第5話
2年ぶりにヴァイオリンを弾いた夜、俺は久しぶりに深く眠ることができた。朝目覚めると、驚くほど頭がスッキリしていて心も随分と軽くなっていた。
不意に昨日の鷹野の姿が思い出される。大泣きして感情を吐き出した鷹野もまた、雨上がりの空のように表情には日が差していた。
俺は自分の手のひらを見つめた。俺のヴァイオリンが鷹野の心をほどいた。その事実をぎゅっと胸に噛みしめ温かな充足感に浸る。と同時に脳裏に浮かぶ鷹野の言葉。
――俺、和泉くんの音、好きやで。
急上昇する顔の熱。はっきりと自覚してしまった自分の感情に俺は頭を抱えた。もう恋なんてしない。そう決めたはずだったのに、どうしてこうなってしまうのだろうか。
とにかく今日も学校だ。俺は時計に視線を向けると、思わず目を丸くして固まった。
――寝坊した!!
「母さん何で起こしてくれなかったんだよ!」
「お母さんは何度も起こしましたー。透だって返事してたわよ?」
「えぇ!?覚えてないよそんなの!」
「珍しいな、透が朝寝坊するなんて」
隣で朝食を終えた父さんが新聞を広げながら言った。自分でもそう思う。あんなにぐっすり眠れたのなんて本当に久しぶりだったのだ。
急いで朝食を口にかき込んで済ませると、俺は時間を気にしながら忙しなく支度を整えた。
「あっ、お弁当忘れてるわよ!もう、まだ時間あるんだからそんなに慌てなくてもいいのに。他に忘れ物はない?」
忘れ物――そう、それは一番忘れてはいけない大事なもの。俺は防音室の扉を開け、ヴァイオリンケースを手に取り肩に提げた。
「うん、大丈夫だよ」
母さんは目を見開いて驚いた表情を見せると、ふっと目を細めた。穏やかな笑みが頬に浮かぶ。
「そう」
「今日の帰り、いつもよりちょっと遅くなるかも」
「分かったわ。あんまり遅くなり過ぎないようにね。あと、さっき鷹野くんが迎えに来たわよ」
「え!?」
俺は急いで玄関を開けた。傘を差して玄関先に立つ鷹野の姿。その背には三味線のケースが覗いていた。俺に気付くと彼はニカっと歯を見せて手を振った。
「おはようさん!」
「な、何で!?」
「ええやん。家隣なんやし、これからは一緒に学校行こうや」
ぽん、と母さんが俺の背中を押した。
「いってらっしゃい!」
「い、行ってきます」
何だか、意識してしまうと今までどういうふうに接していたのかが分からなくなる。とにかく、今は学校へ急がなければ。
「じ、時間ないから走るぞ!」
「えぇ!?まだ全然余裕やん!あっ、ちょお待ってや和泉くん!」
ホームルーム開始5分前。こんな時間に教室に入るなんて初めてだ。小雨とはいえ雨で足元も悪かったし、間に合ったとはいえ予想以上にギリギリの登校になってしまった。それよりも、鷹野の体力が意外とあることに驚いた。おまけに足も速い。結局、急かした俺のほうが途中から追う側になっていた。俺に合わせてペースを落とされたことが居たたまれない。そういえばこいつ、不良に絡まれた時も逃げ足がめちゃくちゃ速かったな、と思い出した。
「和泉くん大丈夫?」
平気そうなこいつがムカつく。ムカつくのに、憎みきれない自分が悔しい。息絶え絶えになりながら机に突っ伏していると、鷹野が続けて声をかけてきた。
「なぁ和泉くん、今週の土曜なんやけど、老人ホームまた一緒に行かへん?」
「え?」
「ホームの皆にまた会いに行こ思うんやけど、和泉くんも、どない?」
鷹野の口からその言葉が出てきたことに俺は内心ホッとした。おじいさんが亡くなった悲しみはまだ癒えたわけではないだろう。三味線と同じようにあの老人ホームもまた、おじいさんのことを思い出す思い入れのある場所だ。それでも、あの場所の人たちに会いに行きたいと、そう思えたということは鷹野自身がもう一度三味線と向き合っていこうとしている証なのだと思う。
「ああ、そうだな。行くか」
「ホンマに!?なら、さっそく新曲の練習やな!和泉くん今日も防音室貸してや!」
「あー……、悪い。今日はちょっと寄る所があって……」
鷹野には悪いが、今日は行きたい場所がある。そのために家からヴァイオリンを持ち出したのだから。
「寄るとこ?どこ行くん?」
「え、えっと……楽器店に……」
「楽器店!何なに?なんか新しいの買うん?」
「新しいものっていうか、メンテナンスだよ、ヴァイオリンの。昨日、ケースから出したのも2年ぶりだったし弦も張り替えたほうがいいなと思って。……その、また弾く時のために……」
鷹野がパッと花を咲かせたような表情を見せ、身を乗り出して言った。
「ほんなら俺も一緒に行ってええ?」
「は!?何でだよ!和楽器関連は置いてない店だぞ?」
「うん、ええよ。洋楽器の店行ったことないし、ちょっと気になるわ」
まぁいいか。俺はそう思い、放課後、俺たちは二人で楽器店に向かうことにした――のだが。
「ありゃ……」
店舗に来てみたはいいものの、お店の入り口には『改装中』と書かれた紙が貼り出されていた。せっかく足を運んだが開いていないのなら仕方がない。日を改めるしかなさそうだ。
「改装後のオープンは今週の土曜日やて。ほんなら、土曜の午前にもっかいここ来て、そのままホーム行くのはどない?」
「別にお前までわざわざ楽器店に来なくても、直接老人ホーム待ち合わせでもいいぞ?」
「えー、俺ここら辺あんま来たことないし、どうせなら他にどんな店あるか見てみたいやん。和泉くん土曜日案内してや!」
と言われても、正直俺も詳しくはない。楽器店に用がある以外はこの駅に降りることもないからだ。それに、お店での用が終われば真っ直ぐ駅に戻っていたので周辺を歩いたことがない。中学の頃はよく足を運んでいたのに、他にどういうお店があるかなんて気にしたこともなかった。
「あー……、実は俺もよく知らないんだ」
「なら、一緒に散策しよや!おもろい発見とかあると楽しいで!ほい、決まり!土曜日楽しみやな!」
まったく、行くなんて一言も返事していないのに勝手に決めてしまって。そう思う反面、楽しみにしている自分がいることも否めない。一緒に――鷹野がそう口にするたび、胸の奥がくすぐったくなって、ほんのりと熱を帯びる。
「それはそうと、明日は今日みたいな時間には家出ないからな。一緒に登校したいんならあと30分は早く出とけ。居なかったら置いてくからな」
「えぇ!噓やろー!?」
迎えた土曜日、家の玄関チャイムが高らかに鳴った。
「おはよう、和泉くん!」
三味線のケースを背負って意気揚々と挨拶をする鷹野の姿。両耳に沢山のピアスと、右耳には細いシルバーのピアスが揺れていた。ピアス姿の鷹野も久しぶりだ。
「おはよ。それじゃ行くか」
今日は連日降り続いていた雨も止んで貴重な晴れ間がのぞいている。雨が降らないのはありがたいが、その代わりに気温が高い。外に出るとじわじわと照り付ける太陽に夏の気配を感じた。梅雨明けもそろそろだろうか。
電車を乗り継いで再びやって来た楽器店は改装開店ということもあってか、店内にはお客さんがそれなりに来ていた。俺は早速弦の張り替えとメンテナンスを頼みにカウンターへ向かった。
「メンテナンスも込みとなりますと、お時間は大体2時間ほどお待ちいただくことになりますが、よろしいでしょうか?」
「えっ」
「本日は大変混み合っておりまして、ご依頼のお客様にはお時間をいただいております。お待ちいただく間は店内を見て回られても結構ですし、お時間に合わせてまたご来店いただいても構いませんよ」
「分かりました。じゃあ、お願いします」
「かしこまりました」
今までメンテナンス込みでもそこまで時間がかかることはなかったが、今日は修理の注文も多いらしい。さすがに2時間も店内で暇をつぶすとなると厳しいものがある。待っている間に鷹野が提案した散策でもするか。俺はそう思い彼の姿を探した。そういえば鷹野の姿が見当たらない。どこへ行ったのだろうか。
すると、店内の一角で数人の女子に囲まれている鷹野の姿が見えた。何やら楽しげに話している様子だが、一体何をしているのだ。
「こうして……こうか?」
「そうそう!すごい、上手じゃないですか!才能ありますよ!」
「ホンマに?照れるわー!」
近くまで寄って見てみると、何故か鷹野が試奏用のエレキギターを手にして音を出していた。
「何やってんだお前は」
「あ、和泉くん!聞いてや、この子ら軽音部でバンド活動しとるんやて!ギターどうやって弾くん?て聞いたら教えてくれてん。俺初めてやのに上手いらしいで!」
「あの、背中のそれ楽器ですよね!普段は何を弾いているんですか?」
「これか?これは三味線やで」
「えっ、すごい!かっこいいー!だから音感もいいんですね!」
「何やめっちゃ褒めるやん!もしかして俺勧誘されとる?」
コミュ力おばけめ。というか、そういうのは店外でやれ。まったく自由が過ぎる。それに、女の子に囲まれてデレデレと嬉しそうな顔なんかして――俺といるよりも、よっぽど楽しそうに。
俺は視線を背け、きゅっと唇を噛んだ。
「和泉くん」
鷹野の声にハッとして俺は慌てて視線を戻した。
「な、何」
「ヴァイオリンはどうやった?」
「あぁ、待ち時間が2時間くらいかかりそうだってさ」
「そうなん?なら、外散策して時間つぶそか」
そう言うと鷹野は持っていたエレキギターを元の位置に戻した。周りにいた女の子たちに軽くお礼を告げ、その場を抜けるように俺のほうへ歩いてくる。
「ほな行こか」
「……よかったのかよ」
思わず小声で鷹野に聞いた。
「何が?」
「あの子たちだよ。もっと話したかったんじゃないのか?ギター、教えてもらってたんだろ?」
「んー、俺はやっぱ三味線が一番ええわ。ギターも見た目かっこええけどな、俺には三味線があるし他の楽器に乗り換える気はあらへんよ。それに、今日は和泉くんと一緒に散策する約束しとったやろ?」
「……そう、かよ」
胸が跳ねる。口元を隠して、頬が緩みそうになるのを必死に抑える自分がいる。鷹野の言葉に一喜一憂して、感情があっちに行ったりこっちに行ったり。俺も人のことが言えないくらい単純だ。
でも――この気持ちは絶対に伝えない。自分の想いに気付いてから、これだけは決めていた。鷹野は俺のことを友達だと思っているのだろう。この気持ちを伝えてしまったら今までの関係も崩れて、きっと気まずくなる。鷹野にも迷惑がかかってしまう。
――いや、違う。
脳裏によみがえる過去の情景。美しく舞う桜の景色が暗闇の吹雪へと一変して、そこに立つ記憶の中にいる彼が口を開いてあの言葉を言う。
そうだ、これは鷹野のためじゃない。これはただ、自分が傷付きたくないだけだ。二度も同じ経験をしてしまったら、きっと俺はもう立ち直れなくなる。そんな気がするのだ。あの苦しみを味わうくらいなら俺は今のままを選ぶ。あの痛みに比べたら気持ちを隠し続けることの方がよっぽど楽だ。そのほうが鷹野にとっても俺にとっても最善の選択なのだ。
「和泉くん?おーい、和泉くん」
「あっ……、な、何?」
「何やボーっとしとるな思て。どないしたん?」
「いや……、ちょっと暑いなぁと思ってただけだ」
「せやなぁ、今日カンカン照りやしな。けっこう歩いたし飲みもんでも買って、あっちにあった公園でちょっと休もか」
コンビニでジュースを買って、俺たちは公園に立ち寄った。木陰のベンチがちょうど空いている。暑さをしのぐように自然とそちらに足が向いた。
「ここら辺、なんや色んな服屋もあるしCDショップやら美容院やら洒落とる店も案外あるんやな。気になる服あったし、また来よかな」
「あの虎柄のシャツか?ずっと見てたよな」
「欲しかってんけど、さすがに手ぇ出せへん額やってん。やから来年お年玉もろたら買い行くわ。それまでおあずけや」
「その頃に夏服は売ってないだろ」
鷹野は衝撃を受けたように目と口をかっぴらいた。
「え、素で言ってたのかよ」
「ホンマや!どないしよー!オカンに頼み込むか!?いや、絶対買うてくれへんわ!あーっでもめっちゃカッコよかったし余計欲しくなってきたー!」
くるくると忙しく表情を変える鷹野に思わず笑いが込み上げた。ふっとこぼれる息。不意に頬が緩んでいた。そんな俺に鷹野が目を細めて言った。
「和泉くん、なんや表情やわらかくなったな」
「え?」
「鋭いツッコミ来んのもおもろいけど、そうやって楽しそうにわろてる和泉くん見んのもええな」
「なっ……、き、急に変なこと言うな!」
俺は顔を背けてペットボトルのジュースを口に運んだ。鷹野がベンチの背もたれに体を預けた気配がした。ぐっと伸びをして脱力したような声が聞こえる。
さらさらと葉が揺れる音。遠くで聞こえる鳥のさえずり。木漏れ日が落ちて光の水玉模様がゆらゆらと地面に浮かぶ。ゆったりと流れる二人だけの時間。
「なぁ、和泉くん」
鷹野が落ち着いた声のトーンで口にした。
「こういうのって、デートって言うんかな?」
俺は口に含んでいたジュースを盛大に吹き出した。2、3度咳き込んで鷹野に聞き返す。
「は、はい……?」
「クラスの女子が言うとったんよ。女子同士で楽しく出掛けることをデートって言うとるんやて。ほんなら男もん同士もデートって言うんかな」
「……言わないだろ」
そんなことを人前で言ったら白い目で見られるか、悪意のあるからかいを受けるのがオチだ。
「ほんなら何て言うん?」
「え?えーと……同行?」
「何やそれ!事件の容疑者かいな!そんなんイヤやわー!もっとこう楽しい感じがええ!」
「楽しい感じって……、普通に遊びに行くとかでいいんじゃねぇの?」
「えー?何や投げやりな言い方やなぁ。ま、言葉に当てはめる必要もないか」
鷹野はベンチから立ち上がると、腰に手を当てて照り付ける太陽を仰いだ。
「俺、昔じいちゃんに言われたんよ。一輝は人を笑顔にする才能があるて。せやから俺のしたことで周りが笑ってくれると嬉しなんねん。もっと笑顔にさせたなる。けど、そのためには自分が一番楽しんどらなあかん。そうやないと人を楽しませることなんて出来ひんもん」
振り向いた鷹野に木漏れ日の照明が降りそそぐ。右耳のピアスがこぼれた光を集めてチカチカと反射した。あふれる笑顔をその頬にのせて鷹野は弾む声で言った。
「俺、今日、和泉くんとこういうとこ来れてめっちゃ楽しい!ほんで、笑っとる和泉くん見たら嬉しなってもっと楽しなった!和泉くんの笑顔もっと見たいわ!」
鷹野の言葉が、深く、深く心の奥に沁みわたっていく。小躍りする胸の音。頬の熱。緩んだ口元に手をやって思わず顔を隠してしまった。鷹野への想いがどんどん募って膨らんでいく。今にも胸がはじけてしまいそうなほどに。
「なんや一曲弾きたなってきたわ!」
そう言って鷹野は三味線を取り出し、小高い丘のような滑り台の上に足取り軽くのぼって行った。そして、三味線を構えると小さな掛け声とともに軽快なリズムで音を鳴らし出した。ちらほらと公園に訪れていた家族連れや老人たちが鷹野の演奏に足を止め目を向ける。一瞬で周りを虜にしてしまう鷹野の音。心を掴む演奏技術。陽の光に負けないくらい輝きを見せる鷹野の笑顔。
――あぁ、眩しくて、熱い。
昇った太陽が、俺を真っ直ぐ照らしていた。
ヴァイオリンの受け取り時間までまだ少し余裕があったので、俺たちは先にお昼を済ませることにした。お洒落なカフェ、なんて俺たちが行くわけもなく駅前にあるファーストフード店でお腹を満たす。
「そういえば、和泉くんて誕生日いつなん?」
「何だよいきなり」
「ええやん、教えてや。俺、4月3日」
「……8月11日」
「お!俺のほうがちょこっと年上やん!」
「同い年だろ。こんな数か月の差なんて年上のうちに入んねーっつの。それよかお前、次の期末テストは大丈夫なのか?赤点取ったらまた三味線取り上げられるんじゃないか?」
すると、鷹野は不敵な笑みを浮かべ何やら自信ありげに話し始めた。
「俺をなめたらアカンで和泉くん。何と俺は、最強のテスト攻略法を考えついたんや」
「へぇー。どんな?」
「まず、ノートの上に同じシャーペンを3本並べるねん。その3本をじっくり見ながら聞こえてくる声にそっと耳を澄ますんよ。私を使え、そう囁く1本を選ぶ。導かれたその1本こそが最強のシャーペンとなって俺の赤点回避を……って和泉くん顔すご!そんな真っ黒な目してゴミを見るような顔せんとって!」
最強のテスト攻略法とやらに期待など一切していなかったが、本当に聞くだけ無駄だった。前回の追試の時は鷹野のことを少し見直したんだが、気が抜けると一気にこれだ。相変わらず授業中も寝ているし、典型的な「追い込まれないとやらないタイプ」なのだろう。
鷹野がおずおずと何か言いたげな顔で俺を見る。
「あのぉ、和泉くーん」
「……何だよ」
ぱんっと両手を合わせて頭をさげる鷹野。言わんとしていることはもう十分予想がつく。
「勉強教えてください!」
俺は呆れながらも、このままでは鷹野が三味線を取り上げられる未来しか見えず、再びスパルタテスト勉強を彼に叩き込む約束をした。
時計の針は午後1時を過ぎていた。ヴァイオリンを預けて約2時間。ヴァイオリンの受け取りを無事済ませ、俺たちは久しぶりに老人ホームへと足を運んだ。
「一輝くん、和泉くんいらっしゃい!」
「おーっす!ミキちゃん、来たでー!」
「こんにちは、お邪魔します」
三木さんをはじめ職員の方たちもこれまでと変わらず俺たちを温かく迎えてくれた。この施設の人たちはみんな笑っていて温かい。三木さんは以前、この老人ホームは殺伐としていたと言っていたが全然想像つかないほどだ。この空気を一人で作ってしまった鷹野が本当にすごいと思う。
今日も3時のおやつの時間に合わせて食堂で三味線のコンサートだ。数日前、鷹野が新曲だと言って練習し始めたのは、なんとクラシック曲だった。これまで披露してきた曲から系統をがらりと変えている。「今度はクラシック曲を弾いてみたい」と、鷹野が俺に言ってきた時は驚いた。鷹野自身、三味線でクラシック曲を弾くのは初めてらしく、三味線でも演奏できそうな曲の選曲から、楽曲の構造や歴史的背景など、俺から伝えられる部分はアドバイスをしたりと俺も彼の練習に付き合ってきた。
クラシック曲という、思いもしなかった選曲で驚いたが、もしかしたらあの時、俺が弾いた悲愴第2楽章が鷹野にまた別の影響を与えたのかもしれない。何にせよ、鷹野のチャレンジ精神には応援したくなるパワーを感じる。
小上がりスペースへ向かっていく鷹野のその背中が、いつも以上に大きく堂々としていて見惚れるほどかっこよく映った。
拍手を送ると、演奏がゆったりと始まった。普段聞き慣れていたクラシック曲を三味線という和楽器を通して聞くと印象がまたがらりと変わる。同じメロディーなのに、和のテイストが取り入れられると和洋折衷の趣を感じられて新しい心地よさが発見できる。
鷹野が織りなす音は安定感があって心地がいい。ずっと聞いていたい。今ではそう思うほど、彼の音は俺の心を穏やかにする。
数曲披露し、鷹野がちょっとしたMCを始めた頃だった。三木さんが俺に話しかけてきた。
「ねぇねぇ、和泉くん」
「あ、はい。何ですか?」
「ずっと気になってたんだけど……和泉くんが背負ってるそれ、楽器だよね?」
ぎくりと肩が跳ねる。久しぶりに訪れた鷹野という圧倒的な光のおかげで俺の印象は霞んでいるものと思っていたが、三木さんは見逃さなかったようだ。
「まぁ……、はい」
「えっ!何もしかして和泉くんも楽器弾ける人だったの?えー!言ってくれたら良かったのに!ねぇ楽器は何?何弾くの?」
「ヴァイオリン……です」
三木さんの目の色が一気に変わった。目の奥の輝きが増しに増して興奮している様子が一目でわかる。すると彼女は俺の腕をつかみズンズンと歩き出した。
「えっ、ちょ、三木さん!?」
「せっかくだし和泉くんも何か弾こう!ね!」
「ま、待ってください!俺はブランクもあるし、つい最近久しぶりに弾いたばっかで、そんな人前で弾けるような状態じゃ……!」
「大丈夫大丈夫!上手に弾こうなんて考えなくていいの!ここは気楽に楽しく交流する場なんだから!はい、どーぞ!」
ぽんっと背中を押され、あれよあれよという間に俺はステージに上らされた。
「お、何や今日は和泉くんもステージ披露するん?ええやん!これは盛り上がるで!」
三木さんが俺に親指を立ててワクワク顔を向けている。この人も大概強引だな。お年寄りたちの視線が次々と俺に向けられる。俺はたまらず鷹野の側に駆け寄り、観客に背を向けて小声で訴えた。
「鷹野、どうすんだこれ!いきなりこんなステージ上に立たされたって困るって!」
「大丈夫やて!簡単な曲ちょろっと披露したらええだけや。準備できるまで俺が繋いどいたるから!な!」
そう言って鷹野は再び観客に向き直って進行を始めた。引くに引けない空気。やるしかないのか。心臓の音が次第と大きくなっていく。ケースを肩から下ろし、静かにカバーを開けた。その手が小さく震えていた。
あの時はただ、鷹野のために弾きたいという、その一心で弾いていた。いわば無我夢中だったのだ。だから弾けたようなものだ。簡単な曲でいいとか技術とかそういう話じゃない。
俺はまだ、ヴァイオリンを弾くことを恐れている。
鷹野がステージ端に移動し、一人壇上に残された俺はヴァイオリンを肩に添えて弓を構えた。けれど、手の震えが一向に止まらない。大きく繰り返す心臓の音。視界の端にちらつく黒い影。俺を蝕む過去の幻影がこちらをじっと見つめて離れない。その視線が幾千もの針のように突き刺さる。
あの人はもうここにはいない。あれは自分が作り出している幻だ。鷹野が俺に言ってくれたじゃないか、俺の音が好きだと。大丈夫、大丈夫だ。弾けるはずだ。
なのに――どうして、こんなに怖いのだ。
次第とざわついてくる周囲の気配。指先が段々と冷たくなっていく。止まらない震え。乱れる呼吸。
――ちくしょう、ちくしょう!ちくしょう!!俺は、こんなにも弱いのか……!
俺は涙で滲む目を細め、唇をぎゅっと噛み締めた。
その時だ。三味線の音が、ぽんと鳴り響いた。一音、また一音。ゆっくりと音階を辿っていくように穏やかなメロディーを踏んでいく。これは、先ほど鷹野が披露していた曲――アメイジング・グレイス。
鷹野が俺に目配せをする。俺の音に乗り――そう言っているかのように。
鷹野の繊細でやわらかな音が体の強張りをほどいていく。肩の力が抜け、次第に体温が戻ってくる。
打ち合わせも練習もしていない。ましてや二人で音を合わせるなんて考えたこともない。それなのに、なぜだろう。さっきよりもずっと安心して音が出せるような気がする。
俺は鷹野の音に寄り添うように弓を滑らせた。織り成す三味線とヴァイオリンのハーモニー。和と洋、異色のデュエットが絶妙な旋律を響かせていく。お互いの音が重なり合い、混ざり合って一つになる。なんて心地のいい響きだろう。胸に広がる高揚感。ふつふつと沸き起こる興奮。
あぁ、何だろうこれ――すごく、楽しい……!
鷹野と目が合い、お互いに合図を送り合う。曲が最高潮を迎えると、ラストの旋律はヴァイオリンをメインにした構成に切り替えられた。地面にそっと降り立つ鳥のように、曲が静かに終わりを迎える。弦から弓が離れ、ふうっと息がもれた。
ふわりと視線を上げると、目の前の視界は笑顔と歓声に包まれていた。
「和泉くーん!」
鷹野が俺のもとへ駆けて来る。抵抗する間もなく俺は鷹野の肩に抱き寄せられた。
「めっちゃ良かったで!感動もんや!」
「鷹野……」
俺は安堵感と興奮の熱が入り混じったまま、ゆっくりと顔を上げて鷹野に伝えた。
「ありがとう」
鷹野のアシストがなければ、きっと俺はこの場を切り抜けられなかった。まさか鷹野とこんな形でデュオ演奏をすることになるとは思わなかったが、破綻なく最後まで演奏しきれたのはアドリブに強い鷹野の演奏技術の高さゆえだ。本当に恐れ入る。
ふと、鷹野から反応が返って来ないことに気付き、俺はもう一度彼を見上げた。
「鷹野?」
「あ……、あぁ!いつまでもステージおったらアカンな!撤収しよか!」
抱かれていた腕が解かれると、ぽん、と背中を軽く叩かれた。観客にお辞儀をして俺たちはステージを下りて行った。
「本っ当にごめんなさい!」
三木さんが俺に向かって深々と頭を下げる。強引にステージへ連れて行き、無茶振りをした挙句、あんなふうになった俺の姿を見てさすがに罪悪感を覚えたらしい。
「あはは……もういいですって。頭上げてください」
「本当にごめんね、無理強いさせちゃって……。でも、一輝くんとの演奏すごかったよ!三味線とヴァイオリンのコラボなんて初めて聞いたけど、私思わず鳥肌立っちゃった!打ち合わせしてたわけじゃないんでしょ!?」
「えぇ、はい……、完全に即興でした」
「それ凄すぎない!?二人とも息ぴったりだったじゃん!」
「三木さーん!1番に電話―!105号室の小川さんのご家族から!」
職員の声に、三木さんは返事をしたあと手短に「ありがとう、また来てね」とお礼を言って受付カウンターへ駆けて行った。
「俺たちも帰るか」
そう鷹野に声をかけるも、彼はどこか遠くを眺めてぼんやりとしてた。
「鷹野?おーい鷹野!」
「あっ、え、何?」
「俺らも帰るぞ!」
「あ、あぁ!せやな!」
鷹野の様子が少しおかしいような気がした。いつも一人で勝手にしゃべり続けるくらいうるさい鷹野が、帰りのバスの中では一言も話しかけて来なかった。肘掛けに頬杖をついて、また遠くを見つめていた。俺から話しかけても、どこかうわの空といった様子で返事も曖昧。一体、どうしたのだろうか。
帰りの電車内はとても混んでいた。どこかで大きなイベントでもあるのか、大勢の人で溢れ返っていた。夕方になってようやく気温もいくらか落ち着いたというのに、このすし詰め状態では蒸し暑さがぶり返す。俺と鷹野は座席に座ることも叶わず乗降口付近でずっと立ちっぱなしだった。
扉を背に立つ俺はヴァイオリンケースを背負ったままでいることを後悔した。混雑し始めた時、鷹野はすかさず背負っていた三味線ケースを胸の前に持ち直したが、あっという間に人の波が押し寄せ、俺はケースを持ち替える間もなく身動きが出来なくなってしまった。背中のケースが圧迫されて楽器に負荷がかかることももちろん心配だったが、それ以上に、目の前に立つ鷹野との距離感に俺の脳が危険信号を発していた。
片手に三味線ケースを持ち、片手で俺の後ろの乗降口ドアを押さえる鷹野。何とかバランスを取っているが、その顔は眉を寄せて険しい表情を見せていた。ぎゅうぎゅうに押される車内。それでも俺の立ち位置がまだ僅かに空間を保てているのは鷹野のおかげだ。多分、彼はこれ以上俺に重圧がかからないようバランスを取ってくれている。けれど、こんな不安定な体勢をしていて倒れでもしたら一大事だ。俺はそんな鷹野に声をかけた。
「鷹野っ、お前のケース持つよ。俺、手空いてるし……!」
「ホンマに?じゃあ持っとってくれる?助かるわ」
苦笑いを浮かべる鷹野だが、支える手が増えたことに安堵したようだった。
途端――電車がカーブに差し掛かった。車内の重心がぐらりと俺の背中に傾いていく。押し寄せる重圧。鷹野の体と俺の体がさらに密着していく。間に三味線ケースがあるのがまだ救いだ。これがなかったら俺の頭はとっくにショートしている。
しかし、次の瞬間ぞくりと背中に電流が走った。首にかかる鷹野の吐息。先ほど傾いたバランスのせいで鷹野の顔がちょうど俺の首元にもたれかかる形になってしまった。
「ごめん、和泉くん。もうちょっとの辛抱やから」
耳元で囁く、鷹野の吐息交じりの声。それが妙に色を帯びていて艶めかしくて、体中がじんじんと熱くなっていく。頭が沸騰してしまいそうになる。体の内側で大きく音を鳴らす心音。跳ねる鼓動が鷹野に伝わってしまっていないだろうか。
密着する体。狭い空間。蒸しかえるような蒸気と熱。首にかかる色気を帯びた吐息。じわじわと汗が滲む。ゼロ距離で香る鷹野の匂いが俺の思考を段々と鈍らせていく。くらくらと眩暈がして今にも倒れてしまいそうだった。
――早く駅に着いてくれ!こんな状況、長くは耐えられない!
車内アナウンスが降車駅の到着を報せる。ドアが開いた瞬間、俺は逃げるように電車を降りた。プラットホームの壁に手をついて、そのまま脱力してしゃがみ込んだ。
危なかった。あと少し長くあの場に居たら本当にもたなかった。俺は胸元をぎゅっと握りながら、繰り返す心臓の爆音を抑えるように呼吸を繰り返した。
「和泉くん大丈夫!?具合悪なったん?駅員さん呼ぼか?」
鷹野の慌てた声。大丈夫だ。具合が悪くなったわけじゃない。ただ、全身を覆う熱を抑えたいだけだ。黙っていると余計鷹野が心配する。不審に思われる。顔を上げて平気だと、そう伝えなければ。早く、俺は大丈夫だと――。
「だい……じょう、ぶ」
見上げてそう伝えると、鷹野の瞳が大きく見開いた。よく動くこいつの表情筋が、まるで、ろうで固められた人形みたいに止まっている。一瞬ののち、鷹野はふいっと顔を背け「水、買ってくるわ。ちょっと休んどき」と背中越しに言ってその場を去って行った。
プラットホームに設けられた椅子に座ってしばらく。ようやく火照った熱も落ち着いてきた。そういえば、水を買ってくると言ってもう大分と経っている気がするが、鷹野がまだ戻って来ない。あいつはどこまで買いに行ったんだか。
俺は天井を仰いで目をつむった。さっきの鷹野は、珍しく鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたな、と思い出す。それがちょっと面白くてフッと小さく笑みがこぼれた。
途端、頬にひんやりとしたものが当たった。
「うわっ」
「なーにわろてんの?具合、どないや?」
「あ、あぁ。復活した。悪いな、もう本当に大丈夫だ」
「そっか」
俺にペットボトルを渡すと、鷹野は俺の真後ろの椅子に腰かけた。
「……なぁ和泉くん、今日一日どないやった?」
「どうって……まぁ、楽しかったけど」
「俺も、めっちゃ楽しかったわ。色んなとこ行って、和泉くんと共演もして。何や濃い一日やったなぁ」
鷹野は少し間を置くと静かな声で続けた。
「……何やろな、前の学校でも中学でも小学校でも、仲ええ友達はおったんよ。けど、俺な、和泉くんと一緒におる時だけ、なんや今までとちゃう感じすんねんな」
「何だよ、急に……」
持っていたペットボトルに思わず力が入り、くしゃりと小さく音が鳴った。心臓がまた大きく波打ってくる。鷹野は何が言いたい。俺は、何を期待している。
鷹野が口を開いた気配がした。
その時、プラットホームに電車の通過を報せるアナウンスが流れた。途切れた空気。鷹野は立ち上がると俺に軽く笑いかけて言った。
「帰ろか」
その日、例年より早く梅雨明けが発表された。気温もまたたく間に上がり、季節は一気に夏へと加速していった。




