Chapter1 終業式
ざわざわと騒がしい体育館。
ステージ上では校長がスピーチをしている。
校長とは、延々と話せる能力が必須なのだろうか。
そう錯覚してしまう。義務教育も終了し早二年がすぎたが、話の短い校長にはお目にかかったことがない。
蒸し蒸しとした茹だるような熱気が、開け放したドアや窓から重たげに流れ込んでくる。目をすがめてしまうほどの強烈な太陽光が外の世界を鮮やかに照らし、流れる雲や飛ぶ鳥の影を濃く形作っていた。
外に行きたいなぁ。
少なくともこんなに密度の高い場所にいるよりは、風を直接感じられる外の方が涼しそうだ。
周囲を見ると、各々時間を有効活用している子も多いようだ。携帯を見たり、お喋りに興じたり、読書したり。暇つぶしの手段を持っていない自分の迂闊さを恨みながらも、暑さのせいでただひたすらぼんやりとするしかない。
紺色のスカートがじっとりと汗をかいた肌にまとわりつく。白いワイシャツもぺとりと肌に密着する。水分を含んだ衣類って、どうしてこんなにも人を不快にさせるのだろうか。
十時からはじまった終業式は、もう少しで一時間が経とうとしていた。ただただひたすら暑さに耐えながら、今朝テレビで流れていた好きな歌手の新曲を反芻する。ビジュアルはそこまでカッコよくないけど、透き通るような声がとても好みだ。確か来月の上旬に新曲がリリース予定だったはず。
「夏休みは体調に気をつけて過ごしましょう」
鮮明に耳に入ってきた校長の声。
お、もうすぐ終わるかな。
同じことを思ったのか、前に並んでいた美咲が満面の笑みで振り向いた。ふわりと揺れる、キャラメル色の髪。
「それではこれで、終業式をおわ「あーーーーやっと終わったぁ!!!」
伸びをしてあくびを噛み締めると、堪えきれず涙が目の端に滲んだ。
「校長話長すぎだよね、もう三十分も……美咲?どうしたの?」
振り返った美咲が、可愛らしい笑顔はそのままに、そのまま動こうとしない。細くなった目と、緩やかに上がった口角はそのまま凍りついたかのようにびくともしない。
「え、……美咲?なんで…… 」
そろ、と手を伸ばす。
美咲は微動だにせず、ただ虚空に向かって微笑んでいる。ふわりと触れていたキャラメル色が揺れることはなく、細くて真っ白なその腕が、私に向かって伸ばされることもない。
「み、美咲?え……冗談だよね、ドッキリかなにか……で、しょ……?」
恐る恐る美咲の肩に手をかけても、それは変わらなかった。触ってはいけないものに触ってしまったかのように、パッと手を引っ込める。
硬い。
美咲の肩が、石像のように硬い。
じわり、と冷たい汗が滲み出る。
「頭が真っ白になる」とはこういうことか、と思った。どうしてこんな状況になったのかも、何をすれば元に戻るのかも、全くもって検討がつかない。人間はそういったものに対面した時に、頭の中が無になるようにできているのかもしれない。
だって、これは、これは一体どうしたの?
ぐるり、と周囲を見る。身体が熱い。自分の心臓の音だけが、大きく体育館に響いている。
音が、しない。
ついさっきまで話していた校長も、
ざわざわしていた生徒たちも、
夏の風物詩であるべき蝉の声も、
一切何も聴こえない。
一瞬、自分の耳が聴こえなくなったのかと思ったが、心臓の鼓動は聞こえるし、狼狽える己の足音もハッキリと拾える。つまりは、周囲がおかしいのだ。
音が、消えてしまった。
すべてのものが、動きを止めてしまった。
ばっ、と壁掛け時計を確認するも、秒針は止まっているようだ。スマホを持っている子の画面を覗き込むと、こちらも同様に停止していた。
すべてが動くのをやめてしまった。私一人を除いては。
一度曲を思い出すとそのフレーズが頭の中を巡るのはなぜだろうか。こんな時だというのに、朝の新曲の一節が流れはじめる。
いつもと同じだと思っていた。
いつもと同じ、何ら変わり映えのしない「今日」が、またやってくるのだと思っていた。
これが終わったらみんなでお弁当食べて、
帰りにかき氷でも寄り道しようって、
約束、してたのに。
雪乃のつやつやとした黒髪は窓から差し込む光を反射して一層輝いているし、肩までポロシャツを捲り上げた茜は男顔負けにかっこいい。圭は私がプレゼントしたねじの形のピアスを付けてくれている。
だけど、動かない。いつもと変わらないのに、いつもと違って動かない。
どうしよう。どうして、こんなことになったのかな、
じわり、と目に涙が滲む。ぼんやりと霞んだ視界に飛び込んでくるのは、生気のない美咲の笑顔。さっきまでは可愛かったのに。薄く開いた目に、口から覗く歯。ぴくりとも動かないそれは、とても不気味なものに思えてきた。美咲が私を振り返ったことが、遥か昔のことのように思えてくる。もしかしたら本当に時間が経っているのかもしれないけれど、私にそれを確認する術はない。
ぽろ、と床にこぼれ落ちた涙を、上履きの底で踏んで拭う。きゅっ、という音とともに水滴は姿を消した。
静まり返ったままの体育館。コツ、コツと出入り口まで歩き、ぐるりと一周する。
袖で汗を拭っている人、ゲームをしている人、居眠りしている人、スーツを着ている教師陣まで。その全てが動かない。
私、ひとり。
こんなに大勢の中にいて、一人になるなんて思ってもいなかった。例えそうなるにしても、それは私ではないと思っていた。何か大きな事件や事故は、いつもモニターの向こう側で起こるべきものだと思っていた。
再び美咲の後ろに戻り、とん、と床に座り込む。
チラ、と見上げた顔には、やはり不気味さを感じてしまう。
いつまで、このままなのだろうか。
ぶわっ、と、トリハダが身体中に広がった。
いつまで?
いつまで、このまま?
ふら、と美咲に縋りつく。柔らかいはずのスカートも、まるで石のような手触りになっている。しっかり掴んで動かそうとするが、びくともしない。
「美咲……動いて、お願い……」
美咲の肩に手を伸ばし、祈るように必至に揺さぶる。
「美咲!ねえ動いて!お願い!!」
揺らしても揺らしても彼女は動かない。硬い身体は冷たくはない。温かいのだ。それなのに、石のように硬い。
「雪乃っ……」
何かに急かされるように立ち上がり、雪乃を揺さぶる。その「何か」はわかっている。焦り、不安、恐怖。
「茜!圭……ねぇ……」
次々と揺らす。揺さぶり続ける。だって、だって動いてくれないと。だって。
「ねえ!動いてよ!!お願い!!」
「アリス、だめだよ。そんなに揺らしちゃ」
どこからか、声がした。