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第4話

 雨の日が続くようになった頃、この地域も正式に梅雨入りが発表されたと、昨日のニュースが言っていた。今日も相変わらず外は雨模様だ。そんな景色に負けず劣らず、隣の席では、どんよりと鷹野が机に突っ伏していた。朝からキノコでも生えてきそうな、じめついた空気を放っている。

「和泉くん、どないしよ……」

「何だよ……」

「こないだの中間テストな、俺、赤点3つ取ってん」

「あー……それは、ご愁傷様だな」

「別にそれはええねん」

「いや、良くはないだろ」

「問題はそのあとやねん。赤点のテスト折って飛行機飛ばしとったらオカンに見つかってしもたんよ。オカンにどやされるのなんてもう慣れっこやから何てことないんやけど、そしたらオカンついにキレてもーて、俺に三味線禁止令出しよった」

「いいんじゃないか?これを機に、少しは勉強にも専念したらどうだ?」

「イヤやー!俺は三味線弾きたいんやー!ホラ見て!?禁断症状で手ぇ震え出すようになってもうた!」

「三味線を薬物みたいに言うな」

「おー、今日も元気に漫才やってるねぇ」

 そう言って湊が目の前の席に座った。俺の机に頬杖をついて、いつものパックジュースを手にして笑う。俺は溜め息がこぼれた。

「漫才って言うな。こいつが話しかけてくるから仕方なく返してるだけだ」

「なぁ、本庄くん聞いてや。俺、三味線禁止令出されてもうてん。どないしたらええと思う?」

「それはツラいな!うんうん、分かるよその気持ち!俺もゲーム禁止令出されて絶望したことあるからさ!」

「勉強しろよ」

「あのなぁ、透。みんなが皆、透みたいに勉強できる奴ばっかじゃないんだぞ。ほら見てみろ鷹野くんを。問題集見ただけで、こんなにしおしおになっちまうんだぞ」

 俺は呆れ顔を鷹野に向けた。三味線を弾くと水を得た魚のように生き生きと輝く鷹野が、今は枯葉のようにしおれている。問題集に生気でも奪われているのかこいつは。

 とはいえ、ひとたび三味線を手にすると鷹野の空気は一変する。特に集中力に関してはずば抜けていると思う。自分の世界に深くのめり込み、周りの一切を遮断し、そして感覚を一点に集中させる。多分、その持続力は俺以上だ。そんな力を持っているのに、鷹野は自分の能力に気付いていないのだろうか。

「鷹野。お前、三味線と向き合ってるとき、集中力めちゃくちゃ発揮するだろ。今まで続けてきたっていう継続力もあるんだし、土台としてそういう力備わってんだから、勉強もやればできるんじゃねーの?」

「和泉くん、なんや俺のことめっちゃ褒めるやん……!そない俺のこと見てくれとったん?めっちゃ嬉しいわぁ!」

 花を咲かせたように目を輝かせる鷹野に俺は思わずたじろいだ。

「せやけどなぁ、俺ホンマに勉強苦手やねん。公式や文法や言われてもわけが分からん。そのうち眠なって寝てまうねん。今度の追試で挽回せなアカンのに、どないしよ……」

「確かに、鷹野くん授業中いっつも寝てるよな。それで何回も先生に怒られてるのに動じてないのがまたすごいんだよ」

「ホンマに?照れるわぁ」

 今のは褒め言葉じゃないだろ。と内心ツッコミながら、俺は鷹野の話題に終止符を打って、さっさと1時間目の授業の準備を始めた。すると湊が、「そうだ」と何かひらめいたように口にした。

「透、鷹野くんに勉強教えてあげたら?」

「はぁ!?」

 思わぬ発言に俺は顔を上げて湊を見た。

「透は勉強できるんだし、教えるのも上手いんじゃね?」

「勉強ができることと教えるのが上手いことは必ずしもイコールじゃないだろ。そう言う湊が教えてやれよ」

「俺は部活で忙しい」

 湊は、もっともらしい大義名分を掲げてニンマリと口角を上げる。彼は続けて言った。

「鷹野くんは三味線禁止されちゃって、代わりに追試の勉強をしないといけない。対して透は、部活も塾も行ってないから放課後は時間が使える。それにほら、人に教えるとより理解が深まるって言うじゃん。鷹野くんに勉強を教えることで、透はより理解が深まって、鷹野くんは追試合格して見事三味線を奪還する!そしたらお互いウィンウィン!うってつけの勉強法じゃね?」

「おおー!本庄くん頭ええな!和泉くん、ほなよろしゅう!」

「待て待て待て!俺はやるなんて一言も言ってないぞ!」

「えー、アカンの?俺ホンマにピンチやねんて。今度じいちゃんの誕生日やから、それまでに新曲披露できるように練習しとったとこやってん。やのに禁止されてもーて、追試も悪い結果出したらオカンもう三味線返してくれへんかもしれん。和泉くん、ホンマにアカン……?」

 鷹野が困り果てた顔で懇願するように顔を向ける。その表情が冗談じゃなく、本当に困っているのだと俺の頭は訴えかけてくる。

 あれから、俺は鷹野に半ば強引に老人ホームへ連れ出されるようになった。おかげで職員の人たちともすっかり顔なじみだ。けれど鷹野のおじいさんだけは、最初に会った時と何も変わらない。何度顔を合わせても、リセットボタンが押されたかのように毎回初めましてになる。鷹野は顔を出すたび違う曲を披露しているが、彼の瞳は変わらず虚ろで、曲に対して何か言うでもなく、ただ座って鷹野の三味線を聞いているだけだった。鷹野に対して反応を示すこともない。

 それでも鷹野は、新しい曲を練習して彼の前で演奏し続けている。おじいさんの誕生日、そんな特別な日に贈る曲なら、きっと練習にも熱が入っていたはずだ。それを、このタイミングで三味線を取り上げられ、弾けなくなるというのは悔しさもあるだろう。俺自身、側で鷹野の練習量を見てきて思う。鷹野は、心からおじいさんに曲を届けたいと思っている。披露する時はいつも全力なのだ。その一回一回に魂と想いが強く込められている。それでも、鷹野のおじいさんは無反応なのだ。まるで、音が体をすり抜けて消えていっているみたいに。

 鷹野はあの光景を、いつから、何度、目にしてきたのだろう。たった数回会っただけの、他人の俺ですら思ってしまう。どうか彼の心に、響いてほしいと――。

 俺は小さく息を吐いて答えた。

「……分かった。教えてやる」

「ホンマに!?」

 席を立って大いに喜ぶ鷹野に向けて、俺は鋭い視線と低い声で念を押した。

「その代わり、絶対に音を上げるなよ」

「……へい」

 追試は4日後。教科は数学、英語、世界史だ。たった数日でそれら全ての教科を合格点まで引き上げなければならない。鷹野の理解度を確認してみたが、基礎をほとんど理解していなかった。俺は思わず椅子から転げ落ちそうになった。こいつは一体どうやって編入試験に合格したのだろうか。今のままでは放課後に教えるだけではとても追い付かない。俺は休憩時間と登下校の時間もフル活用して鷹野に勉強の仕方を叩き込んだ。

「和泉くんって実はドSなん?」

「ハァ?」

 3日目の放課後、教室で問題の採点をしていた俺に、鷹野はよろよろと、机に突っ伏していた顔を上げて言った。

「だって、和泉くんめっちゃスパルタなんやもん。もう一生分の勉強した気分やわ」

「お前が教えてほしいって言ったんだろうが」

「まぁ、せやねんけどな。このスパルタっぷり、師匠のことちょっと思い出したわ」

「師匠?三味線のか?」

「せや。俺がまだチビやった頃の話やけどな、めっちゃ厳しかったねんで。鬼や、鬼!恐ろしくて何度逃げ出そ思たか!」

 鷹野にそこまで言わせる相手がいるとは。さすが、芸を極めた師匠と言うだけはあるのだろう。

「けど、それでも続けられたんは、じいちゃんがおったからやと思う。習った曲をじいちゃんに見せるとな、めっちゃ喜んでくれて俺はそれがすごく嬉しかってん。じいちゃん、いつも笑ってくれとった。やから、師匠になんぼ厳しいこと言われても続けられたんやと思う」

 そう語る鷹野の目は、懐かしむように遠くを見つめていた。頬杖をついて鷹野は続けた。

「それにな、もともと、じいちゃんも三味線弾いとったんやで」

「そうだったのか。おじいさんに習ったりはしなかったのか?」

「最初はな。せやけど、じいちゃん張り切って、なんやちゃんとしたとこで習ったほうがええ言うて、お家元っちゅうんか?そこで稽古することになってん」

 素人目からしても鷹野の演奏技術は高いと思っていたが、かなり格式高い場で研鑽を積んでいたらしい。技術力も高くなるわけだ。とはいえ、普段の演奏パフォーマンスからは伝統的な雰囲気や格式の高さは感じられない。どちらかというと大衆向けといったエンタメ性を強く感じる。

「まぁ結局、やれ大会だの、やれコンクールだの周りがうるさく言うようになって、嫌んなってやめたんやけどな」

「そういや前も言ってたな。大会には出ないって」

「演奏に順位つけられんのが嫌なんや。ええ演奏に順位なんかいらんやろ。ええもんはええ。それでええのに、何でみんな優劣つけたがるんやろな。俺はただ、目の前におる人らを楽しませたらそれで満足や」

 頬杖をついていた腕を崩し、机に顔を預けると鷹野はぽつりと呟いた。

「今度の誕生日、じいちゃん笑ってくれたらええなぁ……」

 そう言った鷹野の顔はよく見えなかった。ただ、その声が、少しだけ寂しさを帯びているようにも感じた。

 彼のルーツはおじいさんだと言っても過言ではない。三味線を始めたきっかけも、続けた理由も、おじいさんが笑ってくれたからだ。それだけ、鷹野にとっておじいさんの存在は大きい。ただ、鷹野のおじいさんは今、歳とともに今までの思い出も、家族のことも忘れてしまっている。

 いつしか笑わなくなってしまったおじいさんに、もう一度、あの頃のことを思い出して笑ってもらいたい。その想いで、きっと鷹野は今でも三味線を弾き続けているのだろう。

「だったら、おじいさんの為にも、さっさと追試クリアして練習しないとだな」

「せやな!へこたれとる場合ちゃうわ!」

「んじゃ早速、間違えたところもう一回な」

 鷹野は俺が採点した答案用紙を見て、雷に打たれたように目をひんむいた。それでも、すぐに両頬をパチンと叩き、その目を挑戦の色へと変えた。

「よっしゃ!やったるで!」

 再び問題集と向き合い始める鷹野。俺も、そんな鷹野と伴走するように時間の許すかぎり勉強を教え続けた。

 そして、迎えた追試当日。放課後、鷹野は先生に連れられ特別教室へと向かった。俺の役目はここまでだ。この結果で鷹野は、おじいさんとの誕生日の過ごし方が大きく変わる。ここから先は俺には関係がない領域。けれど、どうしても結果が気になってしまう。誰もいなくなった教室で、俺は鷹野が戻って来るのをじっと待ち続けた。その時間が、長く、とても長く感じた。

 時計の針が17時半を過ぎた頃。廊下を走る音が遠くから聞こえてきた。教室の扉が勢いよく開き、その先に息を切らして立つ鷹野の姿があった。

 返却された答案用紙を高々と掲げる鷹野。その晴れやかな笑顔を見れば一目瞭然だった。俺は思わず立ち上がった。鷹野は合格ラインを無事突破した。三味線禁止令もこれで解禁だ。

 どうなることかと心配していたが、こいつはやる時はやるらしい。張り詰めていた空気が緩み、俺は肩の力が抜けて体が軽くなったのを感じた。

 途端――。ぐん、と腕を引き寄せられる感覚がした。抗う間もなく、気付いた時には鷹野の胸の中へと吸い寄せられていた。背中に回る鷹野の大きな手のひら。

「ありがとうなぁ!和泉くん!」

 弾む声と高鳴る気配。晴天を照らす太陽のような、まばゆい笑顔が瞳に映る。その時、俺の中で何かが風のように走り抜けた。

 胸の奥で小さく音が跳ねる。弦が弾けるような、短くて高い音。ほんのりと、熱と色を帯びた、甘い音――。

 俺は咄嗟に鷹野を体から引き離した。

「いっ……、いきなり抱きつくな!」

「えー?嬉しい時はハグやろー?この喜びを一緒に分かち合いたいやん!」

 一瞬感じた小さな熱に俺はわずかに動揺した。気のせいだ。深く考えるな。突然腕を引かれて驚いただけだ。俺は鷹野から視線を外し、咳ばらいを一つして言った。

「合格したんなら、さっさと練習したらどうなんだ」

「せや!さっきオカンから連絡来とったんや!三味線、部屋に戻しとくって。早よ帰って練習せな!和泉くん、今日も部屋貸してや!」

「はいはい」

 駆け出した鷹野が、「そうや!」と足を止めて振り向いた。

「和泉くんも、じいちゃんの誕生日来てや!俺の最高の演奏見せたるで!」

 どうせ断っても強引に連れて行かれるのだろう。俺は肩をすくめながら、小さく息を吐くように笑って返した。

「分かったよ」

 その日は追試で帰りが遅くなったぶん、鷹野は遅い時間まで防音室に篭っていた。母さんはそんな鷹野に晩御飯まで振る舞い、父さんも陽気な鷹野と話すのが楽しいらしく、お酒の代わりにジュースを勧めて談笑しながら飲み交わしていた。まったく、うちの家族は鷹野に甘い。

 その日の夜、俺は寝る前に、ふと鷹野の部屋を眺めた。大分と夜も更けていたが鷹野の部屋はまだ明かりが点いていた。おじいさんの誕生日は明後日、今週の日曜日だと聞いている。鷹野は今、何を思いながら過ごしているのだろうか。

 俺はそっとカーテンを閉めて、明かりを消した。


 鮮やかなオレンジ色に染まった景色。橋の上から望む地平線はどこまでも遠く広がっている。水面に散りばめられた金色の光が穏やかな波に反射してきらきらと瞬く。まるで宝石の輝きのようだと思った。

 沈んでいく夕日が、隣を歩く美しい彼の輪郭をなぞる。すっと通った鼻筋、薄い唇、くっきり線の入った切れ長の二重の瞳。滑らかな曲線を描く首元。琥珀色に浮かび上がる陰影が彼の姿を艶めかしく彩る。緩やかにそよぐ風が彼の髪をふわりとなびかせた。

「聞いたよ、透。今度は全国ヴァイオリンコンクール中学生の部、最優秀賞を取ったんだってね」

「あ……っ、綾人くんのおかげだよ!」

「俺?俺は何もしてないよ……」

「ううん、綾人くんがいてくれたから、僕はそれだけで頑張れたんだ!これからも、もっともっと沢山練習して賞もいっぱい取って、それでいつか、いつか……、あ、綾人くんと……」

 尻すぼみになる声。そんな俺に彼は優しく問いかけた。

「ん?どうした、透」

「――僕っ!いつか綾人くんと一緒に舞台に立ちたい!綾人くんと二人でヴァイオリン演奏がしたいんだ!」

 その時、一陣の風が吹き抜け俺は思わず目をつむった。そっと開くと、俺は花びらが舞う桜の並木道に立っていた。学ランを着ている自分と、目の前には高校の制服を着ている彼の姿があった。

「は?俺と一緒に演奏?冗談だろ?気色悪い音で俺の演奏を汚すつもりか?」

「え……」

 嘲笑い蔑むような声色と軽蔑の眼差し。彼の人差し指が、まっすぐ俺を差す。

「男を好きになるような奴と一緒に演奏なんて吐き気がする。気持ち悪いんだよ、お前の音は」

 ハッと目が覚めた。視界に映る自分の部屋の天井。俺は浅い呼吸を肩で繰り返した。蒸し暑い部屋。じっとりと汗をかいているのが分かった。だる重い体をのっそりと起こし、呼吸をゆっくり整える。大きく深呼吸をして額の汗を拭った。

 ――また、あの夢。

 春からずっと、浅い眠りは続いていた。それでもここ最近、あの夢を見る頻度は落ち着いていたはずだった。なのに、また見るようになってしまうなんて。しかも、今日の夢は何だか色々と混ざっていた。

 そういえば、彼と二人で演奏したいなんて、大胆なことを昔言った記憶がある。あの時は最優秀賞を取って変に自信がついてしまっていたのだろう。

 ――気持ち悪いんだよ。

 彼の冷たい声がまた蘇る。いつになったら俺は、この呪いのようにこびりついた記憶から解放されるのだろうか。俺は膝を抱えて静かに唇を嚙みしめた。

「透」

 ノックの音とともに母さんがドアを開けた。

「そろそろ起きて。洗濯物回したいから……あら、なんだ起きてたの?って、汗かいてるじゃない!もしかして体調悪い?」

「平気。ちょっと部屋が蒸し暑かっただけだから」

 俺はカレンダーに視線を移した。6月10日、今日は鷹野のおじいさんの誕生日。鷹野にとっても、特別な日だ。

 一階へ下りると、リビングに見慣れた後ろ姿があった。

「あっ、おはようさん!和泉くんが俺より遅いのなんて珍しない?」

 休日にこいつが俺ん家のリビングにいるこの光景も、もはや当たり前のようになっている。それに慣れてしまった自分も、感覚が麻痺しているなと十分自覚している。

「そういうお前はいつになく早いな。演奏は午後だろ?」

「ちょっとでも多く練習したい思てな。あっ、これオカンから!何や和泉くん家に持ってけ言うから」

 鷹野が掲げた紙袋には有名な高級菓子ブランドのロゴが入っていた。ぷらぷらと、ぞんざいにゆすって見せる鷹野に俺はじとりとした視線を向けた。こいつのことだ、このお菓子がどれだけ有名でお高いものなのかも知らないのだろう。

「和泉くん家の母ちゃんにさっき渡したんやけど、後で一緒に食べよ言うて、ここに置いとるんよ。和泉くんも後で食べてや!」

「あぁ、戴くよ」

「んじゃ、俺は部屋戻るな!」

「あたかも自分の部屋みたいに言うな」

 すると鷹野は振り向いてニカっと歯を見せながら言った。

「せやな、あの部屋は和泉くんの部屋やもんな!分かっとるで!」

 鷹野がリビングを出て行ったあとも、俺はしばらくドアに視線を向けたまま立っていた。そういうつもりで言ったわけではない。俺にとってあの防音室は――ただの、空っぽの部屋だ。

「……もう、誰のための部屋でもねぇよ」


「よっしゃ、来たでー!」

 雨の中、軽快な足取りで老人ホームの門をくぐり玄関口へと向かっていく鷹野の後ろ姿。こいつはいつも元気だな、と鷹野の背中を見て思う。きっと、こいつの辞書には緊張という文字がないのだろう。こと三味線においては尚更だ。大勢の視線に物怖じしない度胸。失敗を失敗と捉えない挑戦力。不安や心配はどこ吹く風。いわゆる、メンタルおばけというやつだ。

「いらっしゃい、二人とも!」

「三木さん、こんにちは。今日は鷹野のわがままを聞いてくださってありがとうございます」

「いいのよ!これくらい、わがままでも何でもないんだから」

 今日は三木さんや他の職員の方たちにお願いして、鷹野のおじいさんだけおやつの時間を部屋で過ごせるよう調整してもらったのだ。

「鷹野、お前が言い出したことなんだから、お前もちゃんとお礼言えよ」

「ん?あぁ、ありがとうなミキちゃん!」

 こいつはまた『ちゃん』付けで呼びやがって。俺は呆れて額に手を当てた。「あのなぁ鷹野」と口にしながら顔を上げると、そこに鷹野の姿はなく俺は思わず辺りを見回した。視界の先にとらえた鷹野はロビーに置いてある自販機のもとへ足を走らせていた。まったく、落ち着きのない奴だ。

「三木さんすみません。あいつ、いつも失礼な呼び方して、直せって言ってるんですけど」

「ああ、いいのよ気にしなくて!私も全然気にしてないし、むしろ一輝くんらしくていいじゃない。それに、今さら呼び名変えられたら逆に変な感じしちゃうかも!」

 笑ってそう返す彼女も、ひまわりのような元気な笑顔だ。

「あ、そうそう和泉くん、鷹野さんの為にケーキを用意してるの。演奏終わったらお部屋に持って行くから教えてくれないかな?」

「分かりました。よろしくお願いします」

「それにしても、いいなぁ和泉くんは」

「え?」

「今回は私たち、一輝くんの演奏聞けないからさ。まぁ、ご家族のご要望だから仕方ないんだけどね」

 いつも観客ウエルカムで聴衆を制限することがない鷹野だが、今回だけは違ったのだ。今日は、おじいさんの為だけに演奏を披露する。鷹野がそうしたいと言ってきたのだ。だから、他の入居者の方や職員の方には音が届かないよう配慮してもらったというわけだ。

「でも、和泉くんだけは聞くことができるんだもん。羨ましいなぁ。それだけ和泉くんのことも特別なんだろうね」

 彼女の言葉に、どう反応していいか分からなかった。俺が誘われたのは、多分、鷹野なりの勉強の礼なのだと思う。それ以上の意味なんて、あいつが考えるわけない。

「俺は……、ただの付き添いですよ」

 その時、ロビーのほうから床を弾く小高い音がいくつも響いた。見ると、自販機の前で小銭が散乱している様子がうかがえた。まったく、騒がしいなあいつは。そう思いながら俺は鷹野の元へ駆け寄った。

「ったく、何やってんだよお前は」

「手ぇ滑ってもーた」

 あはは、とあっけらかんと笑う鷹野の隣で、俺もしゃがんで一緒に小銭を拾い集める。

「これで全部か?自販機の下に入った分は……まぁ諦めろ」

「ええよ。寄付や、寄付」

 そう言って、笑いながら俺が拾った小銭を受け取る鷹野。その瞬間、俺はハッとした。

「鷹野――」

「あれぇ、かずくん。来てたのかい」

 車椅子に乗ったお年寄りが、職員に押されながらやって来た。

「おお、みっちゃん!今日も来たで!みっちゃんは今日もチャーミングやな」

「ヤダわぁ、こんな年寄りに向かってそんなこと言って!」

「噓やないで!?信じてやー!」

「はいはい、ありがとうね。かずくん、今日もこれから演奏してくれるのかい?」

「ごめんなぁ、今日はちゃうねん。また聞かせたるから、その時まで待っとってな」

「そうかい。かずくんの顔が見られただけでも元気出るから、また顔出してちょうだいな」

「おう!」

 彼女はそのまま食堂へと向かって行った。そろそろ15時になる。鷹野は踵を返した。

「ほな、行こか」

「あ、あぁ……」

 ポケットに手を入れて鼻歌を歌いながら階段を上っていく、そんな鷹野の後ろ姿はいつも通りで変わらない。でも――。

 208号室の前に着くと鷹野はポケットから右手を出した。ノックしようとその手をドアに向けた瞬間、俺は彼に声をかけた。

「鷹野!」

 手を止め、鷹野が後ろを振り向こうとした時――俺は彼の背中を思いっきり叩いた。突然のことで驚いた鷹野は、叩かれた反動で背中を反って反射的に俺に顔を向けた。

「痛ったぁ!!何すんの和泉くん!」

 困惑したように眉を下げ背中をさすりながら俺を見る鷹野。俺はそんな彼に真っ直ぐ伝えた。

「練習してきたことは裏切らねぇよ」

 鷹野は小さく口を開け、意表を突かれたような表情を向けた。

 こいつはいつも笑っていて、楽しそうで陽気で、嫌なことにはとことんワガママを言う。表情がコロコロと変わって分かりやすい。分かりやすくて、分かりにくい。

 拾い集めた小銭を鷹野に渡したとき、触れたこいつの手は驚くほど冷たくなっていた。鷹野は、抱えていた緊張をずっと顔に出さないようにしていたのだ。メンタルおばけでも何でもない。こいつだって一人の人間なのだ。

 あぁ、鷹野も人並みに緊張するんだ――そう思ったら、ほんの少しだけ応援してやりたくなった。ただ、それだけだ。

 肩の力が抜けたのだろうか。鷹野がふっと目を細めて笑みをこぼした。

「ホンマ、和泉くんって優しいなぁ」

 まるで、綿毛のような柔らかな微笑み。俺は落ち着かない胸の反響を抑えるように、首元に手を当ててそっぽ向いた。

「ほな、行きますか」

 ノックをして開いた扉。その先に広がる見慣れた光景。鷹野のおじいさんは今日も車椅子に乗って窓の外を眺めていた。

「じいちゃん、来たで!」

 ゆっくりと振り向いた彼はいつもと変わらずボーっとした表情で鷹野を見つめている。

「今日はな、じいちゃんの誕生日やから今までとは一味ちゃう曲を持って来たんやで。じいちゃん聞いたら驚くで?準備するからちょっと待っとってや。和泉くんも座っとき」

「あぁ」

 鷹野はパイプ椅子を部屋の中央に引き寄せると、腰かけて調弦を始めた。老人ホームへ付き添うようになって、鷹野のおじいさんと一緒に演奏を聞くのはもう何度目になるだろう。彼と二人で曲を聞くとき、鷹野は決まって座ったまま演奏する。鷹野がパイプ椅子を寄せるのも、俺が車椅子を動かして少し向きを調整するのも、いつの間にか小さなルーティンになっていた。俺は机の椅子を移動させ、鷹野のおじいさんの隣に置いた。

「隣、失礼しますね」

 彼からの反応は特にない。自分の声がどんなふうに届くかは分からない。独り言になってしまうかもしれないが、それでも、鷹野のおじいさんには演奏の前にどうしても伝えておきたいことがあった。

「あいつ、今日のために苦手な勉強必死に頑張ったんです。三味線の練習も、大事な曲だからって練習量増やして、毎日遅くまで弾いていました。あいつの頑張り、見てやってください」

 鷹野の演奏が始まった。

 穏やかに弾む和音。心地の良いリズム。メロディーに大きな変化があるわけではない。それでも瑞々しく奏でられる音は優しい旋律を刻んでいく。広大に広がる空を彷彿とさせるような、伸び伸びとした自由なメロディー。露をまとった新緑の葉に、光が反射するみたいに音が輝いている。軽やかで爽やか、そんな調べのなかに見え隠れする果実のような甘い音色。

 これは何という曲名なのだろうか。とても清らかで純粋さを感じさせる。鷹野はこの曲を大事な曲なのだと言っていた。きっと、鷹野と彼のおじいさんとの特別が詰まった思い出の曲なのだろう。だからこそ、この曲でおじいさんに笑顔になってもらいたいと思って選んだに違いない。

 俺は膝に置いた手をぎゅっと握り締めた。練習してきたことは裏切らない。俺は鷹野にそう伝えた。その言葉は俺自身にも言い聞かせていたようにも思う。鷹野はあれだけ練習したのだ。

 ――届くはずだ、今度こそ。届け、届いてくれ!鷹野の想いは十分曲に乗っている!

 曲がラストの旋律に差し掛かる。部屋に響きわたる三味線の音。撥が最後の一音を弾き、余韻ののち静かに曲が幕を閉じた。演奏を終えた鷹野は、おじいさんに真っ直ぐ微笑みを向ける。俺は咄嗟におじいさんへ振り向きその姿を目に映した。

 ――あぁ……。

 俺は不意に唇を噛んだ。俺の瞳に映ったのは、虚ろな眼差しで遠くを眺め続ける、変わらない彼の姿だった。俺は自分の肩が段々と沈んでいくのが分かった。奥歯を嚙み締め、握る手に力が入る。どうして――そんな言葉が頭のなかを駆けめぐった。

「じいちゃん、びっくりしたやろ!なんたって秘蔵の曲やもんな。ホンマは弾いてええんか迷ったんやけど、思い切って弾かせてもろたわ!まさかこの曲くるとは思わんかったやろ!どや、サプライズプレゼントっちゅーやつやで!」

 鷹野が、にししっと歯を見せて笑う。鷹野は残念そうな素振りも悔しそうな素振りも見せない。まるで沈まない太陽だ。

「和泉くんもありがとうな!おかげで体軽なって弾きやすかったわ!」

 そう言って鷹野は肩をぐるぐると回して見せる。側に置いていたケースを手に取り、鷹野は背を向けて三味線を片付け始めた。

「さてと、今日の演奏はこれで終いや。物足りひん言わんとってや?また弾きに来たるから安心しぃ。今度はもっと楽しませたる。せや、ミキちゃん達からもじいちゃんにプレゼントある言うとったな」

「……三木さん、演奏終わったらケーキ持って行くって言ってた」

「ケーキ!?えぇなぁ!俺も食べたいわぁ」

 俺は鷹野の明るい声に同調することが出来なかった。こんなにあっけなく終わってしまうなんて。胸に広がる虚しさがもどかしくて堪らない。

 俺はふと、隣の気配に気づき鷹野のおじいさんに視線を向けた。その光景に俺は目を見開いた。

「鷹野……」

「んー?」

「鷹野、おじいさんが……!」

 振り向いた鷹野の視線が真っ直ぐおじいさんへ伸びる。彼の皺だらけの骨ばった細い手が弱々しくもしっかりと鷹野へ伸ばされていた。鷹野は片付ける手を止め、車椅子の前まで来ると膝を付いてしゃがんだ。

「じいちゃ……」

 鷹野がその手を取ろうとした時――皺だらけの手が、ふわりと鷹野の頭を撫でた。愛でるように、何度も何度も優しい手つきで孫の頭を撫でている。

「上手になったなぁ……」

「……うん、じいちゃんに聞いてほしくて、いっぱい練習したんやで」

 鷹野は目を細め、おじいさんの手に自身の手を添えると、その手を頬まですべらせた。ぬくもりを嚙みしめるように、鷹野は目をつむってその頬に笑みを浮かべていた。そんな二人の姿を見つめていると、小さい頃の鷹野とおじいさんが一緒に三味線を楽しんでいた光景が、そこに浮かんでくるようだった。

 それはまるで、暖かな春の陽だまりのように、ぬくもりを帯びた光景だった。

「俺、三木さんにケーキの準備伝えてくる!」

 そう言って俺は部屋を駆け出した。体がとても軽く感じて、走っちゃいけないのに我慢できずに足が飛び跳ねてしまった。

「……っし!よし!よし!!」

 思わず小さく握った拳。手のひらが熱を帯び、俺は湧き上がる気持ちをその身に感じた。

 俺たちはその後、職員の方たちも交えておじいさんの誕生日をお祝いした。おじいさんのケーキを食べようとする鷹野を制止したり、寄せ書きを書いたり、写真を撮ったり。鷹野のおじいさんは、あれ以降またいつものようにぼんやりとしてしまったが、それでもあの時の光景は大きな変化だったと思う。鷹野もその日はずっと楽しそうで、外が雨だと忘れるくらい、部屋の中は陽が差しているかのように明るさに満ちていた。

 今度は何の曲を披露しよう、施設の皆にももっと沢山聞いてもらいたい、和泉くんも一緒に聞いてや、と、鷹野は帰りのバスの中で子供のように目を輝かせて言っていた。俺も、また鷹野のおじいさんに会ってこいつの話をしたいと思った。あなたのお孫さんは、「ド」が付くほどの三味線オタクで、三味線をこよなく愛す演奏家だと。次に鷹野と会いに行く日が楽しみだ――そう思っていた。

 その報せが届いたのは、誕生日の演奏を披露したわずか3日後のことだった。鷹野のおじいさんが、亡くなった。

 急に熱を出し容態が悪化。病院へ搬送されたが回復することはなく、そのまま亡くなられたそうだ。

 雨が降り続く中、参列した通夜で俺は鷹野の姿を見た。鷹野は親族のお子さんの面倒を見ていたらしく、やんちゃそうな4、5歳くらいの男の子を笑わせてあやしていた。一度だけ目が合ったが、鷹野は軽く笑って見せただけで俺たちは会話を交わすことはなかった。俺は、何て声をかけたらいいのか分からなかった。「突然のことだったな」「大変だったな」「何かできることがあれば言ってくれ」どれも、違う気がした。

 窓に滴る雨粒。その先に見える鷹野の部屋。連日、そこに明かりが灯る様子はなく、俺の部屋には、ただ雨の打ち付ける音だけが響いていた。

 忌引きが明けた月曜日、鷹野が学校へ登校してきた。今まで、ほぼ毎日鷹野と顔を合わせていたせいか、姿を見るのが久しぶりのように思えた。

「おー!鷹野くんおはよー!」

「おはようさん!本庄くん相変わらず好きやな、そのジュース」

「朝はコレを飲まないと始まらないからな!朝のルーティンってやつよ!」

 鞄を下ろしながら鷹野が俺に視線を向けた。いつものようにニカっと歯を見せて、やんちゃそうな笑顔を見せる。

「おはよう、和泉くん」

「……はよ」

 いつも通りの鷹野だ。湊と他愛ない話で笑い合って、ふざけ合って楽しそうにしている。変に気を遣って、しんみりとした空気にするのも居心地が悪くなるだけだろう。そう思って俺もいつも通り鷹野に接した。いつも通り、鷹野のとぼけた発言に鋭く返し、いつも通り、鷹野のおどけた態度をたしなめる。鷹野はそんな俺の言葉にケラケラと笑った。

 いつも通り。いつも通りの鷹野だった。なのに、胸騒ぎがする。小さな違和感が胸につっかえて離れない。糸が絡まっているような複雑な感覚が俺を襲う。

 フラッシュバックする自分の記憶。憧れの人に出会った瞬間のときめき。ヴァイオリン教室で学ぶ自分。楽しくて時間を忘れて没頭したあの頃。彼の背中を追い続けた自分。彼の笑った顔が見たくてヴァイオリンを弾き続けた日々。そして――桜並木で全てを否定されたあの日のこと。

 この、既視感。

「なぁ鷹野、お前……!」

 思わず鷹野の腕をつかんで口に出していた。けれど、その先の言葉は喉につっかえて言い出せなかった。

「何、和泉くん?」

「あ……いや、何でもない」

 考えすぎだ。鷹野に限ってそんなことあるわけがない。つっかえたこの感覚もそのうち気のせいで終わる。きっと時間が経てばいつも通りに、また――。

 けれど、胸のざわめきは日を追うごとに増していった。あれだけ授業の合間も休憩時間も欠かさず三味線の練習をしていた鷹野が、ぱたりと三味線を弾く素振りを見せなくなった。防音室も、あれから借りたいと言ってこない。

 一緒に帰る理由がなくなった俺と鷹野は、いつしか別々に下校するようになった。鷹野の家の前を通ると思わず足が止まり、俺は傘越しに彼の部屋を見上げた。鷹野は先に教室を出て行ったようだが、彼が家に帰っているのか、寄り道をしてどこかへ行っているのか、俺には分からない。

 途端、鷹野の家の玄関が開いた。

「あら?もしかして……お隣の和泉くん?」

 鷹野のお母さんだ。通夜で見かけた時も思ったが、彼女は鷹野に顔がよく似ている。

「あ……、こんにちは」

「この前は、わざわざ来てくれてありがとうね」

「いえ、とんでもないです……」

「一輝に用があったんかな?ごめんな、あの子まだ帰って来てないんよ」

「そう、ですか」

「最近はなぁ……三味線も持って出ぇへんようになってもうて、どこで道草食っとんのかねぇ」

 彼女の言葉に俺は小さく息を吸った。きゅっと傘の柄を握る手に力が入った。胸が、ざわつく。

「いつも一輝がお家にお邪魔してもうて、迷惑かけとったらごめんな。けど、あの子ホンマ楽しそうに和泉くんのこと話すんよ。やから、また一輝と遊んでくれたらおばさんも嬉しいわ。お世話になりっぱなしやし今度はうちにもおいでや。一輝も喜ぶと思うわ。あっ、アカンアカン、仕事行かな!ほんならね、和泉くん」

 俺は鷹野のお母さんに軽く会釈をして別れた。

 違和感と胸のざわつきが段々と色濃く広がっていく。絡まった糸が膨張して張り裂けそうになる。雨の音がひときわ強く耳に響いた。

 帰宅して、俺は防音室の前に立っていた。その扉をそっと開ける。明かりを点けると、そこにいつもの光景が蘇った。部屋の真ん中に陣取って譜面を散りばめたまま三味線を弾く鷹野の姿。俺に気付くと花が咲いたようにパッと表情を変えて笑顔を向けていた。いつの間にか、そんな光景が当たり前になっていた。

 俺の視線は部屋の隅に置いてあるヴァイオリンケースへ向いた。俺は震える手を握って小さく深呼吸をした。一歩ずつ、ケースに向かう足。その背後には、いつものように黒い幻影がまとわり付く。

 俺はケースの側まで歩みを進めると、ゆっくりと片膝をついた。滑らかな曲線が美しい、マットな質感を放つ黒いヴァイオリンケース。俺は2年ぶりにそいつに触れた。

「なぁ、俺はどうしたい?」

 あいつと出会って俺はずっと自分の気持ちから目を逸らしていた。けれど、本当はもう気付いている。答えはもう、ずっと前からここにあるのだと――。

 鷹野の家の前で俺はあいつの帰りを待った。どれだけ時間が過ぎただろうか。辺りが暗くなり街灯がぽつぽつと灯り始めたころ、雨に混ざった足音が俺の前で止まった。

「和泉くん?どないしたん、俺ん家の前で」

「待ってたんだよ、お前を」

「えー、何なん!?口説き文句みたいでドキドキするやん」

 俺はケラケラと笑う鷹野を睨み上げた。腹の底が煮えくり返る。初めて鷹野に出会った時から、俺はこいつのことが嫌いだった。

 あの日、河原を背に大衆の前で三味線を弾いていた鷹野の姿は、真夏の太陽のようにぎらぎらと輝いて眩しく見えた。心の底から湧いてくる楽しいという感情。それを三味線の音に全て乗せて、溢れる泉のような瑞々しい演奏を奏でていた。俺はそんな鷹野に過去の自分を重ねてしまったのだ。三味線が好きで好きでたまらない。楽しくてしょうがない。そう言っているかのような表情。かつての俺もそうだった。そんなふうに笑っていたのだ。

 俺も好きだった。ヴァイオリンを弾くことが大好きだった。鷹野を見るたび昔の自分を思い出して、弾けなくなったことが、ずっと悔しくてたまらなかった。

 俺は、彼に嫉妬していたのだ。羨ましかったのだ、楽しそうに音を奏でる鷹野のことが。

 ただの娯楽で、気まぐれで演奏しているだけならずっと嫌いなままでいられた。それなのに、こいつはいつも真剣に、真摯に、他のことには目もくれず、ひたすら三味線と向き合い続けていた。おじいさんの為にどれだけ練習を重ねてきたのか、どれだけ頑張ってきたのか、側で見ていた俺は痛いほど知っている。

 突然突き付けられた現実。心がぐちゃぐちゃに潰れそうになるのも、受け止めたくなくて、もがきたくなることも知っている。それまで大好きだったはずの楽器が、突然、過去の記憶の産物となってしまう。それがどれだけ深い傷になるか、どれだけ胸の奥に影を残すのかも俺は知っている。

 こいつには、俺のようになってほしくない――そう思ったのだ。

 だからこそ、今のこいつを見ていると余計にもどかしくてムカついてくるのだ。

「お前、もういい加減平気なフリするのやめろ!」

 一瞬だけ表情を固まらせた鷹野を俺は見逃さなかった。俺は鷹野の腕を掴み自分の家に連れ込んだ。

「ちょっ、ちょっと待ってや和泉くん!ホンマにどないしたん!?」

 向かう先は防音室。ここなら、ちょっとやそっとの音なら外に漏れることはない。

「和泉くん!なぁ和泉くんってば!」

 防音室に足を踏み入れ、俺は背後で静かに扉を閉めた。ゆっくりと視線を上げ、視界に鷹野をとらえて言う。

「思ってること全部吐き出せ。安心しろ、ここは防音室だ。俺以外ほかの誰にも聞こえねぇよ」

「……な、何を言うとるん?俺は別に――」

 俺は奥歯を噛みしめると、引き寄せるように両手で鷹野の胸ぐらを掴んだ。

「そういうところだよ!強がりも大概にしろ!辛いなら辛いって言えよ!悲しいなら悲しいって言え!そういう感情全部押し殺してへらへら笑ってんじゃねぇよ!」

 頼むから吐き出してくれ。自分の感情に向き合ってくれ。じゃないと、もっと苦しくなる。大好きだった楽器にも嘘の感情を向けることになってしまう。

「鷹野、お前が今考えてること当ててやろうか」

 俺は鷹野の目をじっと見つめて言った。

「三味線のこと、考えないようにしてるだろ」

 その瞬間、鷹野の瞳が揺らいだ。胸ぐらを掴んでいた腕は咄嗟に掴み返され俺は壁に押しやられた。綻びを見せる鷹野の表情に、俺は小さく笑みを浮かべ、なおも睨み上げる。

「図星」

「……だったら何なん。和泉くんには関係ないやろ」

「よく言うよ。そっちが散々連れ回したくせに、都合が悪くなったらただの隣人ってか。そりゃそうだ。俺とお前は赤の他人だ。お前のおじいさんとだって何の関係もない。けどな!俺だってお前の三味線を側で聞いてきたんだ!今さら知らないフリなんか出来ねぇんだよ!やっとおじいさんがお前の音に反応見せてくれて、お前の気持ちが届いたんだって、俺はそれが嬉しかったんだ!すげぇ嬉しかったんだ!お前はどうなんだよ!お前が一番そう思ってたはずだろ!」

 鷹野は唇をぎゅっと引き結ぶと、一拍置いたのち薄っすらと笑みを浮かべて言った。

「もう終わったことやろ。この話はもう終わりや。帰るわ」

 踵を返す鷹野に俺はすかさず腕を伸ばした。掴んだ腕。動きが止まる足。けれど鷹野は振り向こうとはしない。表情が見えないその背中に俺は問いかけた。

「お前いま、逃げてるだろ。俺からじゃない。自分自身の感情から逃げてるだろ。違うか?大好きだったんだろ、おじいさんのこと。なら、泣きたくなるくらい辛いのは当然だろ。だったら悲しめばいいだろ。大泣きしたって誰もお前のこと笑ったりなんかしねぇよ。お前にとって、おじいさんも三味線も何よりも大事な存在だったはずだろ。なのに、何で思い出ごと遠ざけるようなことするんだよ。鷹野、お前は何に怖がってんだ……!」

「やめてや」

 静かな一言。けれど、確かな拒絶をはらんだ声。危うさが増していく気がした。鷹野が心の奥底に押し込んでいる感情。何重にもかさねて蓋をしたその感情を、鷹野自身が開かなければ、きっと彼は三味線を遠ざけ、おじいさんとの大切な思い出すらも無意識に黒く塗りつぶしてしまうだろう。どんなに笑っていても、どんなにおどけて楽しそうにしていても、心の底では黒く渦を巻いた塊が残ったままになってしまう。

 俺は、こいつが楽しそうに三味線を弾いている姿をまた見たい。たくさんの人を喜ばせて、太陽のように周りを明るくしてしまう、そんなこいつでいてほしい。大好きな三味線を悲しみの象徴にさせたくない。こいつから三味線を手放させたくない。

 鷹野の心を強く動かすのは、きっと言葉じゃない。こうなることを俺はどこか分かっていた。だから、ここで逃げたら俺は絶対に後悔する。

「分かった。鷹野、俺の話はもう聞かなくていい」

 俺は鷹野の腕をそっと放し、続けて言った。

「けど、あと5分。5分だけ俺に時間をくれないか」

 鷹野の背中がゆっくりと向きを変えた。

「お前、前に俺の音聞きたいって言ってたよな。いいよ、聞かせてやる」

「え……」

「だから、耳の穴かっぽじってよく聞いとけ。俺がどんな音で演奏するのかを」

 俺は準備していたヴァイオリンケースの側まで足を進めると小さく呼吸を整えた。そっと開いたケースから徐々にその姿が露わになる。照らされたライトの光が輪郭にそって艶をなぞっていく。2年ぶりに目にした自分のヴァイオリンは、あの頃のまま変わらない美しい姿をしていた。

 そっと触れ、掬い上げるように手に取った。懐かしい感触。重さ。手になじむフォルム。あの頃の感覚が蘇ってくる。俺はヴァイオリンを肩に添え、静かに弓を構えた。

 けれど、鮮明に蘇るのは、まとわりつく黒い記憶も同じだ。軽蔑の眼差し。氷のような冷たい声。拒絶と嘲笑を含んだ言葉。それらが渦となって俺の足元から徐々に這い上がってくる。

 弓を持つ手が小さく震える。心臓の鼓動が耳にまで響いてうるさい。俺はきゅっと目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

『男を好きになるって、どうかしてる』

 ――うるさい、黙れ!

『吐き気がする』

 ――だったら何だ!

『気持ち悪いんだよ、お前の音は』

 ――俺はあなたに聞かせたいんじゃない。俺は今、鷹野のためにヴァイオリンを弾きたいんだ!

 瞼を開き、俺は弓を弦に滑らせた。演奏する曲はベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章。この曲は元々ピアノで演奏される前提で作曲された作品だ。でも、第2楽章だけならヴァイオリンでも弾くことはできる。

 今の鷹野に聞かせるならこの曲だと一番に思った。鷹野は悲しみに身を置く必要がある。彼を暗闇に突き落としたいわけじゃない。降り注ぐ雨が大地を濡らして、やがて暗い土の中から新芽が顔を出す。俺はそんな恵みの雨を彼に与えたい。ゆっくりと、静かに深い悲しみの底に潜っていくように、優しく響かせて届けたい。

 ――俺がこの曲で、お前の感情の蓋を開けてやる。もう我慢しなくていい。隠すことなんてない。お前は十分、強いのだから。

 切なくも穏やかな旋律が室内に響きわたる。2年のブランク。決して完璧な演奏ではない。けれど、そんなものを求めて弾いているわけじゃない。ただただ、鷹野の心に届けたい。俺の想いをありったけ乗せて鷹野の感情に届けたい。音は嘘をつかない。演奏者の心を映す鏡だ。それは鷹野が一番分かっているはずだ。だから、俺が奏でるこの音もきっと感じられるはずだ。

 ――届け、届け!響かせろ!これが、お前が聞きたがっていた俺の音だ!

 穏やかな曲のなかに時折り顔を出す、大地を一歩踏みしめるような旋律。奏でる音は空気を震わせ、絡まった糸が一つ一つほどけていくように柔らかく溶けていく。一音一音、精一杯の想いを込めた音が鷹野のもとに降り注ぐ。やがて旋律はゆるやかに終局へと向かい、最後の一音が空気に溶けると、残された余韻が曲の終わりを静かに告げた。

 俺は小さく息を整え、ゆっくりと鷹野に視線を向けた。そうして彼に小さく微笑む。

 鷹野は俺と目が合うと、はらりはらりと自分の頬を伝い落ちる大粒の涙に初めて気が付いたようだった。

「えっ……?俺、待っ……」

 拭っても拭っても、とめどなく流れ続ける涙。やがて鷹野から嗚咽混じりの声が漏れはじめた。そして抑えきれない感情は膨れ上がり、固くせき止めていた壁が崩れるように一気に外へと溢れ出した。彼の堪えきれない慟哭が室内に響きわたる。そんな鷹野を俺は包み込むように、そっと抱き寄せた。

 子供のように声をあげて泣く彼を胸に抱きながら、俺もまた、その熱に触れて静かに涙をこぼした。

 俺たちはその後、防音室の壁に背を預け、床に座り込んで脱力しながら話をしていた。と言っても、俺はほとんど相槌を打ちながら鷹野の話を聞いていただけだ。ぽつりぽつりと、おじいさんとの思い出を話す鷹野は時折り涙を流すこともあった。けれどその表情は、どこか憑き物が落ちたような穏やかさもうかがえた。

「じいちゃんの誕生日に弾いた曲な、あれ、じいちゃんのオリジナル曲なんやで」

「へぇ。おじいさん作曲もしてたんだ」

「でも、作ったんはあの一曲だけなんよ。あの曲はな、じいちゃんがまだ若かった頃に、ばあちゃんに贈った曲なんよ」

「そうだったのか。素敵なおじいさんだな」

「ばあちゃんは俺が生まれてすぐに死んでもうて、俺は写真でしか見たことないんやけど、よう笑う人やったんやて。小っちゃい頃、その曲もよく俺にも聞かせてくれとったんよ。俺が三味線に興味持ち始めたんはそれがきっかけや。あの曲は楽譜もないし俺の記憶頼りやった。じいちゃんの大事な曲やし俺が弾いていいんか、そもそも同じように弾けるんか悩んだんやけど、最期に聞かせてあげられて良かったと思うわ。和泉くんのおかげや」

「俺は別に、大したことはしてない。お前が頑張った結果だ」

「ううん。和泉くんがおってくれたからやで。直前まで、あの曲弾くかどうかホンマは悩んどったんよ。あん時、和泉くんが励ましてくれたから覚悟決まったんよ。やから、和泉くんのおかげや」

 鷹野は俺の左手に触れ、そっと手を重ね合わせた。俺は振り払おうとは思わなかった。その手が、わずかに震えていたからだ。鷹野の声が、少し上擦って掠れて聞こえた。

「……今日も、ありがとうな。正直言うとな、俺、悲しいって気持ち受け入れるんが怖なってん。じいちゃんが死んで胸の辺りがぎゅってなった瞬間、足元がぐらついたような感覚になったんよ。悲しみに浸ったらそのまま溺れて戻って来れんなるような気がしたんや。それで怖なって、三味線も視界に入れんようにしとった。やけど、和泉くんのヴァイオリン聞いたらな、今まで思っとった怖いって気持ちが、どっか行ってもうとった。ホンマびっくりしたわ。悲しいって気持ちが消えたわけやないけど、ちゃんと向き合うことが出来た。和泉くんのおかげで、悲しむことを怖がらんでええって思えるようになった。ホンマにありがとうな」

 涙ぐみながらも、いつもの鷹野の笑みが戻る。鼻をすすりながら鷹野は続けて言った。

「それにしても和泉くんの音は、まるで魔法みたいやな。何や浄化された気分やわ」

「魔法って……。まぁ、音楽療法ってのは世の中にあるけど――」

 すると、添えられていた手がするりと滑り、俺の左手は鷹野の手の中にふわりと包まれた。じんわりと伝わる体温。抱えた膝に頭を預け、鷹野は俺に陽だまりのような柔らかな笑みを向けて言った。

「俺、和泉くんの音、好きやで」

 音が大きく跳ね上がる。熱と色を帯びた鮮やかな音。胸の中で跳ねては広がり、いくつも反響して体中を駆けめぐる。頬の熱が一気に跳ね上がったのを感じた。高鳴る胸の鼓動。鳴りやまない反響。心が、震えるほど騒いでいる。あぁ、もうこの気持ちは嘘で覆い隠せない。

 ――鷹野のことが、好きだ。

「和泉くん?」

 身を寄せる鷹野の気配に体が過敏に反応する。俺は咄嗟に手を離して両腕で顔を隠しながら目を背けた。

「あ……、や、その……」

「どないしたん?なんや顔赤いで?熱でもあるんとちゃう?」

 腕を掴まれ容赦なく視界が開けていく。鷹野が俺を覗き込んだ。見慣れている顔のはずなのに、意識すると、どうしてこんなにも艶を帯びてまばゆく見えてしまうのだろう。次第に近付く顔の距離。呼応するように心臓の鼓動が速度を上げていく。我慢出来なくて俺は思わずぎゅっと目をつむった。

「透?」

 ノック音と同時に母さんが扉を開けた。

「あら、鷹野くんも……って、何してるの?」

 咄嗟に鷹野を押しのけてしまい、床に転がっている彼を目にした母さんが訝しげに俺を見た。

「いやっ!これはその……ちょっとだけ、ふざけ合ってて……!」

「もう、ケガするような危ないことはしないでよ?」

「わ、分かってるって!ほら、鷹野も今日はもう帰ろう!な!」

「ふぇーい」

 のそりと起き上がり玄関へ向かう鷹野。ホッとしたような名残惜しいような、そんな矛盾を感じる気持ちを胸に仕舞い、俺は鷹野を玄関まで見送った。

「ほんなら、また明日な」

「あぁ」

「和泉くん」

「な、何だよ……」

 鷹野はまだ赤みが引いていないその目元を細めてふにゃりと笑った。

「また聞かせてや。和泉くんのヴァイオリン」

 とくんと広がる熱が胸をくすぐる。俺は視線を逸らして首元に手を置きながら返した。

「まぁ、気が向いたら……な」

 その日の夜、鷹野の部屋から久しぶりに三味線の音が聞こえた。でも俺は、止めようという気は起こらなかった。その響きが、とてもゆったりとしていて一音一音が言葉のようにも聞こえたのだ。まるで、三味線を通して会話をしているかのように。

 もしかしたら、おじいさんへ送る弔いの音なのかもしれない。俺はそう思いながら、静かに耳を澄ませてそっと瞼を閉じた。

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