第49話 左利きのキキ
「ベースが弾けないってどういうことだよ! 姉さん、怪我でもしたのかよ?」
「ハハハ、怪我だったら良かったのにな。怪我なら治るし」
明菜さんは力なく笑う。
陽介は彼女がベースを弾けない原因を知らないが、僕は知っている。
伝えるかどうか迷ったのは、その原因が深刻だったから。
「ジストニアになっちゃったんだよ。ベースを弾こうとすると、上手く指が動かなくなる」
明菜さんは、自分の右手を見つめながら、まるで自分のことではないかのような声色でそう言う。
ジストニア、それは特定の動作をすると、無意識のうちに身体の一部が強張って言うことを効かなくなる病。
スポーツ選手や楽器のプレイヤーなど、専門的な動きをする人に多く発症する。
「ジストニアって、ドラマーがよくなるっていう……」
「そうだな。でも、ベーシストだろうがギタリストだろうが、誰でもなり得る」
「で、でも、治るんじゃないのか?」
ジストニアは脳の疾患で、そう簡単には治らない難病である。それゆえ、僕は陽介にそれを告げるかどうか迷っていた。
陽介の憧れの人である明菜さんが、治るかどうかわからない難病に侵されているとなれば、まず間違いなく彼は動揺するだろうと思ったからだ。
「治りはしない。元の状態まで戻れるかも、全くわからない」
「そんな……」
「潮時ってことだったんだよ。私に音楽をやめろって、そう神様が言っているんだ。お前も、そんな夢ばっかり見てないで真面目に勉強したほうがいいかもな。最近調子悪いんだろ?」
お前もこっちに来たらどうだと、まるで三途の川の向こうで手招きするように明菜さんは言う。
しかし、陽介はそんな甘い水で誘われるようなやつではない。
「……ふざけんなよ! 俺はっ……、こいつらのおかげでここまで持ち直したんだよ! 今、やめるべきじゃないって本音で俺にぶつかってくれる仲間も出来た!」
語気を強めて宣言するかのように陽介が言い放つ。
「だから……、こんなところで躓いていられないんだよ……」
「そう言われてもな……。私は音楽を辞めたんだ。悪いが他を当たってくれ」
相容れないなと諦めたように明菜さんが言う。このままでは誰も幸せにならない。
僕はふと、この間時雨に言われた『誰かの不幸の上に幸せは成り立たない』という言葉を思い出した。
陽介と明菜さんの間に割って入っていいのかわからない。でも、ここに来てしまった以上、僕は何かしてやらなければならない。そういう使命感みたいなものが、僕の背中を押した。
「――待ってください」
「と、融……?」
陽介が意表を突かれたという表情を浮かべる。
今の明菜さんに届くかどうかわからないけれど、僕は言葉を慎重に選んで紡ぎ出す。
「ただの高校生の戯言だと思って聞いてください。僕の知り合いにも、ジストニアになったベーシストがいます」
「お、おい、それは……」
陽介は僕が言おうとしていることを察して止めようとするけれど、逆に僕はそれを制した。
そのベーシストというのはもちろん、1周目の明菜さんのこと。
僕は真正面から明菜さんに向かって『1周目の明菜さんの話』を始めたのだ。
「その人はジストニアになったとき、今の明菜さんみたいに絶望して、音楽を一度辞めてしまいました」
「……まあ、誰だってそうなるよな」
「でもその人は10年後、ベーシストとしてちゃんと復活してきたんです」
「ジストニアから回復したところで、まともにベースが弾けるとは思えないがな」
明菜さんはクシャクシャになったセブンスターのソフトパックから1本取り出し、火をつける。
最初のひと吸いの煙を吐き出したところで、僕は話を続けた。
「いえ、ジストニアは治りませんでした。その人は、別の方法で復活を遂げたんです」
「別の方法?」
「ええ。右利き用のベースが弾けなくなったのなら、左利き用のベースを弾いてしまえばいいと、利き手ごと変えたんです」
1周目の明菜さんは1度音楽を辞める。
そうして惰性で手伝い始めた家業がうまく行かなくなったとき、待たしても彼女は音楽に救いを求めたのだ。
そのときに観たのがジミ・ヘンドリックスの動画だったらしい。
左利きのジミ・ヘンドリックスは右利きのギターを使い、弦を上下逆に張ることで無理矢理左利き仕様にして使っていた。
それを参考にした明菜さんは、弦を上下逆に張った右利きのベースを使い、左利きの練習を始めたのだ。
普通なら上手く弾けずに心が折れてしまうだろう。
でも彼女は見事に復活を遂げた。
「右利きの頃と遜色ないくらいの腕前でした。だから多分、音楽を辞めても、音楽を好きであることには嘘をつけなかったんです」
「ハハッ、それを私にやれと?」
冗談だろ? と明菜さんは苦笑いする。
「その人は言っていました。こんなに楽しいこと、どうして自分は辞めてしまっていたのだろう。もっと早く左利きで弾き始めればよかったのにって」
明菜さんが左利きで復活してきたときのステージは忘れられない。
お客さんなんて全然いない小さな地元のハコだったけど、心底楽しそうにベースを弾いていたのを思い出す。
それがもっと早く復活できていれば、少なくとも明菜さんが絶望する期間が短くて済む。
そうなれば、彼女に憧れて音楽を始めた陽介にだって、きっと良い刺激になる。
明菜さんはしばらく考え込んだ。セブンスターを吸いきって灰皿に押し付けたところで重い口を開いた。
「……わかんないな。所詮、そんなの他人の話だし」
「……ですよね」
「でも、不思議と他人事な気がしないんだ。なんでだろうな」
彼女は自嘲するように笑う。
仕掛けるならここしかない。
「それは、やっぱり明菜さんは音楽が好きだからですよ。――その証拠に、まだ持ってますよね。ベース」
そう告げると、明菜さんは驚きと呆れが7対3で混ざったような表情を浮かべる。
「……ほんと、どこまで知っているんだか。君、名前は?」
「芝草融です。陽介と一緒のバンドでドラムを叩いてます」
「ひとつ訊く。君らのバンドのベーシストは、私のベースを弾くに足りる人間か?」
声のトーンを1段階落として、真面目な表情で明菜さんはそう言う。
僕が返答の言葉を選んでいるうちに、隣にいた陽介がその質問に答えた。
「もちろんだよ。あいつに合うベースは、あいつのプレシジョンベースと、姉さんのそれぐらいだと思う。だから頼む」
「僕からもお願いします」
僕と陽介は深々と頭を下げる。
良いと言われるまで頭を上げる気はなかったのだけど、気がついたら明菜さんはどこからかケースに入ったベースを取り出して、僕らに差し出していた。
「……持っていけよ。これからライブなんだろ? 陽介の言う『あいつ』が、どれほどのベーシストなのか私の目で観てやる」
「姉さんっ……!」
「明菜さん!」
「んで? 場所と時間を教えろ。チケットぐらいは寄越せよな」
もちろんだよと、陽介が明菜さんへ詳細を教えた。
こんな感じの岩本姉弟を見るのは、1周目では10年先のことになる。
それを早いうちに迎えられることが出来たということが良いとは限らないけれど、不幸なままで過ごす期間は間違いなく短くなっただろう。
「あと、タバコは吸えるよな?」
何かを思い出したかのように明菜さんはそうつぶやいた。
10年後の値上がり著しいタバコですら躊躇なく吸うぐらい、彼女がヘビースモーカーであることを僕は思い出した。
「10代の音楽イベントなのでタバコはちょっと……」
「じゃあやめる」
「「ええっ!?」」
「嘘だよ。……ほら、早く行け、メンバー待たしてんだろ?」
冗談に聞こえないよと陽介が笑いながらツッコミを入れると、僕らはベースと共に『Walk don't run』へと向かうことにした。
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サブタイトルはART-SCHOOL『左利きのキキ』
先日ニューアルバム『luminous』がリリースされました!最高でしたよ!