Chapter2 はじまりの色
「猫……?」
どピンクの猫、最初の印象はまさにそれ。猫といっても本物の猫ではなく、コスプレだ。薄いピンクと濃いピンクのしましま模様の服を着た人。耳と尻尾を付けた人。ステージ上の演説台の上に寝そべり、あくびしながらこちらを見ている。
……今、アリスと呼ばなかったか。
あの人?のコスプレといい、アリスといい、まるで不思議の国のアリスだ。確かチシャネコという名前だったはず。
何?アリス?私に向かって話してる……よね?
「チシャネコ」さんの視線の先には私しかいない。正確にいうと、動ける人は私しかいない。
「アリス、そんなに揺らすと壊れるよ」
のんびりとした口調で話すそのネコの言葉に、脳内処理が追いつかない。
「それともアリスは壊したいのかい?」
その言葉にパッと圭から手を離す。壊れるって、壊れるって圭がってことだよね!?
ドクドクと鼓動が早くなる。大丈夫、壊れていない。大丈夫。
落ち着かない私の鼓動を置き去りに、「チシャネコ」は再びあくびをした。
「あ、あの……あなたは?」
「チシャネコだよ」
「やっぱりチシャネコ……」
不思議の国のアリスそのままだ。やはりコスプレなのだろうか?いや、不審者?
チシャネコさんはこの状況を何とも思っていないのか、ただのんびりと私を眺める。
たとえ不審者だろうが何だろうが、この状況下でふざけている場合ではない。
こんな中でも冷静な彼は、何か知っているのではないだろうか。
コスプレだろうがなんでもいい。
そもそも私以外に動けるのは彼しかいないのだ、今のところ。
それは、質問できる貴重な存在だということでもある。
「あの、」
振り絞る声が震える、チシャネコさんはゆったりと尻尾をくねらせて、私の次の言葉を待っている。あんなにしなやかに動くなんて、あの尻尾はもしや本物ではないのか。
一歩前へ足を踏み出す。
こつん、なんていい音ではなく、頼りなげなぺたん、という音。それが体育館に反響して、余計不安になる。広い空間に、あまりにも小さな足音。壇上のピンクはそんな私の挙動を何も言わずに黙って見つめる。
「あの、どうして、」
ステージの下まで辿り着くと、そこからチシャネコさんを見上げる。
「どうしてみんな動かないのか、ご存じですか?」
尻すぼみになっていく、私の声。最初から大きいとは言えないその声が、更に小さくなっていく。でも、それでも不気味なくらいしっかりと響き渡る、私の音。
「気づいたらみんな……みんな止まってて……」
情けないくらい震えているのがわかる。
一段も二段も高い場所にいるチシャネコさんからは、どうしようもないほど情けなく見えているに違いない。
ゆっくりと動いていた彼のしましまの尻尾が、ピタリと動きを止めた。
「動かない、じゃなくて、動けないんだよ。誰かが時間を止めちゃったのさ」
ああ、やっぱり。
驚きよりも何よりも「なんだ、やっぱりそうか」と納得している自分がいる。現に、みんなは動かない。時計も、時を刻むことを放棄してしまっている。
だけど、
だけど、
「そ、そんなおかしなことを言わないでください!!そんなこと、出来るわけないじゃないですか!!」
誰かが、時間を止めた?
そんな馬鹿な話があるものだろうか。
「じゃあ、どうしてみんなは止まっているんだい?」
「それは……っ、それは……」
「信じられないのはわかるけれどね、アリス。真実を見失ってはいけないよ」
「真実って、言われても……」
私は何か大事なものを、見失っているのだろうか。
「思い出して。忘れてしまった真実を。覚えてしまった嘘を。答えはアリスの中にあるよ」
三日月を横倒しにしたような口で、にい、と笑う。
キラキラとした青い瞳は、空の色を連想させた。
「どういうことですか?」
音も立てず、しなやかにステージから飛び降りる。本当に猫みたいな人だ。
「大丈夫、アリスにならわかるはずさ」
パチン、という音がした。何かが割れるような音。どこか嗅いだことのあるような香りを残して、
「き、えた……」
チシャネコさんは、姿を消した。
忘れてしまった真実とは、
覚えてしまった嘘とは、
何のことだろう。
夢であってほしいな。これ全部。
これが全部夢で、本当は学校にもまだ着いてなくて。
急いで学校に向かって「変な夢みちゃったよ」なんてみんなに話して笑ってさ。
校長の話は長くてもいい。短い方がいいけれど、もう贅沢は言わない。
だから夢であって。
俯いた先に、何かを捉えた。およそ体育館には相応しくない、ピンク色。キラキラひかる、エナメルのような鮮やかな色。それは私の横を通り、体育館の出入り口へと続いていた。ドアの先にも、かすかだがそれが確認できる。
ネコの肉球のような、可愛らしい足跡。まるで決められた細い道をまっすぐ歩いているかのように、歪みなく均一につづいているそれ。
ついてこいって、ことなのかな。
あまりにもわかりやすすぎるその目印。足跡もピンクだなんて、まるでピンクの絵の具を足裏に塗りたくったみたいだ。
チシャネコさんは、絶対何かを知っている。
ここでうじうじしていても仕方がない。
ここにいたところで何が変わるというのだろうか、なんて前向きに考えてみたけれど。
本当は、この空間に一人でジッと待っていることが、とてつもなく恐ろしかった。
生きているのに動かないみんな。いつまで経ってもこのままだったら?
そんな考えが頭の中を巡っておかしくなりそうだ。だからこそ、
足跡をたどろう。
そう思った。
一度曲を思い出すと、そのフレーズが頭の中で反芻するのはどうしてだろうか。
こんな時だというのに、朝の新曲のワンフレーズが頭の中をまわりはじめる。
君の声がとても優しくて 忘れたくないと思った。
だけど時の流れは残酷で 掴んだ先から消えていく
過去の君は 現在のきみは 未来の君は
はたして僕を好きでいてくれるのだろうか
細く開いたドアから身体をねじり出す。開くかなと思ってドアを動かそうとしたけれど
『壊れるよ』
チシャネコさんの声をくっきりと思い出して、怖くなってやめた。
時の流れ、か。
残酷でもいいから、早く時間が動いてほしい。
歌詞と正反対であろうことを切実に願いながら、私は体育館を後にした。
ピンクの足跡が、キラキラと輝いていた。