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第3話

「おはようさん!」

 玄関チャイムが鳴ってドアを開けると、そこには、ハツラツとした声で元気に挨拶する鷹野が立っていた。俺はそのままドアを閉めた。しかし、閉まるギリギリのところで鷹野は足を滑り込ませ、両手でドアを掴んできた。

「ちょお待って!何でや!?閉めんとって!」

「帰れ!」

「何で!?和泉くんの母ちゃん防音室いくらでもつこていい言うとったやん!」

「休日までお前と顔つき合わせる羽目になってる俺の身にもなれっつの!」

「ええやん!俺は休日も和泉くんに会えて嬉しいで?」

 一瞬、力が緩んでしまい、鷹野はその隙にドアを開けて、あっという間に玄関に入って来てしまった。

「ほな、お邪魔しまーす!」

「あっ、おい!」

 あれから2週間。学校が終われば鷹野はすぐに席を立って、「はよ行こ!」と俺に帰宅を急かすようになった。おかげで毎日鷹野と一緒に下校だ。休日は休日で、午前中から家に押しかけて来ては、飽きもせず夕方まで三味線を弾き続けている。

 今まで練習場所を制限されていた彼にとって、この防音室は存分に音が出せる絶好の場所なのだろう。平日も休日も関係なく、ほぼ毎日、子供のように目を輝かせながら気の済むまで居座っている。

 ただ、そのおかげなのか、夜に隣の家から響いていた三味線の音は、あの日以来ぱたりと止まった。それはそれで助かったのだが、休日まで鷹野に付き合わされるのは勘弁してほしい。

 なにも、俺は付きっきりで彼の練習を眺めているわけではない。鷹野が練習している間、俺は俺で部屋で勉強したりリビングでテレビを見たりして過ごしている。鷹野に気を遣うつもりはさらさら無いが、それでも家に人を上げているわけで、彼は一応、客人なのだ。鷹野を家に置いたまま外出するわけにもいかない。俺は自由に過ごしているようで、鷹野のせいで行動が制限されている。一体いつまでこんな毎日が続くのだろうか。そんなことを考え、溜め息をつきながら冷蔵庫を開けたときだった。玄関から声が聞こえた。

「ただいまぁ。透、ちょっと来てくれない?」

 買い物に出掛けていた母さんが帰ってきたようだ。顔を出すと、玄関の上がり口には、ぱんぱんになった買い物袋が3つ並べて置いてあった。母さんはいつも1週間分の材料を休日にまとめて買ってくる。これがいつもの光景なのだが、今日は別のお店の袋が追加されていた。

「はい、これ」

 母さんから手渡された小さな白いビニール袋。受け取ると底は温かく、袋の中からほんのりと甘い香りが漂った。

「何、これ?」

「たい焼き。スーパーの前に屋台が来ててね、匂いにつられて買っちゃった。鷹野くん今日も来てるでしょ?それ、鷹野くんにもあげて。おやつにどうぞって」

「あいつにそんな気回さなくていいのに」

「いいから。ほら、鷹野くん呼んできて。あっ、何なら透の部屋で食べる?飲み物持って行くわよ?」

「……いいよ、リビングで食べる。わざわざ持って上がるのも手間だし」

 本当は、自分の部屋に鷹野を入れたくないというのが本音だ。見られて困るものがあるわけではない。ただ、自分のプライベート空間に鷹野を招いたら、何だか気を許したみたいで、そんな自分に後ろめたさを感じるのだ。

 防音室を開けると、鷹野はちょうど楽譜に何やら書き込んでいる最中だった。

「鷹野、母さんがたい焼き買ってきたけど、お前も食べるか?」

「え!たい焼き!?ええの!?食べたい!」

 一瞬で食らいついた。こういう反応を見ると、鷹野がますます子供っぽく見えてくる。そういえば、この間のような洗練された空気を放つ鷹野の姿は、あれ以来見ていない。防音室で練習するようになって、演奏中の鷹野を見る機会が増えたが、彼はいつもノリノリといったテンションのなか、体でリズムを取りながら元気に弾いている。もはや座ってもいない。鷹野らしいと言ったら鷹野らしいのだが、ギャップがありすぎて、あのとき見た彼は幻だったのではないかとさえ思う自分がいる。

 それにしても、少し気になる点が一つある。鷹野の練習量だ。ただの趣味にしては練習頻度が異様に高い。自分が音楽をやっていたから思うことなのかもしれないが、鷹野のそれはコンクールや大会の出場を目指す者がこなすような量だ。生半可な熱量じゃ続けられない。プロを目指しているとか、三味線の大会にでも出ると言うのであればまだ納得感はあるが、そうでないならば、彼は一体何のために弾き続けているのだろうか。

「お前さ、何でそんなに練習してんの?三味線の大会でもあるのか?」

 たい焼きを口に頬張ってご満悦そうな顔をしている鷹野に俺は聞いた。

「んばいがいなんあんよ」

「いや、飲み込んでから喋れよ」

 鷹野はたい焼きを胃に収め、お茶を飲み干すと改めて言った。

「大会になんて出らんよ。俺、ああいう堅っ苦しいの嫌いやねん」

「じゃあ……、お前がやってんのは何のための練習なんだよ。披露して小遣い稼ぎとか?それともSNSにでも投稿して有名になってデビュー狙いとか?」

 すると、鷹野の表情がふわりと変わった。ぎらぎらした瞳が瞼に隠れ、頬に静かな笑みを浮かべて言う。

「聞かせたい人がおんねん。その人のために、俺は練習しとるんよ」

 その返答に、思わず俺は小さく口を開いた。意外だと思った。こいつはてっきり、注目を浴びたいという私欲で三味線を弾いているのだと思っていた。派手な服装にピアス、立って演奏するパフォーマンス。彼の演奏スタイルから、そう捉えるのは普通だろう。けれど、大会で優勝するためでも、賞を取るためでもない。お金や名声でもなく、鷹野が三味線を弾く理由――それは、たった一人、その人のために演奏を届けたいから。

 彼をここまで突き動かすほどの人とは、一体誰なのだろうか。でも、さすがにそこまで踏み込んで聞くのは野暮というものだ。

「へぇ、素敵じゃない!もしかしてその人、鷹野くんの好きな人だったりするの?」

 思わず俺は口に含んだお茶を吹き出した。たい焼きを持ってテーブルへやって来た母さんが急に話に割り込んできた。俺は咳き込みながら立ち上がった。

「母さん……!な、何聞いてんだよ!」

「えー?だって気になっちゃうじゃない。鷹野くん、こんなに熱心に練習してるんだもん。それだけ大切な人ってことでしょ?」

 鷹野は照れた様子で頬をかきながら、はにかんで答えた。

「うん、大切や。世界でいっちゃん、大好きな人やもん」

 なぜだろうか。今、一瞬胸の奥で、ほんのわずか何かがチクリと刺さったような気がした。

「今日は午後から会いに行こ思っとってん。そや、どうせなら和泉くんも一緒に行こや」

「……へ?」


 電車に揺られ20分ほど。そこからバスに乗り換え15分。降りた場所は大きな建物の前だった。広い敷地内に左右L字型にそびえ建つその建物は、奥行きも感じさせる凹凸のある四角い形をしていた。白い外壁に均等に並ぶ窓の数々。建物の周りや玄関口は植栽で整えられていて、清潔感が漂っている。街中でもよく見かける造り。ここは――。

「病院……?」

「ちゃうちゃう」

 鷹野は敷地の入り口に設置されている看板を指差した。額縁のようにコンクリートに嵌め込まれた茶色い看板。そこには、白い文字でこう書かれていた――特別養護老人ホームなごみ緑寿苑。

「……老人ホーム?」

「ほな、行きますか」

 そう言うと鷹野は振り向いて建物を見上げた。右耳のピアスが陽の光に反射しながら揺れ動く。午前中はつけていなかったピアスが両耳に付いている。以前彼は言っていた。ピアスを付けるのは人前で演奏する時なのだと。わざわざ付けたということは、きっと、そういうことなのだろう。

 鷹野は背負っている三味線ケースのストラップを握り直し、敷地内へとずんずん進んでいった。追いかけるように俺もその後を追う。

 エントランスへ入り、辺りを見回した。老人ホームに来たのは初めてだ。車椅子を押して歩く職員の姿、面会と思われる家族、廊下の先へ向かうお年寄り。ここに、鷹野の大切な人がいるらしいが、その人とは一体――。

「あら、一輝くん?」

「あっ、ミキちゃんや!」

 通りかかった女性が鷹野に声をかけた。団子に結った後ろ髪。紺のワイシャツにベージュのパンツスタイル。その上にエプロンを身に着け、運動靴を履いている。動きやすそうな恰好だ。恐らくここの職員なのだろう。

「相変わらず元気だなぁ。でも、声はもうちょっと抑えてね。他の人がびっくりしちゃうから」

「せやったな、ごめんやで」

 和やかに笑い合う二人。彼女は見たところ俺たちよりもいくらか年上のように思える。親しみやすい雰囲気があるが、落ち着いた大人の女性といった感じだ。さっき、鷹野は彼女のことを「ミキちゃん」と呼んでいた。年上の女性をそんなふうに呼ぶなんて、それほど親しい仲ということなのだろうか。だとすると、鷹野が言っていた大切な人というのは――。

「ミキちゃん、今日時間空いとる?」

「もう、いっつもいきなり来るんだから。来るなら前もって言ってねって、いつも伝えてるでしょう?」

 ――こんな場所でいきなりデートの誘い!?

 俺は小声で鷹野に詰め寄った。

「おい鷹野!お前TPOをわきまえろよ!」

「え、何?PTA?」

「TPOだ!時と場所とタイミングを考えろって言ってんだ!相手は仕事中だぞ。それに、こんな場所で白昼堂々と――」

「一輝くんのお友達?」

 ミキちゃんと呼ばれていた彼女の声。視線を向けると、彼女は小首を傾げながら俺の様子をうかがっている。俺は思わず、「えっと……」と言葉に詰まってしまった。すると突然、鷹野に肩を抱き寄せられた。ふわりと香る鷹野の匂い。肩に触れる大きな手。一瞬だけ、俺の時間が止まった。

「せや!和泉くん言うねん!今日は見学で来てもろたんや」

「は?見学!?」

「あぁ!きみが噂の和泉くんなのね!」

「う、噂!?」

「一輝くんからよく聞くのよ、きみのこと。面白い友達がいるんだって」

 面白いってどういう意味だ。鷹野を睨み上げるが、彼は気にも留めず先ほどの話を続けた。

「なぁミキちゃん、今日どない?」

「ちょっと待ってね。予定表確認して来るから」

 そう言って受付カウンターへ入って行く彼女の後を、鷹野は口笛を吹きながらゆっくりとついて行く。

 待っていろと言われただろ。と心の中で彼にツッコミを入れつつ、仕方なく俺も後に続く。鷹野が受付に顔を出すと、驚くことに、そこにいた他の職員たちも一斉に顔の表情がパッと明るくなった。

「あら鷹野くん!いらっしゃい!今日は一段と男前ねぇ」

「せやろ?今日はな、髪のワックスええのつこてんねん。もっと褒めてええで!」

「鷹野くん、休憩室におまんじゅうあるから一個あげるわね。隣のお友達も良かったら貰ってちょうだい。今、持って来るわね!」

「ええの?ほな、いただくわ!」

「鷹野くん、この間はありがとうね。君が来てくれると皆も喜ぶよ」

「ホンマに?そう言ってもらうと俺も嬉しいわ!」

 俺は鷹野の人気っぷりに目を丸くした。女性職員も男性職員もこぞって鷹野のことを持ち上げている。まるで有名人だ。俺は鷹野にこっそり聞いた。

「鷹野、お前よくここに来るのか?」

「頻繁ちゃうけど、行ける日は来とるよ」

 そういえば、たまにだが、鷹野が練習に来ない日や、早く切り上げる日もあった。そういう日は、ここへ来ていたのかもしれない。

「一輝くん、時間大丈夫だったよ。15時に、いつもの場所でいい?」

「ええで!ありがとなミキちゃん!ほんなら時間まで部屋にいとくわ」

「分かった。じゃあ、これ書いていってね」

 彼女から差し出された用紙に記入すると鷹野は受付を後にした。そのまま慣れた足取りで階段を上っていく。彼女との時間まで部屋にいると伝えていたが、彼は一体どこに向かっているのだろうか。俺に対しては見学と言っていたが、まさかこの施設内を見学させるために俺を連れて来たのだろうか。一体何のために。そもそも、彼女と二人の時間を作るくらいなら俺がここへ来る必要はなかったんじゃないか。むしろ邪魔でしかないだろう。鷹野は俺に何を見せたいのだ。こいつの考えていることがさっぱり分からない。

 入居者の部屋が並ぶ廊下を歩いていくと、鷹野はある部屋の前で足を止めた。部屋には208という部屋番号が掲げられている。彼はノックをして扉を開けた。

 中の様子が徐々に露わになっていく。大きな窓から差し込む陽の光。こじんまりとはしているが、優しい色合いの木製のベッドや机、棚が壁に沿って置いてある。白を基調とした内装と木目調の床が広がり、その真ん中には、車椅子に座って外を眺めている一人の老人の姿があった。

「じいちゃん」

 穏やかな声で鷹野がそう呼んだ。老人は声に反応して振り向くと鷹野をじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「誰や?」

 俺は思わず息を呑んだ。

「一輝やで。じいちゃんの孫の、一輝や」

 鷹野は柔らかな微笑みを真っ直ぐ向け、彼の側まで歩みを進めると目線を合わせるようにそっと屈んだ。

「今日も三味線弾くから聞いてってや」

「お前さん、三味線弾くんか」

「せやで。じいちゃんが好きやった曲、ようさん弾いたるで」

 さっきまで、うるさいくらい元気に喋っていた鷹野が嘘のようだ。鷹野はおじいさんのしわしわで骨ばった両手を優しく包み込むように触れた。目と目を合わせ、まるで、凪いだ波のように静かに語りかけている。

「ほんでな、今日は友達もつれて来てん」

 鷹野が振り向いて扉の側にいた俺を手招きした。俺は少し躊躇いつつ、車椅子の側まで足を進めた。

「和泉くん言うねん」

「初めまして、和泉透です」

 鷹野のおじいさんは俺をじいっと見つめると、「はぁ」と小さな声で返した。こういう時、何を話したらいいのだろうか。天気の話、季節の話、食べ物の話、あとは――。

「お前さんも、三味線弾くんか?」

「えっ……、えっと、俺は……」

「三味線は弾かんよ。和泉くんは、別の楽器が好きやからな」

 「な!」と、相槌を誘うように俺ににっかりと笑顔を向ける鷹野。こいつの笑顔から毛ほども悪意を感じないのが逆に腹立たしくて、俺はバツの悪さを隠すようにそっぽ向いた。

「ほな、準備するわな。和泉くんも座りや。そこの椅子つこたらええよ」

「えっ、ここで弾くのか!?周りに響くんじゃ……」

「軽く弾くだけや。音は強すぎんようにする。両隣の部屋におるじいちゃんばあちゃんも弾いてええ言うとったし、ミキちゃんたちもOK出してくれとるよ。それならええやろ?」

「まぁ、施設側がいいって言ってるなら……」

 俺は机の下にしまわれていた椅子を動かして鷹野のおじいさんの隣に座った。鷹野はケースから三味線を取り出すと、洗面スペースの側に置いてあった丸いパイプ椅子を正面に持って来た。腰を下ろし調弦を始める。今回は座って弾くらしい。立って弾いているイメージがすっかり定着していたので、逆に新鮮な感じがする。

 ポンとはじく弦の音。瞼を閉じ、じっと耳をすませて弦の響きを確認する鷹野の姿。「よし」と小さく呟くと閉じていた瞼がふわりと開いた。

 そして、一音。撥が弦を捉えたその瞬間、水面に波紋が広がるように音が静かに揺れわたった。しっかりと耳に届くのに、その響きは激しさも荒々しさもない。穏やかな波のような響きだ。ゆったりと流れる旋律。まるで、小船に乗って四季折々の景色を眺めているような、そんな心地にさせる。

 鷹野の奏でる音を初めて聞いた時から、俺は不思議な引力を感じていた。弾いたことも触れたこともなかった楽器の音色。それなのに、心が求めるように惹きつけられる。彼自身が、この音色をこよなく愛しているのが眩しいほど伝わってくる。その音色に乗せて俺の心に訴えかけてくるのだ。

 この楽器が、三味線が大好きだと――。

 音自体に言葉は存在しない。音階があって、その一音一音が何通りもの並びを経て、幾重にも重なりメロディーが生まれる。同じ曲でも、演奏者によって解釈や表現が違うと、その曲は全く別物になる。理解と技術、表現力。観客にどう伝えたいのか。音に、どれだけ自分の想いや感情が重ねられるか。音階一つ一つに自分が重なり合った時、人は初めて、人の心を震わせる旋律を生みだす。

 部屋に響きわたる鷹野の音は、繊細で温かくて、懐かしさに満ち溢れていた。言葉では到底言い表せない、深い愛情が静かに降り注いでいるようだった。

 俺は唇を引き結んで俯いた。膝に置いていた手にぎゅっと力が入る。鷹野の音は綺麗で、澄んでいて、清らかで、だからこそ俺にとっては眩しくて、痛い――。

 余韻を残して曲が静かに終わりを迎える。すると、部屋の外で小さな歓声が湧いた。鷹野が部屋の扉を開けると、そこには車椅子に乗った老人二人と、男性職員が一人立っていた。

「あ!みっちゃんにタカやん!廊下におらんと、こっち入りぃや」

「いいよいいよ、私らはここで十分。邪魔したら悪いから」

 そう言って、おばあさんは隣のおじいさんに顔を向け二人は頷き合った。

「全然邪魔やないで!ええから入り!」

 鷹野は彼女の車椅子を押して中に招き入れた。男性職員もその後に続いて老人の車椅子を押して部屋へと入る。職員の彼は申し訳なさそうに肩をすくめて言った。

「勝手に聞いちゃってごめんね。鷹野くん本当に上手で、僕もつい聞き入っちゃったよ」

「気にせんとって!ぎょうさん聞いてもらうほうが俺は嬉しいねん!そや、和泉くん!」

 急に話が降りかかって俺は少し身構えた。

「紹介するわな。こっちがみっちゃん。光代ちゃんやからみっちゃん。で、こっちがタカやん。名前が『たかやす』やからタカやん。崇えるに、立つに青って書いて靖しって読むねんて。タカやん、名前も漢字もカッコええやろ!」

 何でお前が得意げに話しているんだ、とツッコミたくなったが、それにしても相変わらず鷹野のコミュ力には驚く。壁を感じさせないその空気感と勢いは俺には到底真似できない。これも彼の才能の一つなのだろう。

 俺はふと、隣に座っている鷹野のおじいさんに視線が向いた。彼の姿に、俺は思わず緩んだ口元に力が入った。彼は、どこを見ているでもなく、ただ、ぼんやりと遠くを眺めて虚ろな瞳をしているだけだった。鷹野と彼の会話で何となく察しはついていた。けれど、分かっていても、目の前にいる鷹野の姿を本当の意味で映していないその瞳が、俺にはどうしようもなく、やるせなく思えてしまった。

 その後も部屋でのミニ演奏会は続いた。三人招き入れると部屋の中が少し狭く感じて、鷹野はその後、いつものように立って弾くスタイルに変更していた。何曲か弾いた頃だった。

「おっと、そろそろ時間やな」

 時計は14時50分を示していた。そろそろ彼女との約束の時間だ。鷹野はそちらに向かわなければならない。三味線を片付ける鷹野の背中を眺めながら俺は改めて思った。やっぱり俺は、この場にいるべきではないと。

 成り行きでここまでついて来てしまったが、鷹野はこれから彼女とプライベートの時間が待っている。俺がここにいる理由も鷹野の帰りを待つ理由もない。今日はこのまま帰ったほうが――。

「ほな、行くで。和泉くん」

 鷹野は、おじいさんの車椅子のハンドルを握ると前に進めながら言った。

「え……?」

「早よ行かんと遅れてまうよ。本番はこれからなんやで」

「本番?鷹野、お前これからあの女性と二人きりで会うんじゃ……?」

「何おかしなこと言うとんの?今度は大勢のお客さんが居てはる前で演奏すんねんで」

「は……?」

「和泉くんも見てってや、俺のリサイタル!」

 向かった先は食堂だった。大勢のお年寄りが一堂に集まっている。テーブルには一人一人、どら焼きが乗ったお皿とカップが用意されていた。食堂に着くと、ミキちゃんと呼ばれていた彼女が鷹野の元へやって来た。車椅子のハンドルを彼女に預けると、鷹野は小上がりのスペースへと向かっていく。

「これって……」

「一輝くんのプライベートコンサート。なんてね」

 彼女がフフッと笑みを浮かべながら言った。

「ちょうど3時のおやつの時間なの。入居している皆さんがこの時間に合わせて食堂に集まるのよ。最初はね、一輝くん、鷹野さんのお部屋で三味線を弾いてたの。じいちゃんに聞かせたいんだって。でも弾いてるうちに段々と観客が増えていっちゃって、私から提案したの。良かったら広い場所で他のみんなにも演奏聞かせてくれないかって。そしたら快く受けてくれてね、今では楽しみにしてるかたも結構いるのよ」

 彼女は準備をする鷹野に視線を移し、見つめながら続けた。

「正直ね、一輝くんが来るまでは、この施設は職員の私たち含め、どことなく殺伐としてて空気が暗かったの。でも、一ヶ月くらい前、鷹野さんの入居をきっかけに彼が来てくれるようになって、ここで暮らす方たちの笑顔が増えるようになったんだ。彼、不思議よね。演奏はもちろん、彼がそこにいるだけで周りを明るくしちゃうのよ。まるでお日様みたい。暗かったはずの空気もいつの間にか変わってて、私たちまで元気もらっちゃってた。今では一輝くん、この施設みんなのスターなんだよ」

 そう言って嬉しそうに笑う彼女。この施設に来て、職員の人たちやお年寄りの方たちが笑顔になる理由が、少し分かった気がする。あいつは確かに、太陽みたいにきらきらと人を照らしてしまうのだ。

「でも一輝くん、来るタイミングはいつも不定期だし、事前連絡なしで急に顔出すから調整がちょっと大変なのよね。せめて来る前に一本連絡入れてほしいよ」

 苦笑する彼女に、俺も同調するように肩をすくめて返した。

「あいつは、自由奔放ですからね」

 短い掛け声とともに、三味線の音色が食堂じゅうに響きわたる。弾む和音。力強いリズム。魅了する演奏技巧。鷹野のはじける笑顔は、演奏とともに今日も老若男女を明るく照らし出していた。

「ほな、今日はこれでおいとまするわ」

「今度は来る前にちゃんと連絡してね?」

「はいよー」

 自動ドアを抜けて外へ歩いていく鷹野の後ろ姿。彼女は受付カウンターからその姿を眺め、軽く溜め息をつきながらぽつりとこぼした。

「絶対忘れるなぁ、あの子は……」

「すみません、キツく言っておきますので」

「何だか和泉くん、一輝くんの保護者みたい」

 クスクスと彼女が笑う。「そうだ」と言って彼女は名刺を差し出した。

「彼、ここの番号すら忘れてるかも。だから、もしまた和泉くんも一緒に来ることがあれば、この番号に連絡してくれないかな」

 名刺を受け取り、書かれていた名前を目にして俺は思わず、「あっ」と小さく声が出た。

「ん?」

「あ、いえ!分かりました」

 外から俺を呼ぶ声がする。鷹野が、「早よ」と手招きをして急かしていた。俺は彼女にお辞儀をして老人ホームの自動ドアを通り抜けた。

 帰りのバスの中、「ここ座ろ!」と鷹野に先導され、俺は少々窮屈な二人掛けの席に座らされた。隣で三味線ケースを抱える鷹野は、通路にはみ出さないようにと心なしか体を寄せてきて、車内が揺れ動くたび、彼の膝と肩がちょくちょく俺に当たっていた。そんなことは気にも留めず鷹野は独り言のように呟いた。

「次は何弾こかなぁ」

 彼の横顔はどこか遠くを見つめていて、その瞳が、まるで何かを探しているようにも思えた。老人ホームで演奏した鷹野の姿。その様子が再び脳裏に映し出され、俺は小さく口を開いた。

「和泉くん、さっきミキちゃんと何話しとったん?」

 途端、鷹野が振り向き、俺は喉まで出そうになっていた言葉を咄嗟に飲み込んだ。

「あぁ……、お前が連絡なしに突然来るから調整が大変だって話してたんだ。相手も仕事なんだから、急に来られたら困るだろ。次からは一報入れてから行けよ。あと、ちゃん付けで呼ぶの控えろよ。俺らよりも年上なんだから彼女のことは、『三木さん』って呼べ」

「もー、和泉くんは注文多いなぁ。ほんなら、今度から和泉くんが連絡しといてや。行こ思ったとき言うわ」

「何で俺がお前一人のために、そこまでしてやらないといけないんだよ!」

 俺は溜め息をつきながら呆れて窓の景色に視線を移した。

「えー……。あ、ほんなら、和泉くんも一緒に行ったら二人分の用ってことになるやん。それならええんちゃう?」

「俺を行く前提にするなっつの」

「ええやん……、一緒に行こや……」

 鷹野の声が段々と小さく途切れていく。やがて、とん、と左肩に重力が乗った。見ると、俺の肩に頭を預けて、鷹野は小さく寝息を立てていた。細く垂れ下がる右耳のピアスが、俺の左肩をゆらゆらと滑る。

 連日の練習量に人前での演奏披露。いくら元気がいいとはいえ、さすがの鷹野も疲れを感じたのだろう。

 三味線のケースを大切に抱いて眠る鷹野の姿を、俺はそっと眺めた。

 ――世界でいっちゃん、大好きな人やもん。

 鷹野が三味線を弾き続ける理由――演奏を聞いてもらいたい大切な人、それはきっと、鷹野のおじいさんだ。音を聞いて何となく分かったような気がする。彼の演奏に優劣があるわけではない。ただ、食堂で聞いた、盛り上がって楽しませるような演奏とは違って、鷹野のおじいさんの前で弾いた演奏は、慈しみの想いが深く込められていたように思った。

 その想いは、彼にちゃんと届いているのだろうか。そうであってほしい――俺はそう思いながら、静かに目を閉じた。

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