表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

第2話

 鷹野が引っ越して来てから1週間が経った。俺は相変わらず頭を抱えていた。毎日、隣の家から聞こえてくる三味線の音。ノートに突き立てていたシャーペンの芯が音を立てて折れる。勉強をしようにも、三味線の音が邪魔で集中できやしない。

 いい加減、我慢の限界だ。

 翌朝、俺は吞気にあくびをしながら席に座る鷹野に言った。

「おい、鷹野」

「あ、おはよう和泉くん。わぁ、目の下クマ出来てるやん。大丈夫?」

「お前のせいでもあるんだよ!毎日毎晩、三味線鳴らしやがって!部屋の位置考えろ!めちゃくちゃ聞こえるんだよ!大体、お前学校にも三味線持ってきてんだろ!?休憩時間も放課後も弾いてんだから家で弾く必要ないだろ!」

「えー、イヤや。俺、三味線弾いてないと死んでまうもん」

「んなわけあるか!泳いでないと死んじゃう、みたいに言うな!鮭かお前は!」

「和泉くん、めっちゃツッコんで来るやん。おもろいわー!」

 ケラケラと笑う鷹野に俺はがっくしと肩を落とした。こちとら真面目に注意しているつもりなのだが、どう言ったって鷹野にはボケとツッコミのように捉えられてしまうらしい。転校初日から続く、この不毛なやり取りに俺もそろそろ疲れてきた。

「死んでまうんは冗談やけどな、俺、三味線が好きで好きでしゃーないねん」

 鷹野の目元がふわりと細くなる。

「ずっと弾いてたいし、触ってたい。三味線弾くとな、はじいた弦の音が頭のてっぺんからつま先まで、体全身に沁み込んできて気持ちが昂るんよ。お腹の底から、ワクワクするもんが湧いてきて、もっともっとって止まらんようなるねん。和泉くんは、そういうのないん?」

 鷹野から向けられた子供のような無邪気な笑顔。投げかけられたその言葉に、俺は小さく口を開いた。けれど、喉の奥のほうで声が詰まる。まるで魚の小骨が突き刺さっているようなつっかえ感。俺は脳裏に浮かんだその言葉を、溜め息に混ぜてかき消した。

「ねぇよ」

 俺にはもう、そんなものはない。

「なになにー?何の話してんの?俺も混ぜてー!」

 声とともに肩に重力がのしかかった。湊の腕が俺の右肩に寄りかかる。パックジュースを加えながら、朝から陽気な声を出す湊に、俺は少しだけ目眩がして思わず肩が沈んだ。

「なぁ、聞いてや本庄くん。和泉くん寝不足やねんて。見て、このクマ。すごない?」

「だから、お前が夜に三味線弾くのをやめたらまだマシになるって言ってんだよ!少しは我慢しろ!」

「イヤやー。いっぱい練習したいもん。それに、弾く時は窓ちゃんと閉めとるよ?」

「それでも聞こえるんだっつの」

「なになに?どういうこと?」

「俺ん家な、和泉くん家の隣やねん」

「えっ、マジ?初耳!家も隣で席も隣って、二人めっちゃ仲良いじゃん!」

 冗談めかして笑う湊に、俺はじっとりとした視線を向けたが、当の本人はまったく気にも留めていないようだった。

「ほんで、夜に部屋で三味線弾いとったら、和泉くんにやめ言われてん」

「あー、そりゃ夜はな。さすがに近所迷惑になるし、透が言うのも当然だな」

「ほな、どこで練習したらええの?河原は暗くなると手元見えへんようになるし、団地の広場も、この間うるさいて叱られたんよ」

 しょんぼりと肩を丸めて口をすぼめる鷹野の姿に、俺は呆れて溜め息が出た。いっそ夜は弾かないという選択肢はこいつの中にはないのだろうか。

 なにも三味線の音が嫌というわけではない。楽しむのも結構だ。ただ、周りへの配慮というものがこいつには欠けているのだ。

 この学校に三味線部という部活動はない。なので、もちろん部室もなければ部員もいない。鷹野は新たに部活を作ろうとしているわけでもなく、あくまで個人で三味線を弾いている。特定の練習場所がないため、時間があればどこにでも三味線を持って行き、自由気ままに弾いているようだ。そもそも鷹野には団体行動やチームといったものが向いていない気がする。こんな自由奔放なやつの相手をし続けていたら、それこそ疲労で倒れてしまいそうだ。

「練習場所なら、ちょうど良い場所があるじゃん」

 湊が机に腰掛けながら、パックジュースを持った手で俺を指差した。

「透ん家、防音室あるだろ?」

 思わず、ぎくりと肩が跳ねた。

「防音室?」

 首を傾げる鷹野に湊がこくりと頷いて続ける。

「透、中学までヴァイオリンやっててさ、それで家に専用の防音室があるんだよ。賞も色々取ってたんだっけ?」

「湊……!」

 本人に悪気はない。湊はただ、知っていることを伝えただけだ。けれど、この事実を鷹野が知ってしまったらどうなるか、その反応は容易に想像がつく。

「ホンマに!?和泉くんヴァイオリンやっとったん!?家に防音室あるなんてすごいやん、何で教えてくれへんかったん?」

「教えるわけないだろ!それに、防音室はもうずっと物置部屋みたいになってんだ。使える状態じゃないし、そもそもお前に貸す気もない」

「えー!ちょっとくらいええやんかー。掃除くらい俺できるで?使わせてや和泉くん!」

「絶対に嫌だ!」

 ところが、鷹野はなかなか食い下がらなかった。朝のホームルームが終わったあとも、教室の移動時間も授業の合間も、ことあるごとに、「防音室使わせて」としつこく言い寄ってくる。いつも昼休憩になると教室を出て、どこかで三味線の練習をしている鷹野が今日はずっと俺の側を離れない。いい加減、ノイローゼになりそうだ。

「鷹野くん、すごい執念だね」

 トスが上がったボールに、華麗なアタックを決めた鷹野を見ながら、隣で湊が言った。自由すぎる鷹野に団体行動は向いていないと思っていたが、授業の即席チームで、あっさり活躍してしまうくらいには難なく馴染んでしまっている。誰とでも打ち解けてしまう高いコミュニケーション能力がそれをカバーしているらしい。俺にはそれが何だか面白くなかった。

「あいつ、何て言ったら諦めると思う?」

 考える素振りを見せる湊だが、諦めたように肩をすくめ、座っている俺に言った。

「無理じゃない?鷹野くん、地の果てまでついて来そうな勢いじゃん。もう透が折れるしかないじゃないの?」

 ダメ押しのように聞こえて、俺は思わず長い溜め息が出た。

「なぁ、疑問なんだけどさ。昔、俺が透の家に遊びに行ったときは防音室入れてくれたじゃん。なのに、何で鷹野くんはダメなの?」

「そ、それは……」

「それにさ、鷹野くんが転校して来てから思ってたけど、透って何か鷹野くんにだけ当たりキツくない?普段そんなカリカリしないじゃん。珍しいなって思ってさ」

 膝に置いていた手に、きゅっと力が入った。

 それは、自分でも思う。普段ここまで特定の誰かに苛立ちを覚えることは珍しい。それほどまでに、鷹野の言動や行動は、俺にとってマイナスな刺激となっているのだ。近くにいると気分が逆なでされてイライラしてしまう。だから、出来ることなら距離を取りたいし、関わりたくない。そう思っているのに、それが出来ない状況に余計イライラが募っていくのだ。

「……ほら、前に言ったろ。鷹野が引っ越してきた当日、俺、あいつのせいで不良に絡まれたんだよ」

「そういえば言ってたね。でも、そのあと鷹野くんが警察呼んでくれたんでしょ?」

「そ、そうだけど……」

「ならいいじゃん。鷹野くんも悪いと思ったから警察呼んだんだろうしさ」

 交代の笛が鳴り、湊のチームがコートへ呼ばれた。「じゃあ」と言ってコートへ向かう湊の背中を見送ると、俺は膝を抱えて顔を伏せた。

 何だか頭が重い。足も思うように動かないし、鎧でも被っているみたいに体全身がだるい。動くのが段々と億劫になってきた。きっと、度重なる寝不足のせいだろう。あれからずっと、夜眠ろうとすると中学の頃の出来事を思い出してしまい、なかなか眠りにつけないのだ。眠れたと思ったら、見るのは嫌な夢ばかり。気だるい目覚めを繰り返す毎日だ。最近、食欲も減って、食事があまり喉を通らなくなった。今日もお昼の弁当を半分以上残してしまった。まるで中学の時と同じような状況だ。こんな状態で体育の授業をやるのは正直こたえる。早く終わってくれないだろうか。そう思ってしまうほど、俺の気分も鉛のように重たくなっていた。

「和泉くん、大丈夫?」

 その声に、俺は咄嗟に顔を上げて横を向いた。心配そうに様子を窺う鷹野の姿。いつの間に隣に座っていたのだろうか。全く気が付かなかった。

「バレー、そんなに嫌いなん?」

「……は?」

「レシーブ練習んとき、めっちゃ嫌そうな顔しとったから。オーバーレシーブ苦手?アンダーでしか返してなかったし」

 何だか、だんだん怒る気力も湧かなくなってきた。というか、何だろう。頭がぐらぐらしてきた。座っているはずなのに宙に浮いているような浮遊感。変な感じだ。

「危ない!」

 コートから聞こえた大きな声。視線を上げたと同時に、鷹野の腕が俺の前に伸び、視界が遮られた。耳元で、ボールが勢いよく弾いた音がした。

「和泉くん、平気?……和泉くん?」

 鷹野の声が段々と遠くなるのを感じた。周りの景色がぼやけていき、視界が次第に狭まっていく。やがて目の前が黒く閉ざされ、俺はついに意識を手放した。


 ここは、どこだろうか。廊下と、壁に沿って並ぶいくつもの扉。壁にはポップな飾りや貼り紙が掲げられ、扉には部屋番号が順番に付けられている。すぐ側の部屋に近寄ってみると、ガラス窓から中の様子がうかがえた。学校、ではない。そこにはヴァイオリンを弾く小学生の生徒と先生がいた。

 あぁ、俺はこの場所を覚えている。ここは、むかし通っていたヴァイオリン教室だ。

 体験教室で、初めて教室内を案内された日の記憶だ。たまたま覗いた教室。そこにいた生徒が、俺の存在に気付いて顔を向けた。幼いながらも整った顔立ち。ゆるいウエーブのかかった髪がさらりと揺れる。

 彼を目にした瞬間、俺は心臓が飛び跳ねた。そこにいたのは、あの日、コンサート会場で虜にされた光の王子様だった。紛れもない、神崎綾人、本人がそこにいた。

 奇跡だ――そう思った。彼と同じ教室に通えるなんて思ってもみなかったのだ。同じ教室でレッスンを受け、同じ空気を吸って、同じ時間を過ごしているのだと思うと堪らなく胸が躍った。

 けれど、声をかける勇気はなかった。遠くから見つめるだけで十分。何しろ、彼は雲の上の人。ド素人の自分なんて相手にされないだろう――そう思っていたのだから。

「ねぇ。きみ、いつもここで練習してるよね」

 親の迎えを待つ間、時間つぶしに空いた教室でヴァイオリンを弾いていた俺は、突然、声をかけられた。雲の上の人――神崎綾人に。

「えっ、え!?ぼっ、ぼく!?」

 彼は眉をさげ、フフッと可笑しそうに口元を緩めた。舞台上で見せる凛とした表情でも、レッスンで見せる真剣な表情でもなく、自分と同じ、子供のような笑顔で。

「きみの他に、誰も居ないだろう?」

「あっ……。う、うん」

 恥ずかしくなって俯く俺に、彼は柔らかな声で言葉にした。

「ヴァイオリンが前に下がってたよ」

「へ?」

「さっきの、きみの姿勢。弓が水平に当たってないから、音がこもってしまうんだ」

 彼は、おもむろに歩みを進め側まで来ると、目線を合わせ、俺の腕をそっと持ち上げた。

「肘をもう少し前に出して。そう、ヴァイオリンの重さを左腕でしっかり支えて。ほら、これで水平だ。もう一度弾いてみてごらん」

 俺は思わず目を見開いた。先ほどとは段違いに音がクリアに響く。

「すっ、すごい!すごい!音が全然ちがう!ちょっと変えただけなのに、こんなに変わるんだ!」

 彼はふわりと目を細め、微笑んで言った。

「綺麗な音が鳴ると嬉しいよね。昔、俺も同じ癖があったんだ。慣れるまでは鏡を見ながら練習するといいよ」

 彼はそう言って、側に立て掛けてあった鏡を指差した。そこに映る、自分と彼が並んでいる姿。得も言われぬ高揚感に、俺は胸がはち切れそうになった。

 いつか彼のようになりたい。彼の隣で、肩を並べて演奏したい。俺はその一心で練習に励んだ。練習は全く苦ではなかった。むしろ楽しいとさえ思った。やればやるほど出来ることが増えたからだ。どんなに小さなことでも、出来ることが一つ増えるたび、一歩一歩彼に近付いているのだと思えて、それが嬉しくて、やる気にも繋がった。

 俺は取り憑かれたように夢中でヴァイオリンを弾いていた。弾む音。空気を震わせる響き。澄んだ音色。自分のこの手で、こんなにも綺麗な音を奏でているのだと思うと、興奮して、たまらなく高揚感に包まれた。疲れなんて忘れるくらい、一日中ヴァイオリンにのめり込んで過ごした子供時代。あの頃は、見るもの全てが鮮やかに映って、きらきらと輝いて見えた気がした。

 遠くで音が聞こえる。一音一音が、穏やかに、ゆったりと余韻を残しながら響いている。優しい三味線の音が、そっと耳に届く。

 目が覚めると、白い天井が視界に映った。視線を横にずらすと、一面、白いカーテンで仕切られていた。ほんの少し香る薬品の匂い。ここは――保健室か。

 ベッドから体を起こし、こめかみをつまむ。確か、体育の授業中だったはず。チーム戦の試合を待つ間、体がだんだんと重くなっていって、それで――。

 意識が途切れる直前、ボールが自分に向かって来たことを思い出す。どこも痛くない。あの時、ボールは俺に当たらなかった。鷹野が咄嗟に腕を出してかばってくれたからだ。

 音の鳴る方に視線を向け、俺はベッドから降りてカーテンを開けた。

「こんな場所で弾くな」

 パイプ椅子に座っていた鷹野は三味線を弾く手をぱたりと止め、俺を見るなり側まで駆け寄った。

「和泉くん、もう大丈夫なん?痛いとことかない?」

「平気だ。てか、何でお前がいるんだよ。保健の先生は?」

「さっきまでおったよ。もう下校の時間やし、和泉くんの荷物一式持って来たんやけど、先生ちょうど用事入ってもうたみたいでな、入れ替わりで俺が番しとってん」

 いや、お前はただ三味線を弾いていただけだろう。と言ってやりたい気持ちもあったが、まだ少し頭がボーっとしているせいで、鷹野にとやかく言えるほどの気力は戻っていなかった。

 その時、保健室のドアが開いた。白衣を着た、少し小柄で眼鏡をかけた女性の姿。保健の先生だ。彼女は俺に気付くと穏やかな物腰で言った。

「あら、起きたのね。具合はどう?お家には帰れそう?無理そうならご家族のかたに連絡するけど、どうする?」

「あ、いえ大丈夫です。一人で帰れます」

「そう。無理しないでね。鷹野くんから聞いたわよ。和泉くん、寝不足らしいって。最近眠れていないの?」

「鷹野、お前なに勝手に話して……!」

 先生は鷹野を睨みつける俺をなだめるように言った。

「和泉くん、鷹野くんは授業中に倒れたきみをここまで運んで来てくれたのよ。状況を説明してくれて助かったんだから、そう邪険にしないであげて」

 俺はたじろいで、しぶしぶ口をつぐんだ。

「眠れない日が続くようなら、病院へ行って診てもらうことも考えてみて。悩みがあるなら個別で相談も受けるから、遠慮しないでね。ひとまず、今日はもう帰って休みなさい。鷹野くん、悪いんだけど和泉くんをお家まで送ってもらえる?」

「はーい!」

「えっ!い、いいです!一人で帰れるんで!」

「せやけど、俺ら家隣同士やし、帰る方向も同じやねんから今日は一緒に帰ろうや。な?和泉くん」

「あら、そうなの?ちょうど良かったじゃない。それじゃ鷹野くん、和泉くんのことお願いね」

「了解っす!任せといてください!」

 不本意ながら、鷹野と一緒に帰宅することになってしまった。何でこうなってしまうのだろうか。距離を置きたいのに、遠ざかるどころか、徐々に一緒にいる時間が増えている気がする。

 これまで、登下校だけは鷹野と時間がかぶることはなかった。俺は時間に余裕をもって家を出るし、鷹野はホームルームが始まる5分前にやっと登校してくる。時には遅刻ぎりぎりという日もあった。放課後になると、俺はすぐに下校するが、鷹野は学校に残り空き教室や中庭、屋上などいたる所で三味線の練習をしているらしい。俺にとって、登下校の時間だけが鷹野の存在を忘れられる唯一の安寧だったというのに、今日は下校も一緒になってしまうなんて。

 俺は思った。もしかしたら、鷹野はこのまま俺の家までついて来て、防音室を借りる口実を作ろうとしているんじゃないだろうかと。妙な親切行動は単なる俺への点数稼ぎなのかもしれない。制服に着替えながら、俺はげんなりと溜め息をついた。

 着替え終わってカーテンを開くと鷹野が開口一番に言った。

「鞄、俺が持とか?」

 ほら来た。いくら親切心を見せたところで俺の意思は変わらない。無駄な足掻きだ。俺はふんっと鼻を鳴らして顔を背けた。

「これくらい自分で持てる」

 初めて二人で並んで歩く通学路。鷹野が隣にいると、静かな道もすこぶる騒がしい場所に様変わりする。いきなり鼻歌を歌ったと思ったら、ショーウィンドウの商品にツッコミを入れ、唐突に話を振ってきては勝手にしゃべり続ける。次から次へと忙しい限りだ。

 ようやく駅に着くも、帰宅までの道のりはまだ遠い。鷹野の一人トークショーも相変わらず続いていた。改札を通って階段を上っていると、ふと、一人のお年寄りの姿が目に入った。一歩ずつ、ゆっくりと階段を上っている。その手には大きな買い物袋。「大変そう」と、ぼんやり言葉が浮かんだ時だった。隣にいた鷹野の影がふっと俺を追い越した。軽快な足取りで階段を上っていき、あっという間にお年寄りの側まで駆け寄る。

「おばあちゃん、荷物重たそうやな。俺持とか?」

 その言葉と笑顔が、あまりにも自然であっけらかんとしていて、俺は思わず目を瞬かせた。変に着飾った様子もない、まるで日常会話の延長のような空気感。もしかしたら知り合いなのかもしれないと思ったが、そうではなかった。おばあさんの反応からも、完全に初対面のようだった。

「おばあちゃん、ここ座り。和泉くんも隣座りや」

 つり革を持ち、目の前に座るおばあさんと、何てことない会話を楽しむ鷹野。そんな彼の姿を、俺は盗み見るように、こっそりと見上げた。点数稼ぎ。そう思っていた。けれど多分、彼はそんな打算的なことは微塵も考えていない。裏も表もない。鷹野はただ純粋に、そうしたいと思ったことを思うままやっているだけなのだ。

 おばあさんは俺たちの2駅手前で下車し、すっかり親しくなった鷹野はドアが閉まるまで手を振って見送っていた。

 俺は鞄の取っ手をぎゅっと握った。いっそ、こいつが性根の腐った嫌な奴だったらよかったのに――そんなことを思う自分がいて、俺は静かに自己嫌悪に沈んだ。

 電車を降り、少し冷たい風を感じながら土手の道を歩く。鷹野は相変わらず隣で小さく鼻歌を歌っていた。

「そういやお前、学校ではピアス外してるんだな」

「ん?ああ、ピアスは人前で演奏披露する時に付けんねん。気合も入るし、お洒落アイテムにもええしな」

「なんだ、てっきり先生に叱られて外してるのかと思った」

「なんでやー!俺、校則ちゃんと守るええ子やで?」

「夜に三味線を鳴らしまくる奴をいい子とは言わん。ていうか、親はお前のこと注意してこないのか?ここ来る前も同じようなことしてたんだろ?」

 鷹野は顎に手をあてながら視線を上げて答えた。

「前に住んどったトコは周り山ばっかやってん。せやから夜でも気にせんと、ずっと弾いとったんよ。それにな、うち、両親そろって夜勤やねん。せやから、いつも夜は家んなか俺しかおらんねん」

「え……」

 思いがけず鷹野の家の事情を知ってしまった。こいつは、夜、あの一軒家にたった一人で過ごしていたのか。誰もいない家の中。きっと食卓に並ぶごはんも鷹野はいつも一人で済ませている。鷹野が夜でも三味線を弾くのは、そんな寂しさを紛らわすためだったのかもしれない。

「うちのオカン、夜は三味線弾くの控えろってめっちゃ言うてくるで。こっち引っ越してからは余計や。せやけど、俺やっぱ我慢できひんねん!弾きたくてうずうずしてしゃーない!夜はオカン仕事やし言ってくるもんおらんから、ちょうどええわ思て弾いとってんけど、今度は和泉くんに怒られてもーたわ」

 あっけらかんと笑う鷹野。その姿に、思わず肩に提げていた鞄がずり落ちた。

「んな……なんじゃそりゃ!」

 前言撤回。こいつは寂しさなんて全く感じちゃいない。ただの聞き分けのないガキなだけだった。ちょっと同情しかけた俺の気持ちを返してほしい。

「お前な……周りからそんだけ言われてんなら、ちょっとは言うこと聞けよ」

 鷹野は頬を膨らませながら口を尖らせて不服そうに唸っていた。呆れた。きかん坊でワガママな鷹野に手を焼く彼の母親を想像して、思わずその苦労を労わってしまった。

 気付けばもう家の前。鷹野は足を止め、俺が家に入るのを待っている様子だった。俺は家の門扉の取っ手を握った。

「ほな、無事帰宅ってことで大丈夫そうやな。今日はゆっくり休みや」

 鷹野はそう言うと踵を返した。自分の家に帰るでもなく、俺の家に押し入ろうとするでもなく、もと来た道を戻ろうとしている。

「家に帰らないのか?」

「今日は河原で練習しよ思てな。ほな、またな」

 手を振って歩いていく鷹野の後ろ姿。河原ならいいか――俺はそう思って門扉を開けて帰宅した。

 保健室で少し眠ったからか、体の調子は少し回復しているように思えた。このまま晩ご飯の時間まで宿題と授業の予習をしておこう。そう思い俺は机に向かった。

 しばらくして、ふと窓の外に目がいった。時折り強い風の音が窓越しに聞こえる。いつの間にか、空が曇天に包まれ薄暗くなっていた。今にも雨が降りそうな空模様。一瞬、鷹野の姿が頭をよぎったが、あいつも馬鹿ではないだろう。雨が降る前に帰宅するはずだ。俺は再び目の前の宿題に集中した。

 雨がぽつぽつと窓を濡らし始めた頃。俺は隣の家に視線を向けた。しかし、部屋に明かりは点いていない。そろそろ戻ってくる頃だろうか。さすがに本降りになる前には帰ってくるだろう――そう思っていたが、雨脚が強くなっても、一向に鷹野の家に明かりが点く気配はなかった。

「……あー、もう!」

 俺はついに痺れを切らし、傘を一本持って雨の降るなか家を飛び出した。4月とはいえ夕方に雨が降ると気温もぐっと下がり、肌寒さと雨のしぶきで余計に体が冷える。もしかしたら、ショッピングモールにでも行って雨を凌いでいるかもしれない。とっくに河原をあとにしているかもしれない。それでも、もしまだそこにいて雨にでも打たれていたら、鷹野といえども風邪を引きかねない。俺は息を切らしながら河原へ向かった。

 いつもは穏やかな川の流れが、急な雨と風で荒い波に姿を変えていた。俺は河原に着くと土手を下りて鷹野の姿を探した。視界の端に映った一人の影。ちょうど橋の下に、黒いケースを背負って、宙を眺めながらしゃがんでいる一人の少年の姿を見つけた。

 思わず、深く息がもれた。

「おい、帰るぞ。この三味線オタク」

「和泉くん……?何でここにおるん?」

 けろっとした表情で返す鷹野に俺はカチンときた。

「お前が雨に打たれてんじゃないかと思って見に来てやったんだよ!」

「心配してくれたんや?わぁ、和泉くんめっちゃ優しいやん!」

 歯を見せながら笑ってそう言う鷹野に俺は調子が狂った。

 困っているんじゃないかと心配して来てやったというのに全然平気そうじゃないか。何だか気にかけて損した気分だ。

「ほら、傘持ってないだろ。貸してやる。どうせこんな雨の中じゃ弾けないんだから、今日はもう帰るぞ」

 その時だ。橋の下をひときわ強い風が通り抜けた。差していた傘が風にあおられ、思わず手元から柄がすり抜けてしまった。咄嗟に声を発し手を伸ばすが、傘はそのまま風にさらわれてしまい、逆さまになって河原を波に乗って流れていってしまった。呆然と眺めている俺に鷹野が言う。

「和泉くん、しゃーないわ。こっちの傘つこて帰ろ」

 鷹野のために持って来たもう一本の傘。これを男二人で使えと言うのか。

 鷹野は立ち上がると、俺の手から傘を取って広げた。

「ほな、行こか。……ん?どないしたん、突っ立ったままで」

 このままここに居るわけにもいかない。それこそ、俺のほうが風邪を引いてしまう。状況が状況だけに仕方がないか。このまま意地を張っていてもしょうがない。俺は溜め息をついて、渋々、彼が差す傘の中に入った。

 分かっていたが、男二人、傘ひとつで雨を凌ぐのはなかなか難しい。足元なんて裾はもちろん、既に靴の中までびしょびしょに濡れてしまっている。俺は鷹野に視線を向けた。何食わぬ顔をしているが、傘から滴る水滴が鷹野の肩を広く湿らせていた。こんなことになるなら、面倒でももう一度に家に戻って2本目の傘を持ってきたらよかったのではないか。そんなことを今更になって思う自分がいた。

 すると突然、鷹野の手が俺の肩に触れた。

「へ?」

「もっと寄りや。濡れるで」

 角ばった大きな手。くっと入れられた力に足がよろめく。俺の体は鷹野の胸元に寄りかかった。

「なっ……!」

 咄嗟に振り払おうと体を離した――その時だ。

「あっ、和泉く――」

 側を通った車が大きく水を跳ねた。不運にも、ちょうど道路に背を向けていた俺は思いっきり水をかぶり、あっという間に半身がずぶ濡れになってしまった。

「わぁ……和泉くん、大丈夫?」

 雨の勢いは収まることなく、結局家に着いた頃には、傘もほとんど意味をなさず鷹野も俺もお互いびしょびしょになっていた。

「和泉くん、傘ありがとな。ここでええよ」

 そう言って俺の家の前で傘を差し出す鷹野。その手を、俺はじっと見つめた。

「和泉くん?」

「……上がれよ。どうせ、弾き足りないんだろ?」

「え?」

「うちに上がれって言ってんだ。来るのか?来ないのか?」

 鷹野の口が大きく開いていく。子供のように目を輝かせて、大きな声で返事が返ってきた。

「行く!」

 とはいえ、お互いずぶ濡れの状態だ。まずはタオルと着替えを用意しなくては。

 俺は洗面所からタオルを数枚持ち出して鷹野に渡しながら言った。

「制服は浴室乾燥機で乾かすから、いったん濡れてるとこ拭いとけ。風呂場はこっちだ。着替え適当に持ってくるから、それまで大人しく待ってろ」

 身長は鷹野のほうが少し高く少々体格差がある。多少サイズが合わないのは仕方がない。首にかけたタオルで時折り水滴を拭いながら、俺はクローゼットの中からなるべく大きめの服を持って行った。

「俺も着替えて来るから、着替え終わったらリビングで少し待ってろ。くれぐれも家の中のもの勝手に触るんじゃないぞ」

「あいあいさー!」

 防音室が使えると分かってか、鷹野は上機嫌な声で敬礼をしながら答えた。河原で鷹野の姿を見つけた時、彼が背負っていた三味線ケースにはご丁寧に防水カバーがかけられていた。あのカバーは晴れの日でも持ち歩いているのだろうか。楽器に対しては用意周到なことだ。けれど、それだけ楽器を丁寧に扱っているということでもある。

 鷹野にとって、三味線は夢中になれる大好きなものであり、そして、心から大切にしているものなのだろう。

 俺は自分の手のひらを見つめた。弦を押さえていた左指。その指先に残っていた硬さは、今となってはもう跡形もない。俺は、ヴァイオリンを見えない場所へ追いやって、二度と思い出さないように、思い出もろとも闇の中へ封じ込めた。けれど、記憶を消そうとしても完全に忘れることはできない。ヴァイオリンのフォルム、弦の感触、弓の質感。手放したというのに、目をつむれば、まだこの手の中にあるみたいに、その感覚は未だ自分の中に生きている。目を開けると幻影は空気に溶け、俺は空虚な手のひらをぎゅっと握り締めて、1階へ下りていった。

「いいか、鷹野。使ってもいいが、ほったらかしにしてた部屋だからな。あまり期待するなよ」

 俺は防音室のドアノブを掴んだ。ここを開けるのは2年ぶりだ。音楽に関わるものも、見たくない過去も、この部屋に全部仕舞い込んで目の前から遠ざけてきた。もう二度とこの部屋には入らないと思っていた。それなのに、もう一度、自分の手でこの扉を開けることになるとは。俺は小さく深呼吸をして、そっと扉を開けた。

 電気を点けると、後ろにいた鷹野が弾んだ声をあげた。

「わぁー!部屋めちゃ綺麗やん!かっこええなぁ!いいなぁ防音室!」

 意外だった。2年も使っていない部屋のはずなのに、埃がかぶっているどころか、整理整頓されている。多分、母さんがこっそり掃除していたのだろう。俺は壁際に置かれているケースに自然と目が向いた。滑らかな曲線を描いた黒くマットな質感を放つケース。思わず、胸の奥がぎゅっと締まって目を逸らした。

「あっ!これ和泉くんやんな!?」

 興味津々といった様子で部屋の中を見ていた鷹野が、写真立てを指差しながら聞いた。そこに写っているのは、8歳の時、全国ヴァイオリンコンクール小学生の部で初めて最優秀賞を受賞したときの俺の姿。通っていたヴァイオリン教室で、当時、最年少の10歳で受賞した神崎綾人の記録を塗り替え、二人目の快挙だったらしい。どんなに嬉しかったか、写真の中にいる俺の純粋な笑顔が、それをよく物語っている。

 俺は写真立てを伏せた。

「えー!何で倒すん?もうちょい見たいわ。昔の和泉くん可愛ええやん」

「男に可愛いとか言うな」

「こっちはトロフィーに、盾に、賞状。へぇー、和泉くんようさん賞取っとったんやな。すごいなぁ」

「おい、弾くのか?弾かないのか?弾かないなら締め出すぞ」

「弾くて!弾く弾く!」

 ケースから三味線を取り出して準備を始める鷹野を横目に、俺は再びヴァイオリンケースに視線を向けた。ケースを見るだけで胸に痛みが蘇る。背後に、あの時見た、冷たく軽蔑をはらんだ眼差しを向ける神崎綾人がいるようで、段々と息が苦しくなる。その影が、そっと俺の耳に囁いてくるのだ。

 お前の音は、気持ち悪い――と。

 背中に悪寒が走る。俺は片腕を抱き寄せて胸の奥の痛みを押し込めた。

「なぁ、和泉くん」

 鷹野が三味線の糸巻きを回して、音を調整しながらぽつりと聞いた。

「和泉くんは、今、ヴァイオリンやっとらんの?」

「っ……!」

「本庄くんが言うとったやん。和泉くん、中学までヴァイオリンやっとったって。こんだけ賞取れるっちゅーことは、めっちゃ上手いってことやろ?高校でも続けたらええのに」

「……ヴァイオリンは、やめた。もう二度と弾かないと決めたんだ」

「そうなん?やけど、写真の和泉くん、めっちゃええ笑顔やったし、楽しかったんやなって伝わってくるで?もう弾きたいとも思っとらんの?」

「……お前には関係ないだろ」

「まぁ、それはそうやけどな。けど気になるやん。和泉くんは、どんな演奏するんやろって」

 思わず、どくんと胸が跳ねた。長年やってきたことをやめると、当然、周りはその理由を聞いてくる。何で?どうして?勿体ない――そんなお決まりの文句を無遠慮に投げかけてくるのだ。賞を多く取っていれば尚更だ。だから俺は、聞かれるたびに、それらしい理由をつけて適当に返答してきた。

 けれど、鷹野が聞きたいのはヴァイオリンをやめた理由ではない。

 俺の、演奏――?

 いや、きっと深い意味などない。単に、賞を取った人の演奏がどんなものなのか興味本位で聞いているだけだろう。

「三味線専門のお前が聞いたところで、ヴァイオリンのことなんて分かるわけがないだろ」

 すると、鷹野は調弦を終えた三味線を静かに鳴らしながら穏やかな声で口にした。

「技術的なことやないねん。楽器はちゃうけど、同じ演奏者としてどんな音出すんか気になるんよ。楽器と自分は一心同体や。弾くもんの性格や性質、気性なんかがもろに音に表れる。せやから俺、和泉くんの音聞いてみたいねん。和泉くんのこと、もっと知ってみたいわ」

 そう言って、笑みを浮かべながら俺をじっと見据える鷹野。その視線に、俺は一瞬身動きが取れなくなった。咄嗟に顔を背け、俺は踵を返して背中越しに鷹野へ伝えた。

「18時には声かける。それまで好きに使え」

 扉を閉め、俺は2階へ上がった。部屋に戻るも、勉強の続きをする気にはなれなかった。俺は倒れ込むようにベッドに横たわり天井を仰いだ。額に手を置いて、ゆっくりと深呼吸をする。

 ――俺、和泉くんの音聞いてみたいねん。

 俺の音、俺が奏でるヴァイオリンの音を、鷹野が聞いたら何と答えるのだろうか――。ぼんやりと、そう考えている自分にハッとして、俺は思考を取り払うように額に当てていた手をひらひらと振った。

 そもそも弾けるわけがない。ケースを目の当たりにしただけであのザマだ。中3のあの日以降、それでもヴァイオリンを弾こうとしたことはあった。けれど、演奏しようとするとあの言葉が不意に蘇り、弓を引くことが出来なくなったのだ。耳の奥にこびりついて離れない彼の冷たい声。そこに居るはずのない彼の影がじっと俺を見つめる。

 とても耐えられなかった。心を抉られるような痛み。崖から突き落とされるような迫りくる恐怖。つけられた爪痕はあまりにも深くて、ヴァイオリンを手放すことでしか、あの時の自分を救う方法はなかった。

 あの日、告白をしていなければ、俺は今でもヴァイオリンを弾き続けていたのだろうか。俺は唇を噛み締めて小さくうずくまった。


 玄関チャイムの音で目が覚めた。いつの間に寝てしまったのだろう。だる重い体を起こし俺は一階に下りた。思わず、防音室にちらりと視線が向く。擦りガラスの小さな小窓は明かりが灯り続けている。俺は急いで玄関へ向かった。

 どうやら、遠方に住んでいる親戚からの果物の贈り物のようだ。運送会社から荷物を受け取り、一先ずリビングに持って行った。ふと時計を見ると針はすでに18時半を過ぎていた。

 しまった、とっくに時間が過ぎている。そろそろ母さんも仕事から帰ってくる時間だ。俺は防音室へ急ぎ、扉を開けた。

「おい、もう切り上げて――」

 防音室に入った瞬間、俺は思わず目を見張った。一面に散りばめられた紙の数々。その中心に座し三味線を弾いている鷹野の姿。鷹野の演奏姿は河原で見たのが初めてだった。あの時の鷹野は、自分の奏でる音に乗って自由に楽しくといった雰囲気が前面に押し出されていた。けれど今、目の前にいる鷹野はあの時とはまるで別人だ。

 綺麗に伸びた背筋、頭のてっぺんから膝下まで、一本の筋が通っているようなまっすぐな姿勢。水平に保たれた肩や肘には余計な力が入っていない。美しくも自然な構え。気品漂う佇まい。

 何よりも、鷹野の表情がまるで違う。静かでありながら揺るぎない意思を宿した瞳。慎ましく閉じられた口元。意識が研ぎ澄まされている。その表情は真剣そのものだ。俺が部屋に入って来たことすら気付いていない。それほどまでに集中している。

 いつもの子供じみた鷹野ではない。そこにいるのは、演奏家として凛と佇む、一人の男の姿だった。

 鷹野が今弾いているのは、以前のような高速回転するようなアップテンポで激しさのある曲調ではない。より、伝統という言葉が合うような心地の良いリズム。一音一音が力強くたおやかに跳ねていく。右手の撥さばきと棹をすべる左指。そこから響きわたる澄んだ和音が部屋全体を包み込む。

 ――綺麗だ。

 思わず、そう言葉を漏らしてしまいそうなほど美しい音色。これが、鷹野の織りなす音。

 俺は足元にあった紙を一枚拾い上げた。よく目にする五線譜の楽譜と少し似ている。3本の線の上に、丸と数字とカタカナの文字がいくつか入っていた。おそらく三味線の楽譜なのだろう。所々、手書きのメモも書かれている。

 その時、鷹野の演奏がひと区切りついた。彼がふうっと息を吐いた瞬間、張り詰めていた糸が少し緩んだような気がした。伏し目がちの視線が上向き、鷹野の瞳がようやく俺を捉えた。

「うおお!何なん、いきなり現れんとってや!びっくりするやん!」

「何なん、じゃないっつの。時間だ、時間。とっくに過ぎてんだよ」

 俺は防音室の時計を指差した。

「えっ、もうこんなに経ってたん!?あっちゅう間やなぁ」

「ったく、こんなに散らかして。好きに使えとは言ったが、少しは遠慮ってもんがないのかお前は」

 三味線を仕舞う鷹野を横目に、俺は屈んでそこら中に散らばった楽譜を拾い集めていった。

「いやぁ、こんなに広々使えるの久々やったし、外やと譜面飛んでまうしな。つい、めいっぱい広げてもうたわ」

 わははと口を開けて笑う姿は、もうすっかりいつもの鷹野だ。それにしても驚いた。鷹野も、あんな表情をすることがあるのか。いつも飄々として、へらへら笑っている鷹野からは想像もつかなかった。奴から品格というものを感じてしまった自分が何だか悔しい。

 けれど、きっとあれは一朝一夕で身に付くものではないだろう。多くの時間を積み重ねたからこそ出来ることだ。ただの陽気な三味線オタクかと思っていたが、三味線と向き合う彼の姿勢は真剣で、まさに、揺るぎない一途な情熱そのものだ。

 それに、改めて聞いた鷹野の音は、とても――。

 途端、左の首筋に、つんと指がふれる感触が走った。反射的に首元を押さえ振り向くと、そこにはヘラっと笑っている鷹野が目の前にいた。

「おまっ、何すんだいきなり!」

 デジャブのように、こいつが転校してきた初日のことを思い出した。

「和泉くん、何やボーっとしとるな思って」

「だからって何で首なんだよ!ぞわっとするからやめろ!」

「だって和泉くん、そこに小っちゃいホクロあんねんもん。何や、やる気スイッチみたいで押してみたなるねん」

 目の前でケラケラと笑う鷹野。その様子が、まるで俺のことを小バカにしているようにも思えて俺は奥歯を強く嚙み締めた。咄嗟に持っていた楽譜ごと鷹野の顔面を叩きつけた。

「んぶっ」

 肘を床につき体勢を崩す鷹野を尻目に、俺は立ち上がって部屋を出ようと背を向けた。

「ま、待ってや和泉くん!」

 鷹野はすぐに駆け寄り俺の腕を掴んだ。俺のイライラは募っていく。こいつの音を、少しでも良いなと思った数分前の俺を消し去りたい。やっぱり俺は、こいつが嫌いだ。

「触んな!離せ、この――!」

 振り払おうと体を向けた瞬間――踵が楽譜の上を滑り、俺の視界はぐらりと傾いた。

「和泉くん!」

 ――倒れる!

 俺は反射的に、傾く体を支えようと左手を床に向けていた。このまま倒れたら左手に全身の体重が乗ってしまう。ダメだと分かっていても、もうコントロールが出来なかった。体が強張り俺は思わず目をつむった。防音室に響く転倒音。楽譜が舞い落ちる音が耳元でぱらぱらと聞こえた。体の強張りが徐々に解けると、床に打ち付けたはずの痛みが、さほどないことに気付いた。そろりと目を開けて見ると、俺は、いつの間にか鷹野の腕の中にいた。頭と体を抱きかかえられたまま一緒に横たわっている。その手がするりと解かれ、彼は仰向けになりながら言った。

「あっぶなぁ……和泉くん、平気?」

 ゆっくりと上体を起こすと、手がまだ震えていた。吐息とともに声がこぼれる。

「何で……助けたりなんか……」

「何でって、あのまま倒れとったら、和泉くん手ケガしてまうとこやったやん」

 うなだれたまま、俺は小さく体を丸めて膝を抱えた。

「俺のことなんか庇ってバカじゃねーの?お前だってケガしてたかもしれねーじゃん」

「あぁ……!ホンマやな!」

 背後で、鷹野が笑いながら起き上がった気配がした。

「せやけど、和泉くんがケガせぇへんで良かったわ。……指、大事にしてんのやろ?」

 思わず小さく息を吸った。握った両手にきゅっと力が入る。

「これは俺の勝手な想像やけど、和泉くん、バレーん時アンダーでしか返さんかったの、突き指避けてたからなんちゃう?オーバートス上手く出来んと、突き指してまうもんな。それに、保健室運んだとき、和泉くんの左指の爪えらい短くて整っとるな思ってん。三味線弾くとき爪長いとな、正確に弦を押さえられんなるし、音も変なるねん。それってヴァイオリンも同じなんとちゃう?」

 ――うるさい。

「そんなの、ただ癖が抜けてないだけだ……!」

「せやろか?和泉くん、もう弾かん言うとったけど、ホンマは弾きたいんちゃうの?」

 ――黙れ!

「適当なこと言うな!」

「適当やないよ。……あそこにあるの、和泉くんのヴァイオリンやんな?」

 鷹野が腰をあげて、まっすぐヴァイオリンのもとへ歩いていくのが分かった。

「ホンマに嫌んなって弾かん言うてんのやったら、こない大事にヴァイオリンしまっとらんよ」

 その声が、あまりに優しく慈しみを帯びていて、俺は思わず震える唇を強く引き結んだ。

 何でこいつは、人の小さな揺らぎに気付くんだ。人のことなんて構わず三味線のことだけ考えていればいいのに、俺のことなんか放っておけばいいのに、こいつは踏み込んできて俺の心の深いところに触れてくる。よりにもよって、何でこいつなんだ。

 嫌いだ。大嫌いだ。ずかずかと人の内側に入り込んでくるこいつも、自分の気持ちを押し込んで、見ないふりして逃げてばかりいる自分自身も。

 大嫌いなのに――どうして、こんなに胸の奥が熱いんだ。

「ヴァイオリン、まだ好きなんやろ?せやったら、手ケガしたらアカンやんな」

「……余計なお世話だ、ばか……」

 振り絞って出した自分の声が、消え入りそうなほどかすれた震え声だった。鷹野にみっともない表情を見られたくなくて、俺は、しばらく顔を上げることが出来なかった。

 散らばった楽譜を鷹野が回収し終えた頃だった。

「透?」

 防音室の扉が開き、母さんの声が聞こえた。顔を上げ、振り向くと鷹野が真っ先に母さんのもとへ駆け寄った。

「和泉くん家のお母さんすか!?こんばんは、お邪魔してます!俺、鷹野一輝言います!」

「あら、もしかしてお隣の?」

「はい!実は和泉くんとは学校もクラスも同じになって、いつも仲良うしとるんです」

 誰が誰と仲良くしているんだ。勝手に寄り付いているの間違いだろう。

 俺は腰をあげて親指で鷹野を指しながら言った。

「こいつ、所かまわず三味線弾いて音まき散らすから、今日はこの部屋貸してやったんだよ」

「そうだったの」

「あと、雨で濡れたからこいつの制服、風呂場で乾かしてる。多分、もう乾いてると思う」

 まだ鷹野のことを直視できなくて、俺は視線を逸らしながら言った。

「着替えたらもう帰れ。生乾きでも文句言うなよ」

「はぁい」

 風呂場へ向かう鷹野の背を眺めながら母さんが微笑む。

「明るくて元気な子ね。良い友達ができてよかったじゃない、透」

「どこが。あいつはただの、うるさくてワガママな子供だよ」

「何言ってんの。私から見たら透も子供よ」

 そう返されると、俺は決まりが悪くなって思わず口をつぐんだ。

「忘れ物はない?まぁ、あっても透がすぐに届けてあげるから安心して」

 いいと伝えたのに、母さんは着替え終わった鷹野をわざわざ玄関まで見送りに出て来た。あんなに土砂降りだったのが嘘のように雨はすっかりやんでいた。あの時の雨は夕立だったのかもしれない。

「はい!防音室、使わせてもろてホンマにありがとうございました!」

「いいか、使わせてやったんだから今日の夜はもう弾くなよ」

「分かっとるって!久々にごっつ集中して弾けたし、めっちゃ満足や」

 すると、母さんが一歩踏み出して鷹野に言った。

「防音室、いくらでも使っていいから、またうちにいらっしゃい」

「ホンマですか!?」

「ちょっ、何言ってんの母さん!」

「あら、いいじゃない。せっかく弾ける場所があるんだから、使っても何も問題ないわよ」

 そんなこと言ったら、遠慮という言葉を知らない鷹野は通い続けるに決まっている。その度に俺が付き合わされる羽目になってしまうじゃないか。

 結局、俺が何を言っても二人の意見を覆すことはできなかった。たった一回だけ貸してやるはずが、その日からほぼ毎日、鷹野は俺の家にやって来るようになったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ