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乳液コーヒー

相性のいい病気って、あるのでしょうか。


性同一性障害を抱える私と、その障害への理解がない母


母の前では女を封じて生きていた私が女として生きていけるようになった


そのきっかけは、母の認知症だった


母は、私を妹の瑞穂だと思い込んでいる

そのおかげで私は、私として生きていられる


しかし、本当にこれで良いのだろうか

 「瑞穂。」

 カーテンからこぼれた光が母の顔を照らす。

 「乳液、詰め替えといたから。」

 流し台の上に置いていた詰め替え用の乳液が姿を消していた。それと同時に、隣に置いていたはずのコーヒー缶も姿がない。

 「ありがとう。」

 やっと肩に届いた髪を耳にかけながらそう言うと、母は顔のしわを寄せて笑った。

 私は母に気づかれないように冷蔵庫の中を確認してみた。しかし、チルド室、野菜室、そして冷凍庫にもコーヒー缶はなかった。

 しかし、ふと視線を落としたゴミ箱にコーヒー缶が姿を現した。

母が飲んでしまっていたのだ。

もう一度、薬局まで行こうかと考えたが、やめておいた。

 少々残念だったが、諦めて二階へ上がった。


 風呂上り、脱衣所でコーヒーの中身を見つけた。

 導入化粧水、化粧水、ヒアルロン液。順々に慣れた手つきで顔にまとわせる。

 締めの乳液、とボトルを持ち上げた時だった。


ジャバッ


 聞き慣れない音がした。

 目線を落とした乳液ボトルの中には黒い液体が充満している。

「うわっ」

 気持ちが悪かった。

 鏡の中の私は顔をしかめながらボトルキャップを恐る恐る取り除く。

キャップを開けると、すぐにその正体がコーヒーだと分かった。

「なんでまた・・・」

これが母のいたずらだというなら、まだ良かった。そうではないから仕方がない。そう分かっていながらも、嫌悪感は消えないでいる。

 ボトルの入り口を流し台へ向ける。

黒い液体はジョボジョボと音を立てて排水溝に吸い込まれていった。続いて底に蔓延っていた乳液が精液のようにどろりと流れ出る。

「ヴッ」

一気に吐き気が込み上げてきて、流し台に何度も嗚咽した。

初めての精通があった朝、白い液体が下着を汚していた。

あの日も今日と同じように嘔吐したのを思い出した。


性同一性障害


母にその理解は無かった。

スカート、ワンピース、バッグ、コスメに香水。

アルバイトができるようになった高校生の私は、バイト代でこれらを買いあさっては母を泣かせていた。


「なんでいつもお母さんを困らせるの!あんたは男の子でしょ。男の子が化粧してスカートなんか履いて気持ち悪い!」


 母を困らせたかったわけではない。

ただ、私の好きなもの、欲しいものを買いたかっただけなのに。

それでも母は納得した様子を見せなかった。

小さいころから父はおらず、母は女手一つで私と妹を育ててきた。

そんな母が唯一泣く瞬間は、私が女っ気を出した時だけだった。

もう、何も見たくなかったし、何も言われたくなかった。

だから私は、せめて母の前だけでは、女を封じて生きることにしたのだった。

しかし、ここ一年近くして、その呪いはほぼ完全に解けきっていた。



「健ちゃん今日も帰ってこないのかな?」

母の声が聞こえて咄嗟に嘔吐物を水で流す。   

排水溝がゴボゴボと音を立てた。

「お兄ちゃん今日も出張で帰ってこられないんだって。」

「ええ、また?最近毎日そうね。疲れてないかしら。」


母の認知症が始まったのはちょうど二、三年前。妹の瑞穂が家を出たのはちょうど一年前。それから進行は早かった。


友達と飲んだ帰り、いつもなら着替えて帰宅するつもりが、ワンピース姿のまま玄関をくぐってしまった。

「おかえり。」

 母の顔を見て、しまった、と冷や汗をかいた。

しかし、何食わぬ顔で私を出迎えた。

「あら瑞穂、髪切ったの?」

「え。」

「似合ってるじゃない!結構切ったわね。」

「・・・うん、そうなの。似合うでしょ。」

 咄嗟にそう返してしまった。

 

 認知症、見当識障害


 皆年取ればこうなるし、何とかなるだろう。そんな風に思っていたが、実際はそう簡単なものではなかった。

 料理、排泄、買い物、できることはどんどん少なくなっていく。

 スリッパにティッシュを詰める、電卓を冷蔵庫に入れる。

 ここまで来てやっと、デイケアへの入居を考え始めた。しかし、どこも定員に達していて、介護できる者が同居している場合は、どうしても優先順位を下げられてしまう。

 結局私が母の介護をすることになった。

 在宅でできる仕事を振ってもらうように会社に頼み、極力家にいる時間を増やした。

 

 母は、私のことを瑞穂だと思い込んでいる。それを良いことに、私は私の好きな恰好ができている。これでいいんだ。

 私は仕事も趣味も十分に充実している。私の障害に理解のある友人にも恵まれている。

 母は認知症を患いながらも家での生活に満足している。施設に入った母の友人は「毎日退屈だ」と不満をこぼしていると母からよく聞いている。

 瑞穂は家を出て行ってから音信不通になってしまったが、理由は駆け落ちだと知っていた。母が瑞穂とその恋人との結婚を頑なに賛成しなかったのが原因だった。音信不通になる前に、最後に瑞穂から送られた文面には「結婚した」とだけ書かれてた。きっと母には送っていないだろう。詳しいことは分からないが、きっと瑞穂も瑞穂で旦那さんと幸せに暮らしているのだろう。


 皆、それぞれが幸せじゃないか。順調じゃないか。

 でも、明らかに引っかかる部分がある。本当にこれでいいのか。


 母は、私を瑞穂として接する。それに便乗して、私は瑞穂のふりをする。そのおかげで私は女として生きることが許されている。

 母の中で私の、「健太郎」の存在はどこに行ってしまったのだろうか。


 携帯の液晶画面を覗く。20:31。

 確か薬局は21:00までだったはずだ。

「ちょっと出かけてくるよ。」

「あら、こんな時間からどこに行くの。」

「薬局。買い忘れたものがあってさ。」

「あらそう、気を付けてね。」

 笑顔を作ってみたが、いつもより頬が突っ張って上手く笑えなかった。


 帰宅後すぐ、私は食器棚からコーヒーカップを取り出した。

 するとそこへ、購入した二つの液体を流し込む。昼間と同じ薬局で、昼間と同じものを購入してきたのだ。

 自分でもなぜこんなことをしているのか分からない。

 ただ、引っかかる何かを、取っ払いたい一心で思いついただけだった。

 私は、昼間の母になりきって、ただひたすらにコーヒーカップの中を見つめた。

 黒いコーヒーに吸い込まれる白い乳液は、まるでミルクのようだった。

 そっとスプーンでかき混ぜれば、黒いコーヒーは幾分か色味が優しくなって、口当たりもマイルドになりそうだと思わせるほどだった。

 不思議だ。

 昼間に見た乳液ボトルの中の乳液はおぞましいだけの液体だったはずなのに。


「何してるの瑞穂。」

 ゆっくりと近づいてきた母がコーヒーカップをのぞき込んだ。

「コーヒー作っていたの。」

「あら、私も飲みたい。」

「これはダメだよ。」

 母が不思議そうに私の顔を見つめる。

「これは私のだから、お母さんのは今から作るからあっちで待ってて。」

 

 実際に飲めるものではないことは承知している。

 スプーンでかき混ぜてみても、色味も口当たりも優しくなることはないだろうし、乳液も分離したまま底に沈殿していて、混ざり合うことはない。

 でも、それで良かったのだ。

 味はどうであれ、見栄えは完璧なミルク入りコーヒーであって、まずいと分かっていながら何も飲む必要はなかったのだ。

 心の中で引っかかっていた何かがほどけていく気配がした。


「瑞穂、コーヒーまだかね。」

「はーい、ちょっと待ってね。」

 催促する母に尋ねる。

「ミルクと砂糖は入れる?」

「ミルクだけ入れて頂戴。」

「はーい。」

 新しく取り出したコーヒーカップに冷蔵庫に入っていたミルクを流し込む。

 黒いコーヒーに吸い込まれる白いミルクは、綺麗な模様を描いて溶け込んでいった。

 欲は張らなくていい。それぞれの形があるのだから、これでいいんだ。


ピンポーン


 突然、インターホンが鳴った。

「だあれ、こんな時間に。」

「ちょっと確認してくるね。」

 誰だろう、こんな時間に。

 玄関のドアを開けると、大荷物を抱えた人影が勢いよく駆け込んできた。

「瑞穂・・・?」

「・・・お兄ちゃん?」

 何やらやつれた顔をしていたが、瑞穂だと分かって安堵した。と同時に、疑問が浮かび上がってきた。

「え、なんで家に。」

「離婚した。」

「え。」

「離婚したの。だから帰ってきた。」

 急なことで理解が追い付かない。

「てかまだそんな恰好してんの。もう辞めなよ。」

 今度は怒りが込み上げてきた。続いて焦りが込み上げてくる。

「なになに、騒がしいわねえ。」

 キッチンから母が近づいてくる。

 どうしよう、何をどう説明すればいい。どうしたらいい。

 もう訳が分からない状態になってしまった。

 私は、瑞穂として生きられなくなってしまうのだろうか。

「あら瑞穂、そんな大荷物抱えてどこに行くの。」

 瑞穂を見つめながら母が言った。

「え、いや帰ってきたんだけど。」

「あれ、この子はお友達?」

 母が私を指さした。反対の手には黒いコーヒーが入ったコーヒーカップが握られている。

「は、え・・・?」

 私は、その場に座り込んでしまった。

「え、お兄ちゃんでしょ。え、違うの?」

「健ちゃんは確か、今日出張って言ってなかったかしら。」

「え、じゃあ誰?あんた、誰なの?」

「こらこら瑞穂、そんな態度とっちゃだめよ。何か御用ですかね。ささ、上がってください。今ちょうどコーヒーを淹れたところなんです。アイスですけれど、良ければ召し上がってください。」


 ガコッ


 何も考えられないままでいる私に、母はコーヒーこぼした。

「ああ、ごめんなさい。今すぐ拭くものを取ってきます。」

「あーあ、何やってんの。」

 黒いコーヒーは、私の白いワンピースにじわじわと吸収されていく。

 続いてコーヒーカップの底から白い液体が、どろりと飛び出してくる。

「うわ、何これ・・・」

 コーヒーと混ざれなかった乳液は、居場所を無くして、ただ玄関の床にでろりと広がった。

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