか、こんなサプライズを用意しているだなんて誰が思うだろうか。カノンに加え、ゼロからの作曲。完成させて弾けるに至るまでどれだけの労力と時間を費やしたのか、そんなの考えなくても分かる。鷹野のひたむきな努力は俺だってよく知っているのだから。サプライズじゃなくなった、なんてとんでもない。もう十二分にサプライズだ。こんな、こんなの――。

 俺は両手を口元に滑らせて鷹野を見上げた。

「嬉しいに決まってんだろ」

 鷹野の口が大きく開いていく。きらきらと瞳を輝かせて満面の笑みを浮かべた鷹野は子供のようにはしゃいだ声を出した。

「いよっしゃあー!」

 その時、空に一輪の花が咲いた。少し遅れて空気を震わす低い音が空に響く。

「おっ、花火や!離れとるけど、こっからでもわりと見えるんやな!」

 次々と打ち上がる花火。鷹野は子供のような顔をして食い入るように見入っていた。そんな彼の姿を隣で見つめながら、俺は自分の胸元をきゅっと掴んだ。

 この胸に、まだ曲の余韻が残っている。鷹野が俺の為に、ありったけの想いを込めて弾いてくれた曲。彼からの嘘偽りのない熱。等身大の俺と真正面から向き合ってくれた、その真っ直ぐな想いを俺はもう一度胸に抱きしめた。

 俺は、自分が同性愛者だと周りに知られることが怖かった。でも鷹野なら、鷹野になら信じて言えるかもしれない。拒絶されたくなくて、傷付きたくなくて、伝えないことを選んで過ごしてきた。今はまだ、怖さで足がすくんでしまう。けれど。

 これだけは今、伝えたい――そう思った。

「鷹野!」

「ん?」

「また、俺と一緒に演奏してほしい……!」

 夜空を彩る花火とともに鷹野の満面の笑みが一際大きく咲いた。

「おう!もちろんや!」

 いつかちゃんと伝えたい。俺も真正面から、自分の素直な気持ちを――鷹野のことが好きなのだと。

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