第一章:青い月の招待
冬の夜は冷たい空気が町を包み込み、港に面した町・月見坂にもその静けさが満ちていた。だが、この夜はいつもとは違っていた。空にはひときわ青白く輝く月が昇っていたのだ。天文学でいう「ブルームーン」、ひと月に二度目の満月が見られる現象で、その発生頻度は数年に一度とも言われている。
その神秘的な現象に魅せられ、多くの観光客が月見坂を訪れていた。町ではブルームーン・フェスティバルと銘打たれた祭りが開催され、夜空を見上げる人々であふれていた。
刑事・高瀬誠一は、勤務を終えて警察署を出たばかりだった。冬の吐息が白く舞う中、ふと空を見上げ、青い月に目を奪われた。月見坂で生まれ育った彼にとって、この町の月は特別な意味を持っていた。小さな漁港、なだらかな坂道、古びた家並み――どこからでも月がよく見えるこの町の景色に、月は常に寄り添っていた。
そんな中、スマートフォンが震え、甲高い着信音が鳴った。
「高瀬です」
『刑事、至急出動をお願いします。月見台ホテルで殺人事件が発生しました』
受話器越しの声は緊張を帯びていた。高瀬の眉がぴくりと動く。月見台ホテル――月見坂で唯一の高級ホテルであり、今回のフェスティバルのメイン会場でもあった。町の中でもひときわ高台に位置し、最上階からは町全体と海、そして空が一望できる。特に今夜のような満月には、最高のロケーションだった。
高瀬はすぐさまパトカーに乗り込み、現場へと向かった。
ホテルはすでに警察車両と報道陣で騒然としていた。ホテル関係者と宿泊客はロビーに避難させられ、館内は厳戒態勢が敷かれていた。
「状況は?」
現場に先着していた鑑識課の田中が、高瀬を待っていた。
「被害者は星野哲也、58歳。著名な天文学者で、今回のフェスティバルの講演者として招かれていました。遺体は最上階のスイートルームで発見されました」
高瀬はエレベーターで最上階に向かった。赤い絨毯の廊下を抜け、警察の規制線をくぐると、豪華なスイートルームが現れた。中は整然としていた。家具に乱れはなく、争った形跡もない。だが、その中心で、ひときわ異質な光景が目に飛び込んだ。
ソファのそば、カーペットの上に横たわる男性の遺体。目を閉じた顔は安らかなようにも見えるが、首元にはくっきりと絞められた痕が残っていた。
「死因は窒息死。首を何かで強く絞められたようです。凶器は見つかっていません。指紋も残されておらず、窓も施錠されていた。密室です」
田中の言葉に、高瀬は眉をひそめた。
「密室での絞殺か…遺体発見は?」
「ホテルの清掃係が発見しました。フェスティバルの講演前に星野氏と連絡が取れず、不審に思った主催者が部屋を開けさせたとのことです」
高瀬は遺体に近づき、被害者の手元に目をやった。右手が硬直したまま、何かを握っている。
「これを…」田中がそっと遺体の手を開いた。
手のひらに、小さな青い石が乗っていた。光にかざすと、月明かりのような淡い輝きが浮かび上がる。
「ムーンストーンか?」
「はい。しかも非常に珍しいブルームーンストーン。国内で手に入るものではありません」
「犯人のメッセージか、それとも被害者が掴み取った手がかりか…」
高瀬は部屋を見渡した。壁にかけられた月の絵画、棚に並ぶ星に関する書籍、天体望遠鏡。部屋全体が星野教授の専門を象徴しているかのようだった。
「星野哲也……あの星野教授か」
高瀬も名前を知っていた。月と惑星の研究に生涯を捧げ、多くの著作やテレビ番組にも出演していた人物だ。だが、この月見坂に来た理由は何だったのか?
「星野教授は最近、『ブルームーンに秘められた古代の暗号』というテーマで研究を進めていたようです」
同席していた警部補・佐藤が資料を手に言った。
「その話、聞いたことがあります。月の周期に従って、特定の時期にだけ現れる星の配置が古代の地図になっているとか…」
「オカルトのような話だが、教授は真剣だったのだろうな」
その時、ホテルの支配人がやって来た。
「刑事さん、被害者の関係者がお越しになっています。教授の研究助手の方です」
ロビーで待っていたのは、水野涼子という若い女性だった。黒髪を後ろで束ね、知的な雰囲気を漂わせていた。
「星野教授の助手を務めていました、水野と申します。……まさか、こんなことになるなんて」
「星野教授は最近、何か不安を抱えている様子はありませんでしたか?」
「いえ、むしろとても興奮していました。『ついに暗号を解いたかもしれない』と、夜遅くまで資料を読み返していて…」
「どんな暗号ですか?」
「『ブルームーン・サイクル』と呼ばれる19年周期の満月の配列と、北斗七星の星の位置を組み合わせた暗号です。教授は、この暗号が古代の宝の在りかを示していると信じていました」
高瀬は目を細めた。
「宝、というと…?」
「月見坂の伝説です。江戸時代、この地には『月影丸』という海賊が財宝を隠したという言い伝えがあります。その隠し場所を示す鍵が、ブルームーンと星の配置に隠されていると」
「まさか、それが動機に?」
水野は静かに頷いた。「教授は財宝を発見できたら、それを博物館に寄贈するつもりだったそうです。でも、欲に目がくらんだ誰かが……」
高瀬の頭に、青いムーンストーンが浮かぶ。
――これは単なる殺人ではない。何か、もっと大きな謎が動いている。
「地図のようなもの、教授は残していませんでしたか?」
「研究室に、古い地図に印をつけたものがあったと思います。お見せします」
こうして事件は、ただの密室殺人から、200年の時を超えた暗号と伝説の謎解きへと姿を変えていった。
青い月が、すべてを見下ろしていた。