第1話
春――。桜並木からこぼれる温かな光の粒が、薄紅色の花びらとともに美しい彼の横顔をすべっていく。3つ歳が離れていると、顔立ちのせいも相まって彼はとても大人びて見えた。偏差値が高い有名な高校の制服。そよ風にさそわれて、ゆるくウエーブのかかった彼のブロンズ色の髪がふわりと揺れる。ヴァイオリンケースを肩に提げて、姿勢よく隣を歩く彼の姿は非の打ち所がないほど美しくて、眩しくて、俺は堪らず彼を瞳に映したまま、きゅっと目を細めた。
高校3年生の彼は、きっと来年の春にはこの街を去ってしまうだろう。俺はこの時、桜が舞う優美な景色に酔いしれてしまったのだと思う。焦燥感と、募らせていた想いが混ざり合って、気付いた時には言葉をこぼしていた。
「好き……」
「え?」
「綾人くんのことが、好き……!」
首をかしげる彼の表情は、笑みを浮かべながらも、どこか困惑の色を帯びていた。
「急にどうした、透」
「僕……、ずっと、昔から綾人くんのことが好きで――」
「あぁ、うん。お互い一人っ子だったしな。俺も弟ができたみたいで、透と一緒にいる時は楽しかったよ」
「そうじゃなくて!」
心臓が大きく音を鳴らしている。跳ねる振動が背中まで響いていく。じわじわと顔を覆う熱。俺は自分の足元を見つめ、胸に当てた手をぎゅっと握りしめた。
「僕が言ってるのは、恋愛の意味の『好き』なんだ。友達でも、兄弟みたいな関係でもなくて、僕……、僕は、綾人くんと恋人同士になりたいんだ……!」
桜の花びらが、足元をかすめて大きく舞い散った。
「……は?何、それ」
彼の柔らかくて端正な声が、この時だけは冷たい重力をまとって鈍色に聞こえた。俺はゆっくりと恐る恐る顔を上げた。段々と早くなる心音とともに、体中の音がやけに耳に響いた。唾を飲み込む音。震える吐息の音。歯がかすかに触れる音。彼の姿を瞳に映した瞬間、耳元で、風の音がひと際大きく鳴った。
そこには、引き攣った表情で軽蔑のまなざしを向ける彼の姿があった。
「透、それ本気で言ってるのか?……昔からって、小学生の時から?俺のこと、そういうふうに思いながら近くにいたってことか?……嘘だろ、じゃあ、俺が透にヴァイオリンを教えていた時も?ははっ、冗談きついって……勘弁してくれよ、気持ち悪い」
その瞬間、喉の奥がひゅっと締まって、息が止まった気がした。
「男を好きになるって、どうかしてるでしょ。病院行きなよ。そんな奴のヴァイオリン演奏なんて、気持ち悪くて吐き気がする」
その言葉は、ヴァイオリンをやめる理由としては十分すぎるほど、俺の心を深く抉った。
――透。
もう、その声で俺の名前を呼ばないでほしい。あなたはもう過去の人だ。二度と会いたくない。
「……――る、透」
しつこい。何度も呼ぶな。
「透」
いい加減にしろ。
「透!」
「うるっさいなぁ!!」
そう発した俺は、目の前に立つ数学教師の鋭い視線とばっちり目が合った。そして、瞬時に状況を把握した。隣の席には必死に呼びかけてくれたのだろう、友人の本庄湊が口元に手を添えたまま苦笑いを浮かべて固まっていた。
「ほぉ。俺の授業は、そんなにうるさいか?和泉よ」
「いえ……あの、……すみませんでした」
「ホームルーム終わったら職員室に来なさい」
「はい……」
俺としたことが、授業中に居眠りをするなんて。そう思いながら、俺は肩を丸くして小さく溜め息をついた。普段ならこんなことしないはずなのに、なんという失態だろう。しかも、あんな悪夢のような夢まで見るなんて。
もう、忘れたはずだった。記憶の奥に居座る、2年前の消し去りたい過去の思い出。中学3年生の春、俺は好きだった人に告白して、見事に振られ砕け散った。
あの頃の俺は純朴だったのだ。お互い側にいる時間が長かったせいか、彼も、俺と同じ気持ちなのだろうと思い込んでいたのだ。けれど。
――気持ち悪い。
蘇る、刃物のような言葉。はっきりと拒絶されたその言葉に、どれだけ傷付き絶望したことか。失恋直後の俺は憔悴しきってしまい何も手に付けられないほどだった。だから、あんな思いをするくらいなら、もういっそ恋なんてしないと決めた。
俺はひたすら受験勉強に集中し、もちろん彼が通っていた高校とは別の学校に進学した。高校入学後も部活は入らず自ら勉強漬けの日々を送り、彼との思い出が入り込む余地をなくした。そうして記憶から彼の存在を消し去ったのだ。それなのに――。
「失礼します」
ホームルームを終え、職員室に入ると担任兼数学教師の田口先生を目で探した。どうやら席を外しているらしい。いつも座っている席に姿がなかった。
「おぉ、和泉。こっちだ、こっち」
声がしたほうへ顔を向けると、田口先生がコピー機の前で書類を抱えながら手招きをしていた。
「この書類を2枚1組にまとめて、ホチキスで留めてくれるか?終わったら俺に提出してくれ。そしたら帰っていいぞ」
「え、それだけですか?」
「何だ、説教でもされると思ったのか?ま、授業中に居眠りしていたのは、いただけないがな。和泉は1年の頃から成績もいいし、罰としてはこれくらいで十分だ。昨日は遅くまで勉強していたのか?勉強も大事だが、睡眠もちゃんと取れよ」
「はい……」
誰もいない教室に、パチンとホチキスの音が響く。学年が上がり、新学期を迎えた春。校庭の桜はもうすっかり散ってしまい、今となっては葉桜となった木々が並んでいる。グラウンドには新入部員を加えた運動部が、いきいきと体を動かしていた。ほんの少し開けた窓から、そよ風に乗って活気の良いかけ声が聞こえてくる。その声に混じって、遠くから管楽器の音が重なり合う。
あの夢を見てしまったのは、なにも桜の季節が巡ってきたからではない。多分、それは――。
「あっ、和泉くん!」
教室の入り口から俺を呼ぶ声がした。そこに立っていたのは隣のクラスの女子生徒、橘さんだった。彼女が手に持っているケース、その中身を俺は知っている。
「ねぇ、やっぱりダメ?」
そう言って、彼女は手に提げていたヴァイオリンケースを持ち上げた。
「オーケストラ部、入る気にならない?」
「ごめん。ヴァイオリンは中学でやめたんだ。もう、弾く気はないよ」
「やっぱダメかぁ。ごめんね、しつこく聞いちゃって。今年の新入部員、ヴァイオリンの子が少なかったから、ちょっと困ってて」
「ううん、こっちこそ。困ってるのに、いい返事ができなくてごめん」
「気にしないで!もうしつこく勧誘しないから安心して」
橘さんは苦笑しながら肩をすくめた。申し訳ない気持ちはあるのだが、こればっかりは、どうしても無理なのだ。
彼女からオーケストラ部の誘いを受けたのは数日前のことだった。同学年とはいえ、全くの初対面だった彼女から、いきなり、「ヴァイオリン弾けるんだよね!?オーケストラ部入らない!?」と言われた時は肝が冷えた。俺はヴァイオリンをやっていたことを誰にも言っていないのだ。
ホチキスを握る手に力が入る。俺の声は、少し震えた。
「ねぇ、橘さん。ひとつ、聞きたいんだけど……」
「ん?何?」
「どうして、俺がヴァイオリンやってたこと知ってるの?」
「あぁ、本庄くんから聞いたの。オケ部にヴァイオリンが足りないって話をしてたら、たまたま本庄くんが話に入ってきて、和泉くんが中学までヴァイオリン弾いてたって教えてくれたんだ」
なるほど、と腑に落ちた。
湊とは小学校からの付き合いだ。俺がヴァイオリンをやっていたことも、やめたことも知っている。けれど彼は、やめた理由を聞こうとはしなかった。多分、湊は気を遣ったつもりはないのだろう。彼は良くも悪くも、鈍感なのだ。
ヴァイオリンの話題に触れられたくないと思いつつ、特に口止めをしていた訳でもない。だから、湊は困っていた橘さんを助けてあげようと、俺のことを伝えたのだろう。
「じゃあ、私そろそろ部活行くね!」
「うん、部活がんばって」
手を振る彼女に、俺も小さく手を振り返した。
ふたたび静かになった教室で、ホチキスの音がまた、パチンと弾ける。
ヴァイオリンをやめてから2年。忘れた頃に、また思い出してしまった。一度思い出すと芋ずる式に色んな記憶も蘇る。だからだろう、昨日もよく眠れず授業中にあんな夢まで見てしまう始末だ。
大きく溜め息をついて窓の外を見上げた。まだ陽は高く、空をさんさんと照らす太陽がこちらを見下ろしている。チカチカと光る陽光。俺は思わず瞼を細め、あぁ――と思った。
彼と初めて出会った時も、こんなふうに眩しいと思ったのだ。
それは、俺がまだ5歳の時だった。父さんの仕事の関係で、俺と母さんは市主催のイベント関係者として、コンサート会場に招かれた。席も前の方で、舞台がよく見渡せたのを覚えている。
俺はそのイベントで、彼――神崎綾人に出会ったのだ。彼が舞台上に一歩踏み入れた瞬間、俺はまるで魔法でもかけられたように彼から目が離せなくなった。自分よりも年上とはいえ、彼はまだ小学生だ。そんなことを感じさせないくらい堂々とした姿。スポットライトを浴び、優美な演奏を披露する姿に、俺はまたたく間に魅入られてしまった。大人も参加していた中で、ただ一人、彼だけが周りとは異なる光をまとっていたのだ。例えるなら、彼は童話の中から現れた光の王子様。たった2、3分の演奏で、彼はあっという間に俺の心を奪っていった。
ヴァイオリンを始めたのは、そのすぐ後だった。ヴァイオリン教室は探せば市内にいくつかある。それがどうして、神崎綾人と同じ教室に通うことになってしまったのか。運命のいたずらとは、こういうことを言うのかもしれないと、今更ながらに思う。
俺は、最後の資料にホチキスを入れ、束にした角を丁寧に揃えた。
「よし、終わった」
グラウンドから運動部の笛の音が響く。俺は開いていた窓を閉めると、綴じ終えた資料を持って教室を後にした。
都会とも田舎ともいえないこの街は、程よく静かで、都市部までは少し遠い。それでも特別不便というわけではなく、なんとも中途半端な場所だが俺は嫌いではない。なんといっても、街の真ん中を流れる河原の景色が昔から好きだった。河原を流れるせせらぎの音。ずっと先に広がる小高い山と空。今の時季は菜の花も咲いて、風が吹くと、ほんのりと花の香りが鼻孔をくすぐり心地良く頬を撫でていく。
ふと視線を下ろすと、土手の下に小さな人だかりができていることに気付いた。何だろう、とその中心に目をこらすと、そこには川を背にして仁王立ちしている一人の少年の姿があった。逆立った茶色の短髪。緑色の派手なスカジャンに、だぼついた黒いズボン。耳にはギラついたピアスがいくつも付いている。中でも、右耳に付けられた真っ直ぐ垂れ下がるシルバーのピアスが目を引いた。太陽の光に反射しながらそのピアスが小さく揺れている。一見、ガラの悪い不良のようにも見えるが、しかしその手には、外見とはおよそ似つかわしくない伝統的な楽器が携えられていた。
白い面を張った四角い胴体から、真っ直ぐ伸びる木の棹。その先端には弦の張りを調整する糸巻きが左右に備わっている。ヴァイオリンとはまた違う、日本の伝統的な弦楽器――三味線。
彼はニッと歯を見せると、威勢のいい掛け声を発し、右手の撥で勢いよく弦をはじいた。途端、空気が変わった。力強い、張りのある音色。独特な緩急をつけた軽快なリズム。迫力のある音と繊細な音が交じり合い、音に様々な表情が生まれていく。音階が跳ねるように移り変わり、三味線独自の響きが辺り一面を包み込んだ。
俺は、何かに導かれるように自然と足が進み、気付いた時には人だかりに混ざって彼の演奏に聞き入っていた。楽器ひとつ、身ひとつ。なのに、圧倒される音のしらべ。
何よりも、楽しくてしょうがないと言わんばかりに目を輝かせ、指を動かし、リズムに乗って一心不乱に楽器を弾く彼の姿が痛いほど眩しく映って、いつの間にか俺は、そっと自分の唇を噛んでいた。
演奏が終わると一斉に拍手が舞い上がった。歓声にハッとした俺は、踵を返し足早にその場を去った。
思わず足を止めて聞いてしまったが、派手な身なりといい、よくあんな場所で即興演奏ができるものだ。ああいうのを路上ライブと言うのだろう。駅前で行うイメージがあるが、三味線の披露というのはあまり聞いたことがない。同じくらいの歳だろうか。おおかた小銭稼ぎや、スカウト目的なのだろうが、都会とは言えないこんな場所で披露しても、あまり意味はないように思う。なんにしろ、俺には関係のないことだ。そう思い、帰路に就こうとした時だった。スマホから着信音が鳴った。母さんだ。
「もしもし?」
「あ、透?今、学校の帰り?」
「うん、そうだよ」
「よかった!悪いんだけど、ちょっと買い物頼めない?焼肉のタレ切らしちゃってたみたいで」
「……分かった。買って帰るよ」
「助かるわ、ありがと!」
「うん」
了承したものの、学校の帰りと言っても、電車に乗る前と後では大きく違う。電車はすでに降りて、家にも近付いていた頃だった。駅前のスーパーへ行くには、いったん引き返すしかない。俺は通話を終えると、踵を返し、来た道を戻った。
買い物を終えてスーパーを出ると、西の空が淡いグラデーションに包まれ、すっかり夕方の景色に移り変わっていた。
「少し、遅くなったな」
俺はいつもの大通りから逸れて裏道に入った。街灯が少なく狭くて少し暗いが、こちらの方が近道なのだ。ショートカットにはちょうどいい。
ところが、小道を抜けたところで足が止まった。高架下の出入口あたりに不良が数人たむろしていたのだ。俺は思わず肩を縮め、小道の陰に身を潜めた。今日は『当たり』の日を引いてしまったらしい。この高架下は、たまに不良のたまり場になっている。近道とはいえ、あまり頻繁には利用しなかったのだが、よりにもよって今日がその日になるなんて。
今から引き返して大通りまで戻ることもできるが、そうすると帰りがさらに遅くなる。かと言って、ここを通って不良に声をかけられでもしたら――。
決まらないまま、陰からもう一度不良の様子をうかがってみた。よく見ると、不良たちは一人を囲って何やら話をしているようだった。学ラン姿の不良たちに対し、壁に凭れかかっている彼は派手なスカジャンに黒いズボン、背中には大きな黒いケースを背負っている。そして逆立った茶色い短髪に耳には沢山のピアス――間違いない、彼は先ほどの三味線少年だ。
でも、何だか様子がおかしい。もしかして、これは――。
「勘弁してくださいよ。これ、俺の大事なもんやさかい、渡すわけにはいかんのですわ」
「じゃあ現金出せや。それで許してやるよ」
「えーと、それもちょっと……」
――ど、恫喝だった!
まさか恫喝の現場を目の当たりにしてしまうとは。どうする、どうしたらいい。
決めあぐねていると、俺は三味線少年と目が合ってしまった。すると、彼はいきなり俺に手を振って言い放った。
「あー!お兄ちゃん、来てくれたん!?この人ら、どうしてもお金が必要なんやって!この人らの話聞いたげてくれへん?」
――は!?
不良たちが一斉に俺の存在に気付く。三味線少年はその一瞬の隙をついて彼らの間をくぐり抜けると、あろうことか脱兎のごとく逃げ出した。そして、一瞬だけ振り返ると、俺に向けて「あとはよろしく!」とでも言っているように顔の前に片手を持ってきてウインクを飛ばしてきた。
「はあああああ!?」
あまりにも予想外の展開に、俺は声を出さずにはいられなかった。不良たちも逃げ出した彼に気付いたが、時すでに遅し。彼の姿はもう見えなくなっていた。
まずい、俺も早く逃げなければ――そう思って体を動かそうとした瞬間、分厚くて大きな手が俺の肩を掴んだ。ぞわりと背筋が凍る。
「おい、テメェさっきの野郎の兄貴なんだってな。だったら弟くんの分もきっちり金払ってくれるよな?なぁ、お兄ちゃんよぉ」
「い……、いえ、あの……人違い、です」
「っざけんじゃねーぞ!こっち来い!」
胸ぐらを掴まれ、俺は抵抗する間もなく高架下まで連れて行かれた。壁に追いやられると、不良の腕が顔の横をかすめ、あっという間に四方を囲まれてしまった。不良たちの鋭い目が俺を突き刺してくる。
「弟くんがさぁ、俺にぶつかってきたんだよ。すっごく痛かったんだぁ。治療費、出せるよなぁ?」
「あの、本当に俺は違うんです……。たまたま通りかかっただけで……」
みっともなく震える声。俺は言葉にするので精一杯だった。しかし。
「ハッ、んなことどーでもいいわ。兄弟だろうが他人だろうが俺らには知ったことか。たまたま通りかかった自分の運を呪いな。ま、さっきの奴は大して金持ってなさそうだったが、あんたが着てる制服、いいとこの学校だろ。お小遣いもたくさんあるんじゃないの?ほら、財布、出せよ」
体が強張り、とうとう声も出せなくなった俺は、その場でただ震えることしかできなくなっていた。こんなことに巻き込まれるくらいなら、すぐに大通りへ引き返せばよかった。この裏道は人もほとんど通らないし、助けが来るとも思えない。
――自分の運を呪いな。
不良が言った通り、今日の俺は本当にツイていない。授業中に居眠りはするし、雑用させられるし、三味線野郎に不良の相手をなすりつけられるし。少しでも彼を助けなきゃと思った自分が馬鹿だった。あんな奴のことなんか放って逃げればよかった。
すると不良の一人がニヤリと口角を上げて言った。
「おいおい、怖がって子犬みたいになっちまったじゃねーか。しょうがねぇな。なら俺がちょっとマッサージして体をほぐしてやるよ」
途端、俺はそいつに右手を掴まれた。
「手のツボってやつ?あれ、よく効くらしいぜ?まぁ、力加減は保障しねぇがな。うっかり力込めすぎて折っちまっても、悪く思うなよ?」
その言葉に、一瞬で全身に鳥肌が立った。手を、指を折られたら、そんなことをされたら――。
「やっ!やだ、やめ――!」
「こらーっ!君たちそこで何をしている!」
夕闇を裂くように白いライトが俺たちを照らす。不良たちは舌打ちをすると、捨て去るように俺の手を離し、その場から走って逃げていった。
助かった――俺は気が抜けて、思わずその場にへたり込んだ。
「きみ、大丈夫かい?」
心臓がバクバクと大きく音を立てる。肩で息を繰り返し、ちゃんと呼吸できていることを確かめた。警察官の声に、俺は震える声でなんとか返事をした。
「は、はい……」
震える右手。俺は包み込むように、両手をぎゅっと握り締めた。
怖かった。不良の言葉も目つきも。でもそれ以上に、この手を傷付けられることが、心底怖いと思った。
「立てる?どこか怪我は?交番まで歩けるかい?」
「あ……いえ、大丈夫です。家もすぐ近くなので、このまま帰ります」
おそらく、このまま交番に行ったら家に連絡が入るだろう。それはなるべく避けたい。中学の時、精神的に参ってしまったせいで両親には散々心配をかけてしまったから、おおごとに、ましてや警察沙汰になどしたくはない。
「そう。なら、気を付けて帰るんだよ」
家に着いた頃には、すっかり夕日も沈んでいた。見慣れた家なのに、玄関の明かりが見えると何だかホッとした。
「ただいま」
「お帰り。随分と遅かったけど、何かあったの?」
母さんがキッチンから顔を出して言う。やっぱり聞いてくるよな。と苦笑しながら、俺は買ってきたものを鞄から取り出した。
「……ちょっと、本屋にも寄ってて。ごめん、こんなに遅くなるつもりはなかったんだけど――」
ふと、俺はカウンターテーブルに置かれた小洒落た小さな丸い缶の存在に気付いた。
「あぁ。それ、お隣さんから戴いたクッキーよ」
「ふうん」
「クッキーは晩ごはんの後だからね。ほら、手洗って着替えてきなさい」
お隣さん――つまり三河のおばあさんのことか。家庭菜園が趣味で色々と野菜をもらうことがあるが、ああいう洒落たものをくれるのは珍しい気がする。
2階に上がって、ブレザーのネクタイを緩めながら俺は部屋の電気をつけた。自然とベッドへ視線が向く。俺は吸い寄せられるようにベッドに転がった。今日は災難続きでどっと疲れた。もうこのまま寝てしまいたい。次第にまどろむ意識のなか、ふと、どこからか弦をはじく音がそっと耳に届いた。
日本独自の響きを奏でる和楽器、この音は――三味線。
ゆっくりと穏やかに響く和の音色。心地よい夢うつつの中、ぼんやりと何かが浮かんでくる。空と山のコントラスト。菜の花が揺れる春のそよ風。水面に反射する陽の光。三味線を奏でる人影。この人は河原で見た、あの――。
段々と記憶の輪郭がはっきりしてくる。ふつふつと、静かに湧いてくる怒り。ああ、思い出してしまった。あの三味線野郎の姿を。不良の相手を俺に押し付け、颯爽と逃げ去る奴の姿を。
「あー!もう!」
眠気よりも怒りが勝ってしまい、俺は一気に体を起こした。そもそも、この音は一体どこから聞こえているんだ。
俺は辺りを見回し、注意深く耳を傾けた。どうやら音の出どころは隣の家のようだ。でも、おかしい。どういうことだ。
右隣の家には三河のおばあさんが住んでいる。けれど、この音は左隣の家から聞こえてきている。そこは昔ながらの木造の一軒家が建っていた。でも、もう随分と空き家だったはずだ。偶然、部屋の窓の間取りが、隣の家の窓と真向かいに位置しているからよく知っている。その家に明かりが灯っていたのは、もう随分と昔のことだ。今は誰もいないはずなのに、どうして。
俺はごくりと喉を鳴らし、カーテンをそっと開けた。
目に映ったのは、開け放たれた窓からこぼれる、やわらかな白い光。趣のある木製の窓手すりが、光に照らされ輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。その窓際に、一人の少年が腰掛けていた。三味線を静かに奏でる彼の横顔に、俺は思わず目を見開いた。
逆立った茶色の短髪、派手なスカジャン、無数のピアス。見間違うはずがない。こいつは、さっきの――。
「三味線野郎!!」
俺は思わず窓を開け、指を差しながら叫んだ。声に驚いた彼も、三味線を弾く手を止めて振り向く。
「あ、お隣さん?こんばんはー」
満面の笑みを見せるヤツの顔に、俺の怒りのパラメーターは更に上昇した。
――こいつもしかして、さっき俺を巻き込んだこと忘れているんじゃないか!?
「おい、お前……。俺のこと覚えてるか?」
すると、彼は笑顔のまま、2、3度目まばたきをして首を横にかしげた。
「不良の相手にされたんだよ!俺が!お前の代わりに!お前が俺になすりつけたんだろうが!」
「あぁ!さっきの。大丈夫やった?」
「大丈夫なわけあるか!警察がたまたま来てくれなかったら、危うく大怪我してたところだったんだぞ!」
「あ、お巡りさん間に合ったんやな。そりゃ良かった」
「は?」
「あの後な、すぐ警察に連絡して場所伝えたんよ。無事に間に合ったんなら良かったわ」
「なっ……!」
ただ逃げただけじゃなかったのか。とはいえ、怖い思いをさせられたことには変わりない。それに、へらへらと笑って悪びれている様子がないのも癪に障る。そもそも、こいつは何で隣の家にいるんだ。ここは空き家のはずだろう。
すると、彼は側に置いていたらしい、小さな丸い缶を手にすると、蓋を開けて中からクッキーを一枚つまんで食べはじめた。その缶は、さっきリビングのカウンターテーブルで見たものと同じものだ。
「おい、そのクッキー缶……」
「ん?あぁ、これ?挨拶まわりでウチの親がようさん買ってな、余ったらしいから1個もろたんよ」
「あいさつ……?」
嫌な予感しかしなかった。まさか、こいつ。
「そ。今日引っ越して来てん。せやから、その挨拶にってな」
俺は思わず頭を抱えた。こんな、人の迷惑を考えないような最低な奴とお隣さんになってしまうなんて。散々な日のトドメがこれとは、本当に俺は何てツイていないんだ。
「クッキーいる?」
「いらん!ていうか馴れ馴れしいな!あのな、言っておくが俺はお前の身勝手な行動でえらい目に遭ったんだ。それを謝りもせずへらへらと……!俺はお前のこと許してないからな!今後、隣だからって気安く声かけてくるなよ!あと、こんな住宅地で窓全開にして楽器弾くな!近所迷惑だ!」
俺はそう言い放って窓とカーテンをピシャリと閉めた。
無性にイライラしてしまう。きっと、ここ最近よく眠れていないせいもあるのだろう。妙に気が立ってしょうがない。あいつの顔を見ると余計に腹が立つ。家が隣だからといって、別に仲良くする必要なんてない。むしろ関わりたくない。あれだけ言ってやったのだ。これで三味線野郎は大人しくなるだろう。
しかし、そんな俺の思いは、たった一日であっけなく崩壊した。
「はじめましてー。鷹野一輝いいます。ここ来る前は関西に住んどりました。特技は三味線で、好きなものは三味線っす。よろしく頼んます!」
翌日、朝のホームルームで俺はまた悪い夢でも見ているのかと、いや、そうであってほしいと願わずにはいられなかった。三味線野郎――鷹野一輝は、同じ学校の、しかも俺と同じクラスに転校して来たのだ。そして、先生が追い打ちの一言を告げた。
「鷹野の席は、和泉の隣だ。和泉、今日は鷹野に教科書見せてやってくれ」
噓だろう?家が隣、学校もクラスも同じ。おまけに席も隣だなんて、どうしたって関わる要素しかない。
隣の席の椅子を引く音がした。けれど俺は、奴の顔も見たくなくて何もない机の上をじっと見つめて小さな悪あがきをしていた。その時だ。
左の首元に、つんと指が触れた。咄嗟に首元をおさえ奴のほうを向くと、彼は八重歯を見せながら、「あ、こっち向いた」と能天気に笑いをこぼしていた。頬杖をつき、ひらひらと手を振りながら彼は改めて言う。
「ほな、お隣よろしゅうな、和泉くん!」
心底思う。俺は、こいつのことが大っ嫌いだ!




